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モーリク・マ・サン

 黒いドレスに身を包んだ、長い黒髪の美しい少女が横たわっている。


「どうか――どうか、貴方のこれからの行く道が穏やかな物でありますように……」


 その今際の言葉は、もうほとんど意識が無いにもかかわらず存外にはっきりしていた。

 その顔は、安らかな物であった。


 しかし、彼女はもう喜びに震える事は無い。そのあどけない瞳をまん丸にして驚くことも無い。

 怒って唇を尖らせる事は無い。すねてほっぺたを膨らませることも無い。

 悔しさに涙を流すことも無い。無力さに打ちひしがれて、涙すら流せずに叫ぶことも無い。

 なによりも、全ての事柄をどうでもよい、といい切れてしまう様な、そんな幸せな心地になれる笑顔を見せることももうないのだ。


「死んだか……」


 小さく、風でも吹けば容易く消えてしまう様な声で呟いた。

 いろいろなものに弄ばれ、希望などなかった人生で唯一光り輝いていた物。

 エンブリオはその小さくとも暖かな日が消えたことに、どこか実感を覚えられずにいた。

 出会いはまだ少女が幼かった頃。3歳児だった彼女を守るために、必死に剣を振るってきた。

 悪意に塗れた絶望の最中にあって、だがしかし、エンブリオの中に光を灯し続けた少女。


「君がいたから、俺は――」


 と、そこで自らの頬が濡れていることに気が付いた。

 拳はきつく握られ、爪が肌に食い込んでいる。

 3歳だった少女の享年は11歳。その歳月は確実にエンブリオの中に残っていたのだ。


 エンブリオはいつの間にか何かに耐えるように噛みしめていたことに、鈍く痛み出した奥歯で気が付いた。


「これで……いいのか?」


 大切だった少女の亡骸に取り縋る事も無く、ただ自分自身へと問いかける。

 答えはすぐさまに出た。ズキズキと身体の奥底から至る、痛みと共に。

 そしてエンブリオは何かに導かれるように少女の亡骸へと手をかざす。


「君は、俺を恨むか? 君を守れなかった俺の事を――いや、そんな女ではないな。俺が愛し、俺が育てた君は強く在った。誰よりも、俺よりも。だから、せめて、最後までともに行こう。君は俺の中で生き続けるのだ。愛しているよ、ただそこに在る希望(ノワール)……」

 

