6
たった一言。
あの声が。私をとらえて離さない。
それだけで、その一瞬のためだけに夢に縋る。
あたりはすっかり夜の帳に包まれていた。
降りた仙道を残し、真っ黒の車はすぐに周囲に溶けるように見えなくなった。
黒に近い濃いグレーのグラデーションで揃えられたスーツとシャツ、結ばれたネクタイは派手な銀色。
華乃の部屋にいると浮いてしまう服装が、ともすれば闇と同化しそうなほどだ。
少し眉間に皺をよせたまま、鋭い目つきそのままで一瞬華乃に視線を投げると、何事もなかったかのように仙道は歩き出した。
そう。まるで華乃の名前を呼んだことなどなかったかのように。
え?
置いて行かれたのだ。
戸惑う華乃は一歩も足を動かせなかった。
茫然と後ろ姿を眺めていた。
「華乃」
静まり返った世界に、その囁くような低い声は響いた。
会社で小林が呼んだ音と同じものなのに、仙道が口にするだけで、華乃の胸はいっぱいになる。
仙道が小さく頭を振ってマンションを指し示した。
あまり目立たない動作だったが、仙道から目を離せなかった華乃にはわかった。
そうしてまた華乃との距離をあけたまま歩き出した。
「あ。ま、待って」
慌てて後を追うが、振り向きもしない仙道の歩幅は緩まず差は縮まらない。
結局、マンションの入口まで二人の距離は開いたままだった。
まるで他人のように。
エレベーターに乗り込んで、華乃はようやく仙道の隣に並んだ。
「足速い」
なんで距離を取るの?
会えてうれしかったのに。声をかけてくれて嬉しかったのに。
いつも部屋の中でしか会えないのだから、せめて一緒に並んで歩きたかったのに。
そんな思いがつい口に出る。
前方を睨むように見つめていた視線は一度も華乃に落とされることなく。
「並んでいるとマズイ」
端的に答えた言葉の意味を頭の中で咀嚼する。
見られたら困ることでもあるのだろうか…?
あの世界のことは何もわからなかった。
エレベーターのドアが開き、仙道は真っ直ぐに歩いて華乃の部屋のドアの横に立った。
華乃は鍵を取りだしてドアを開ける。
「でも先に声をかけてきたの仙道さんじゃない」
マズイなら声をかけなきゃいいのに。
その言葉に仙道の口元が苦虫を潰したように歪む。
ドアの中に滑り込んだ。
後ろで聞こえるドアがしまる音に被せるように。
「失敗した」
「え?」
「お前を見たら止まらなかった」
鼓動が跳ねた。
「華乃」
甘く低い声が呼ぶ。
落ちたバッグを拾いもせず、華乃は仙道に手を伸ばした。同時に力強い腕に引き寄せられる。
「華乃」
胸がギュッと締め付けられる。それは甘美な痛みで。
柔らかいけれど力強い声。
閉じた瞼にかかる吐息。
聞こえてくる息遣いまで。
もっともっと呼んで欲しい。
「もう一度」
懇願すると、額に柔らかくて温かな感触。
「華乃」
何をリクエストされているのか、迷いもなく応えてくれる。
抱き寄せる腕の強さとは反対に。唇に。ついばむような優しい口付けが。
最後に吐息とともにもう一度。
「華乃」
とても大切なものを囁くように。
熱いものをがこみあげてきて泣きそうになる。
こんなにも自分の名前が大切に思えることなんてない。
ううん。
愛しいのは、この声が呼ぶから。
愛しい。
仙道がこんなにも愛しい。
いつしか優しい口付けは心の激情を飲み込んで。
そのまま玄関で立ったまま繋がった。
激しい情事のあと、けだるさの残るソファから仙道が身を起こした。
華乃が贈ったライターで煙草に火をつけながら呟いた。
「困るのはお前だ」
それはエレベーターの中での華乃の問いに対する答え。
見られたら華乃が困る。
それは華乃に対する仙道なりの配慮。
見るからに一般人ではない男と縁があることが華乃の汚点になる、そういう配慮。
「悪かったな」
そんなことないのに。
思わずその背に縋った。
「嬉しかったの」
声が震えた。
どう伝えたらいいのかわからなくて。
「呼んでくれて嬉しかった」
たった2つの音がこんなにも胸を抉る。
こんなにも愛しい音になるなんて思いもしなかったのだ。