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亡霊は泪する。
忘れられるのが悲しいのか。
それとも、思い出されるのが苦しいのか。
ダストストームの時期を過ぎた火星の空は、恐ろしく澄んでいた。錆びた鉄のような赤が、どこまでも透きとおってフォボスの月の輪郭を明かすのだ。
そんな赤空を目指すように、穂村七瀬は繁華街のメインストリートをゆっくり降りて行った。
「よォ、七瀬。また脱走か?」
「るせェな! 黙らねえとその舌切り取って喉に詰めっぞ!」
通り沿いにたむろする若者たちの冷やかしを切り返すと、どっと笑いが湧く。それを流し目に颯爽と坂を下ってゆくと、いつもの酒場が開いているのを確認した。
「ちーっす」
「あんた、また脱け出してきたのか」
「ん、別にいーじゃん。あたしは健康そのものなんだから、さ」
そう言いながら、ガシャガシャと左腕の義手を動かす。
それのどこが健康なんだ、と酒場の主人は苦笑する。が、あえて言葉にはしない。
「帰還兵ってのはタイヘンだねえ」
「あン、お世辞なんか要らねえよ……いつもの頂戴」
「あいヨ」
とん、と差し出されるのは酒の瓶。
七瀬は瓶を持っていたその手に向けて、紙幣を渡す。火星の〈星府〉公印が押された、正式な紙幣だった。
まるで最初から自分のモノだったかのように、義手で瓶を取ると、七瀬は勝ち気な笑みを浮かべる。少女のような、どこか幼さの残る爽やかな笑い方だった。
「確かに。いつもありがと」
「今後ともごひいきに」
返事の代わりに手を振った。
瓶を片手に通りに戻ると、しかし彼女は憂鬱そうに坂を見上げる。いましがた降りてきたメインストリートの、傾斜の先を。
坂の上に雲なんてなかった。
あるのは人間の世界の涯。透明なドーム状である都市壁の向こう側には、標高二万メートルの天を突くオリンポス山に、寄り添うような太陽の姿だけがある。開き直ったように清々しい、いつもの火星の昼下がりだった。
あの空のどこかに、人類のふるさとがある。名は地球。千年もまえに結晶生命体に奪われたという、青き星が。
彼女はその星を目指して、史上何回目かわからない遠征に参加し、負傷して帰ってきた。そこでの傷痕は、肉体的にも精神的にも深かった。左腕と右脚を人工義肢に取り替えたほどだ。しかし彼女の精神はというと、何ごともなかったかのように記憶をかき消してしまっていた。
しかも自身はその封印に自覚がない。だからなのかなんなのか、彼女は亡くなった家族を思い出すように、遠き空へ地球を求めていた。そこにあったのは過酷な戦地体験であっただろうにもかかわらず。
そう、それは郷愁にも似ていた。
還りたい、戻りたいと願う。まるで何かの本能のように、プログラムでもされているのだろうか。
だが彼女の帰る先は、帰還兵を社会復帰させるための施設だった。そこに入ってもう七ヶ月。いい加減、退屈と鬱屈で殺されそうな心地だった。
ため息を吐く。あの空に飛べたらいいのに……とそうはならないと知りつつも、坂を上る。擬似地球化が進んだとはいえ、火星の空気は、コロニーのそれより薄い。石畳の道路を上るのは、なかなか億劫だった。
ようやく坂を上りきると、繁華街のメインストリートを離れ、外縁区域に見える白い塀に向かう。施設を取り囲む塀だ。いちおう脱走防止のため鉄条網が張り巡らされ、監視カメラもあるのだが、七瀬にはあまり意味がなかった。鉄条網は義肢で痛みなく乗り越えられるし、彼女は監視カメラの死角を注意深い観察から知っていたからだ。こうした七瀬の問題児っぷりを、しかし施設側も重度の精神病ではないからと黙認しているフシがある。
とはいえ、アリバイ工作を欠かさぬ七瀬ではない。今回のは、自由時間ちゅうに投げたボールが、塀の向こうを飛び越えたので取りに行った、という筋書きだった。
「戻ったぞー」
塀を越えたのち、声をかけると、たちまちにして七瀬と同程度の退屈を持て余した人びとが寄り集まる。よくやった、ありがとう、と口々に感謝の言葉を述べたてる。まるで悪童の集会だった。
群がる人びとをてきとうにあしらって、七瀬は自室に戻る。道中、一滴でもいいからと酒をせびる中毒者がいたが、いっさい口答えせず、眼前で力強く閉めたドアでもって返事をしておいた。そのドアを蹴る音、罵倒の言葉が聞こえるが、七瀬にはどうでもよかった。
むしろ気になったのは、先客がいたことだった。
「ずいぶんとヒマを持て余してるのね」
先客の顔は見えない。覆面のような黒い布で、目元以外は全て隠しているからだ。全身も黒一色だ。体型がわからない。
「……あんた、誰?」
「答える必要はないわ。知ったとしても、あなたは納得しないから」
「女だってことはわかった。通報はしないでやるよ」
「あらヨユーぶっちゃって」
ふふ、と目が微笑んだ。
その微笑み方に、冷たいモノを感じる。
「で、なんの用」
冷静に、冷静に。
自分に言い聞かせるように、先手を打とうと質問を投げる。それは相手の態度を切り崩すための第一手であった。
「用って、いうほどの用はないのだけれど……強いて言えば、顔合わせかしら」
「顔合わせ?」
「獲物にはアイサツしておくのがわたしの流儀だから」
「はァ?」
だが、その一手は切り返される。あとに残るのは意味の読めない言葉ばかりだ。
黒衣のなかから手が差し伸べられた。白く、細い腕。磁器のような滑らかさを予感させつつも、むしろ毒々しい気配を帯びている。
その指先が、七瀬の顎を撫でる。
背筋が凍えた。
「日が沈むころ、あなたの命をいただくわ。それまでの残り僅かな生涯を、堪能してね」
甘やかすような言葉。
男性ならばきっと恍惚と聞き入れただろう、しかし七瀬には鳥肌が立った。寒気がするし、冷静に考えても怖ろしさを感じる。
反射的に酒の瓶で殴ろうとした。
しかし相手にぶつける直前で、瓶が割れた。強烈な臭いとともにアルコールがぶちまけられる。眼前で散らばる液体から目を守るため、彼女はほんの数秒、目を閉じる。
ところがその数秒で相手は消えていた。
きょとん、と自らの目を疑っていると、背後のドアからノックが聞こえる。我を忘れて応対すると、医師がしかめ面をして七瀬を見ていた。
「なんだおまえ、酒を静かに飲むこともできないのか」
「えっ、いや、これはその、あの……」
正気に戻って、しどろもどろに言い訳を探そうとするが、医師にはどうでもよかったらしい。面会申請が入った、身なりを整えてから面会室に向かってくれ、と伝言を残して、彼は去って行った。酒のことは不問に付した。
その後ろ姿を眺めながら、七瀬は今さっきのことを考えていた。どうみてもおかしい。だが、その謎を解く手がかりは、いっさいない。それが癪にさわって、七瀬は自室のゴミ箱を蹴り飛ばした。
空っぽの音が、虚しく部屋に満ちていった。