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「昨日東伝くんが倒れて、今日の昼過ぎに意識を取り戻して、件くんに会いたいって言ってる」

 ショックのどん底から漸く脱した翌日の夕方、愚昧さんが電話越しにそう告げた。

「急がなくてもいいからね。急がずに、ゆっくりと東伝くんの家まで来て」

 そうくり返す彼女の声は、気軽な世間話をするときのように落ち着いている。「倒れた」という一語を聞いた瞬間は心臓が凍ったが、命の危機に瀕しているわけではないらしい。

 自己申告によると、先生はcholeraに感染している。先生があれほど警戒していたのだから、choleraは恐ろしいもののはずだ。とても無事だとは思えないが、愚昧さんが平然としているのだから、栄田くんが心配しすぎているだけなのだろう。

 それにしても、まさか、再び先生の家に行くことになるなんて。

 動揺や混乱がないと言えば嘘になる。それでも、冷静な振る舞いを意識ながら支度を整えていく。


「おっ、こんにちは」

 京山家のインターフォンを鳴らすと、愚昧さんが応対に出た。今日もお馴染みの暗灰色のストールを巻いている。三和土に出ている履物は、合計三足。

「東伝くんは目覚めてすぐ、件くんの名前を口にしたみたい。寝室で安静にしているから会ってあげて」

「分かりました。……えっと」

「どうしたの?」

「名前を口にした『みたい』ということは、『会いたい』という言葉は愚昧さんではない人に対して言った、ということですよね。履物、三足ありますけど」

「そう。あたしと件くん以外の親しい人間にね。件くんは心当たりがあるんじゃない?」

 その返答を聞いて、先生でも愚昧さんでもない人物の正体が分かった。

 栄田くんはしかつめらしい顔で頷き、草履を脱いで家に上がる。愚昧さんの先導のもと、先生の寝室へ。

 場所も用途も把握していたが、一度も中をお目にかかることがなかった一室の襖が、愚昧さんの手によって開かれる。

 広さは栄田くんに宛がわれていた部屋とほぼ同じ。閑散として殺風景な空間の中央付近に一枚、その三十センチほど右隣にも一枚、布団が敷かれている。みすぼらしくはないが高級でもない、ごく普通の布団だ。

 二枚とも人が横になり、首から上を掛け布団から出している。前者は先生で、後者は心愛。先生は仰向けの姿勢で、心愛は体ごと先生の方を向いている。両者とも目を瞑り、身じろぎ一つしない。

 気配を感じたらしく、先生が瞼を開いた。窮屈そうにほんの少し首を持ち上げる。戸口に佇む愚昧さんを数秒間見つめ、斜め後ろに控える栄田くんへと視線を転じる。

 先生の瞳は、色ばかりが鮮やかなガラス玉のように空虚だ。それでいて、これまでで最も強く、栄田くんの干渉を欲している。

「昨日の昼過ぎって言っていたかな。心愛ちゃんは用があってこの家に来たんだけど、何度インターフォンを鳴らしても応答がなかったから、胸騒ぎがしたらしいのね。それで窓ガラスを割って中に入ったら、書斎で倒れている東伝くんを発見したんだって。看病、昨日からかなりがんばってくれたみたいで、今はこのとおり。一人だと心もとないから、ということであたしが呼ばれて、『件くんと会いたいと訴えている』と心愛ちゃんから聞かされて、あなたを呼んだという経緯なんだけど」

