12 波紋
―――何故だ…!
なにゆえあの小僧が天子でなければならない。
我が姫の子ではなく、不慮に彷徨い出た亡霊の如し輩に何故奪われねばならぬ!
正統な天子の血筋を継ぐ者だと? 既にここにいるではないか。
まったき男児が、天子に相応しい血族が。
真偽も知れぬ面妖な出自の輩を選ばずとも、ここに!
主上は一体、どうしてしまったのだ。
時峰公は何故、このような暴挙を許す!?
田舎領主どもは何故、黙っているのだ!?
…認めるものか。
あの男が至高の天子であるなど。
認めるものか。認めるものか。認めるものか。認めるものか。認めるものか。
萩までの道のりは運が良かったのか、何事もなく終わった。
動乱期と比べれば格段に柔らかな空気が流れているのを肌で感じる。
当時はどの場所にいても空気のどこかしらに鼻につく金臭さが含まれていたものだった。
着実に時は流れておるのだなと感慨を覚えつつも、同時にいまだ濃く残る惨禍の爪痕も目についた。
黄京の中心街は確かに目覚ましい復興を遂げていたが、平屋もまばらな郊外へ景色が変わるにつれ、癒しきれぬ傷が目立つ。
アヤカシの襲撃を受けて絶えたのだろう集落の跡地では、腐った柱が片付けられる様子もなく、今の時期には青々と芽吹く筈の田畑も白く干からびて無残な有様をみせていた。
―――それもやがて一度土に還り、またその地を踏み固めて人は歩む。
退治屋もその内、無用となるだろう。
きっと遠くは無い未来に。
だが、それは今ではない。
生き延びた人々が苦吟を耐え忍び、ようやく怯える事無く眠れるようになったと思った、その矢先。
ぽつり、ぽつりと。
巨人の手で頭部を引き千切られたような死体や、獣に食い荒らされたとしか思えぬ家畜の死骸が発見されるようになった。
多くは無いが、人々にかつての悪夢を思い知らせるような、派手な惨状の屍が。
黄京に戻るのだという荷馬車を引き連れた商人によれば、アヤカシだけではない、この頃、旅人や村々を襲う野盗が顕著に増えているのだともいう。
巣食う不安や絶望に人心は乱れたまま。ろくに取り締まる衛士もいない現状ではどうしても不逞の輩が増えていく。
―――黄京で目にした華やかさは見せかけだけのものだったか。
黄京の都で目撃した獣、それは間違いなくアヤカシだった。
風見の言葉を信じるならば、ミツの知らないおよそ十年以上の空白において、アヤカシはほとんど人を襲わなかったのだという。
それだけの時を経て今また再びアヤカシが動き出す、その理由は。
この符号は一体、何を意味するのか。
さて、不思議のアヤカシには通常の刀やいかなる武器も効かぬ。
砥がれた刀も頑丈な鍬も、アヤカシに触れればたちどころにそのかたちは歪み、霞んで突き抜ける事はよく知られる所だ。
人の身に宿る霊力を込めた得物ならば話は別だが、そのような武具は既に伝説の域と化している。
アヤカシを打ち倒すには呪―――それも神の威を勧請する神呪が要る。
呪の源となるのは霊力。
退魔師、退治屋、アヤカシ喰らい、火刀、呼び名は色々あれど、それぞれ霊力を駆使する技に秀でた者である事は間違いない。
霊力は人の身を生かすのに必要不可欠なものだ。人の魂魄に宿る力と言い換えてもよい。下手に扱いを違えて損ねれば、反動で心の臓を止める危険すらある。
こうした稼業に身を置く人間にまず若者は少ない。
たとえ才があっても通用するまでには最低年単位の修練を要する上、やはり経験が物を言う世界だ。
そして、強大な力は時に人の心を蝕む毒と成り得るがゆえに、神呪は厳選された次代にのみ受け継がれた。
つまり―――多くの民はアヤカシから身を護る手段を持たないに等しかった。
襲撃を受ければひとたまりもない。息を潜めて隠れるか、逃げ惑う事しか出来ぬ。
アヤカシも無欠の存在ではなく、鼻が利かないもの、目がよく見えぬもの、動きがのろいものもいる。
人は知恵を振り絞り、かろうじてアヤカシを退けてきたが、それも多くの犠牲を孕んでの事は言うに及ばず。
次から次へと現れるアヤカシとの戦いは無限に終わらないようだった。
術で退治ても退治ても、数日と経たぬ内にまた別のアヤカシがふらりと現れて襲う。
魔除けの札を幾ら書いても、墨が乾かぬ内からその日の戦いが始まる。
そんな息つく暇も無い日々が続いたある日、木陰で次の戦いに備えて道具の手入れをしていた退治屋に、木の精霊が転機をもたらした。
