13 異変
萩の都は他の都に比べて広大で、大半が農地で占められた緑豊かな地だ。
作物を栽培するには体力は元より辛抱強さも必要となるせいか、男も女も体格が良く、少々の事では動じないおおらかな気質で知られている。
その一方で、信心深い一面を併せ持っており、驚くような風習が横行する土地柄でもある。
ひとまず常磐山を降りて、萩で最も規模の大きい集落にまで戻ったミツは退治屋稼業を再開するために、知り人と会おうという考えがあった。
―――その先で、まさかの再会を果たすとは露知らず。
じぐざぐと平屋が密集する町は土臭く、乾いた干草の匂いがする。
黄京の何処か気取ったような、整形された雰囲気より余程肌に合う。
が、すぐに異変に気づく。首を傾げてしまうほど町が大人しいのだ。
元々、春は植付けで忙しくなる季節だが、まだ少し早い今時分であれば急ぎの農具の買い付けや職探しの男ども、逆に人足を募る荘園の家人が慌てて触れを出しに来るなど、例年もっと賑わっていた筈だった。
今日は人通りがまばらで、土の地肌が殊更広くみえる。
「ミツ様、これからどうなさいます?」
風見は相変わらずミツの隣から動かず、にこにこと妙に機嫌が良い様にみえる。
まるでこの展開を―――神剣が手に入らなかった事を喜んでいるかのようだと思ってしまうのは、狭量な邪推だろうか。
「私に一つ提案があるのですが、聞いてくださいますか」
「…何じゃ」
嫌な予感もしたが、ミツは律儀に一応、問い返す。
「せっかく生まれ変わった事ですし、いっそ夫君を探してはいかがでしょうか」
「は!?」
朗らかに言われた内容が理解できない。
―――こやつの頭の中身はどうなっておる。
「…聞き間違いじゃと思うが、いま夫君、とか言ったか…?」
「えぇ、良い考えでしょう?」
何が?
白い目を通り越して呆れた。
世話焼きな奴だとは思っていたが、まさか、自分の夫の世話までしようと考えているとは恐れ入った。
「一体、何がどうなってそんな事を思いつく? わしに夫がいようといまいと関係なかろう」
前世ではミツは生涯独身であった。
娘らしく惚れた晴れたの恋だの連れ合いだの、正直、考えた事すらない。そんな暇があれば剣を握ってアヤカシを追っていた。
―――いや、一度だけ、それらしき複雑で疼痛に近い感情を持った時もあった。
だが、それも遙か昔の事だ。思い出そうとしてもすぐに思い出せないほどの、遠い記憶にすぎない。
「ミツ様のお子が見たいのですよ。どれほど可愛らしかろうと思いまして」
これ以上ない笑顔でまたも衝撃の発言を続けられ、今度こそ往来の真ん中でミツの歩みが止まった。
―――熱でもあるのか!?
