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「いやぁ、まさか、こんなことになるとはね」

 愚昧さんは分厚いトンカツを咀嚼しながら言う。

 彼女の対面の席、口の中の白米を飲み下した栄田くんは、「そうですね」と答えようとした。実際にそう唇を動かした。しかし、声には変換されなかった。

 書生を馘首となって初となる『紀尾井坂の虎』での食事。恐るべき真実を伝えられたあとでも空腹は覚えるものらしく、二人は絶え間なく箸と口を動かしている。京山家から『紀尾井坂の虎』へと移動する道中も、入店してからも、奇抜な光景は目にしていない。

 先生が言ったことは正しかったのだ。僕たちは物語の鎖から解き放たれたのだ。

 栄田くんはしみじみとそう実感する。

「件くんはどう思った? 自分も含めたこの世界が、神でもなんでもない一個人の創作物だと知って」

 トンカツの切れ端を口に放り込んで咀嚼し、フリーになったばかりの箸で栄田くんを指しながら、愚昧さんが問う。彼は白米に続いて口に入れた、キャベツの千切り数本を飲み下してから、

「驚きました。……と、答えたいところですけど、そうではなかったですね。ああそうなんだ、みたいな。拍子抜けするくらいあっさりと腑に落ちて、あっさりと腑に落ちたこと自体もなんとも思わなくて」

「東伝くんがそういうふうに設定したんだろうね。自己の存在の根幹に関わるシリアスな真実を告げられても、慌てふためかない人物ですよっていう設定に」

「やはり、そういうことですか」

「そうでしょ。そうとしか考えられない」

「驚きはなかったし、それが真実だと納得しています。ただ、矛盾するようですけど、信じられない気持ちがないわけではないんですよね。自分がフィクションの世界の登場人物だと気がつく、という趣向の物語作品の存在は知っていましたが、まさか自分が該当するとは思わなかったという意味で」

「ほんと信じられないよね。あたしですらそうだもん。東伝くんはどうも、あたしを精神的にかなりタフな人間に設定しているみたいだけど、それでも信じられないからね」

 淡々とそう応じて、新しいトンカツを箸でつまむ。栄田くんは無言で自分の皿のトンカツにウスターソースをかける。言葉なく食事をとるだけの時間が流れる。

「で、件くんはこれからどうする予定?」

 愚昧さんの静かな声が沈黙を破った。

「東伝くんが物語を途中で投げ出しちゃったから、これからあたしたちは、自分の意思で生きていかなきゃいけないわけだけど」

「正直、分からないです。あまりにも急だったので、右も左も」

「そうよね。まあ、それが普通の反応」

「愚昧さんはそうではない、みたいな言い方ですけど」

「いや、同じだよ。あたしもどうすればいいか分からないから、こうしてトンカツを食べて間を繋いでいるわけ。あ、でも、件くんがどうすればいいかは分かるよ」

 そば米汁の椀を持ち上げようとしていた栄田くんの手が止まる。愚昧さんは勿体をつけるように丹念に咀嚼してから嚥下し、

「二通りあると思うの。一つは、実家に帰って、平凡で人間らしい人生を送ること。もう一つは、東伝くんの後継者となって物語を書き継ぐこと。要は『cholera』の二代目の作者になるということね」

「僕が先生の作品を、ですか?」

「件くんのことだから、一介の登場人物に過ぎない自分にそんな大それた真似ができるのか、とかなんとか思ってるんでしょ。でも、あたしの考えだとできるよ。普通にできる」

 その根拠は? と目で問う。愚昧さんの回答はこうだった。

「よく考えてみて。件くんは書生兼choleraの番人として、東伝くんのもとで働いていたわけだよね?」

「はい、そうです」

「書生というのは、早い話が家事手伝いだよね。だから雇用する側としては、たとえ自分自身が小説家だとしても、小説家志望の若者を雇わなければならない理由はない。むしろ、体力があるとか、料理が上手だとか、そういうスキルを持っていた方が好都合。そうでしょう?」

