11 継承
前話と続いています。
所は変わり、一之御殿に移る。
三貴神を祀る御所の中でも最古の建物であった。
さすが、よく手入れはされているものの、足を踏み入れると空気の色が変わって感じられる。
長く至高の位にあった男の背を黙って追いながら、貴斗は終始案じていた弟の顔を思い出していた。
処世に長けた葦原家の血を引くだけあり、何事も如才なく立ち回ってみせる彼が示した、朴訥と言ってよいほどの気遣いは、この寒々とした御殿でどれ程温かいか。
天子の座に着き、目の前の男を正式に父と呼べるのだとしても、微塵もそうする気は起こらなかった。
この御所に身を移しておよそ一年。
考えるだけ考え、仕方なくでもなく、この道を選ぶ事にした。
好ましいとは言えないが、藤永がみせる懸念とは裏腹、彼自身は実はそこまで悲観もしていない。
藤永の父である実直な左大臣も協力を申し出てくれているし、さらに摂政を務めた辣腕の時峰公も相談役として存命していらっしゃる。
誰かが負わねばならない役目だった。それがたまたま自分だっただけだ。
自分の望み通りの暮らしを送るには、あまりに厄介な血を継いでいたのだから、どうしようもない。
この国を統べる資格のある、正統な天子の血を。
―――だが、一之御殿の奥深くへ進んだ先に待っていたものは、数百年に及ぶこの国の恐るべき暗部だった。
何もない、室だった。
畳の一枚もない。四方を目にした事のない紋が刻まれた壁が囲っている。
ただの板敷きの床に素足をつければ青白き夜が染み入るように冷える。
四隅に置かれた紙灯篭の光さえ何処か暗く思えるのは重苦しく感じる心情のせいか。
―――予感がぞくりと背を這い上がる。
部屋の中には既に先客がいた。
二人の姿を認めると、静かに腰を折って立礼を取った人物は、現左大臣ではない、藤永の祖父にあたる人物、葦原の時峰であった。
皺深き顔を見ずとも相当な高齢である筈だが、年と共に骨ばって身は細ろうとも、重厚な衣で仕立てられた直衣に冠で白髪頭を整えた姿は背も曲がっておらず、たわみのない威厳を感じさせる。
―――何故、ここに時峰殿が…?
今宵、天子の位を譲った男、定康と名乗る事になった前天子は、時峰を前に目を細める。
無言のまま向かい合った二人の間に通い合う縁は単純なものではないだろう。
今年、六十を迎える定康が天子位を授かったのは齢十一と聞く。
その治世は波乱に満ちていた。在位直後に魔の変革が起こり、長くこの地を慄かせる災禍と渡り合わねばならなかった。
身体も丈夫とは言えず、床に伏せりがちな天子を公私に渡って支え、時に摂政の任も務めたのが、この時峰という老人だ。
―――一年前に突如として宮廷を騒がせた自分という存在を、貴族たちに否が応に受け入れさせ、他の血族を差し置いて、この天子の位に彼を据えたのも。
「これより使役鬼の継承を行う」
淡々と告げられた声に、はっと顔を上げれば、年を経た自分に似ていなくもない容貌の定康が己を見つめていた。
「シエキキ…?」
呑み込めずに戸惑う貴斗を無視して、定康はついと視線を滑らせる。
同じようにその先を向けば、今まで誰もいなかった筈の壁際に黒くわだかまる影が増えていた。
闇色の装束をまといし男の風貌に喉から細く息が洩れる。
その髪の色は仄かな灯りでもはきとわかる見事な銀で、人の持つ色彩ではなかった。
―――鬼の一族。
名だけは知っていたが、まみえるのは此度が初めてだ。
喉元までを覆う肌に張り付くような忍装束は、強靭な肉体を浮き彫りにしている。
頭を下げて跪く男の顔はまだ見えない。
「我は天子として命ずる。今日この時より、お前はこの相手を主として従うのだ。天子はこの者に譲る」
この鬼を視界に入れるのは一時も許せぬと言わんばかりに、感情の削ぎ落とされた顔は背けられている。
「―――主上」
一瞬、誰の事かと訝るも、時峰の視線は貴斗を示していた。
「この鬼に名をお与えください。それで、この鬼はあなたのものとなりましょう」
貴斗の細い眉が怪訝にひそめられる。
だが、通う圧力が質問も反論も許さない事を悟ると、一つ息を吐いて従った。
「…わかりました。ならば―――ナガレ、と」
その髪色が川の水面に遊ぶ銀の光に似ている―――と、深く考えずに口にした。
その瞬間、全身を貫いた衝撃は只事ではない。
身の内から造り変えられるような異様な不快感が込み上げ、歯の奥を噛み締めて耐える。
左手首が熱い。
場を見渡しても何も変わった様子はみられないのに、一人だけ別の世界に遠のいたかのように視界が揺らめいた。
長いような短いような不確かな時間が過ぎ、ようやく我に返れば、何気なく見下ろした左の手首の裏に「縛」と読める崩された字が刻まれていた。
「―――これは」
「印でございます」
答えたのは時峰だった。
「その鬼を縛した印。これからその鬼は主上の意のままに従いましょうぞ」
「…」
「天子たる貴き御身でありますれば、かの鬼は命を賭してあなたを守りましょう。―――ナガレ、ご挨拶せよ」
命じる事に慣れた声に応え、鬼は面を上げる。
―――その顔は。
美しいとも評される造作だったろう。頬の肉が削げ、その二つの眼が虚ろな洞穴の如しでなければ。
恐らくは黒ではない、瑠璃色の瞳は曇った硝子ほどの輝きも無い。
年齢も若いのか老いているのか。鬼の寿命は人とは異なるとも聞く。計り知れぬ時を生きているのやも知れぬ。
「謹んで、お仕え奉ります」
背筋をそそけ立たせる寒気に、貴斗の顔が歪んだ。
定康が目を背けるのもわかる。気持ちが悪い。その一言に尽きた。
名を呼ぶ事がこんな事態を招く事を知っていれば、けして呼ばなかっただろう。
「主上にその証をお見せするのだ」
動じる気配も無く、時峰はすべき事として命じる。
鬼は黙って喉を覆う布を引きずり下ろした。
先ほどより、その首元に赤黒い光がまとわりついているのに気がつかないではなかった。
だが、装束に隠されていたものは予想以上に醜悪と言えた。
男の喉を締め上げる細い鎖が二つ。
赤黒い、それは古びた血の色にもみえる。
凄まじいのは、その鎖が男の喉の肉を抉っているのがはっきりと目視できる事だ。
―――それが首枷と呼ばれる呪法である事を、まだ若き天子は知らない。
定康と時峰が揃って深く頭を下げる。
だが、それは浮かぶ嘲弄を隠すためでないと誰が言えるのだろう。
―――自分は一体、何を継いだのか。
茫然自失したまま、天子はこの屋敷に立ち込めるそれを、血の臭いだと思った。