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第3話  -学生寮【スフィリア】-

「次は、学生寮か……」


 勇者聖剣養成学校『ゼリアス』の校門を潜り、アジナは呟く。

 先程の校長室での会話を思い出せば、折角乗り気だった新生活にも若干の不安が混じり始めた。特に、それがこれから向かう場所である学生寮に関わることなのだから、尚更大きな圧力となって伸し掛かる。


 学生寮の姿はもう目に見えている。

 どうやら事前情報の通り、学校とはそこまで距離がないらしい。途中、アジナは露店に目移りしながらもすぐにそこへ辿り着いた。

 学生寮【スフィリア】――その形を一言で表すならば、"屋敷"が相応しいだろう。

 やや古めかしい外観だが、人の住んでいる痕跡は多々見られる。丁寧に手入れされた庭の彩りにアジナは無意識にそこへ立ち入り、いとも容易く魅了された。


「おい、そこの。うちの【スフィリア】に何か用か?」


 右前方から、声が掛けられる。

 振り向いた先にいたのは、一人の青年だった。

 茶色の髪に、同じく茶色の瞳。長いとも短いとも取れないその髪型の間にある顔は整っており、高い身長も相まって全体的に逞しい印象を持つ男だった。

 右頬には、太陽のような紋章が刻まれている。


「冷やかしは御免だぜ」

「いや、そうじゃなくて……」


 排他的な言葉を前に、アジナが尻込みする。

 これは言葉ではなく他の何かで示した方がいい。そう判断したアジナは、ポケットから推薦状を取り出して、男の前で開いてみせた。


「それは……」

「ええと、本日付けでこの寮に住むことになってるんですが……」

「ちょ、ちょっと見せてみろ」


 動揺を露わに、男はアジナに渡された推薦状を睨む。

 視線が何度も同じ所を往復した。内容は理解できるが、それが真であると認識し難い様子だ。男は次にアジナと推薦状を交互に見て、最後にわなわなと全身を震わせて、


「おいおいおいおい、まじかよ! お前、此処に入寮するのかっ!?」

「そ、そうですけど……」

「うおぉ……何てこった、何時ぶりだよ……!」


 次第に男の唇は弧を描き始め、やがて喜色満面。

 男は清々しいまでの笑顔を浮かべ、アジナに推薦状を返した。


「大歓迎だ! ようこそ、【スフィリア】へ!」


 その頬に刻まれた太陽のような笑顔で、男は言った。

 先程の冷たい雰囲気とのギャップにアジナは戸惑うが、全身で喜びを表している男の姿に思わず気が抜ける。兎にも角にも受け入れてくれるようで、安堵した。


「俺はルービス・ハーメイル。ゼリアスでは高等部三年に所属している勇者だ」

「あ、はい。改めまして、アジナ・ウェムクリアです。今年高等部一年に入学する予定の勇者です。よろしくお願いします」

「おう、よろしく。それと敬語は止めてくれ。肌にあわん」

「ええっと、了解。僕もその方が嬉しいよ」


 この日のために敬語は多少勉強してきたが、煩わしいと考えているのは事実。

 当の本人にそう言われるのは素直にありがたい。距離感、もとい両者の壁を取り払うためにも、敬語抜きでの会話は良い潤滑油となるだろう。


「早速、寮の案内でもするか。悪いな、何も用意とかしてなくて」

「歓迎してくれるだけで十分だよ。案内よろしく」

「任せとけ。荷物置きたいだろうから、まずは部屋だな」


 アジナの背負う風呂敷を見て、ルービスは案内を開始する。

 開かれた寮の扉を抜けると、風がアジナの背後から吹き抜けた。学生寮【スフィリア】のロビーが明るみに出る。上品な色合いと模様を持つ絨毯に、柔らかそうなクリーム色のソファ。外から見てわかっていたが、学生寮にしては規模が大きい。

 眼前でこちらに気を遣いながらも案内を続けるルービスに、アジナは付いていく。

 階段を利用して二階に上がれば、細長い廊下と規則正しく並んだ木製の扉たちが出迎えてくれた。貴族の屋敷のような一階とは違い、こちらはいかにも寮らしい。

 

