10年後 2
エンブリオの心臓めがけて差し込まれる剣の先端が彼の身体に触れた瞬間、響く鈍い音。
――だが、それは決して人の身体に剣が差し込まれた音ではなかった。
コーヤの表情に驚愕が広がり、直後に絶望へと変わる。
彼が差し込んだ剣。それはエンブリオに突き刺さる事もなく、ただの薄皮一つすら、それどころか彼の着る服すら傷つけることなく、紅に輝く何かに阻まれ、刀身が粉々に砕け散っていた。
「こんなものか」
エンブリオはつまらなそうに呟く。
「うそだ……」
少年の口から出たのは、絶望か、怯えか、それともその両方か。
「コウヤッ!」
今度は頭上から襲い来る黒づくめの少女。逆手にナイフを持ち、重力に任せて落ちてくる。
「サクヤッ、ダメだ、逃げろ!」
叫ぶも時すでに遅く、無造作に頭上にエンブリオは剣を振るう。
容易くサクヤと呼ばれた少女の身体を通り抜け、胴体と下半身を真っ二つにした。
「サクヤぁぁぁぁぁぁっ!」
コーヤ――コウヤの絶叫が響き、それを見ているだけしか出来なかったいまだ治療中のマールギアは悔しそうに歯を食いしばった。
爪が手のひらの皮膚を突き破るも、ツカサが必死にかけている神法がすぐに治していく。
だが、次の瞬間――
「コウヤ、立って。逃げる。今の私たちでは勝てない」
コウヤの目の前に両断されたはずのサクヤが立っていた。言葉を短く区切る、癖のある喋り方で逃走を促す。
「ほう。幻術か」
感心した声を出したのは、エンブリオだった。
斬ったと感じた手ごたえは、しっかりとしたものだった。
横目で探ると、1人の男騎士の死体が真っ二つとなり転がっている。
「可哀想だけど、身代わりにした。もう死んでたから」
そのサクヤの言葉に、エンブリオは「くくっ」と笑みを漏らした。
「凡そ人が辿るべき思考ではないないな。気に入った。お前、俺と一緒に来るつもりはないか? お前には、光より闇が良く似合う」
「無理。お前、嫌い。その騎士を殺したの、お前。コウヤの腕を奪ったのもお前、ツカサの腹をえぐったのもお前、マールギアを傷つけたのもお前。騎士全員殺したのも、お前。私にお菓子くれる人、沢山いた。だから、お前は許さない」
「そうか。それは残念だ」
と言いつつも、さほど気にした風もなくエンブリオは肩を竦めた。
その瞬間。
「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
咆哮とともに、鋭い剣劇がエンブリオを襲う。
「コーヤ殿、すまない。殿を私に任せて、撤退を!」
割り込んできたのは怪我が癒えたマールギアだった。
彼女はそう言いながらコウヤを、力を使い果たしぐったりとしているツカサの方へと促す。
コウヤは悔し気に顔を歪たが、自身の役割を正確に把握し、ツカサの方へと走っていく。
サクヤはマールギアの隣に並び、エンブリオへとそのナイフを構えた。
「サクヤ殿、隙を見て離脱する。悔しいが、やつの力は我々の想像を遥かに超えていた……」
エンブリオ討伐に率いてきた騎士たちは精鋭だった。数百からなる神殿騎士団の構成員から、一騎当千の武勇を誇る上位陣のみを率いてきた。
しかし、結果がこれだ。
あっというまに全滅してしまい、客員である勇者たちにすら被害が及んでしまった。
とんでもない失態。マールギアはその犠牲者の事を思うと、なんとしてでもこの場でエンブリオを殺さねばとも思ったが、必死に理性をもって感情の発露を制する。
「マールギア、ツカサたちの撤退準備が終わったら、合図をする。そうしたら目をつぶって。もう一度合図したら目を開けて、逃げる」
「了解だ」
「それじゃあ、行く」
その短い言葉と共に、サクヤの姿が消えた。
「ふむ。なにやら逃げるつもりのようだが、逃がさぬよ。先ほどとは気が変わった。お前らは見逃すと面倒そうなのでな」
「ふん。現状の私では小細工ですら通じないのはわかった。だが、サクヤ殿が何かするつもりであれば、その時間くらいは稼いで見せるさ」
エンブリオとマールギアが再び対峙する。
「一つ聞きたいのだが、女神の剣よ」