―――山神の存在を、その時、初めて知る事となる。
萩の一角に泰然と座する常磐山。その地は、身を洗われるような清冽な気に満ち、神の威光にいささかの曇りもない。
春を迎えて岩地を這い登る緑が匂い立ち、途中でくねっていた木々も生い茂って、すっかり模様替えが終わっていた。
―――生きて再びこの地を踏む事はあるまいと思っていたのに。
なんだかなぁ、という気分ではあるが、苦笑で済ませてしまうのは我ながら図太いだろうか。
ミツの背で、紐で一つに絞られた黒髪の束はまだ乾ききらず、艶やかに光を弾き返している。
神域に入るのに旅の埃まで連れて行くわけにはいくまいと清水で禊を行ったのだ。ついで着物も藍染の袴に変え、ようやく緋色から解放された。
ちなみにそれは風見の懐から賄われたが、ミツ様に着物を贈るなんて初めてで嬉しいです、と、やけに喜ぶ天狗に疲れを覚え、いっそ開き直る事にした次第である。
「―――常磐の山神よ」
また再び、覆い被さるように葉を広げる大樹の根元に、頭を垂れてうやうやしく跪く。
枯れた老婆の声であろうと、瑞々しい少女の声であろうと、変わらぬ凛とした響きが静寂を打つ。
―――まずは何より感謝を。
本来、神はそう易々と動く存在ではない。
またそうあってもらっては困る。それほどに世を揺るがす影響は計り知れず、神が持つ面は優しい顔だけではない。
正直、長く懇意にしているとはいえ、常磐の山神が上位の神々にわざわざ伺いを立て、働きかけてくれるとは思ってもみない事だった。
―――あの忌まわしき首枷の呪は魂魄にまで深く根を張る、最古の呪の一つ。
解呪はすなわち幼き命との等価そのもの。
幸運だったのは、かけられていた呪は完成されておらず、まだ付け入る隙があった事か。
神の意が奈辺にあるのか、人の身にはかる事はできぬが、それが気紛れであれ、憐憫の慈悲であれ、理由は何であろうと構わない。
結果として、子供たちは生き延びた。感謝してもしきれるものではない。
「今一度心からの感謝を…それに、末期の際にはご迷惑をおかけしました事、お詫び申し上げまする」
程なくして、艶めいた妙齢の女の声が応えた。
―――顔を上げよ。
わずか苦笑の気配を帯びるそれは、人の顔があれば、子を遠くから見守る母のそれであったろう。
―――礼を言う必要はない。これは一方的な取引ではないゆえに。
…お前の今生はいささか毛色の違ったものとなろうな。
付け加えられた一言に、ミツは少し首を傾げる。
短い言葉の中にも、やけに深刻な響きを感じ取ったからだ。
―――お前がここへ来た訳も承知。剣の事であろう。
さすが山神、麓の精霊たちから伝わってでもいたのか、お見通しのようだ。
が、返ってきた返事は予想の斜め上に外れていた。
「―――神剣がない?」
この山神の手元に現在、神剣はないのだという。
それではどちらにと尋ねれば、助力を恃んだ相手に授けたのだと山神は説明した。
予想外の事態に、ミツは考え込む事になった。
無いものは仕方が無い。神剣に代わる武器を探すしかないだろう。
山神が貸し与えたのなら、その相手から神剣を取り上げるわけにもいかない。
―――代わりと言うては何だが。
「っ!?」
大樹の陰から、わさわさと葉を蓑のように繁らせた小さな丸いものがころころと転がってき、目を丸くするミツの膝先で、ぱかりと口らしき空洞を開けた。
その中に、きらりと光る何かが入っている。
―――これは取れという…ことか。
何という斬新な、と多少理解不能に陥りつつも、指先を突っ込んでそれをつまんだ。
大きいとは言えぬミツの手のひらの上に収まるそれは、細枝に巻きつけられた一巻きの糸だった。
見事な飴色をした丈夫そうな糸が何重にも巻き付けられている。
―――何故に、糸…?
正直に言えば、短剣でもいい、手に馴染む刃物がほしかった。
だが、神から下賜された品に文句をつけるほどミツも命知らずではない。礼を述べて、ありがたく頂いた。
―――風見。
この場にも無論ついてきていた天狗だったが、口も挟まず沈黙していたため、山神に呼ばれるまで半ばその存在を忘れていた。
―――変わらず勤めよ。
「承知」
優雅に一礼を返した風見の顔が一瞬張り詰めたようにもみえたが、何だと思う間もなく、山神の気配が遠ざかっていくのに再び姿勢を改め、ミツは一つ息を吐いて立ち上がる。
手の中の糸巻きを見つめて、もう一度頭を下げると、その場をあとにした。