 もちろんそれはエンブリオが見た錯覚だったのであろうが、微かに少女の亡骸が笑みを浮かべたのだった


          ☆


 目を覚ましたエンブリオが感じた物は、泉の正常な空気とちゅんちゅんとどこか呑気に無く鳥の声だった。


 先ほどまで見ていた夢の内容を思い出し、ふん、と鼻を鳴らす。


 傍らを見ると、昨夜、欲望のままに雑に抱いたサクヤが裸身を簡素な布で包んだだけで横たわっている。

 疲れ果てたサクヤがふら付く頭と体に耐えながら、どこからともなく取り出した布だった。


 その布越しに薄べったいサクヤの胸が上下している。

 エンブリオはなんとはなしにそれを見つめながら、散らばっている自らの服や軽鎧を身に着けていく。


 それが終わると汚れているサクヤの下着や服を泉に付け、痛まないよう、丁寧な手つきで洗濯をしていく。

 そこらへんに生えていた植物のツタを引きちぎり、枝と枝の間に伸ばすして固定すると、慣れた手つきでそれらを干していった。

 エンブリオはちらりとサクヤを一瞥し、まだ深い眠りにある事を確認すると森の中へ入っていく。

 極限にまで気配を消し、森と同化するとしばし息をひそめた。

 やがて、ざわざわと何かが動く気配を感じる。

 付かず離れず、その気配を追っていくとやがて先ほどまでいた泉へとたどり着いた。


 そこには、目覚め、しかし驚きに固まっているサクヤと、今その大きな爪と咢でサクヤに食らいつこうとしている茶色い毛皮に覆われた2メルタほどもある獣がいた。


 エンブリオは落ちていた石を拾うと、投擲。それは寸分たがわず獣の右目に吸い込まれるように当たった。

 瞳がはじけ飛び、苦悶にうめき声を上げながら仰け反る獣。

 その返り血を至近距離で浴びたサクヤの悲鳴が響く。


 エンブリオはそれを無視して、よろめくように後ろに下がった獣とサクヤの間に入った。

 掌にはどこからともなく出現し、いつの間にか握られている黒剣。


 獣の体勢が整う前に、エンブリオはその剣で獣の首を切り落としたのだった。

 ぶしゅ、ぶしゅっと動いたままの心臓が落とされた首から火山のように吹き上がる。


「風よ」


 とエンブリオが小さくつぶやくと、エンブリオから獣の死骸に向かって強風が吹き、その血液は二人を汚す事は無かった。


「な、なにが……」


 青ざめたままにサクヤが尋ねる。


「朝飯だ」


 エンブリオはただそれだけ告げると、木と丈夫なツタを利用して獣を吊り上げ、まずは血抜きを始める。

 百数十キルグラマ(1キルグラマ=1キログラム)はあるそれを、軽々とエンブリオは持ち上げていく。


「……は?」


 間の抜けた声を漏らすサクヤ。言っている意味も、通常であれば騎士が数人がかりでやる作業を一人でこなせることの意味も分からなかったのだ。

 そんな彼女に対して、エンブリオは指先で泉を指すと、


「ひとまず体を洗ってこい。酷いぞ」


 エンブリオはそれだけ告げ、解体作業に没頭し始めたのだった。


 サクヤは血まみれになった身体と、別の液体で湿っている股間と布団代わりにしていた布を自覚して、瞬間的に恥ずかしさを覚えるて悲鳴を上げる。

 慌ててそのまま泉に駆け込み、一心地付いたところで綺麗に洗濯され干された下着やらなにやらを発見し、再び羞恥に染まった悲鳴を上げるのだった。


          ☆


「以外に普通なのだな」


 ぱちぱちと火が爆ぜる音が響き、それと同時に脂の乗った肉が焼ける匂いが胃を刺激する。

 口の中に沸いた涎を呑み込み、エンブリオは呟くように言った。


「……何が?」


 どこからも無く取り出した新しい布を体に巻き付けただけのサクヤは嫌そうな様子を隠すことも無く、だがその瞳は適当な枝に刺してあぶられている肉から目を離さなずに尋ねる。


「昨日、無理やり抱いたにもかかわらず、だ」


 瞬間、エンブリオは首をかしげる。

 ぼっ、という空気を叩きつける音ともに、物凄い速度でわずかにエンブリオの長髪を数本消し飛ばして子拳大の石が通り過ぎ、後ろに生えていた樹木を粉砕した。


 何でもないようにエンブリオがサクヤを見ると、忌々しそうな顔をしたサクヤの尖った瞳と目が合った。


「平気なわけ、ないっ!」


 怒鳴るように吐き出されたその言葉。よく見ると身体が小刻みに震えている。


(まあ、それもそうか……)


 エンブリオは目の前の少女が抱く純粋な怒りに、なんとはなしにそんなことを思ったが、特に反省はせずに肩を竦め、サクヤへと手を伸ばす。

 サクヤはびくっと震え、そのままガタガタと震えが大きくなった。


「あ、うあ……」


 エンブリオはそのまま彼女の頬を撫でると、その黒髪を撫でる。


「やめて……乱暴しないで……」


 弱々しく紡がれた言葉。ぼろぼろとサクヤの瞳から涙がこぼれていた。

 身体の震えが大きくなり、焦点が合っていない。

 ひとしきり撫でると、満足したのかエンブリオはその手を放した。

 残されたのは、荒い息で怯え切った表情で彼を見つめるサクヤ。


 そんなサクヤにエンブリオは、焼けた森熊の肉を目の前にやった。

 

「ちょうどいい焼き加減だが、どうする?」


 つかの間、怯えた表情でサクヤはエンブリオと肉を交互に見ていたが、油がしたたり落ちたところで、ぎゅるるるるる、と腹から大きな音が響き、無意識のうちに受け取るよりも先に肉へと齧り付いていた。


(懐かしいな……)


 不意に、その胸の内に生まれた寂寞にエンブリオは我に返る。


(何という事だ……似ても似つかぬというのに。共通するところは黒髪と、胸がないところだけではないか)