「部屋はじゃんじゃん余ってるからな、好きなところを利用してくれ」


 廊下の両脇にある高級そうな置物や絵画に目を奪われながらも、アジナはルービスの言葉に相槌を打つ。廊下に面した部屋の内、同じ色形の扉をしたものが十個弱。それらが学生の利用できる部屋なのだろう。屋敷の大きさと比べれば少ない方だ。

 途中、ルービスが足を止めて扉を指さした。


「ここと、向こうのあの部屋には先客がいる。どちらも女子だから、その辺の気遣いはしっかり頼むぜ。……で、あっちが俺の部屋だ」


 これからも世話になるだろうし、とアジナはちゃんと覚えておく。

 とは言え部屋の扉なんてどれも似たようなもので、その細かな傷や模様を記憶するくらいならば、周辺の置物を目印にした方が早い。多分、一晩寝れば忘れるがその時は最悪、外側から呼びかければ良い。

 次に、ルービスは少し進んでから再び立ち止まった。


「ここも一応住人はいるんだが……訳あって今は不在だ。向こうのあの部屋もそうだな。事情があって、二人は今この寮にいない」

「いないって、この時期に?」

「学校側も承諾してるからな。まあ、有り体に言えば仕事関係だ」


 入学式は明日だ。にも関わらず留守にする用があるのは、余裕のない計画である。学生の身分でありながら、その本分を疎かにできる仕事など、想像できないが……。

 

「より厳密に言うならば、片方が騎士の仕事で、もう片方は劇団の仕事だな」

「騎士……はデモリア騎士団として、劇団って?」

「歓楽街にある劇場で定期的に開いてるぜ。結構有名だ」

「へぇ、ちょっと面白そう」


 疑問に打ち消されたが、騎士団所属というのは驚きだ。

 学生寮を利用しているということは、相手は学生。最高でもルービスと同世代であるにも関わらず、その人物は既に騎士としての仕事を割り当てられているらしい。

 一方の劇団に関して言えば、アジナの興味不足に尽きる。

 元々、娯楽文化とは縁の少なかった村育ちだ。あまりピンとくるものではない。


「よくよく考えてみれば、そこまで余ってるわけでもないな。アジナを含め、【スフィリア】には六人の学生が住んでいるんだ。最も、内二人は基本的にこっちに顔を出さねぇから、普段は四人で行動することになるだろうけど」

「さっきちらっと見えたけど、一階にも部屋があるよね? あれは?」

「あれは此処で働く用務員……もとい使用人の部屋だな」

「使用人? 最近の学生寮はそんなものまでついているのか……!」

 

 最近とは言っても情報元が書物なので、あまり詳しくはないが。

 使用人のいる学生寮と聞いて、アジナは驚いた。確かに、【スフィリア】の敷地内にあった庭園はただの学生が手入れしたとは思えない出来栄えだった。


「場所的には、この部屋を勧めるぜ。日当たりがいい」

「それじゃあそうしようかな」


 中の家具に差異はないようなので、アジナは簡単に決める。風水に興味があるわけでもない。それなりに快適に過ごせれば問題なしだ。


「よし、じゃあ開けるぜ」


 ルービスがどこからか鍵を取り出し、それを用いてドアを開く。蝶番の擦れる音がした直後、開かれた扉の先にある自室の姿にアジナは口をポカンと開けた。


「滅茶苦茶充実してる……」


 流石に部屋の広さだけならば、実家の方が広い。何せあちらは村の一軒家であり、周りが何もない特性故に家自体が大きかったのだ。しかしこちらの部屋も、一人が暮らすには十分な空間。そして、実家の部屋にはない多種多様な家具が揃えられている。

