腹が減っては……
遥は洗面台に向かい、髪を整え、精一杯メイクをした。
夫を奪った女の前で少しでも引け目を取らないための、無意識の行動だった。
その間、翔と翼はせっせと部屋の片付けをしていた。
『お母さんが、あんなに気合い入れて化粧すんの、珍しくね?』
翼の問いに翔が言った。
「うん。そうだね……お客さんって、一体誰なんだろう?」
翔も不思議そうに首を傾げた。
遥は自身の身支度が整うと、今度は茶器をしみじみ眺め、
選び始めた。
「緑茶?紅茶?いっそ白湯でも出すか?ん?」
何やら独り言を言いながら、紅茶の茶器を取り出した。
結果、お気に入りのムレスナのフレーバーティーを用意していた。
洋梨のフレーバーだ。
『よっぽど大事なお客様なんだね?』
翔が遥に言った。
「これは自分のためよ。心を落ち着かせるために用意してるの」
その時再び玄関のチャイムが鳴った。
宣言通り、立木玲子はきっかり30分で戻ってきた。
遥はドアの前で大きく深呼吸をしてドアノブに手をかけた。
「どうぞ」
無表情に客人を招き入れた。
『どうも。お邪魔します』
立木玲子に続いて、娘もオドオドしながら部屋へ入ってきた。
相手の好みも聞かず、そそくさと紅茶を淹れ始める遥……
明らかにいつもの母の行動ではない。
息子達は訝しげに客人に目をやった。
「で、ご用件は?」
遥の声が静まり返った部屋に響く。
『あ、あの実は主人が……将也さんが亡くなりまして……』
遥はしばし唖然としていた。
黙って一口紅茶を飲んだ。
芳醇な香りが、鼻の奥から脳内へ ゆっくりと行き渡る。
「それで?」
冷静に言ったつもりが、声が上ずってしまった。
『はい。あの、それであの人、私に内緒で生命保険に入ってたらしくて、
その保険金の受取人が、あなたの名前になってて……』
「え!何で⁉︎」
『あの人、時々言ってたんです。あなたや、子供さん達に悪いことをしたって……
だから、自分が死んだ後にでも、何か償いがしたかったんじゃないでしょうか?』
「……」
『失礼ですけど、養育費も慰謝料も請求されませんでしたよね?
その事も気にしてたんです。でも、自分たちの生活も結構大変で……』
「……」
言いたい事は山ほどあった。
目の前の女を罵ってやりたい気持ちも湧いていた。
将也が死んだ?私の一つ上だから、
あの人、まだ40歳じゃない!
後から後から溢れてくる感情と疑問で遥の脳内は、再びフリーズしそうになっていた。
『いいじゃん!もらっとけよ生命保険金』
背後から声を上げたのは次男の翼だった。
「僕も、お母さんにはそれを受け取る権利があると思うよ」
長男翔も静かにそう言った。
確かに、2人の息子の教育費もバカにならないし、今まとまったお金があれば、
以前から考えていた、店を持つ夢も叶うかもしれない。
遥はふと、玲子の隣にちょこんと座っている女の子を見た。
「あなた、名前は?」
『……』
女の子は何も答えない。
『すみません。この子、ひどい人見知りで……
あの、詩織と言います。今5歳です』
遥はふーっと大きなため息をついた後、
冷めてしまった紅茶を一口飲んだ。
「あなた達は?この先どうするつもり?
こんな小さな子を抱えて、生活していけるの?」
『少しですけど、貯金もありますし、仕事が見つかるまで何とかなると思います』
「何とかって……あなた、親御さんは?」
『両親健在ですが、この子を生むと言った時絶縁されました。
不倫の末にデキ婚ですからね、仕方ないですけど……』
遥は両親を早くに亡くしていた。
頼る所がある周囲の人々を、羨ましく思った事は数え切れない。
「無職の未亡人から財産を奪うほど、私、鬼じゃないわよ。
保険金、折半しましょうか?」
『いえ、そういう訳にはいきません!』
「あんたのためじゃないわよ、詩織ちゃんのため」
遥は詩織の方を見て微笑んだ。
『何でだよ!そのお金があれば、お母さんがやりたがってた
ご飯屋さん、できるんじゃないの⁉︎』
翼が大声で言った。
「子供が余計な心配しないの!それは……
ほら、あくまでできたらいいなっていう夢だから。
今の総菜屋さんのパート、すごくやりがいあって好きだからさ……」
『ご飯屋さんですか?すごくステキな夢ですね。
私もお料理は嫌いじゃないんですが、遥さん、相当
お上手だったみたいで……』
「え?あの人が言ってたの?いやいや、あの、ホント大した事ないの」
遥は赤面していた。
『食べてみたいな。遥さんのご飯……
あっ‼︎すみません、私、図々しい事を……』
「そういえば詩織ちゃん、朝ご飯まだなんじゃないの?
あ、もう昼ご飯かな?」
『え、ええ』
「残り物でよかったら何か準備するわよ」
言うが早いか、早速遥は台所へ向かった。
『何やってんだろう、私……』
遥はポツリと独り言を言った。
その後、自分自身の行動が滑稽すぎて、クスッと笑った。
笑うしかなかった。
冷蔵庫の中には、昨夜作った大根と鳥手羽の煮物があった。
炊飯器の中のご飯もどうにか足りそうだ。
後は厚焼き玉子と、お味噌汁……
瞬く間に食卓の上に美味しそうな食事が並んだ。
翔と翼は、この予期せぬ展開に もはや呆れて
言葉をなくしていた。
おかしな面子がその食卓を囲む。
『いただきます……』
玲子が小さな声で挨拶し、煮物を一口食べた。
つられて詩織も食べ始めた。
いつのまにか、玲子の目から大粒の涙がこぼれていた。
「えぇ……何、なんなの⁉︎」
遥は動揺していた。
『だって、こんな美味しい煮物、私、逆立ちしたって勝てない!
それに、あの人が亡くなってから、まともな食事するの久しぶりで……』
誰かの幸せそうな顔は、周りの心も幸せにする。
自分の作った料理を、泣きながら食べている玲子を見ているうちに、
ほんの少し、彼女に対するわだかまりが溶けていくのを感じる遥だった。