 愚昧さんは淡々と説明し、栄田くんの背中を軽く押すようにそっと叩く。

「話を聞いてあげて。短い間ではあったけど、あなたの主人だった人なんだから」

 栄田くんは首肯し、先生の寝床へと歩を進める。枕元に置き時計が置いてある。栄田くんが働いていた当時、玄関の事務机の上に置かれていたものだ。

 現在時刻も分からない部屋で、先生は毎日寝起きしていたのだ。

 栄田くんは泣きそうになる。込み上げてくるものをどうにか堪え、敷き布団のかたわらに跪く。

 先生の首がゆっくりと回り、虚ろな双眸が元書生の顔を捉えた。

「君には申し訳ないことをしたね。どう謝ればいいのか、作家のくせに言葉が見つからないよ」

 声はあまり出ていないが、口調は比較的しっかりしている。栄田くんは頭を振った。

「責任は、先生の期待に沿えなかったわたくしにあります。choleraの侵入を許してしまい、申し訳ございませんでした」

 深々と頭を下げる。昨日別れたときも、最後はお辞儀だったと思い出す。

「謝らないでくれ。君自身のためにも、心愛のためにも。昨日は大人気もなく、感情的になって君を怒鳴りつけたが、今では君が取った行動は正しかったと認めているよ。私がcholeraを発症したのは、心の余裕を失い、栄田や心愛に不当に厳しく接してしまったのが原因なのだから、自業自得というわけだ」

「発症? どういうことですか?」

「感染した原因は君の帰りが遅かったからだが、発症の引き金は君を馘首したことだった、という意味だよ。一般的な感染症と同じく、感染と発症のタイミングは同じではないからね。もっともcholeraは、肉体ではなく精神に作用する病。作家生命を破壊する病なのだが」

「作家生命を、破壊する……」

「底なしのスランプ、とでも表現すればいいのかな。choleraに罹患した作家は、二度とペンを握れなくなるくらいに、創作意欲と想像力が衰えてしまうのだよ。昨日の昼前、君と別れるさいに、『作家としても終わりだし、人生も終わりだ』という意味のことを私は喚いただろう。あの発言はね、栄田。私は文章を書くしか能がないから、作家として生きていくしか道がないから、choleraに感染した時点で破滅したに等しいという意味なのだよ」

「……先生」

「この説明を聞いて、私が病的にcholeraを恐れた理由が腑に落ちただろう。土川先生も本岡先生も、それぞれの考え方でcholeraを割り切っているというのに、私ときたら……。私は両先生よりもデビューの年齢が早かったが、作家として生きていくために必要なものを手にしないまま、作家人生を歩み始めてしまったのかもしれない。いくら大人びた態度をとろうが、どれだけ端正な文章を書こうが、心は青いままだ。なにせ私は、cholera感染を過度に恐れていることを誰にも知られたくなくて、名状しがたいだの、変幻自在だのと、曖昧な説明に終始してきたのだから。プライドが高くて、そのくせ幼稚で……。情けないにも程がある」

 先生は力尽きたように後頭部を枕につけ、瞑目する。

 心臓が物理的に痛む。返す言葉が浮かばない。目の前の弱々しい先生をどう受け止めればいいかが分からない。

 栄田件にとって京山東伝は、遥かなる目標であると同時に、不変不動の尊敬の対象だ。

 生活を共にする中で、抱いていたイメージとの相違、不満に思う点などはいくつか浮き彫りになったが、失望の念を覚えたことは一度たりともなかった。一瞬たりとも揺らぐことなく、先生は栄田くんにとって憧れの人であり続けた。

 しかし、こうも露骨に、下品なまでにあからさまに弱さを見つけられると。

「それにしても、疲れたよ。choleraに心を蝕まれていることを差し引いても、疲れた。まあ、長きにわたる試みが徒労に終わったのだから無理もないのだが」

 おもむろに瞼を持ち上げ、先生は再びしゃべり出した。

「私はね、栄田。choleraに対する最強の番人として君を育成するために、君を厳しく指導してきた。しかし、先程も言及したように、愚かにも目標や目的に囚われるあまり、それ以外の一切を蔑ろにするのも厭わないという、心の余裕を欠いた態度を取った。それこそがcholeraを発症する要因だとは知らずに、君に甘い対応をとってしまうたびに、物語を途中からやり直して、cholera感染や発症から免れる未来を模索してきた。その結果が、このとおり。発症の直接のきっかけが、番人候補ではない心愛にまで厳しい態度で臨み、それを哀れに思った栄田が彼女を助け、その行動を私が叱ったことなのだから、皮肉としか言いようがないな」