「愚昧さんの言うとおりだと思います」

「それにもかかわらず、東伝くんはなぜ件くんを選んだの? 小説家志望の平凡な青年である件くんを。それは多分、というか絶対に、自分の後継者に据えるつもりだったからでしょ。choleraから守ってもらうというよりも、choleraに膝を屈したあとのことを考えてあなたを採用したんじゃないかな」

「後継者……。僕が、先生の……」

「東伝くんが物語を自らの手で閉じるんじゃなくて、投げ出すという対応を取ったのは、件くんに書き継いでほしかったから。そして、この世界の作者である東伝くんが、自らの後継者として件くんという存在を創り出したからには、件くんは東伝くんの後継者に確実になれる。そうは考えられないかな?」

 あまりにも飛躍しすぎた推論なのではないか、と栄田くんは思った。一方で、愚昧さんが唱える説に、斬り捨てがたい魅力を感じてもいる。それが真実だとは思えないが、真実だと信じてみたいとは思う。

 憧れの作家の絶筆となった作品を、書き継ぐ。

 小説家を志し、京山東伝に憧れる栄田くんにとって、これ以上に魅力的な未来はなかなかない。

「当たり前だけど、件くんが歩む道を決めるのは件くん。普通の暮らしを送るのか、物語の続きを執筆するのか、はたまた第三第四第五の選択肢の中から選ぶのか。それは他ならぬあなた自身が決めなければいけない。あたしはあくまでも、たとえばこんな道もありますよって、友人として、あるいは人生の先輩として教えただけだから。相談したいのなら乗るけど、基本的には自分の頭で考えるべきじゃないかな。――さあ、頭だけじゃなくて箸も動かして」


 愚昧さんと別れ、自宅までの道のりを歩く。

 歩き出してしばらくは、周囲に注意を向ける時間が長かった。しかし、明らかな異常と呼べるような異常は一瞬たりとも視界に映らない。嗅覚でも、聴覚でも、触覚でも、味覚でもキャッチできない。

 栄田件は物語の鎖から解き放たれた。それが厳然たる現実なのだ。

 そう結論したのを潮に、今後の自らの活動方針について考えてみる。

 栄田くんは小説が好きだ。書くのも、読むのも。

 そして、京山東伝が好きだ。小説家としても、人間としても。

 この二点は、絶対的な事実であると断言できる。先生の手によって植えつけられた「好き」なのかもしれないが、好きであることに変わりない。

 だからこそ、書き継ぎたいと思う。『cholera』と題された、先生の敗北を絶対の通過点とする物語を。

 では、どう紡いでいこう? 僕のような半人前が、すでにcholeraに屈してしまった状況から先生を救済するという、難しい仕事を成し遂げられるのだろう?

「……いや」

 なにも馬鹿正直に、途切れた箇所から書き始める必要はない。消しゴムをかけよう。気に入らない部分は消してしまい、ここぞという場面を始点に定めて書き足していけばいい。物語の作者は、いわば神。神の力であれば、神を創出した神が既成事実とした事実でさえも、なかったことにできるはずだ。いや、きっとできる。

 そして、幸福に物語を終えるのだ。

「……でも」

 本当に、僕にそんな大それた真似ができるのだろうか? 神とは言い条、物語を紡いでいくための技術・経験・知識、なにもかも不足しているのに。

 考えならば、ある。短所を補うための秘策ならば、一つだけ見つけている。

 不安がないと言えば嘘になる。それでも、やらなければならない。それ以上に、やってみたい。

 栄田くんは決然と顔を上げ、進路を変えた。力強い、迷いのない、泰然自若とした足取りで目的地へ向かう。


 砂埃が立つ往来を直進し、大きな樫の木の前を右折し、さらに道を進むと、小高い山を背にして建つ京山家に突き当たる。

 先生が物語を擲っても、敷地を囲うフェンスがなく、庭と山がなかば一体化していることに変わりはない。玄関扉の真上の壁に、木の棒に突き刺さった鰯の頭部が飾られているのも同じだ。