 真っ白な壁に、天上からぶら下がるランプ。大人でも簡単に潜り抜けられるくらいの大きな窓に、皺一つないシーツに包まれたベッド。文句なしの大満足だ。


「そこのクローゼットに学校の制服が入っている筈だ。いつでもいいから本番前に一度着ておけよ。……ああそれと、机の上にあるのは教科書な」

「制服に教科書ね、うん。どっちも了解」


 積み上げられた教科書に手を伸ばす前に、アジナは背負っていた風呂敷を床に下ろす。ドスン、と重量感のある音が部屋の床に響いた。


「随分と重そうだな、中身は何なんだ?」

「よくぞ聞いてくれました。これは……」


 もし仮に、この場にアジナの趣味を知る者がいたらこう言うだろう。「お前、とんでもない質問をしてくれたな」と。現にルービスは、やたらと目を輝かせるアジナに、もしや余計なことを尋ねてしまったか、と早速後悔し始めていた。

 村人たちに荷造りされた後、此処に来るまでの道中で中身を確認したが、実は取り上げられる以前と大して変わっていなかった。懇切丁寧に整頓されたその中身はアジナの愛書と、村人たちの贈り物でぎっしり詰まっている。

 風呂敷の口を勢い良く開けたアジナは、その中身の一部をルービスに見せる。そこにある本のタイトルは「最新版:聖剣大図鑑」「聖剣の歴史」「ザ・ベストカップル『勇者×聖剣』編」などなど、実に偏ったカテゴリだ。


「な、中々、マニアックだな」

「これでも、村一番の聖剣マニアって呼ばれてたからね」

「お、おう。……しかし分厚いな。これとか専門家向けの物じゃないのか?」

「そうなんだけど、読んで見れば結構面白いんだ。……あ、これとかおすすめするよ! これは聖剣と生命の根幹ライフツリーの関係について研究してる本なんだけど、説明もわかりやすいし何より砕けた文章で読みやすいんだ。僕なんかもう二十回は読みなおしているし。それとこっちの本だけど、これは聖剣王と現代の聖剣を比較していて――」

「よーし次は食堂の案内だ! 気張っていこうぜぇぇ!!」

「あ、ちょっ、待ってよ!」


 引き攣った顔で部屋から飛び出るルービスを、アジナが追いかける。

 そのまま階段を下り、先程のロビーを向かって右に進めば敷地外学生寮の食堂があった。縦に長いテーブルに、二十近くある椅子。やはり本来ならば、ここにはもっと大勢の生徒が住む予定だったのだろう。その一つ一つが丁寧に手入れされている辺り、ここで働く用務員の几帳面さが表れている。


 馬車内で早めの昼食を取ったアジナが次にこの場に来るのは、今日の夕方だ。ルービスたちも既に昼食は済ませたそうで、ひと通り食堂を彷徨いた後は屋敷の庭に案内された。アジナが魅了された表の庭ではなく、外からは塀で見えない裏庭の方である。


「ここは主に、鍛錬場として使われてるな。元々は花壇とか鉢植えとか色々あったんだが、邪魔だったんで全部表の方に移動させたんだ」

「なるほど、だからあっちの方はやたら豪勢だったのか」


 邪魔という理由で片付けられるのもどうかと思うが、数少ない住人たちが納得しているのならば良いのだろう。鍛錬場として使われている裏庭の芝生は所々が剥げており、一部には燃えた跡まである。これまで清潔だった寮の光景とはギャップが激しい荒れ具合だが、察するに修復しても修復してもキリがなかったのだろう。まだ均されたばかりの土があちらこちらに見え、用務員の苦労がひしひしと伝わった。


「俺もたまに使うけど、基本的にここはファナが利用してるな」

「ファナ?」

「ここの生徒の一人だ。……お、噂をすれば、だな」


 振り返った先には、鮮やかな赤髪を一つに結った少女がいた。

 太腿が露出することを全く考慮していない、短い丈の黒色のパンツに、同じく丈が短く袖なしの灰色シャツ。身軽さ重視の臍出しルックスは、無邪気な村の子供を彷彿とさせる部分があった。最も、その性格は無邪気とは正反対に見えるが。


