第7話 -無口な優しさ-
修正は18話まで。
19話から最新話となります。
「……ふぅ」
夕食を終えてから、小一時間が経過した。
各々が食堂を後にした中、アジナは自室に戻り、荷解きを行っていた。風呂敷に詰め込んだ荷物は多い。まずは聖剣関連の書物を、予め配置されてある本棚に入れる。次いで村人たちからの贈り物を一つ一つ確かめ、用途に合わせた場所に保管した。
「時間が空けば、手紙を送らないと」
手紙用の紙と封筒、ペンを机の引き出しに入れながらそう呟く。
荷物整理を終えたアジナは、いつの間にか自分が汗だくになっていることに気がついた。服が肌に張り付いていて気持ち悪い。火照った身体を夜風で冷ます。
窓の外は既に暗く、風は冷たかった。寝るにはまだ早い時刻だが、そろそろ風呂に入ってもいい頃だろう。床に垂れた汗を靴下で拭き取り、アジナは部屋を出る。
屋敷の絨毯に柔らかな足音が響く。
そして、何の考えもなしに一階に降りてから、アジナは思い出した。
そう言えば、風呂について一切説明されていない。案内役を名乗り出たルービスには夕食時に話すと言われていたが、すっかり忘れていたようだ。
ルービスの部屋は二階だが、彼が今自室にいるとは限らない。若干面倒臭くなってきたアジナは、目の前で掃き掃除をしている用務員に尋ねることにした。
「あの、すみません。浴場ってどこにありますか?」
「浴場ですか。それならあそこの角を左に曲がって、突き当りですよ」
「ありがとうございます」
いえいえ、と愛想よく微笑んでくれる用務員に、アジナは「では」と告げて案内通りの道を進む。この屋敷で働く用務員は、皆が皆セバスのように個性的ではないらしい。最も、そうであったところで困るだけだが。
浴場に辿り着いたアジナは扉を開き、脱衣所の入る。
外側からはわからなかったが、随分と広いようだ。大浴場と言っても過言ではない。
村では湯を沸かすこと自体が汗を流す作業だったため、なるべく手間がかからないよう湯船は小さめだった。これだけ広ければ泳ぐこともできそうだ、なんて考える。
「……先に、ちょっと見てみよう」
食卓に大好物とそうでない料理が並べられた時、アジナは最初に好物を食べる人間だ。
眼と鼻の先に興味のある物事があれば、我慢できない。ガラリ、と浴場に繋がる戸を開いたアジナは、立ち込める湯気を両手で掻き分けながら足元に気をつけて進む。
直後、湯気の先に、人影が揺らいだような気がした。
「……え?」
湯気が左右に別れ、人影の全貌が露わになる。
水に濡れた真紅の髪に、鍛えぬかれたしなやかな肢体は抜群のプロポーションを誇る。水滴が横顔から鎖骨に渡り、豊満な胸を伝ってピチャリと浴場の床を叩く。女らしい滑らかな動作で振り向いたそれは、ゆったりとした火色の瞳でアジナを流し見た。
「ファ、ナ……?」
「――ッ!?」
返事は、大量の湯水で返ってきた。
どういうわけか、熱湯が重力に反し、湯船から浮かび上がる。アジナが眼前の人影を認識した頃には、さならが濁流の如くそれが押し寄せていた。
「ちょ、待っ……ゴホッ、熱ぅ!?」
口、鼻、耳、目、身体の様々な部分を水が突き、うまく喋れない。
清涼感のあった脱衣所に、浴場の湯水が襲いかかる。床も、壁も、一部ではあるが天井でさえも水浸しになってしまった。濁流と一緒に脱衣所に流されたアジナは、咳き込んで喉の水を吐き出した後、慌てた様子で声を荒げる。
「その、ご、ごめん! 入ってると気づかなくて」
「……別に良いわよ」
閉じられた戸の先から、ファナの声が聞こえる。
予想外とは言え女性の裸を見てしまったのだ。アジナは罪悪感に顔を歪め、もう一度だけ浴場にいるファナに謝罪してからそこを離れた。
取り敢えず、脱衣所を出るべきだろう。しかし、今のアジナは全身がびしょ濡れだ。この状態で外に出れば、屋敷の廊下にまで被害を及ぼしてしまう。
ここから大声で叫べば用務員が気づいてくれるかもしれない。
そう考えて大きく口を開いたアジナは、唐突に訪れるむず痒い感覚に、激しいくしゃみをした。続いて、身体が寒さに震えて鳥肌が浮かぶ。
浴びせられた時は熱いと感じていた水も、大気に触れている内にすっかりと冷えてしまった。連続でもう一度くしゃみをしたアジナは、鼻水を啜る。
「ちょっと待ってなさい」
戸の向こう側からそのように声を掛けられて、アジナは返事もできずに首を傾げる。