 鰯の頭部を飾る行為には、確か魔除けという意味があったはずだ。先生は鰯の頭部を、玄関――幽玄なる世界に通じる関門に掲げることで、幽玄なる世界の住人たるcholeraの侵入を阻止しようとしたのだ。

 一方で、自宅の敷地を囲うフェンスは設置しないという、ちぐはぐな対応を取ってもいる。

 どちらが本来の先生なのだろう?

「――両方だ」

 choleraへの感染をなんとしてでも防ぎたい。一方で、他者との交流も諦めたくない。だからこそ、フェンスは設けない。玄関番も雇う。choleraに対する恐れをもってしても消せないほど強く、人と深く交わりたい願望を抱いているから。作家は、孤独を愛する寂しい生き物などでは断じてない。

 楽にしてあげたい。

 choleraに感染する恐怖から先生を解放してあげたい。先生にとって不幸な形で、ではなく、栄田くん・愚昧さん・心愛――そして先生自身、その誰にとっても幸福な形で。

 インターフォンを鳴らした。不思議と緊張はなかった。足音と気配が近づいてくる。施錠が解かれ、扉が開かれた。

「ああ、君か」

 応対に出たのは、紛れもなく京山東伝だ。青白い顔に、こけた頬。痩せた体を藍色の作務衣で包んだ、憧れの先生。

「申し遅れました。わたくしは、本日から書生として京山先生のお世話になる、栄田件です。よろしくお願いします」

 深々と頭を下げる。くり返している、と思う。しかし、自らの意思でやっていることだ。神に操られた結果の自己紹介とお辞儀、ではない。

「話は三輪木から聞いている。まずは荷物を君の部屋に置いてもらって、それから仕事の説明に入らせてもらう。説明が終わったら、さっそくだが仕事だ。さあ、入って」

 先生に続いて栄田くんも中に入る。懐かしい、と思った。玄関に置かれた、スチール製の机と丸椅子。栄田くんの定位置だった場所。涙が出そうになるくらい懐かしい。黒電話も、アナログ式の置き時計も。

「戸締りを頼む。今回だけではなく、今後はその点に特に注意して――」

「choleraが侵入するとまずいから、ですよね?」

 先生の顔に驚愕が浮かんだ。今までに一度も見たことがない顔。人間らしい顔。

「知っていますよ、先生。先生はcholeraを病的に恐れている。choleraに感染し、発症してしまうと、二度と小説が書けなくなるから。小説を書くことでしか生きていけない先生にとって、それは死に等しい。だから、恐れている」

「栄田、君は――」

「先生、聞いてください。僕は今から、先生にとってとても大切なことを言います。いいですか。よく聞いてください」

 世界が最上の静けさに包まれた。真剣な顔つきで、先生の目を臆することなく見つめる。

「この世界にcholeraは実在しません」

 一転、表情をにこやかに弛緩させ、そっと言い添える。

「この世界の神である僕が断言するのだから、間違いありません」

 創造主としての知識と技術の不足を補う秘策――それは、物語を早々に閉じてしまうこと。

 ご都合主義でも、乱暴でも、投げやりでも、救われる人間がいるのならそれで構わない。

 それが栄田くんの下した結論だ。

 先生の瞳が潤いの膜に覆われた。崩れ落ちるようにその場に跪き、胸の前で両手を組み合わせ、首を垂れる。栄田くんは先生を真正面から抱き締める。

「先生。六日後に先生の実家からサツマイモが届くので、みんなでいっしょに庭で焼き芋をしましょう。先生と、僕と、愚昧さんと、心愛さんの四人で。絶対に楽しい時間になります。間違いなくなります」

 いつだって世界は変えられる。

 なぜならこの世界は、そのように創られているから。

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