「誰、こいつ?」

「聞いて驚け。新入りだ」

「新入り? 【スフィリア】の?」


 頷くルービスに、彼女は目を見開いた。

 ニヤニヤと笑むルービスの隣で、少女は対照的にやや怪訝な顔をする。彼女のアジナを見る栗色の瞳は、見定めるかのように上に下にと移動していた。


「ファナ・アクネシア、一年の勇者よ。……よろしく」

「僕はアジナ・ウェムクリア。こちらこそよろしく」


 露出した臍の少し上にある、赤い薔薇のような紋章をアジナは一瞥する。

 唐突な自己紹介に慌てて返すアジナに、ファナと名乗る少女は「ふぅん」と含みのある呟きを漏らした。何となく、彼女からは物騒な香りがした。


「ファナは鍛錬マニアだ。聖剣マニアのアジナとは気が合うかもな」

「鍛錬マニア?」

「聖剣マニア?」


 互いに聞き慣れない単語を前にして、首を傾げる。

 ルービスはまず、ファナの疑問に答えた。


「こいつ、聖剣に会うために態々王都に来たんだってよ」


 先程、部屋に広げたアジナの荷物がルービスにある種の衝撃を与えたらしい。

 陽気に語るルービスだが、その目は笑っていなかった。


「聖剣に? そんなもん、どこにでもいるじゃない」


 少なくともアジナの生まれ育った村では一人も存在しなかったが、王都の生活に慣れた彼女にとっては違うらしい。軽いカルチャーショックだ。

 

「ちなみに、俺たち以外の【スフィリア】の一員も、皆勇者だ。すまんなアジナ」

「それは……残念だけど、仕方ないね」


 少しだけ残念そうに、声を漏らす。

 聖剣とのドキドキ寮生活を期待していなかったと言えば嘘になるが、不満に出すようなことではない。寧ろ、後の楽しみが増えるというだけだ。  


「で、鍛錬マニアってのは、まぁ文字通りの意味だな。実力はともかく、身体を鍛えることに関しては俺よりも詳しい。アジナも遠慮せず頼っていいぞ」

「ちょっと、勝手に話を進めないで」


 次いでアジナの疑問にも答えたルービスだが、そこへファナが介入する。

 本人を無視した勝手な言動に憤りを見せる彼女だが、ルービスはどこ吹く風とそれを聞き流し、それどころか煽り口調でファナに問う。

 

「でも別に嫌じゃないだろ?」

「……」

「寧ろ嬉しいだろ?」

「それは、ないわよ……」


 歯切れの悪いファナの返事だが、アジナが様子を窺うとキッと睨まれる。

 体調不良を懸念しただけのアジナにとっては、見当違いな仕返しである。素っ気ない態度や、醸し出す刺々しい雰囲気から、アジナはファナのことを"怖い人"と認識した。


 しかし、鍛錬場があるというのは好都合だ。勇者として力不足を実感している今のアジナにとって、この場を利用できることは大きい。そもそも今の状態では鍛錬の仕方すらわからないのだが、いざという時はファナにアドバイスを貰うのも良いだろう。まるで降ってきたかのような好都合だが、これに甘えない手はない。


「うし、これで全部周ったな。本当は後一人、今も寮にいるんだが……そいつはちょっと持病持ちでな。休日は部屋で大人しくするよう言われてるんだ。夕食の時にでも紹介する。後、食堂と風呂場は時間さえ守ってくれればいつでも利用可能だ。風呂については同じく夕食の時に説明するとして、他に何か質問あるか?」

「うーん。特になし、かな」

「それじゃあこれにて案内終了! 俺は部屋にいるから、何かあれば質問してくれ」

「了解。僕はちょっと周辺を散歩してくる」

「あいよ、また後でな」


 立ち去るルービスの背中を途中まで見送って、アジナは屋敷の表に回る。

 村では同年代の数が少なく、学校のような集団で教育を受ける機会はこれが初めてだ。恐らく暫くの間は不慣れで色々と手間取るだろうと考えたアジナは、今の内に王都の散策を行うことにした。土地勘は早期に養っておいたほうが何かと安心できる。


「そう言えば、地図を貰ってたっけ」


 村人からの贈り物で、王都の地図を貰っていたことを思い出した。風呂敷に入れる程のものでもなかったので、ポケットに仕舞っていたそれをアジナは取り出す。


「……何とか、読めるか」


 宝の地図ですら、もう少しマシだろう。まるで子供の落書きのような、よれよれの線で描かれる王都の地図に、アジナは額に手をやった。所々の文字は潰れているし、意味の分からない記号だらけだし、そして何と言っても端に書かれている脚注が酷い。「いつか俺も行ってみたいものだ」と記されているそれは、悪気がないのは伝わってくるが、地図を描いた当の本人が王都に訪れたことがないことをハッキリ表していた。