「……えっと。物語をやり直したというのは、どういう……」

「伝え忘れていたが、この世界と、この世界にいる人間は全て、私の創作物だ。心愛も、三輪木も。そして言うまでもなく、栄田件、君も例外ではない。土川先生や本岡先生など、実在の人物にアレンジを施した者も中にはいるが、本人そのものではないという意味で、私の創作物であることに変わりはない」

 栄田くんは口を半分開けた顔で愚昧さんを振り返る。最後に見たときと同じ場所で同じ体勢でいた彼女は、事もなげに首を縦に振った。

「記憶を遡ってみるといい。栄田はこれまでに随分と、非科学的で、超現実的で、荒唐無稽な事象に遭遇してきただろう。それらは全て、私の空想が反映されたものだ。要するに、私が描き出した世界だからこその事象というわけだ」

 あまりにも簡潔すぎる説明だったが、この世界や世界観、自分や愚昧さんや心愛は先生が創り出したものなのだと、瞬時に、なおかつ心の底から納得できた。

 僕が物語の登場人物で、「先生の説明に瞬時かつ完璧に納得する人物」として設定されたからこそ、瞬時に、そして心の底に納得できたのだ――栄田くんはそう理解する。

「choleraという名称も、私が実際に生きている世界では、全く別の病気のことを指しているのだよ。栄田たちは知らなかっただろう? 当然だな。『登場人物は本来のcholeraを知らない』という設定にしたのだから。恐ろしい病という意味でcholeraと名付けたのだが――これ以上余計なことを話すのは慎もう。無益だし、ただ口を動かすだけでも酷く疲れるからね」

 先生はいったん口をつぐみ、気力を振り絞るようにして再び唇を動かす。

「栄田たちには迷惑をかけたし、何度もやり直した分愛着も感じている。だから『cholera』と題されたこの物語は、私の手では終止符を打たないでおく。choleraを発症してしまった以上は、どうせ満足がいく仕上がりは見込めないのだから、いっそ未完結のまま放っておいた方がいい。物書きのつまらないプライドというやつだ。これからは、私が考えた筋書きではなく、己の意思に忠実に行動してくれたまえ。不安なら三輪木に相談するといい」

 再び瞼が閉ざされ、短くも重々しいため息。

「……仕方なかったんだ。傍から見れば馬鹿げているだろう。私自身もそう思う。しかし、死にたくなかった。不様でもしがみついていたかった。藁にもすがる思いだったのだよ。作中で自分自身を救済できたとしても、現実の私が作家として成功できる保証はない。そんなことは百も承知している。承知の上での『cholera』執筆だった。しかし私は、フィクションの世界ですら自分自身を救えなかった。運命だったのかもしれない。どう足掻こうが変えられなかったのかもしれない。私が敗北するのは運命だと言うのなら、諦めるしかない。受け入れるしかない。いくら納得がいかなくても、負けるのが嫌でも、そうなる運命なのだから。この世界はそのように創られているのだから……」

 永遠にでも続いていきそうな譫言がやむ。数秒間の沈黙を挟み、疲れたような声が先生の口からこぼれ落ちる。

「栄田、帰ってくれ。君に話すことはもうない」

「……承知いたしました。先生、ありがとうございました」

 こちらを見ていないのを理解したうえで頭を下げ、立ち上がる。黙して移動を開始した愚昧さんのあとに続く。

「施錠は、まあいいか。もう必要ないし」

 玄関扉を潜るさい、愚昧さんは栄田くんを向いてそう言った。彼は無言で頷き、扉を静かに閉ざした。

 ありがとうございました。いつまでも、いつまでもお元気で。

 心の中で呟いたが、切なさが込み上げてくることはない。

 物語の鎖から解き放たれたのだから、これは先生が決めたことではない。

 そう思うと、切ない気持ちが漸く追いついた。



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