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どうして人それぞれの特別は違うのだろう?
みんなにとっては当たり前のことでも誰かにとっては特別だったり。
自分でも不思議なほど特別なのだ。
あの存在は。
「華乃さん」
窓の向こう。桜が散るのが目に入った。
名を呼ばれたのに、心に迫るものは何もなくて、一瞬誰のことだかわからなかった。
自分の名前を呼ばれたのだと認識して、華乃は目の前の人物に軽く視線を流した。
身体は心と同じように出口へと向いたまま。
年度末の怒涛のような業務量を残業までしてなんとか終わらせた。
早く家に帰りたいと逸る気持ちのまま会社を出ようとしたとき、同じように残業していた同僚の小林に呼び止められたのだ。
小林が華乃を真っ直ぐに見据えた。
すぅっと息を飲み込む音が小さく聞こえ。
「華乃さん」
もう一度名前を呼ばれた。普段は苗字で呼ぶのに、今は名前で呼ばれた。
「どうかしたの?最近落ち着かないように見えるけど」
ドキッとした。
そんなに態度に出しているつもりはなかったけれど、。
もう1か月仙道の姿を見ていない。
だから。もうそろそろ来るはず…と。
残業で遅くなって、彼の訪れを逃してしまうのが怖くて。
「ちょっと用事があって」
それでも社会人として鍛えた口からは無難な言い訳が零れた。
暗に「急いでいる」と伝えて。
「習い事?僕も華乃さんと話したいことがあるんだけど、時間取れる?」
「ごめんなさい。ほんと急いでるんです」
軽く会釈して身を翻そうとして止められた。
「僕のことそんなに嫌い?」
「いえ。そういうわけじゃないんですけど…」
目の前の男は真っ直ぐに華乃を見つめたまま視線を逸らさない。
そこに含まれる色が、単なる会社の同僚としてではないことに嫌でも気づいた。
こういうのが一番困る。
仕事でどうしても関わらざるをえないのに。
どうしてせっかく築いてきた信頼関係を無にするようなことをするのだろう。
それ以上言わないでほしいと顔に出したつもりだったけれど。
「華乃さんは付き合っている人いるの?俺のことも候補に入れてほしいんだけど」
「・・・」
付き合って・・・?
こういうとき、なんて言ったらいいのだろう?
「…好きな人がいるので」
華乃が口にした言葉は小さくどこか自信なさげに響いた。
ぼかした言葉でも、仙道の存在を他人に伝えたのは初めてで、自分の言葉に戸惑った。
好きな人・・・。
言葉に出すことで、胸の中にすとんと落ちてきた。
どこか曖昧な出来事が現実のものとして。
「その人は華乃さんのこと好きなの?」
「……ごめんなさい!」
言い募る小林を振り切って、華乃は駆け出した。
駆けこむように電車に乗り、自宅近くの駅で降りた。足早にマンションを目指す。
さっき会社で起きたことを思い返す。
小林とは明日の業務でもやり取りする機会がある。でも、仕事中に私情を挟むような人でないと信じたい。
いつもと変わらないように接しようと決める。
それにしても。
頭に浮かぶのは、華乃を捕らえて離さない人。
この夜だけの関係が始まってもう一年近くになる。
来るのは不定期だが、月に一度あるかないか。
付き合っている、とは言えない気がする。
いや、華乃は付き合ってと言われたら嬉しさで月まで飛んで行けそうな気がするけど。
…ないな。
華乃が踏み込まないと同じように。
仙道も踏み込ませないようにしているように思えた。
横を通り過ぎた黒い車が数メートル先に停車した。
車の後部座席のウインドウがスーッと下りて、黒髪を緩く流した男の姿が見えた。
「華乃」
耳に届いた静かな声に、身体が震えた。
不思議。
低い、艶を含んだ声が染み入るように心に広がる。
それだけで。
ごちゃごちゃ考えていた頭が真っ白になった。