「なんだ? お前と口を利く事すら業腹だが、時間稼ぎのために聞くだけは聞いてやろう。どうやら、サクヤ殿の気配を貴様は察知できぬのようなのでな」
完全に開き直ったマールギアの言に、エンブリオは喉の奥でくくく、と笑った。
「先ほどよりかは良い顔をしているではないか。お前もこちら側へ来る気はないか?」
「死ねっ」
マールギアはそれだけ返すと、地を蹴った。
直後、その身はエンブリオに肉薄しており、エンブリオの黒剣とマールギアの白く輝く剣が交錯する。
固い鋼鉄の音を響かせながら、幾度となく剣を振り、拳を振るい、蹴りを放つ。
マールギアは騎士としての矜持を捨てたのだ。
剣が交錯した瞬間の硬直した隙を突き、マールギアは唾をエンブリオの瞳に飛ばし、目つぶしを狙う。
「この短期間で随分と泥臭くなったものだ」
首を傾けることでかわしたエンブリオは呟くように言う。
しかし、その声色にはどこか喜色が滲んでいる。
「あらゆる手を使っても生き延びる。もはや我々の勝利条件はそれしかないっ!」
瞬間、マールギアは腕から力を抜く。
交差していた剣と剣は均衡を崩し、エンブリオの身体がつんのめるようにして傾く。
その顔面にマールギアは思い切り頭突きを食らわせたのだった。
鼻の奥の激しい痛みに、たまらずにエンブリオは一歩下がった。
どくどくと血を流し始めた鼻腔を思わず左手で押さえ、しかし右手は黒剣を離さぬままに追撃に備える。
しかし――
「ど、どんだけ固いのよ……」
マールギアは衝撃の瞬間に目の前に星を散らせ、眩暈に似た症状でよたよたしている。
「ふはは、とんだ石頭だな。まさか俺の防御壁を崩すとは思わなかったぞ」
コーヤの剣を砕いた、防御壁。マールギアの頭突きは見事に打ち砕き、エンブリオに一撃を与えたのだ。
「その泥臭さ、実に俺好みだ。本気でこちら側へ来る気はないか?」
愉快そうに唇の端を上げながら、エンブリオは問いかける。
いまだ眩暈の抜けないマールギアは目を白黒させつつも、彼を睨みつけ――
「貴様は私の好みではない!」
叫ぶように言う。
エンブリオは心底おかしそうに笑うと、黒剣の切っ先をいまだに立ち直れぬマールギアへ向け――その瞬間。
「マールギアッ!」
サクヤの声が響き、反射的にマールギアは瞳をつぶった。
その瞬間。
世界は激しい――太陽光にも似た光に満ちた。
「くっ……」
目を焼かれ、視力を失ったエンブリオが苦悶に呻く。
マールギアは瞼越しでも分かるほどに暴力的な光が止んだことを悟り、瞳を開けると、黒剣を取り落とし、苦悶に喘ぐエンブリオを捉えた。
「走って!」
サクヤの声に突き動かされるようにして、背を向けて走り出す。
視界の先ではコウヤがツカサを片手で器用に抱き、全力で逃走している。
「覚えていろよ、エンブリオッ」
短く吐き捨て、力強く大地を蹴った瞬間――マールギアは全身の肌をぞっとあわ立たせた。
そのまままるで時が止まったように身体が動かなくなり、やけに雨の音が耳へと響く。
視線の先では、同じようにしてコウヤが走るのをやめ、隣ではサクヤも同様のようだった。
「逃がさぬ、と言ったが」
それだけだった。そのたった一言。
それだけが耳朶響き、その意味が脳にまで染みわたった瞬間。
「あ……あぁ……」
理性の制御を離れ、口元が勝手にそんな声を漏らす。
心臓が早鐘の様に脈打ち、マールギアは自身の呼吸が荒くなっていることにすら気が付かなかった。
隣のサクヤはおろか、少し先行しているコウヤでさえ、同じような状態だ。
体中から力が抜け、その場に腰を落としてしまう。
立って走りたくとも、背後からの重圧がそれを許さない。
せめてエンブリオを視界に入れなければ、とわずかに残っていた冷静な部分が告げ、マールギアは体の向きを変えた。
エンブリオは――全身から炎のような紅く燃え盛る光を発し、潰されたはずの瞳を赤く爛々と輝かせていた。
不意に、マールギアは自身の股間が熱を帯びた液体に満たされていく感覚を覚えた。
先ほどの、神経系統の損傷による括約筋弛緩によるある意味仕方のない失禁ではなく、今度は純粋な恐怖による失禁。
