第百二十話 月がわらって
不可視の、しかし感じる確かな手ごたえ。
『あだたたたー、乙女のや―肌になんてことをー!』
「柔肌も何も……」
『なんだか痛い気がするんだよねー』
「幻肢痛か、難儀だな」
彼女の言を聞くだに、この力の波動は失われた左腕に由来するものなのだろう。
言うなれば、不可視の左腕。
だとすると幻肢痛とも異なるやもしれないが、本人の申告も『気がする』なので何とも言えない。
『せーのー』
そんな彼の心境を知ってか知らずか、緩い掛け声にあわせて、彼女の背後の呪痕兵……『顔無し』が動いた。
その足元、白い地面が爆発するように捲れ上がり、およそ人を乗せた車椅子が出してはいけない速度で、馬上のマコトへと接敵する。
予想外の挙動に、彼は『奇々怪力乱馬』の腹を蹴ったが……間に合わない。
カーリンを乗せた車椅子の前方を持ち上げ、その後輪を軸に『顔無し』が反転する。
同時に繰り出された後ろ蹴りが、絡繰怪馬の左前足の関節を逆方向に折り砕いた。
「……!」
声も無くマコトは『乱馬』を解除、『選びし者の剣』を背を向けた『顔無し』に叩きつけようとする。
だがその剣閃が、鈍った。
まるで粘度の高い水中で剣を振ったかのように、その動きが緩慢となる。
『うぐぐぐー』
苦しいのか何なのか、カーリンは奇妙な念話を絞り出した。
間違いなく、彼女の仕業なのだろう。
ならば、とマコトは『選びし者の剣』の斬撃対象に『カーリン』を設定する。
途端、十字の銀剣は不可視の何かを切り裂きだした。
『あっだー!』
情けの無い悲鳴じみた念話が、マコトの脳裏に響く。
実際のところ、剣の動きが鈍った間に『顔無し』はその間合いから逃れていた。
無論カーリンにも、マコトの刃は届いていない。
「当たっちゃいないだろうに」
『心が痛むのー』
「……はいはい」
そういう他無い。
彼は地と空を踏みしめ、中空へと駆け上がった。
それを追うように、何かが展開される、起動音。
正面に向き直った『顔無し』の後方腰部が開き、噴出口が露出する。
噴炎を上げながら、それは車椅子を保持したまま浮き上がった。
またも予想外の挙動ではあるが、今回は不意を突かれるほどの速度ではない。
後方へ退くように飛び退り、左手で空を掴んだ。
空間が引き延ばされ、撓むように歪む。
次元の壁を離した瞬間、元に戻ろうとする空間の復元力が、衝撃波となり解き放たれた。
ばちぃん、と手と手を思い切り叩いた様な乾いた音が、響く。
カーリンの『左手』だろう。
衝撃波に合わせて、それを振りかざしたのだ。
さも痛そうな念話を絞り出しつつ、彼女は生身の右手でひじ掛けに手をかける。
二つの車輪が高速で回転し、唸るような音を上げた。
そしてそれは、唐突に前方へと……つまりマコト目掛けて発射される。
彼は咄嗟に右へと踏み込み、右の車輪を躱しつつ、左の車輪を叩き落とした。
轟音。
車輪が爆発したわけではなく、『顔無し』が加速したのだ。
主たる『月』のカーリンを前面に押し出し、マコトへと突撃する。
普通に考えれば有り得ない暴挙に、彼の表情が引きつった。
当の彼女は抗議の声を上げるでもなく、されるがままに体当たりを敢行する。
回避の時節を逸したマコトは、『選びし者の剣』の腹で、車椅子の突撃を受け止めた。
躊躇なく、またそれに乗ったカーリンのことを考慮した様子もなく『顔無し』は車椅子を引き戻す。
そのまま、あらぬ方向へ吹き飛んでいく彼女。
思わずそちらに視線をやるが、『顔無し』は惑いなく、手にした車椅子を鈍器のようにマコトへと叩きつけた。
空中を一歩下がりつつ、彼は車椅子を受け止める。
車椅子を剣で受け止めるというかつてない状況に戸惑いつつ、マコトはそれを振り払いながら『顔無し』の腹を蹴りつけた。
開く間合いに、彼はカーリンの姿を追う。
握った手からすっぽ抜けた棒切れのように宙を舞うその姿が、ぴたりと止まった。
『んふふー』
空に留まったまま、彼女はくるりとマコトへと向き直る。
「飛べるのかよ……ならその車椅子は何なんだ……」
若干の安堵を感じつつ、彼はそう悪態をついた。
『ずっと立ってたら疲れるでしょー?』
「そりゃそうだけど……それにしては、扱いがぞんざい過ぎないか? あと君自身の扱いも」
『だいじょーぶ、あーしは頑丈だからー』
そういうことが言いたいのではないが、細かに説明する義理もない。
それよりも、聞きたいことがあった。
「重いって」
『んー?』
「僕らが重いって、どういう意味かな?」
『あー』
彼の言葉に、カーリンは得心いったと頷く。
『んー、なんていうのかなー。世界に対して、あーたさんの価値が高すぎる、っていう感じかなー』
「……良い事のように聞こえるけど」
『んーん、良くないよー。要は世界に荷が勝ちすぎてるってことだよー』
「負担だと?」
『そー。あーたさんも、エウロパちゃんも……あの方も。落ちかけた世界にとっちゃー、重荷―』
自らの首魁に対しても、彼女の言葉はにべもなかった。
「ジェイン君と、ライムにも言っていたのは?」
『あー、あの二人はねー……』
カーリンの念話が、途切れる。
『色々と台無しにしかねない存在って感じ、なのかなー』
「……それは、どういう意味だ」
それには答えず、彼女は銀糸で留めた、やはり銀色の角飾りに手をかける。
引き抜くような仕草、しかし角飾りの除かれたそこに、角などなかった。
カーリンは、手にしたそれを引っ繰り返す。
転げ落ちてきたのは、虹に輝く銀色の何か。
「まさか……」
『その、まさかー』
マコトの呟きに、彼女は是と頷いた。
それは角だった、根元から幾重にも折られた。
その上その色合い。
カーリンの、ドゥルスの象徴たる角は、聖痕と化していた。
だがそれを、彼女は折り取ったのだろう。
あるいは折ってから、それが聖痕と化したのか。
そしてそれが、独りでに浮かび上がり、膨張していく。
一抱えはあるような、銀色の塊。
それが、七つ。
その全てに、苦悶のような、嘲笑のような、憤怒のような、邪悪な、悪辣な、卑屈な、下劣な。
そんな表情が、刻み込まれている。
いや。
その全ての顔面から、溢れんばかりの悪意に塗れたあざ笑う笑声が、煩いほどに巻き起こった。
思わず顔をしかめるマコトに、彼女は悪びれる様子もない。
彼女には何も聞こえてもいない、ようだった。
『わー名は『月』のカーリン・シュバルツシルト。月より至れり、我が悪意ある同胞よー』
けたたましく笑う七つの銀塊……否、七つの月。
カーリンを中心に、それらは衛星のようにくるくると、くるくると、くるくると、回る。
『禍つ夜、月輪、魔王の世紀―』
彼女は、唯一残った右手の指を突き付けた。
『ほろびろー!』
醜悪な七つの月が、指差す方向へと。
マコトへと、殺到する。