7
夢はいつか終わると知っていた。
熱はいつか醒めると知っていた。
それはどうにもならないことだと思っていた…。
華乃はもう諦めてかけていた。
だから。
ドアの向こうに仙道が立っていることに気づいたとき、本当に驚いたのだ。
慌てて鍵を開けて彼を招き入れる。
「どうしたの?」
思わず口に出た。
だってもうすぐ丸三ヶ月になるはず。
仙道が来なくなってから。
二年近く続いた夢も、とうとう覚めてしまった。
もう諦めていたのに。諦めようとしたのに。
心の声が聞こえたのか、華乃の態度がおかしかったのか、仙道は珍しく薄く笑った。
「通りがかった」
端的な答え。
彼が脱いだスーツの上着を華乃が壁にかける。
仙道はゆったりとソファに身を沈めた。
骨ばった男らしい大きな手がネクタイを緩める。
流れるような仕草から色気が零れる。
華乃が好きな仙道の仕草の一つだ。
吸い寄せられるように、華乃も仙道の隣に座る。
「何か飲む?そう!芋焼酎があるの」
「芋?珍しいな。焼酎飲めたのか?」
穏やかな低い声が華乃の耳を心地よく犯す。
鋭い目元が柔らかな皺を刻む。
それだけで華乃は動けなくなる。
「飲まないけど…久志さんが好きかなと思って」
会社の焼酎が好きな同僚に教えてもらってわざわざ用意したのだ。
それすら無駄になったと苦く笑っていたのに。
お酒を交わしながら取りとめのない会話をする。
華乃の話に仙道は相槌をうつ。
仙道の相槌はあまり愛想のないものだが、それは彼の無口さゆえで話が面白くないわけではないようだ。たまに仙道が見せる笑みがたまらなく嬉しくて。
今までと変わりない夜が始まった。
ひとしきり話が終わると、緩い沈黙が下りた。
苦痛ではない沈黙に身をゆだねソファの背にもたれて仙道をじっと観察する。
この横顔も華乃は好きだった。
酒で濡れたような唇も。すっと通った鼻筋も。伏せがちな目元も。グラスをかたむける長い指も。
2杯目のグラスをあけた仙道が緩めたネクタイに手をやる。
カランとグラスの氷が澄んだ音を響かせた。
はずしたネクタイをソファのふちに掛け、仙道の右手が華乃に差し出された。
「こいよ」
この人は色っぽいと華乃は思う。
眼差しも仕草も身体も全てが艶やか。
全てが麻薬。
仙道にもたれながら、髪を撫でる手を華乃は自分の頬にもってくる。
シャツ越しに感じる逞しい胸元が、押し当てた掌から伝わる体温が心地よくてうっとりと瞳を閉じた。
もう片一方の手が華乃の背中に回る。
優しく、でも強く包み込まれた温かさに、華乃の心がほぐれていく。
仙道はもう二度と来ないだろう。
朧げに覚悟していたのに。
ふと視線を感じて顔を上げると、仙道の闇色の瞳とぶつかる。
同じ黒の瞳なのに、仙道の瞳は闇色なのだ。
光など届かない深い漆黒。
深淵を覗き込んだかのように、どこまでも惹きこまれそうな深い闇。
仙道の手が華乃の顎を捉えた。
そっと唇を重ねただけなのに。
唇が触れた場所から、華乃の中に熱が生まれる。
「どうしても華乃に会いたくなった」
唇が離れたとき、仙道は言った。
華乃は目を見開いた。
こんなことを言われたのは初めてだ。
どんなに身体を重ねても、仙道の口からそんな言葉が漏れたことはない。
まじまじと見つめる華乃に仙道は苦笑した。
「俺の頭もイカレたな」
「…私はとっくにオカシイよ」
華乃は瞳を見つめて呟くように言った。
仙道の目がすっと細められた。
冷たい漆黒の瞳に仄かな光りが灯る。
この瞬間が好き。
猛獣が獲物を見つけたとき、きっとこんな瞳に変わるのだと華乃は思う。
この瞳が、
再び近づいた唇が、耳元で囁く声が、
華乃の肩からキャミソールの紐をすべり落とした手が、
ゆるやかに身体を押し倒すその腕が、
上にのしかかってくるその体重が、全てが愛しい。
ただ触れ合うそこから気持ちは溢れて。
何よりも雄弁に語りだす。
友人でも恋人でもない、自分から連絡することもできない、連絡先すら知らない。
そんな男がただ愛しい。
こんな綱渡りのような関係でも、それすら厭わない気持ちが確かにある。
華乃は夢に囚われている。
知っていながら醒めないでほしいと願うのだ。