♪×2 チョコレートの人
一段落ついたので。
その人は、平先生から『チョコレートの人』と、秘かに呼ばれていて、その理由を最初聞いた時、私は思いっきり笑ってしまった。それ以降、私も彼を『チョコレートの人』と秘かに呼ぶ様になった。
「すみれ先生、身体の方は大丈夫ですか?」
「えぇ。平気よ。朔乃、夜泣きも少ないから逆にちょっと物足りないの。泣くのは智が家にいる時だけなのよ。つまらないわ。」
出会った時から比べると、だいぶ伸びた髪は、もともとが緩いウェーブが掛った髪だったのか、今は伸びた髪をそのままグリップで一纏めにしているだけで、他の宝飾品は勤務中には身に着けていない。そのせいか、たまに独身者に間違われることがある。
それを面白半分で平先生の旦那サマに教えてあげた翌日、平先生は何故か疲れ果てていた。その理由を追求すれば、平先生は涙目で私を睨み、睨まれた私は、瞬時にその理由を悟った。
そんな過去の事を何気に思いだしながら、平先生が寝かせつけている小さな男の子の様子を窺い見れば、さっきまで泣いていた男の子は泣き止み、静かで規則正しい寝息を響かせ天使の様な可愛い顔で眠っていた。
「今日もやっぱり遅いですね、チョコレートの人。櫂君も可哀想に。」
「そうね。でも仕方ないと思うの。伊勢谷さんは腕利きのバイヤーさんだし、それに来月には部長さんに昇進するみたいだしね。」
泣いた痕が残る頬を優しく拭ってやる平先生は、何処からどう見てもどこにでもいそうな普通の人だけど、彼女は彼女なりの試練を色々乗り越え、今も戦っている最中。
もし私が彼女だったら、私は壊れてしまってるんではないかと思うくらい、彼女は悲惨な目にあって来ている。それでも逞しく生きている姿は、ちょっと眩しくて、妬ましくて、羨ましい。
「へぇ~?出世するんだ。でも、子供より仕事取るなんて、私だったら・・・」
「初花さんだったら・・・?」
「ダメ、無理。想像できない。」
色々と面倒な恋愛沙汰から引退して、もうかれこれ2年。もう誰を見ても胸はときめかない。そんな私をじっと見つめ、平先生は涼しい顔でサラリと爆弾を落した。
「じゃあ、私と付き合います?私、初花さんなら大丈夫ですよ?」
平先生は冗談を言う時も真面目な顔をして言う時があるから、たまったものではない。それでも私がこの保育所の中で一番怖いと言うのだから、皆どうにかしている。
じりじりと後退する私に、四つん這いになって近付いてくる平先生。
とん、と、背中が壁にぴたりと張り付き、もうどこにも逃げ場がなくなり、妖しく微笑む平先生が、私の両頬をその綺麗な両手で挟んだ時、その人はガラリと、なんの前振りもなく保育ルームの扉を開け、現れた。
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
その時に流れた、何て言ったらよいか解らない、その微妙な空気を打ち破ったのは、その空気を作り出した張本人の平先生だった。
「あら、伊勢谷さん。お疲れ様です。櫂君、今日も良い子でしたよ。ね、小西先生。」
「そ、そうね。確かに良い子でした。人参も頑張って食べてましたし。」
「ただ、やっぱり少しみんなが帰ると寂しいみたいで・・・。」
体制を変え、あれこれと揃えながら、寸前の事を全く窺わせない態度で、その人に説明する平先生は、生粋の天然小悪魔系に違いないと私は痛感した。
でも、平先生曰く、『チョコレートの人』であるその人は、それよりもっとある意味強く、おかしかった。
「・・・、奥様は、女性でも大丈夫なんですか?」
「あら、伊勢谷さん。それはお答えできませんわ。でも、強いて言うのなら小西先生は私のタイプです。」
それに律義に応える平先生に、私はもう何も言えなかった。
だって、なんて言えばいいの?
人としておかしいですよ、なんて言えない。
それに、誰が誰を好きになろうが、私には関係ないし(平先生は別として。)
両手にぶら下がった大きなチョコレートは、もはや彼の代名詞。そのチョコレートの袋を受け取りながら、平先生は私ににっこりスマイルで微笑みかけてきた。(ここで逃げときゃよかったのよ。私のバカ)
意味が解からずそのまま微笑み返すと、平先生は、とんでもないことを言ってくれた。
「もう夜も遅いですし、小西先生を送ってくれませんか?私の方は呼べばすぐに迎えに来てくれますから。」
「それは・・・、ですが・・・、」
「ね?お願いします。そうでないと、私、浮気しちゃうかもしれないので。」
その無茶ぶりみたいな脅しに負けたのか、はたまた面倒になったのか、私はその人に家に送って貰う事になってしまったのだった。
伊勢谷 櫂璃、36歳。
私が彼と初めてプライベートを共にしたのは、お節介な人妻な後輩に後押しされたからだった。