 そんな失礼な事を考えつつも、一心不乱に肉を齧り、咀嚼して呑み込んでいくサクヤを見つめながら、その唇の端にわずかな笑みを浮かべていたのだった。


 そうしているうちにもう一つ焼けたので、エンブリオは空いている方の手で取ると、自らも口に運んでいく。

 じゅわりと広がる肉汁。串焼きにすることで余計な脂が落ち、それでいて森林熊の持つ肉本来の甘みが残っている。

 そのため、味付けなどはしていないのだが、十分に美味といえた。


 エンブリオは束の間胸の内に響いた懐かしさに目を細め――だが表情を歪める。


(昨夜からどうにも理性が働かない……俺は……)


 と、そこで視線を感じ、エンブリオは顔を上げた。

 すると、肉を食べ終わってしまったサクヤがじっと彼を見つめていた。

 怯えが残っているが、それでも真っすぐに見ている。


 そして――ぎゅるるるる、と再びサクヤの腹が鳴った。


「……まあ、肉なら沢山ある。とりあえず食え……」


 そう言って自分が持っていたものをサクヤに渡すと、解体した森林熊に適当な枝を刺し、焼き始めるのだった。


「おいしい……」


 小柄な少女には似つかわしくない大きな口で、肉にかぶりつきながらサクヤがぽつりと零す。


森林熊(モーリク・マ・サン)は森の恵みを一身に受けて生きるからな。不味いわけがない。専門の狩人も居るくらいだ。生息数は極小かつ、その森の生態系の頂点にたつほど強靭なので、稀少性は高いがな」


「……森のクマさん?」

 

 名前に反応したサクヤが首をかしげる。



森林熊(モーリク・マ・サン)だが」

 

 サクヤは胡乱気な眼差しをエンブリオに送った。


「なんか、可愛い」


「……異世界人の感性はわからん……森の恵みは迷い込んだ人間も含めてだが」


「…………」

 

 その一言に、サクヤの食が止まる。

 人間の血肉もこの肉になっていると言われたのだ。


「森林熊は雑食だ。獣はもちろん植物や果物、茸や虫まで食べる。その全てを養分としてこの美味い肉が形成されていく。だがな、それだけじゃあここまでの旨味はでない。森林熊の美味さはな、食った人間の数に比例するのだ」


 黙り込んだサクヤに、エンブリオは容赦なく現実を語っていく。


「だが、人間も馬鹿ではない。森林熊のうろつく様な森に好き好んで入る奴なんて滅多にいない。じゃあどうするか? 奴隷だよ。森林熊を専門に駆る狩人は、そのまま畜産農家でもあるのだ。森林熊が活発に活動する時期になると、購入した十数人もの奴隷に傷をつけて森に放つ。すると、その血の匂いにつられて森林熊が食べに現れると言うわけだ」


 どこか得意げに語るエンブリオを、サクヤは恨めしそうに睨みつけた。

 すっかり失った食欲。もう目の前の肉が人間の肉にしか見えなくなる。

 強烈な吐き気を覚え、呻きながら表情を歪めた。


 その光景をみたエンブリオは唇の端を吊り上げるようにして笑うと、


「まあ、嘘だが」


 と宣ったのだった。


「死ねッ!」


 あんまりなその言葉に、サクヤは反射的に持っていた森林熊の肉を投げつける。

 エンブリオはどうという事も無く避けると、追加で焼いた肉に手を伸ばして噛り付いたのだった。


 その光景を見ていたサクヤは一つため息を吐くと、奪い取るようにあぶられていた肉を取り、再び食べ始めたのだった。


 その後、数回エンブリオに焼くことを強要したサクヤはすっかり膨れた腹を擦る。


「食いすぎじゃないか? ふと……」


 余計な事を言いかけたエンブリオに落ちていた石を投げつけると、サクヤは干されていた洗濯物を回収する。

 その後ろ姿にエンブリオは――


「ああ、さっきの話だがな、嘘というのが嘘だ」


 ぎにゃああっ!、とそんな断末魔のような悲鳴が森に響き渡ったのだった。


 その様子を、なにか考え込む様にエンブリオが見つめていた。


「恐怖や嫌悪よりも食欲を優先……つまりそこまで情緒は不安定ではない、と……」


 小さく、サクヤには聞こえぬように、だがどこか忌々しそうに呟いたのだった。


 

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