第百十八話 普通を願って
寒空の下、孤児院の前に捨てられた赤子。
それがカーリン・シュバルツシルトの最初の来歴だった。
冬のさ中、寒空の下に捨てられた彼女。
病気がちながらも、彼女はそこで何とか育っていった。
だが年長ともいえる年ごろに達した際、カーリンは大病を患う。
そしてそれは癒えたものの……彼女の視力は極端に低下した。
そうでなくともドゥルスでありながら体の弱かった彼女は、更に弱視という枷を負うこととなる。
彼女は思う。
『なんであーしばっかり』
と。
そして、こうも思った。
『こんな目、要らなくない?』
と。
飛躍した発想は、鬱屈からか負い目からか。
だから彼女は、両の目を抉り取った。
躊躇なく。
痛みはあった。
しかし耐え難いということもなかった。
そして、彼女の視界は開けた。
見えるようになった。
認識できるようになった。
人、物、あらゆるものが重みで……価値として把握できるようになった。
そして驚く。
周りに比して、己があまりにも重い事に。
信じられなかった。
こんな自分に、そんな価値があるものなのか?
だが冷静な部分は、こうも思う。
これは、単なる自分の思い込みで、見えているものは、見えていると思っているものは、虚構に過ぎないのではないか?
自分にしか認識できず、他人に検証してもらうこともできない。
いや、他人からすれば、視力を失った病弱なドゥルスなど、無価値以外の何ものでもないはず。
だからこれは、自分の願望に過ぎないのだろう。
見えている、と思ったものなど全て、自己欺瞞でしかないのだ。
……本当に、そうだろうか。
それで終えてしまっていいのか?
そう判じ、躊躇して、これ以上失うものが、自分にはあるだろうか。
傍から見れば卑小で、無価値でしかない己。
もしもそれに価値があるのならば、それによって価値が生じるのならば、何であれやるべきなのではないか?
そもそも、主観としては、この上なく重い存在なのだ。
それを証明してみても、いいのではないか?
目を失ってこうなったのならば。
耳を失えば?
鼻を失えば?
口を失えば?
喉を、腕を、脚を、失えばどうなる?
何を得る?
目の時のように、自分は一体どうなるのか?
孤児院の、深夜の厨房に、忍びこむ。
一番重い、包丁を取り上げ。
彼女は、取り除いた。
余分なものを。
余分。
そう。
余分だったのだ、これは、我が身には。
だから余分を削ぎ落し、丁度良い重さとなったのだ。
振り上げた刃で両の足を落とし。
左腕を切断し。
耳を破り。
鼻を焼いて。
舌を引き抜き。
喉笛をかっ捌き。
彼女は、血の海に沈む。
後先など、何も考えてはいない。
ただ思うがままに、何かがあるに違いないと。
そして彼女は、丁度良くなったのだ。
己の骨子たる光脈が形作るに相応しい造形と、なったのだ。
欠けに欠けたるこの様こそが、あるべき姿であったのだ。
『あーしは普通になりたかった』
病弱で寝込むことのない、健康な心身が欲しかった。
今、自分はそうなった。
ただ口の代わりに思念で話して、耳の代わりに心を読んで、腕の代わりに念動力で物を掴み、足の代わりに空を飛び、空間を渡る。
それだけの、ことだった。
***
『……そんな、わけが』
***
振り下ろされた黄金の柱は、白い大地に沈んで消える。
あとに残されたのは、抉られた地面と、鉛の溜まりのみ。
一息ついて、ヘルムートは木剣を腰に納めた。
「ようやく一体か。他の奴らの状況はどう……」
『カリスト姉さん、ヘルムートさん!』
エウロパからの、ひっ迫した声音の念話が届く。
『エウロパ? どうした、そちらの状況は』
『鹿獣の……『日』のヴォルフラムが現れました! あと『均衡』の一体も。マコトさんとマリエンネさんで押さえてますが、それよりジェインさんとライムさんの方に向かってください!』
その言葉に、カリストは右方を確認する。
未だ乱戦状態が続いている中央部。
無数の呪痕兵と『ジェイン』達が入り乱れる戦場は、確かに先ほどまで比べ、『ジェイン』達が押されている……ように見えた。
彼女はヘルムートへと視線をやり、走り出す。
『何があった?』
『ジェインさんから報告がありました! 現在彼の戦場に、聖痕兵『峻厳』、『慈悲』、『均衡』に加え、『金』が集結していると!』
『は? 馬鹿な、『峻厳』はたった今、俺らが倒したぞ! それともあいつも分裂とかするのか?!』
『それなんですがヘルムートさん』
二人の会話に、マコトが割り込んだ。
『先ほど僕の目の前で、壊れかけの『均衡』が、『峻厳』になりました。恐らく入れ替わったんじゃないか、とぉ?!』
『まじかよ……いやマコト、最後のはなんだ? 取り込み中なら無理すんなよ!』
『……』
彼がそれに答えることはなかった。
賢明にも、即座にその意に従ったようだ。
『ともあれ状況は分かった。直ぐにジェイン殿たちの援護に向かう……そちらは大丈夫なんだな?』
『……』
『エウロパ?』