いや、天狗が風邪を引き込むなど聞いた事もない。
それでは一体、何が作用してこのような突飛な妄言に至ったのか。
「…」
「ミツ様? どうかされましたか?」
どうかしているのはお前だと言いたい。
「そういう話は、もっとまともな女子に言うておけ。年相応のな」
見た目は少女でも、内実は天と地ほどに違うと自覚しているミツとしては、世迷言にしか聞こえない。
それに、と、頭の端でちらりと思う。
常世から舞い戻ってきた自分は果たして子など望める身であろうか、はなはだ疑問だった。
「正直まだ実感はないが、今のわしは神の御許にお仕えする身。夫など持てる立場でもなかろうて。
子が欲しいなら風見、お前が嫁をもらえばよい」
「私の話はいいんです。私が見たいのはミツ様のお子だけですから。
どうせなら一人と言わず、二人、三人と産んでいただければ言う事は無いのですが」
「あのなぁ…そんな事を真顔で言うでない! 子などそう簡単に出来るものではなかろう!」
「ふふ、私が人の身であるなら押し倒してでも協力致しますのに」
いつの間にやら、色めくより先に不穏な台詞を吐く風見。
…再会を果たしてより、この天狗が以前と異なる距離で自分に接しているように思えてならないのは気のせいか、そうでないのか。
風見は腕組みをして思案げに顎を撫でた。
「…?」
不意に彼の目がミツを通り越して、笑みを消したのに気づいた。
凝視する視線の先を追えば、木綿の胴着に身を包んだ目立つ特徴もない若者が、向かいの平屋の軒下に立っている。
こちらが気づいたのがわかると近付く素振りをみせたが、それを天狗は許さなかった。
鋭く目線だけで制すと、嫌そうに溜息をつく。
「…すみません。ちょっと野暮用が呼びに来たようです」
「知り合いか?」
風見は苦笑して頷いた。
「あの店先で待っていてくださいませんか? すぐに済ませますので。
あまり、あなたをお一人にはしたくないのですが」
「構わん。わしも子供ではないんじゃ、黙っていなくなるような事はせんよ」
おそらく彼の同胞だろう、相手が去り際、自分に寄越した険しい一瞥が気になるといえば気になったが、相棒に任せておく事にした。
後を追った風見のすらりとした後姿が平屋の影に沈む裏路地に消えるのを見送り、ミツは言われた通りに足を向けた。
湿気た板塀の腐った臭いとぬかるんだ泥が出迎える裏路地には濃い影だまりが落ちていた。
「何の用です」
日の中より陰影の中にあってこそ引き立つ美貌の主は、ミツに相対していた時とはまるで別人の冷めた気だるい顔で、待っていた同族の男を見やる。
「か、風見様…」
年若い天狗が身をやつした無骨な若い男は居心地悪げにたじろいだ。
そのまま去ればいいものを、と忌々しく思う。
わざわざ遠方はるばるここまで出向いてきた、その一点をとっても厄介事の匂いが嗅ぎ分けられようものだ。
通常ならば一顧だにしないのだが、今はあいにくと彼女の存在がある。下手に余計な首を突っ込ませないために、風見は今ここにいるようなものだ。
時々、自分の一人歩きする風評でも聞きつけて、こうして見当違いの期待をかけられる。
恐々と柳瀬と名乗った相手は、ある意味、予想通りの用件を切り出した。
一族の里である山に帰ってきてほしいのだ、と。
「また姿を消した奴がいて、前に出てったきりの奴だって山に帰ってきやしない。しかもつがいものの片割れなんですよ!?
こんな事は異常だってみんな言ってます。心当たりの場所は総出で探しましたが、見つからないんです。…見当もつかなくて。
まだまだこんな事が続くんじゃないかってみんな不安がってるんです。
お願いします! 風見様、山に戻って俺たちを助けてください!」
募る焦燥そのままに早口で言い立てた柳瀬は、項垂れた頭をそのまま深く下げる。
その懸命な様子に心動かされる様子もなく、風見は片眉を撥ね上げた。
「わざわざこんな所にまで来て、他力本願ですか」
皮肉気な声は乾いて冷たい。
「そ、その、半分石化した長老どもは役に立たないし、他の上の連中も静観を決め込んでいて…俺たちみたいな若い奴らじゃ何とも、ならなくて」
恥ずかしげに柳瀬は肩を落として縮こまる。
さて何時だったか、彼が口にした事件を耳にした覚えはある。