しかし、マールギアはそれを恥じる事すらできず、ただ愕然とした面持ちで闇を纏った、赤い瞳に魅入られていた。
エンブリオが一歩を踏み出す。すると、マールギアたちにかかっていた重圧がそれだけで倍になった。
(本気ではなかったのか……)
マールギアは悟った。今までのエンブリオは、その力の一端すら見せていなかった。
そして、恐怖に縛り付けられるほどの威を見せながらも、その力の深淵の淵にすら立っていないことを。
――敵わない。
マールギアの心が折れた瞬間だった。
いつの間にかすぐそばにまで来ていたエンブリオが黒剣を振り上げる。
あと一動作。振り下ろすだけで、マールギアの命運は尽きるだろう。
まさに、その瞬間だった。
「待って。……私、あなたの元へ行く。だから助けてほしい」
「サ、サクヤ殿っ!?」
マールギアは驚愕の声を上げた。
とはいえ、エンブリオの重圧に押された声は、掠れてはいたが。
「くだらん。今更命乞いとは、とんだ見込み違いであったようだ」
エンブリオがつまらなそうに言う。
マールギアが何か言おうと口を開きかけたが、サクヤの身体が震えていることに気が付き、口をつぐむ。
対し、サクヤは首を振った。
「違う。助けてほしいのは、皆。私があなたの元へ行くから、皆を――」
その言葉は、最後まで言う事が出来なかった。
まるで、地の底から響く様な、低い音に気が付いたのだ。
「くくっ、くくくくくくっ!」
それは、エンブリオの何かを押し殺したかのような、笑い声だった。
地響きのようなそれは、次第に激しさを増し、気が付けば哄笑ともいえるような笑いに変化している。
「な、何を……」
戸惑いの声。サクヤは余りのエンブリオの変貌に戸惑い、マールギアもまたただ茫然と彼を見つめていた。
だが、次第にそれがどのような感情を持っているのかを理解し、サクヤとマールギアは盛大に地雷を踏んだことに気が付く。
すなわち――。
「ふざけるなっ!」
激高。それまで常に余裕の態度を見せていたエンブリオが、激しい怒りに震えていた。
黒剣を持っていない方の腕がサクヤに伸び、その首を掴む。
そのまま上に持ち上げると、サクヤの身体がだらりと浮かんだ。
「自己犠牲だと? 馬鹿々々しいッ! そんなものに何の意味がある。お前の命にどれほどの価値がある? 俺と取引出来るとでも思いあがっているのか? なんなら、お前のその身体で俺を喜ばせてみるか!?」
「あっ……あうぁ……」
サクヤの身体が痛みと苦しみと、なによりも激しい恐怖で今まで以上に震えだす。
気が付けば、股間から流れ出した液体が、太ももや脹脛、足首を伝って雨と共に地に染みこんでいった。
エンブリオはサクヤを投げ捨てる。マールギアの隣に惨めに顔から倒れ込み、泥にまみれた。
「き、貴様……っ」
折れた心を奮い、立ち上がろうとするマールギアに、雑に蹴りを食らわせて黙らせると、地に伏して怯えているサクヤを踏みつけた。
そして。
「1人だ。お前と交換できるのは1人の命だ。選べ」
冷然と、ただそれだけを告げたのだった。
「サクヤァッ!」
叫びながら、コウヤが強襲する。
エンブリオは真正面から顔面を殴りつけて彼を地に沈めた。
「選ばないのであれば、適当に殺すが。一人を残してな」
そう言って、エンブリオは離れたところでぐったりと、それでも何事が呪文を唱えようとしているツカサへ人差し指を向けた。
「や、やめてっ!」
その指先に集まる尋常ではない神力を感じたサクヤは叫ぶが、その願いは届くことは無く――
「砕け散る宿命」
短くエンブリオが女神言語を唱える。すると指先に幾何学的な魔法陣が展開し、神力がその中心を通過した瞬間、激しい勢いで射出され、それは寸分違わずツカサの眉間に命中すると、次の瞬間には爆発的なまでに込められた神力が拡散し、彼女の頭がはじけ飛んだ。
そのあまりの光景を見ていたサクヤは、胃の奥からせり出てくる嘔吐感に堪えられず、盛大に中身をぶちまけた。
「め、女神言語……? なぜ貴様が……っ!」
マールギアは目の前で起こった絶対にありえない事態に、驚愕の面持ちをエンブリオに向ける。
