09 選択
ミツの屋敷があった萩の都へは、黄京から牛車で二日、単騎で駆ければ半日の内に都に入る事が出来る。
そこから外海にも近い郊外に構えた屋敷へは、さらに馬で一日を要する場所にあった。
徒歩の旅ともなれば通常、馬の十分の一ほどの速度しか出ない人の足なので、五日は優に歩き詰める事になる。
馬を買う金子はない。ので、必然的に徒歩の旅となる。
いい加減、風見に頼るのも少々、後が恐くなってきた。
元々、人の手を借りるのは好きではない上に、借りる手は選ぶべきだと過去に学んでいる。
さて、どうやって金策にあたるか。
また、かつてのように貴族の荘園に恩を押売りに行くか。
風見の話だと、国から派遣される衛士の数が圧倒的に少ない地方の方が、打つ手も限られ、アヤカシの脅威に怯えているという。
荘園はその領主となる貴族次第によって庶民の生活も大きく変わる。
かつても荘園の貴族だけが保身の為に衛士を一人占めにしていたものだ。
が、アヤカシに通常の刀は効かず、結局、退治屋の出番となり、商売上手でもある天狗が搾れるだけ金を搾っていたのを思い出す。
退治た後、霊験新たかなアヤカシ避けの魔除け札でもしたためてやれば、一枚幾らにもなる筈だ。
自分の髪を売る事も考えたが、下手に自分の力を削ぐ事も躊躇われ、大した金にもならぬだろうと取り止めた。
贅沢を言えば、巫女装束を改め、もっと地味な服装に整えたいとも思っているが、借りた手拭で身体も清めたし、着たきり雀にそこまで抵抗があるわけでもない。
萩までは一本道、かつて通った道でもあり、地図が無くとも迷う事はないだろう。
若い頃から野宿には慣れている。水脈は豊かで、術を使えば狩をする事すら容易い。
季節はまた巡って、今は春の盛りを過ぎた頃だという。
うららかな陽気は絶好の旅日和だ。街道にもぽつりぽつりと同じ地を踏み固める同士が見える。
雨に降られても服が濡れるだけで風邪も引かないだろう。
「本当に萩に戻られるおつもりですか」
「…」
一定の間隔を空けて後をついてくる風見からの問いに、足を止めない事に替えて返事とする。
朝に顔を合わせて怒りがぶり返したが、そこまで真剣に怒っているわけではない。
あそこまで接近を許してしまった自分にも非はあると思っている。
はっきり言って、半分八つ当たりだ。
昨日から折に触れて気づいていた事ではあるが、身体の反応が鈍いのだ。
肉体年齢的には若返ったのだから、もっと容易く動けるものだと思っていた。
だが、以前が特別だったのだろう。この十五年間、何をしてきたのかわからないが、足腰を鍛えるような事はしていなかったらしい。
思い通りにならない自分の身に内心焦っていた。
アヤカシは様々な種族に分かれるが、鼠のように隼のように恐ろしく素早い相手もいる。
これはアヤカシ退治をする人間にとっては、命を左右する問題だ。
この今生の自分が何処まで退治屋として通用するか、試される時がきっとやって来る。
―――それにしても、風見は一体、何を考えておる?
一夜明けて、本当に今更ながら、ミツは風見がここにいる事の意味を考える。
山神に頼まれてミツを迎えに来るまではいい。
当然のように萩についてくるようだが、その後も共にいる必要はない筈だった。
それに、あまりにも過剰接触が多くは無いか?
昔からあのような振る舞いをしていたかと言えば、無論、否だ。
従者のように世話をしていただけで、まるで若い女子にするようなあの態度は―――。
…待て、若い女子?
―――もしかしなくとも、今のわしか…!?