おそらく数カ月前になるだろう。同胞が行方知れずになったと騒ぐ天狗がいるとの噂を聞いた。
天狗という種に限らないが、アヤカシは本来群れる事なく、個々で完結する在り方をするものだ。
長老と呼ばれる数百年以上生きた天狗や、ある程度長く生きた個体は、特に淡白で、樹木と同様に流れに逆らわず傍観する事を良しとする。
つがいという概念はあるが、幼少期の存在しない成体で生まれる彼らは他者から庇護される必要も無く、ほとんど横の繋がりを持たない事が普通だ。
風見自身、面白半分に徒党を組む事はあっても、人のようには同族を仲間として考えた事は無い。
悔しげに自らの無力を嘆くこの天狗はその点で物珍しく、奇妙だった。
ただ、次世代を残すために寄り添うつがいものでもこうはいかない。
まさか、他者を気に掛けるような感傷的な個体が存在していようとは。
天狗は自らの羽根で飛翔できる種族だけはあり、突然、生まれついた山からふらりと姿を消す事なぞざらだ。
さらに、魔の変革を経てからはどんな変貌があろうとおかしくもない。その度に行方知れずと騒いでいたらきりが無いだろう。
興味を覚えてその部分を聞けば、双子で生まれたんです俺たち、と柳瀬は言った。
「俺と綾瀬は生まれた時からずっと一緒だったんです。…こんな風に何も言わずにあいつが消える筈が無い」
そう確信しているようだが、風見は内心、それはどうかと薄く嗤う。
双子だろうと互いの思惑まで透けて見えるわけではあるまい。この若者の一人相撲である可能性だって小さくは無い。
「話はわかりました。ですが、私は当分、山に戻るつもりはありません」
「っどうしてですか!」
「あなたに理由を述べる必要がありますか」
にべもない拒否に、柳瀬は悲壮な顔つきになった。
「お、お願いします! 綾瀬は俺の、大事な兄弟なんです! 本当に何の便りもなしに消える奴じゃない!
俺だけじゃ無理なんです! 力を貸してください! どうか…お願いします!」
「何か情報があれば知らせる事はしましょう。ですが、私に頼むのは筋違いです。
こうして時間を割いただけでも感謝してほしいくらいですね」
「どうして山に戻ってくれないんですか…!?」
「くどいですね。何を吹き込まれたかは知りませんが、私があるべき場所は自分で選びます。他の誰にも決められる筋合いはありません」
あの方を除いては、と、心の内で続ける。
これで話は終わったと決めつけ、風見はさっさと背を向けた。
「―――どうして人なぞに関わりになられるんです。あんな下等な輩に」
その呟きが聞こえたかのようだった。
「あいつらのせいで全てが狂い出したのに」
柳瀬の声音がどろりと翳をまといつかせるものに変化する。
さきほどの仲間の身を案じるひたむきな態度はがらりと失せ、据わった目は憎悪にぎらついた。
「あの人間のためですか? 俺たちより奴らを選ぶんですか!?」
「…」
「また、人の味方をするんですか!? どうして! 綾瀬の事だって絶対、あいつらが何かしたに決まってるんだ!
卑怯な小細工ばかりしやがって! あいつらなんか、人なんか滅びてしまえばいいのに! 風見様だってそう思いませんか!?
本当はそう思っていらっしゃるんでしょう!?」
風見は背を震わせた。
笑っている。
それに気づいた柳瀬は戸惑い―――何を感じ取ったか、みるみるうちに蒼褪めた。
「へぇ、面白い事をおっしゃいますねぇ。私が何を選ぶと?」
嘲弄は凍てついた氷雪の如く。
―――人だアヤカシだと、全く、くだらない。
「そんなもの―――最初からありはしませんよ。
何を妄想しようと勝手ですが、人も天狗も私にはどうでもよい事。
ですが、私のものにまで手を出すならば容赦はしないと、山のお偉方にはそう伝えておくといい」
他者を圧倒する冷笑をまとった相手から放たれる妖気は凄絶だった。魅入られたように若い天狗は声を失う。
到底勝てないと思わせる、それほどまでに強い。人の退治屋に付き従う行動もさることながら、特別視されるのは彼の内包する力そのものだ。そして、アヤカシは本能で強き者に従う。
―――それは生まれて幾らも立たない彼を魅了するのに十分な力を持っていた。
羨望も憧憬もごちゃ混ぜに、柳瀬は彼の姿が消えるまでずっと目を離せず、ただ濁った決心だけを固めた。