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深い闇に沈んでゆくような感触。
どこかで感じたことがあるのだが、どうにも思い出せない。もどかしさが胸をくすぐった。ゆっくり、ゆっくりと身体が降りてゆき、精神の時計が逆回りを始める。
『このメモリー・スクープ法は海馬に光刺激を与えることによって、あなたの記憶を画像や映像として引き出すテクノロジーよ』
やがてそれは直前の記憶を引き出した。
エージェントの発した言葉。メモリー・スクープ法。装置の冠を被り、まどろむ心地。
『いちおう危険はないのだけど、内面侵入罪になるから《機関》のエージェントにしかこのテクノロジーの使用は認められていません。他者の内面に干渉することは、本来は〈人類に対する背信行為〉に相当する重大な悪ですから』
エージェントはそこで初めて微笑んだ。
まるで七瀬にリラックスするよう、表情で訴えているみたいだった。
『しかしこれは非常事態です。残念ながらあなたに拒否権は与えられない。でも大丈夫。このテクノロジーで追体験された事実は、あなたが望めば忘却することができます。よほどの辛い経験で、忘れたいのであれば、だけど』
そのとき七瀬は、どう返事したのかを憶えていない。不思議なことだ。たった数十秒まえの出来事だったはずなのに。
おそらく強気な返事をしたのだろう、エージェントの表情が苦笑いに染まっていた。その強気な姿勢を何度も見てきたに違いない。
『じゃあ始めるわよ。スクープ中も、リンク出来ていればわたしの声が聞こえるはず。聞こえるなら、指示したことを意識的に思い出してね』
過去の映像は巻き戻しを始めた。
逆再生する記憶。それはまるで七瀬が成人から幼児へ退行するシミュレーションを観ているようだった。しかし記憶はそれほど綿密な時系列を持ってはおらず、むしろ離散的な断片を、見えない糸でつないだ球のように展開している。
数珠繋ぎになった、無数のエピソード……
ところどころ穴があるのは、想起に失敗した箇所なのだろう。しかし全体的には欠けたところが少ない球状で、健常者の記憶だと言えそうだった。
『それじゃあナナセ、記憶を辿って。具体的には七ヶ月前、記録上では第三十二回目の地球遠征のとき、あなたはどうして従軍し、どういう戦いを経て、そして何を視たのか』
意識は記憶を掴み取る。手に取るようにハッキリとわかる記憶をもとに、少しずつ、エピソードを辿ってゆく。
探し求める目的は、七瀬の、喪われた記憶だ。
あったのは、まず、軍隊での訓練の記憶だった。持久力をつけることを目的とした、火星重力下における訓練。擬似地球化された居住区を離れてしまうと、火星の空気は無きにも等しい。それを利用した、基礎体力作りだった。
……ちがう。これじゃない。
スキップ。
火星軌道上のコロニー。
航宙戦闘艦に搭乗し、コクーンと呼ばれる兵士の待機室にひとりで座っていたとき。
ちがう、これじゃない。
スキップ。
月面最前線基地に到着し、視たのは地球。
それは灰色だった。
このまぎれもない視覚情報に、彼女自身戸惑った。おかしい。わたしのなかでは地球は青かったはずじゃあ……そう思った瞬間、地球に色がつく。
『何をやっているの!』
鋭い叱責とともに、地球は再び色を喪った。
『余計な雑念が入ると、記憶も錯誤が起こります。意識されないと見えないくせに、意識しすぎると記憶は歪んでしまうの。そのまま無心になって、記憶を再生することに専念してください』
やがて始まる戦闘。
モニター越しに見る結晶生命体、彼らは水晶のカタチを取り、無数の群れを為しながら、まるで泳ぐように艦に迫っていた。
コクーンに鳴るアラート。射出される自機。空中に放り出されるような感触と、操縦桿を握ることで得られる自在な感覚。
わたしは宇宙を飛んでいる。
わたしが、わたしだけがここにある。
心臓の鼓動音と、規則正しい呼吸音。
その実感だけが無限の闇に轟いていた。
途端、場面が霞んで揺れる。
いったい何事だ、と思う間もなく映像は砂嵐に呑み込まれ、気がついたら彼女は宇宙空間を漂っていた。
やられたのだ、と七瀬は思った。たしか自機を結晶に取り込まれかけたから、脱出したんだっけ。
しかし脱出は失敗した。七瀬の身体は無事射出されたのだが、半身を結晶に冒されていたのだ。
突然、全身が凍える。
七瀬の意識が、記憶に侵食されている。
寒いし、息苦しい。
いつか死ぬ。それも、もうすぐ。そういう実感がひしと迫る。
助けて、助けて、助けて!
七瀬の意識は叫び出す。しかしそれは幻覚だった。幻覚なのにもかかわらず、肌で、背筋で、それをリアルだと感じている。
いや、ちがう。
海馬にはなくても、肌で憶えているのだ。
エピソードではなく、リアリティだけがこの記憶を確かなものにしているのだ。
だから、海馬のエピソード記憶を客観視しているエージェントからは、七瀬の精神的な揺らぎを観測できない。その記憶は脳ではなく、肌に細胞に刻み込まれているから。
すでに映像らしき映像もなく、あらゆる場面が霞んで消えかかっている。
あるのは皮膚から伝わるリアリティだけだ。しかし、そのリアリティこそが彼女の記憶をまぎれもない記憶たらしめている。エピソードがなくても、生きているのだという実感がある。意識はまだ消えていない。
と、そのとき。
『……驚いた。まだ生きているとは』
エージェントのものではない、誰かの声が聞こえた。それは男性的な低い声で、久しぶりに驚くものを視た、と言いたげだった。
『結晶生命体でも喰らいきれぬほどの意志のチカラなのか、それとも……』
知らない声のはずだった。
でも聞いたことがある。
この耳は憶えている。
七瀬は目を見開くように、声の主の顔を思い出そうと強く意識した。
おまえは。
わたしは何を視たんだ?
その答えにあと一歩というところで、目のまえに青い地球が広がり、何もかもが消え去ってしまった。
『もうけっこうよ。ご苦労さま』
エージェントの声を聞いて、意識が急に浮上した。