兎にも角にもこのままだと風邪を引きかねないので、せめてもの上半身に着ていた服を脱ぎ、水分を絞り出した。
「お待たせ」
二、三度絞ってある程度軽くなった服の皺を伸ばしていると、唐突に戸が開かれる。
待てとは言われていたが、まさか出てくるとは思わなかった。心臓の飛び出るような驚きに目を点にして、アジナは身体を硬直させる。
ファナは両腕に、彼女の服らしき物を抱えていた。当の本人はと言うと、全身をバスタオルで身に纏っているだけの格好である。当然、薄布一枚で彼女の嫋やかなシルエットが隠れる筈もなく、アジナは光の速さで顔を背けた。意図は不明だが、どうせならバスタオルではなくその手に持っている服を着て欲しい。
「入りなさい」
「……いやいやいや」
「風邪引くでしょ」
頑なに態度を変えそうにないので、アジナはどうにか目を逸らしながら浴室に入る。
風邪を引くと言われた手前、よもや風呂場で暫く待機を命じているわけではないだろう。風呂に入る前から濡れてしまった服を脱ぎ捨て、アジナはファナに声を掛けた。
「えーっと、本当にごめん。次から気をつけます」
「だから良いって言ったでしょ。脱衣所に服を置かなかった私も悪いわ」
「それは、そうかもしれないけど……」
「明日も使うから洗ってたの。寮の洗濯機だと間に合わないし」
そういう事情があったのか、と納得するアジナ。
しかしどのみち、アジナは浴場にばかり気を取られて脱衣所のことなんて二の次だった。仮にファナが服を籠に入れていても、それに気付かなかった可能性が高い。これ以上謝るのも返って機嫌を損ねると考えたアジナは、ご好意に甘えて湯船に浸かる。
「着替えはルービス先輩にでも頼んでおくわ」
「うん、ありがとう」
戸の先で、脱衣所の扉が閉じる音がする。
身も心も温まり、アジナは身体を脱力させた。今日一日だけで随分な距離を歩いたのだ。足に疲労が溜まっているのは勿論、緊張による疲れも相当ある。
浴室は予想通り、大浴場。広々とした空間は、一人で満喫するには些か勿体無いとすら思えてしまう。するつもりはないが、泳ぐことも容易いだろう。
それにしても、だ。
「……ファナって、意外と優しい?」
それも飛び切りの、お人好しと呼べるくらいの優しさではないだろうか。
思えば、心当たりは幾つもある。表情からは察することができないが、アジナが入寮する際にはルービスたちに付き合って歓迎してくれたし、夕食の時だって多分ではあるがアジナを待ってくれていた。自分の都合を中心に行動している者ではない。
「アジナー、着替えここ置いとくぞー!」
脱衣所の方からルービスの声が届き、アジナは礼を言う。
ドサリ、と籠に布が突っ込まれる音がしたと思えば、浴室の扉が勢い良く開かれた。
「ついでに俺も入るぞー!」
「うぉわ吃驚したぁ!?」
返事をして僅か数秒後のことだ。もしかして、素っ裸でここまで来たのかと疑わしくなる。仰け反って湯船に背中から沈んだアジナは、降り注ぐ笑い声に口を尖らせた。
「すまんなアジナ、風呂の時間を伝えるの忘れてた」
「え? ……あっ!?」
すっかり失念していたことを、アジナは後悔する。
アジナは風呂場への道こそ尋ねたものの、風呂場の利用時間については全く聞き及んでいなかった。用務員は尋ねられなかったから答えなかっただけだろうし、きっとアジナが浴室に足を踏み入れるなんて考えもしなかったのだろう。
「で、どうだったよ?」
「え?」
「ファナの裸、見たんだろ?」
中々、下劣な言い回しをしてくる。
しかし、期待するルービスに対し、アジナは至って冷静に答えた。
「どうと言われても、裸は裸だよ」
「……ちょっと待て。お前まさか、そういった欲求も聖剣に向いてんのか?」
目を背けたのは、女性の裸を妄りに見てはならないという常識的な観念が元。残念なことに、アジナ自身には女性の裸に対してこれといった感情を持ち合わせていない。
「聖剣の裸なら見てみたいね」
最も、聖剣に裸という概念があるかは微妙だが。鞘に入っている状態を、服を着ている状態とすれば考えられなくも……いや、世にある聖剣の中には、鞘を持たない形状もあるらしい。常時全裸なんて変態のような真似を聖剣がするとは想像したくない。
嘆息するルービスの意味がわからず、アジナはそこで言葉を切る。
そして無意識に隣を向き、アジナの視線はルービスの右頬に吸い寄せられた。宙に漂う湯気に息を吹きかけながら、横目で盗み見る。
「気になるか?」
小さく笑って言うルービス。
