第百五話 昨日よりも、近くにありて
「聖痕……じゃないね。なんだろ、これ」
しげしげとそれを眺め、マリエンネは首を傾げる。
エウロパのうなじにぽつりと浮かぶ、銀と虹色に輝く黒子の様な、鱗の様な、小さな結晶。
金属にも似た光沢のそれに、彼女は指を伸ばしそれを摘まもうとした。
「痛……くは無いですけどむず痒い、むず痒い! マリーさん触るのやめて!」
「あ、ごめん」
慌てて彼女は手を放し、入れ替わるように伸びたエウロパの掌がそれを擦る。
「一番馴染みが深そうではあったが……心当たりは?」
「いや、いかにも望み薄そうに訊くのやめてくんない……? いくらあたしでもそこそこ傷つくからね? まあ何かは確かにわかんないけど……濃密なマナの気配があるね。多分マナの結晶かなんかじゃないかな? わかんないけど」
「流石マリー、予想も期待も外さないな」
「うっさいな! 馬鹿にしてんでしょ!」
マコトの茶々に、マリエンネはがーっと吠えた。
エウロパ自身、瘡蓋と勘違いをしていたそれ。
確かに視認しなければ、そう思っても無理からぬものではあったのだが。
「単純に考えるなら、エウロパ嬢の光脈を通る異界のマナの残滓、ってところか? マリエンネちゃんよ、お前さん達の大将にも、こんなんあったか?」
「……わかんない。あの方、体調があんまりよくないらしくって、普段は病床だし。服もだぼだぼで線の見えないのを着てるから、そういうところに注目したことがない」
「なら仕方ないな。すまんな、こんなこと聞いちまって」
「んーん、当然の疑問だもんね。いいよ」
少しばかり困ったような顔で言うヘルムートに、彼女はぶんぶんと頭を振った。
そして止まった先、視線はマコトに向けられる。
「……なんだよ」
「ほら、優しさが足りないのはマコっちゃんだけじゃん」
「……」
にやにやとしながら言ってくるマリーに、彼は心外そうに腕を組みそっぽを向いた。
それが彼女の笑みをなおの事、深めることになるのだが。
「まあマコトが冷血漢であるのはいいとして」
「いや全然良くないですからね? 割と温かな血の通った人間ですからね?」
「百戦錬磨の無為なるマナの誘引者を抱える『七曜』とは、それについて持ちうる情報の量が違うでしょうっ!」
「エウロパ様のその異常についても、あわよくば情報を得られるでしょうか?」
「……寧ろそうなるよう、誘導すべきだろうね」
訂正を諦め、ジェインとライムの会話の流れに乗るマコト。
妙に楽しそうなマリエンネの表情が気に入らないが、無視を決め込む。
「付け焼刃な決めつけ、憶測よりは、その方が建設的だな。リアナ殿も言っていたが、今情報は、力で勝ち取るべきだ……少し早いが今日の行軍はここまでにしておくか」
カーリンの前言の通り本当に待っているだけなのか、ここまでの道のりはこんな会話ができる程度に、極めて順調だったと言えた。
呪痕兵による襲撃も、他の『七曜』達の妨害も無い。
鬱蒼と茂る木々の為薄暗く、正確な日の高さは分かりかねるが、既に夕日に空が紫に煙る時分となっているはずだった。
「そうだね、明日の事もあるし。万全の状態で臨みたいよね」
「了解」
姉二人の言葉にギニースはブラックウィドウの速度を落とす。
そして、比較的木々の疎らな空間を見つけたところで停車した。
「お待ちください、カリスト様」
前回同様、整地の為に立ち上がろうとするカリストに、ライムが待ったをかける。
「どうされた、ライム殿」
「私めに拓かせていただけませんか」
「ライム?」
彼女の申し入れに思わず、といった様子で声を上げるのは、ヘルムートだった。
そんな彼に、ライムは薄く笑い頷く。
「大丈夫です、ヘルムート様。……ジェイン、さん。お願いできますか?」
「はいっ!」
緑の長髪を靡かせてこちらを向く少女の言葉に、ジェインはいつものように頷く。
拘束服の弾ける音と共に、ライムの両腕が解放された。
露わになる、光り輝く右手に、漆黒の闇に沈む左手。
しかしこの場にいるものは誰も、最早奇異の目を向ける者はいない。
目を閉じ、息を吐き、そして彼女はそんな現実を目に焼き付けて、立ち上がった。
歩を進め、車外へ。
その後ろを当然のように、ジェインが続く。
森林特有の冷たい風が、頬をかすめた
ライムは、気負うことなく、自らの右手を見る。
あれほどに忌み嫌い、嫌悪を感じていたはずのそれ。
何時しかそんな感情は薄れ、そしてそれは当然にここにあるものと受け入れはじめていた。
故に彼女は、何でもないようにその手を掃う。
光が、流れた。
辺り一帯の木々が根元から、ずれる様に倒れていく。
***
「お見事ですっ!」
「有難う御座います……しかし流石に、カリスト様のようにはいきませんね」
地響き倒れる重い音、枝が折れ、幹の裂ける音が響き渡るさ中でのジェインの称賛に、しかしライムは微かに眉を顰め、苦笑する。
彼女の鋼糸の業前は、左右に自在に切り倒しすらしたが、ライムの『右手』には難しい所業だった。
「ですが……」
彼女はそのまま、倒れた木々へと歩みを進める。
横倒しとなった一本の木を、ライムは左手で触れた。
途端にそれは歪み、収縮し、吸い込まれるようにして消え去る。
歩きながら、彼女は次々とそれらに触れていった。
瞬く間に消えていく、切り倒された木々。
触れた切り株すらも、何処かに消えていく。
ややあってライムは振り向き、彼らを見た。
拍手をする少年。
それを筆頭に、向けられる視線は称賛のそれで、非難の色は些かもない。
彼女は一礼をし、そして未だ拍手を続ける紫色の髪の少年の元へと駆け寄った。