よく考えてみなくてもそうだ。
今朝も宿で借りた手鏡に映し出された見知らぬ少女に仰天したではないか。
風見はよくよく思い出さなくても、女子を好んでいた。
若い女子に限らず、気に入った相手なら誰でもという感じだったが。
―――まさか、わしにまでなど。
思い切り血迷った事を考えた気がして、慌てて心頭滅却する。
出会った当初、ミツは十七か八、若い女の部類に入ったが風見は見向きもしていなかった筈だ。
自分を殺そうとした相手に懸想するほどあの天狗も物好きではないと信じたい。
それに自分は見た目はこれでも、中身はれっきとした老いた婆なのだ。普通は、生前のミツの皺くちゃな姿を思い出し、興醒めする事だろう。
「ミツ様、何の為に萩に戻られるのか、お聞きしても?」
次の問いに、ミツはふんと鼻を鳴らす。
「白々しい、勘付いておるくせに。無論、常磐の山神にお会いしに行くのじゃ」
養い子たちの動向も気になるが、何処で何をしているのか、調べようもない。
そこでミツは今後を見据えて、まず手元に神具を取り戻す事にした。
常盤山の山神に一度は返した神剣を再び借り受けようと、萩に戻る事にしたのだ。
今後、アヤカシが再び世を跋扈するというのなら、また退治屋の出番も増える事だろう。
その際、手ぶらではいささか心許ない。
術を主力とする事も可能だが、下準備を十全にしておかなければ負担が大きい他、発動までに時間もかかる。
咄嗟の時を考えても武器を手元に置く事は悪い考えではない。
「やはり、あなたは戦いに戻られてしまうのですね」
そのしみじみとした声に含まれる悲しみに似た色に、足が思わず止まる。
後ろを付いてきていた風見は少し離れた道の先に、相変わらず微笑みを浮かべて立っている。
その目に、人知の及ばぬ深みを知る色をたたえていた。
「ミツ様は本当は戦いをお望みなのでしょうか。その手でアヤカシの首を落とす事が何よりもお好みとか?」
皮肉気に言われるならば、憤然として下らぬと切り捨てる事も出来た。
だが、天狗はとても静かに問い掛ける。
「転生されてもあなたは退治屋を選ぶ事に何の迷いもない。一人のただの娘として手を汚さず生きる事もできるのに。
あなたはまるでアヤカシに魅入られているかのようですね」
それは考えてもみなかった事だった。
言われて、そうかと手を見下ろす。
肌に張りのあるこの白い手は、まだ何の色にも染まっていないのだ、と。
それなのに心は自身も知らずにまた選び取っている。アヤカシと戦い続ける血濡れの道を。
「…そうじゃな、わしは魅入られているのかもしれん」
前世の記憶がなければ、ただの娘として生きただろう。
村で世話になったヨネのように、夫と添い遂げ、子を授かり、土にまみれながらも、穏やかさに満ちた人生を。
それは夢のひとひらよりも儚い未来。
記憶を引き継ぐというのは代償の一つなのだろうと風見は言ったが、まさしくそうだ。
前世の業と共にここにあるミツが他に選ぶ道はない。
「わしは他に生きる術を知らんからなぁ」
しんみりしてしまったのを誤魔化すように、眉を下げて苦く笑った。
自分に何か出来る事があるというのは救いだと思う。それが、たまたま人の命を拾う事に繋がるなら上等ではないか。
昔はそのように思えなかったが、人は変わる。
いかに自分の手が血にまみれようとも、その身を化け物と謗られようとも望むところだと今は思っている。
過去のあれこれを思い出していたミツがふと我に返ると、さっきまでアヤカシらしい不透明な問答を投げかけてきた風見が沈黙している事に気づいた。
―――しかも、どうしてか、ものすごく不機嫌になっている。
つかつかとこちらに近寄ってくると、ぺしりと頭をはたかれた。
「なっ…???」
痛くはないが、ミツに手を上げた事の無い風見の振る舞いに驚いて、ぎょっとしてしまう。
「…頭にきます」
ぼそりと言う声が、地を這うほどに低い。
「全てを決め付けてしまっているあなたもそうですが、そんな風に思わせた人間たちが」
私の前に現れたら縊り殺してやりますのに、と、次に笑顔になる。
―――背筋を氷の手で撫でられればこのような悪寒を感じるのかもしれない。
「か、風見?」
「あなたがお望みなら仕方ありませんが、何時でも他の道は開かれているのだという事をちゃんと覚えておいてくださいね。
まぁ、別にこの国のアヤカシを殺し尽くすくらい大した事じゃありませんし。全然問題ありませんとも」
あまりにも不穏すぎる内容に突っ込みたかったが、今の笑顔の風見には何を言っても無駄な気がした。