白を切る前に、アジナは諸手を上げて降参の意を主張する。
「気づいてた?」
「そんだけ見られてたらな。昼も気にしてたろ?」
「バレたか」
ルービスはアジナの見ていた自身の右頬をポリポリと掻いた。皮膚に爪が喰い込むことによって、刻まれている真紅の紋章が波打つ。
「かなり濃い部類だからな、そういった視線には慣れてんだよ」
勇者紋章は、血族の証明であると同時に、その血の濃さを表している。
判断の基準は、紋章の濃淡だ。紋章は薄桃色から紅色までの幾つかの段階があり、勇者の血の濃さは、紋章の色濃さに比例していると言われている。
血の濃淡が生物にどのような作用を齎すかは不明だが、その血が他ならぬ、英雄のものなのだ。紋章が濃い者は薄い者と比べると明らかに勇者としての能力が高いし、魔王討伐後も歴史に名を連ねる程の勇者となれば、大抵が色の濃い紋章を保持している。
平たく言えば、色の濃い紋章は、勇者としてのポテンシャルの高さを示しているのだ。
同じ勇者にとっては羨望の的。聖剣にとっては、相棒を選ぶ重要なステータスである。
「アジナのは、まあ平均的だな」
「ちょっと不安だよ。ファナの紋章も結構濃かったし」
今まで比べる相手がいなかったこともあり、アジナは自身の紋章にコンプレックスを抱く。左肩甲骨の上辺りにあるアジナの勇者紋章は、薄赤色。仮に紋章の濃淡を全五段階に分けるとすれば、アジナは下から二つ目だ。昼間の時……一応、先程の一件でも垣間見ることのできたファナの紋章は、アジナとは反対に上から二つ目。そして、燃えるような紅色をしたルービスの紋章は、最高位に属する。
「心配せずとも、俺たちが珍しいだけだ。リセなんてアジナより薄いぜ?」
「あ、そうなんだ。ちょっと安心……したって言うと、リセに悪いね」
「所詮、紋章なんて目安の一つだろ。気にする必要はない」
そうは言うが、紋章で勇者の実力を見極める者も決して少なくはない。
勇者は聖剣と結びつきが強い存在だ。アジナは聖剣について調べている過程で、勇者についてもある程度の知識を備えている。紋章ではその人物の性格や成り立ちこそ理解できないが、手っ取り早く実力を調べるにはいい手であることを知っていた。
勇者紋章は形や色を、決して変えない。言うなれば才能に当てはまる類だ。
これについては運に見放されたとしか捉えようがない。聖剣のために優秀な勇者を目指すアジナも、流石に紋章ばかりはどうしようもできなかった。
「逆に、俺からも一つ質問して良いか?」
急に改まったルービスの態度を変に思いながらも、アジナは頷く。
ルービスの視線はアジナの首元だ。そこには、銀色のネックレスがある。細い鎖で結ばれているのは、親指くらいの大きさの宝石だった。まるで深海を切り取ったかのような神秘的な色を灯すそれを、ルービスは真剣味の帯びた瞳で見つめる。
「その宝石、名前は何て言うんだ?」
あまりの熱視線に、てっきり「譲って欲しい」と頼まれるのだろうか、と予想していたアジナは、ルービスの問いに内心胸を撫で下ろす。生憎と、こればかりは人に譲れる物ではない。命の恩人がくれた、大切な物なのだ。
「メリエルって、言うらしいよ」
「確か、お守りの一種だったか。その手の愛好家には人気だって聞いたことがある」
「僕は別に、そういうのじゃないんだけどね。でも、これは恩人に貰った大切なものだから。我ながら似合うとは思わないけど、いつも肌身離さず身に着けてるんだ」
「恩人に貰った? というと、勇者狩りのか?」
「うん」
一瞬、ルービスが怪訝な視線を灯した。
しかし、次の瞬間には元の温和の表情に戻る。
「ま、お世辞にも似合ってるとは言えないわな」
「正直な感想どうも」
最も、似合っているかどうかは大して関係ない。
十年間、肌身離さず身に付けていたのだ。今更それを外せば、きっと暫くは違和感が首に纏わり付いて落ち着かなくなるだろう。
「……一応、調べておくか」
僅かにアジナの耳朶を揺るがすルービスの声。返答を求めていないのはニュアンスで伝わるが、その言葉の意味をアジナは理解できなかった。
昨日は私事で更新できませんでした。
まあ具体的には学祭です。本当ならその帰りに投稿しようと思ったんですが、どういうわけか日本語入力ソフトがバグってまして……。起動するたびにグーグル日本語入力ソフトが消えてるんですよね……。何でだろ。一先ず今はまたインストールしなおして作業してますんで、今日は更新できます。