『……イオが、重傷です。命に別状は、ありませんが……』
足が、止まる。
ぎり、とカリストの歯が軋んだ。
『……わかった。報告感謝する』
『はい……お気をつけて』
念話が、途絶えた。
彼女は大きく息を吐き、再び前を見る。
「行こう」
「……おう」
言葉少なく、ヘルムートは返事をし、再び走り出そうとした。
その瞬間。
目の前の空間が、歪む。
その歪みより現れたのは、顔の陥没した呪痕兵を従え、車椅子に座った黒髪の少女。
「お前は……!」
『んふふー、やっほー、カーリンだよー』
どういう原理か、転送方陣もなく空間を渡ってきたようだ。
援軍は断固阻止、ということだろう、嫌な状況での登場だった。
「……俺がやる。カリストの嬢ちゃんは先行け」
ヘルムートは彼女を背に庇う様に、木剣を構える。
「本気で言っているのか?」
「ああ、本気だ。呪痕兵相手にすんのはカリスト嬢のが得意だろ。あっちにゃ俺の身内と身内候補がいるんでな、何とか頼むわ」
「しかし……!」
カーリンを視界に納めながら、カリストは言葉を途切れさせた。
言いたいことは分かるし、恐らくはそれが最善だろうが……
この状況、そもそもおいそれと離脱が許されるはずもない。
『あ、いーよー行って、糸のおねーさん。あーしは別に戦いに来たわけじゃないんだー。このおにーさんにお話があって来ただけだから―』
「……は?」
予想だにしなかった言葉に、思わずカリストは呆気にとられた声を上げた。
「話だと?」
『うん、そー』
こくりと頷き、こちらを伺う様にこてんと首を倒す。
二人は一瞬顔を見合わせ……ヘルムートは左手を振った。
行け、と。
カリストは警戒をしつつも、鋼糸も使って高速で離脱する。
「……で?」
本当に彼女を追う様子を見せないのを確認して彼は、先を促すようにカーリンへと言葉を向けた。
『んー、まずはねー、不躾な話を聞いてくれてありがとねー』
「こちらこそだな、カリストの嬢ちゃんを通してくれて、ありがとよ」
『いいってことよー』
拍子抜けする様な返答に、ヘルムートは若干身をこけさせた。
「……本当にわかってんのか? カリストの嬢ちゃんは、こと人形狩りについてはエースだぞ」
『んー、パムがいればだいじょぶでしょー。それよりねー』
倒した首を、また反対に倒しながら、カーリンは念話を紡ぐ。
『私事で、ちょっとお願いしたいことがあるんだけどー』
「……俺に? あんたと俺、何の接点もなかったと思うんだが」
『そーだねー。あーしが一方的に知って、一方的に言ってるだけだよ、錬金術師さんー』
「あんた、身内に錬金術師がいるじゃねぇか」
『でもパムに悪い事させるわけにはいかないかなーって』
「悪い事なのかよ……まあ聞くだけ聞こうか」
ヘルムートの返答に、彼女は意外そうに首を引いた。
「何だよその反応は……流石に聞く気もないなら、こうも話しはしねぇよ」
『ふーん。じゃあさー、あーたさんの技術で、あーしの体をまともにできるー?』
「……それは何か? 五体満足、視界良好、明瞭発声、健康優良な体にできるかって話か?」
『そー』
「別に、悪い事でも何でもないじゃねぇか」
『そうなのー? 人体に抵触する技術は、錬金術だと禁忌だって聞いたんだけど―』
「この世界だとそんな認識なのか。要は治療だろ。丹術も錬金術の一流派だし。そもそも錬金術じゃ、『ホムンクルス』なんて人工生命の作製を是としてるんだぞ。人体を整形するくらい、なんてこたねぇよ。ただな、それを望むなら、あんたの大将にお願いすればいいじゃねえか」
転生。
『金』のパメラというその実例。
魂を、精神をそのままに新たな肉体を得ることが出来るというのなら、彼女にとっては正にうってつけ是正方法ではないか。
少なくとも、敵に頼むよりよほど理に適っているはずだ。
『やったよー』
「え?」
『やっても、こうだったんだー』
カーリンは、肩を竦める。
レラリンの話を聞き、そして彼女は期待を持って、それを試した。
普通に、なりたい。
彼女の願いはそれだけだ。
だがそれは、叶わなかった。
「……なら、俺にも無理だな。『転生』の話が、全部正しいんだとすれば、だが」
魂は精神を鏡として己を観察し、それを現世の器たる肉体に反映させる。
肉体を構成する『原初の白泥』に欠陥がないのだとすれば、問題なのは彼女の、カーリンの魂、或いは精神にあると言える。
彼女の根幹をなすいずれかの光脈が、欠けている。
「粘土で肉付けするみたいに、形を整える事くらいは出来るだろうが……機能はしない。あんたが望んでるのは、そんなことじゃないだろ」
『……そっかー』
落胆したように、カーリンは顔を俯ける。
「すまんな、期待に沿えなくて」
『ん-ん、いいよー。わざわざごめんねー? あーしも不自由はないし、友達もいるし。足るを知る、べきなんだろうねー』
言って彼女は顔を上げ、唯一残った右手を振った。
そして息をするように、歩くように。
カーリンの周囲の空間が歪み、その体は虚空へと消えた。