第百二十九話 無為なるマナが、巡り巡りて
手を見る。
手。
自分の手。
ただそれだけ。
何ものでもない、ただの手。
何も、手にしていない。
何も、手に入れてない。
何一つ、掴んでいない。
何一つ、為していない。
きれいな、手。
望んだものは、そんなものではなかった。
なかった、はずだ。
この手を朱に、染めなければならなかったはずだ。
手を伸ばせ。
握り締めろ。
つかみ取れ。
そして染めろ。
全ての戎器で、我が手を朱に。
***
そして彼女は、目を覚ました。
真っ先に目に入ったのは、見知った天井。
移動邸宅の自室のそれだった。
どれほど眠っていたのだろう。
彼女は……イオは首を左に倒した。
窓を覆う薄い窓帷が、赤い日の光を阻んでいる。
夕方か、と彼女は独り言ち、首を反対に倒した。
傍らに椅子を引き、そこに座るのは次姉、エウロパ。
目を閉じたその姿は眠っているかのようだったが……実際眠っているようだったが、衣擦れの音に気付いたのか、イオがそちらを向くと同時に目を開く。
「おはよう」
「……おはようございます、イオ。体の調子はどうですか?」
やや驚いた表情で、しかしすぐに微笑んで、彼女はそう問い掛けた。
その言葉に、イオは腹筋だけでその身を起こす。
「ん、大丈夫そう」
「そうですか」
治療は間違いなく行えたという自負はあったが、それでも実際に目を覚ますまで、不安はある。
彼女の返答に、エウロパはほっと胸を撫で下ろした。
「何か……変な夢、見た気がする」
「変な夢ですか? それはどんな?」
「んーとね」
掛け布団をはねのけつつ、イオは寝台の脇に腰掛ける。
「手が……」
言いつつ右手に目をやり……彼女の動きが止まった。
「イオ?」
そんな妹の様子に、エウロパは同じく視線を落とし、それと同じく硬直する。
イオの手。
『均衡』の白剣に掌を貫かれた右手。
その肘から下が強く蒼みがかった金に、変色していた。
***
「……聖痕じゃない?」
どたどたと食堂に駆け込んできた彼女らを見、マリエンネは開口一番そう言った。
「え、でも」
そう言われ、イオは改めて右手を見る。
そしてもう一度、マリエンネの顔を見た。
その視線に、彼女は濃い緑の色眼鏡を外す。
露わになる双眸は、虹の光を散らした銀色を湛えていた。
色合いは、マリエンネのそれとはまったく異なっているが。
「全然違くない?」
「そりゃ、あたしのとは違うでしょうよ」
「どういうことです?」
エウロパの疑問符に、珍しく彼女は呆れたような表情を見せた。
「そもそも根源が違うんだから当たり前じゃん。あたしのはあの方由来だけど……イオちゃんは違うでしょ」
そう言ってマリエンネは、目の前の白髪の少女をじっと見つめる。
「……私、ですか?」
「そりゃそうでしょ。無為なるマナの誘引者なんて、あの方以外エウロパちゃんだけなんだから。もっと言うなら……」
「『紅き戦慄』からではなくエウロパから授かる方が、当然な関係ではあるか」
マコトの言葉に、彼女はこくりと頷いた。
「んー……でも、マリーちゃんて『央』の心の内を視て、その目を得たんでしょ? 他の『七曜』もあの方とやらの何かを切っ掛けに聖痕を得たみたいだし……私は別にロパ姉に何か特別な接触をしたわけじゃないよ?」
「その辺はあたしにも分かんないけどさ……でも聖痕の見た目も違うなら、得る条件も『央』とは違うってことなんじゃない? そもそもイオちゃん、ドゥルス族ですらないし」
確かに、その通りだった。
源流は無為なるマナの誘引者であっても、聖痕を享受する方法はそれぞれ異なるのだろう。
「今ん所、理由や条件はさっぱり分かんないけど……」
言って彼女は、ちらりとライムを見る。
その視線に、彼女は首を傾げた。
「ちょっとお揃いっぽいね?」
「……そんなことを言っていただけるとは、思いませんでした」
暢気ともいえるその感想に、ライムは微苦笑する。
「……体調に、問題はないか?」
「うん、今は全然。お騒がせしました。そして不甲斐なくてごめんなさい」
忸怩たる思いをにじませるイオの言葉に、カリストは軽く首を振った。
「まだ、挽回の余地はあるさ」
姉の言葉に彼女は頷き、握り締めた左の拳を、右の掌に打ち付ける。
そして、首を傾げた。
「それであの後、どうなったの?」
イオが昏倒していた間の出来事を、カリストはかいつまんで話した。
彼女は頷き、
「成る程ね……でもそれ、ただの連係ミスなのかな」
「というと?」
「なんていうかさ……『月』には二つの思惑があったわけでしょ? ロパ姉やマコっちゃんの排除と、自分の十全化。で、比重的に後者が重たいっぽいと」