 王都に来たばかりであまり無茶はしたくないので、敷地外学生寮から極端に離れた場所に行くつもりはない。となれば、候補は幾つかに限られてくる。


「ここから近いのだと、ゼリアスか、王立学園。後は聖堂か」


 勇者聖剣養成学校はどうせ明日には行くため、候補から外す。

 続いて挙がったのがリィン王立学園。ゼリアスの他にあるもう一つの王都の教育機関であるそこは、入学条件が非常に厳しく、王国の天才が集う学舎として有名だ。メインストリートを更に少し北に進めば辿り着くため距離的には丁度いいが、他校の生徒が向かうような場所ではない。冷やかしに見られたら面倒だ。


 となれば、残るはここから南東にあるフラス大聖堂となる。女神ヴィシテイリアを御神体にした由緒正しき聖堂だそうだが、地図にはただ一言「窓が美しいらしい」と漠然と書かれてある。村には聖堂も教会もなかったので、ピンとはこない。

 メインストリートから道は逸れるが、学校や寮のある東区画の内側にあるので迷うことはないだろう。外壁や王城の向きで自分の場所を大体把握できるのが、何気にベルエナの一番便利なところかもしれない。


 その代わり、端に逸れれば逸れる分、道は入り組んでくる。栄えある王都と言えど、人目の付きにくい場所の整理を怠る横着精神は同じらしい。露店と露店の間から伸びる道を幾つか見つけるも、行き止まりかどうかの判断がつきにくかった。


「おい坊主、どこ行く気かは知らねぇがそっちは行き止まりだぞ」


 露店の店主に指摘され、足を止めるアジナ。

 整備された石畳の上に戻り、親切な中年の男性に礼を言った。


「ありがとうございます」

「礼を言うくらいなら、商品の一つや二つ買ってもらいたいがな」


 豪快に笑う店主に苦笑いで返しながらも、一応アジナは並べられた商品を見る。

 取り揃えられているのは主に本だ。アジナの目が真剣なそれに変わり、一つ一つを吟味する。本はどれも表紙が薄汚れている。ここは古本を扱っているらしい。

 左から右に移るアジナの瞳が、ある本を映した瞬間見開かれる。


「こ、これ下さい!」

「ふむふむ、『聖剣と堕剣』か。うちに置いてる物の中じゃあ新しい部類だな。しかし良いのか、もっと珍しい物だってあるんだぜ?」

「これに比べりゃ他の物なんて糞同然ですよ!」

「糞とは何だ、糞とは!」


 聖剣と名のつく本であるという時点で、それはアジナにとってこの上なく魅力的だった。興奮状態になったアジナの失礼な物言いに、怒り心頭な様子を見せる店主。どう考えてもアジナが悪いが最終的に二人は喧嘩別れのような状態になってしまった。

 片手に本を持ち、満足そうな顔でアジナは道を進む。

 今度はちゃんと奥まで続いているようだ。路地裏であるそこを時には身体を横にして歩きつつ、アジナはフラス大聖堂へ向かう。


「むっ!?」


 足元を通り掛かる小さな魔物に目をやっていると、甲高い悲鳴のような声が聞こえた。声色からして女性。距離は近くとも遠くともないが、表通りにまでは聞こえていない声量だ。悲鳴は二度目の途中まで連続し、不自然に途切れる。


 時に優しく、しかし時に厳しかった父を思い出す。聖剣に惚れたことを告白した日から、母や妹に内緒でこっそり応援してくれた父に、アジナは並々ならぬ感謝の念を抱いていた。無論、母も尊敬しているが、申し訳ないことに父に勝ることはない。

 そんな父に伝えられた教訓の一つが、今まさにこの瞬間のためにあると理解した。人が困っていたら取り敢えず助けなさい――その言葉を元に、アジナは走り出す。


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