近代文学は読むべきなのか?
まず始めに、ちょっとばっかし経緯を。
僕は普段「カクヨム」のほうでエッセイとも言い難いよくわからん文章を書いているのだが、この「なろう」にも商業展開しようと思い設定をして自身のアカウントを作ったものの、今日まで手が付けられてなかったのである。
理由としては、まあ忙しいが一番に来るんだけど、実際のところこの「なろう」でどのような文章を書くべきかというところに頭を悩ませていたのである。エッセイや小説を書くにしても、「カクヨム」と共に二足のわらじをはくほど時間を割ける自信がなかったのである。
で、ここではとりあえず、「創作物」にテーマを掲げてやっていこうという道筋を立てた。よくよく考えてみれば、普段色々な創作物に触れているのにも関わらずそれをテーマにしたことはあまりなかったなあと。
図書館で約二時間フラフラしていたのにも関わらず、一冊しか借りなくて「あのガキは何をしに来たのかしら……」と図書館の職員のおねえさんに冷たい目で見られるのが嫌だから特に興味もない本をガサガサ手に乗っけてみたよ、的なすごいくだらない文章をいつも書いているからだ。
別に「なろう」を校長のお言葉のように清く正しく生真面目にするつもりはないけど、国会答弁で首相が主張するぐらいにある一定の国民様に同調意識を得られたり反感を買ったりする程度のものにしようかなと。
創作物――小説、映画、ドラマ、アニメ、音楽、歌詞、舞台等々に焦点を当てていきたい。
本題に入ろう。第一回は「近代文学は読むべきなのか?」だ。
これは小説家になるために、という書き添えをしたほうがいいだろうか。つまり、今活躍している小説家さんは夏目漱石やら森鴎外やらを愛読してきたのか。
これはちょっとゲスいテーマだと思うけども、ね。
結論から言えば、「読むにせよ読まないにせよ小説家として成功している人はいる」ってことかな。
日本の近代文学を読まずして真の小説を理解したとは言えない、そんなんだから物書きで食っていけない。そう断言できる、または偉大な小説家さんが発言したのならば「はーい、読む読む」とありつくんだろうけど、そうではないのでは。
でもね、小説家さんのインタビューやらを眺めていると、古今東西の小説を読みに読み尽くした感じがしてこちらとしては「ここが、成功者と非成功者との違いなのか?」と不安に駆られることがある。
だったらつべこべ言わずに読んどけカス、という声があるだろう。確かにそうだ。でも、僕は中々それらの書物に手を伸ばせないでいる。
その一つとして、文章がとても読みにくいのだ。中々内容が頭に入ってこず、結局「はぁ……」のような曖昧なままで物語が終結してしまう。それが醍醐味なのかもしれないけど、頭が悪いので理解できないんですよ。バカですいません。
だから、教科書に載ってる「羅生門」や「城の崎にて」などを除いて自主的に読んだものと言えば、江戸川乱歩ぐらい。あと日本じゃないけど、アガサ・クリスティーの和訳したもの。
あ、でも宮沢賢治ならば小五・六ぐらいの年齢のときにハマっていた。謎に。
そんなわけで、好きなもので生きていこうよ! つーことで終わっていいですかね。雑なまとめだけど。でもまあ、一般教養として「坊っちゃん」と「こころ」ぐらいは最後まで読んだほうがいいかもしれないな。家にあるかな……。