マリエンネの事前の情報によれば、『央』への忠義以上に自身の都合を優先しかねない節はあった。
しかしマコトとの会話から、『七曜』としての任を蔑ろにしていたわけでもない。
「ただどれほど自己都合を優先するか定かではないから、先んじて上位権限なんてものを設定してたってこと?」
「そう」
マコトの言葉に、イオはこくりと頷いた。
「敵対者に望みを託すのは、確かに如何なものかと思いますがっ!」
「だがカーリンの嬢ちゃんにしてみれば、自分とこの大将でも大望を叶えるのは無理だったわけだからな。異世界の知識に縋るってのも、分からん話じゃない」
ジェインの発言は尤もだが、恐らくこの世界で最も技術の進んだ組織でも叶わぬ願いを、それでも諦められないというならば、有り得ない選択ではない。
もしも首尾よく手掛かりでも得られるのならば、手勢を引かせるという交渉に持ち込むこともできる。
そしてその心情を、『七曜』の他の面々は把握していたのではないか。
その為の、上位権限。
「大義の為、ということなのでしょうが……」
「思うところはある?」
首筋を擦りながら言うエウロパに、イオは首を傾げる。
彼女ははい、とそれに頷いた。
「さっきも言ったが、あの三人と他の『七曜』じゃ、その『大義』に対しての温度差はあったろうからな」
ヘルムートの言葉に、彼女は不承不承、顎を引く。
「経緯はどうあれ、奴らを撤退させたのは事実だ。それにマコトとヘルムート殿のお節介のお陰で、我々と敵対する動機は薄れたのではないか? 任とあらば、無論敵対はするのだろうが……」
積極的に敵対する意欲は恐らく、減じたことだろう。
それはこちら側に、優位に働くはずだった。
「マリエンネの嬢ちゃん曰く、ブラックウィドウさえ稼働可能なら三日で本拠地に着くらしいが……」
『ギニース、状況はどうですか?』
『……ただ走れるように、するだけなら、もう何とか。万全を期すため、一晩、使いたい。イオ姉さん、明日運転、出来る?』
『うん、任せて。心配させてごめんね』
『ううん。病み上がりで、申し訳、ないけど』
『気にしなさんなー、カリ姉さんに運転任せるわけにはいかないもんね』
『……』
カリストの返す沈黙に、エウロパが思わず、といった様子でさざめくような笑声を零す。
じろりと向けられた視線に、彼女は背筋を伸ばした。
「……?」
そしてその視線が、怪訝なものとなる。
「カリスト姉さん? どうしました?」
「いや……エウロパ、首筋のそれ」
「?」
彼女は立ち上がり、エウロパの後ろに立った。
覗き込んだその先、マナの結晶と思われる宝石の様なそれ。
小指の爪の先ほどの大きさだったそれが。
「……大きくなっていないか?」
赤子の掌ほどのに広がり、玲瓏な輝きを放っていた。
訝しむ彼女の言葉に、幾人かがエウロパの背後へと回りこんだ。
当の本人は面映ゆそうな表情を浮かべるが、覗き込んだ者たちは渋面を浮かべる。
「確かに……」
「大きくなってるな。エウロパ、体調は?」
腕を組んで唸り声をあげるマリエンネ、それに継いでマコトはそう声をかけた。
エウロパは首を振る。
「自覚症状は、特に……」
「……あたしのこれ、関係してるかな?」
開いた右手をじっと見つめつつ、イオが呟いた。
「多分、関係ないと思うよ」
「だな。エウロパ嬢のそれが、彼女の体を……光脈を通過した外界からのマナの澱なら、拡大するのは予想に難くない話だ」
「だが現状異常がないとはいえ、見過ごしていい変化とは思えん」
マリエンネの言葉に同意するヘルムートを横目にしつつ、カリストは慎重に言う。
それには同感だったのだろう、二人は顔を見合わせ、そして頷いた。
「削り取っていいものなのでしょうか?」
「怖いこと言わないでください、ライムさん……」
ふるふると首を振るエウロパ。
「いや実際、やめた方がいいだろうな。この結晶に、どれほどのマナが蓄積されているのか、わかったもんじゃない。下手に手を出したら」
どかん、とヘルムートは手を広げた。
さらに身を引く彼女に、冗談だ、と彼は笑いかける。
そしてややあって、その表情が引き締まった。
「どうしました、ヘルムートさん」
「いや、エウロパ嬢でこれなら、お相手さんの大将は、どんな様子なのかと思ってな」
その言葉にマリエンネは視線をはね上げ……そして目を伏せる。
あの方に対しての記憶障害は、思いの外彼女に衝撃を与えたようだ。
そんな彼女の肩に、マコトはぽんと手を置く。
「……もうすぐだ、まとめて問いただしてやろう」
な? とマリエンネをのぞき込めば、彼女はこくりと頷いた。