だが、彼はそれを無視する。
「残るは二人だ。選べ」
だが、無慈悲に告げられたその言葉に、涙と鼻水と泥に塗れたその顔をエンブリオに向ける。
「ご、ごめ、ごめんなざい……許じで……許じでぐだざい……」
誰も選べぬと、サクヤはただただ涙を流し、許しを請う。
だが、エンブリオは首を横に振った。
「決定は覆らん。俺の中の眠っていた増悪を蘇らせたのは、ほかならぬ貴様だ。お前は俺のものになるし、引き換えにするのはただ一人だ」
その言葉に、サクヤは絶望感を覚える。
もはや何も考えることができなかった。
「わかった……私が死のう……」
耳朶に飛び込んできたのは、そんな凛とした女性の声。
サクヤがそちらに視線を向けると、薄く微笑んでいるマールギアがいた。
「だめ……やめて……っ!」
サクヤが懇願するも、マールギアはその微笑みを絶やさずに、自らの持つ剣を首へと押し当てた。
「これはサクヤ殿が選んだのではない。私自ら死を選んだのだ。どうか、どうか、コーヤ殿と共にこの世界を救ってほしい。今は無理でも、いつか必ず……」
そう言って、腕に力を込めた瞬間だった。
「ちがっ、そうじゃないっ!」
悲痛なサクヤの叫び声。しかし、その声は時すでに遅く――
グジャッァ、という音が激しい雨音に混じり、響き渡る。
そして束の間の静寂。
まるで時が止まったかのようなそれを砕いたのは、
「な、なぜ……」
薄皮一枚ほどまで剣を食い込ませ、首筋に血を滴らせているマールギアだった。
「あ……あぁ……コ、コウヤ……っ!」
サクヤが消えそうなほどにか細い声で呟く。
「選べぬなら、私が選ぶと言ったはずだが?」
そう告げたのは、地に伏して気絶していたコウヤの頭を、頭蓋骨ごと踏みつぶしたエンブリオだった。
マールギアが自決しようと剣を持つ手に力を込めた瞬間、魔力強化させた足をコウヤの頭に落として潰したのだ。
「今一度問おう。貴様ら、自己犠牲になど、なんの意味がある?」
憤怒。口調こそ静かなものになっていたが、抑えきれぬほどの怒気がエンブリオから立ち上っている。
マールギアは自分の選択が失敗したのだという事に、サクヤと同じ失敗を犯したのだという事に、サクヤがそれに気づき止めようとした事に今更気が付き、胸中を後悔に支配されそうになるが、それをも上回る激情が心の内で吹き荒れていた。
「エンブリオォォォォォッッッ!」
それを吐き出す様に叫び、彼の重圧を跳ね除けると女神の剣の証たる聖剣を構え、彼に切りかかった。
技も何もない、ただ激情に任せただけの一撃は、いとも容易くエンブリオの黒剣により弾かれると、再びその顔面を彼の拳が襲った。
「ぶべっ」
苦悶の声を漏らし、地に伏せる。体中が痺れてそれ以上動けそうもなかった。
そんなマールギアに向かって、エンブリオは告げた。
「約束だからな。貴様は生かしておいてやる。再びまみえる時が貴様の最後と知れ……」
そういうと、エンブリオはマールギアに背を向けた。
茫然自失としているサクヤを担ぎ上げると、彼はいずこかへと立ち去ったのであった。
そして、激しい雨に撃たれながら、マールギアの意識は闇の中へと消えていった。
――――――
マールギアが意識を取り戻したのは、エンブリオが去ってから数時間後の事だった。
その時には雨が上がり、全ての汚れを洗い流された、澄み渡った青空が広がっている。
――だが。
「あ……あぁっ……あああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!」
そんな青空の下に、マールギアの慟哭が響き渡った。
腹の底から、魂の底から放たれる絶叫。
彼女の目の前には、惨劇が広がっていた。
自らがエンブリオ討伐のために率いてきた、騎士。
女神の剣たる自らに忠誠を誓ってくれた、精鋭達。
その全てが、死んでいた。
ある者は切り裂かれ、ある者は潰され、ある者は焼かれ、ある者は爆ぜ、みな一様にその屍を野に晒していた。
その中には、首から上がない、異界より召喚されし勇者たるコウヤとツカサの姿もあった。