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婚約破棄されたので笑うのをやめたら、社交界が凍りつきました。被害届は受け付けておりません

作者: 杜陽月
掲載日:2026/04/07

本日の社交界予報——晴れ。

ある令嬢が笑っている限り、社交の季節に曇りはございません。


なお、この予報が外れた場合の被害届は受け付けておりません。

 シャンデリアの灯りが、広間を黄金色に染めている。


 楽団の旋律。グラスの触れ合う音。


 令嬢たちの笑い声が、波のように寄せては返す。


 その中心に、わたくしはいた。


「アメリーゼ様がいらっしゃれば、大丈夫ですわ」


 壁際で俯いていた子爵令嬢が、ようやく肩の力を抜く。


 わたくしの手が、そっとその手に触れた。

 冷えた指先が、少しだけ温まる。


 ええ、大丈夫。


 わたくしが笑っている限り、この夜会に曇りはない。

 誰もが安心して、杯を傾けていられる。


 ——はずだった。


「——この婚約は、本日をもって破棄する」


 広間の空気が、凍った。


 グラスの音が止まる。

 楽団の弦が途切れる。

 令嬢たちが息を呑む気配が、さざ波のように広がった。


 第一王子ヴィクトル殿下が、わたくしを見下ろしていた。

 百人の貴族が居並ぶ、この場で。


 わたくしは、笑っていた。


 まだ、笑えていた。


 だって——そうするものだから。

 公爵令嬢として。ヴィクトル殿下の婚約者として。

 どんなときも笑顔を絶やさないこと。

 それが、わたくしに求められた役割だった。


 喧騒が遠ざかる。

 光が薄れていく。


 頭の中に浮かんだのは、ここ数ヶ月の記憶だった。



 三ヶ月前の夜会。


 壁に溶け込むようにして、その子爵令嬢は立っていた。

 肩を丸め、視線を落とし、誰にも話しかけられないまま。

 ドレスの裾を握る指先が、白くなっていた。


 わたくしは広間を横切った。

 誰かの談笑の輪をすり抜け、笑顔で会釈しながら。


「大丈夫ですよ」


 その子の手を取った。

 冷え切った指先が、わたくしの掌の中で震えている。


「ほら、あちらにお菓子がございますの。ご一緒にいかが?」


 令嬢の頬に、うっすらと赤みが差す。

 強ばっていた肩から、すうっと力が抜けていく。

 おずおずと、けれど確かに、足が一歩前へ出た。


 わたくしに腕を引かれて、令嬢は輪の中に入る。

 誰かが声をかけ、話題が広がり、笑い声が増えていく。


 壁際にぽつんと咲いていた花が、ようやく陽の当たる場所に出る。


 わたくしの笑顔ひとつで、夜会の隅がひとつ、温まる。


 それが——わたくしの仕事だった。


 夜会のたびに、わたくしは広間を歩く。

 話の輪に入れない人を見つけて、手を引く。


 険悪な空気を察知して、笑顔で割って入る。

 殿下の失言を、冗談に翻訳する。

 誰かが泣きそうなとき、先に笑ってみせる。


 誰に頼まれたわけでもない。

 けれど、わたくし以外に、やる人がいなかった。



 別の日。外交の間。


 ローゼンハイム条約の交渉は、三日目にして膠着(こうちゃく)していた。


 長い卓の両側に、二つの陣営が向かい合っている。

 空気が刃物のように尖っていた。

 外交官たちの額に汗が浮かび、書類を繰る音だけが響く。


 先方の使節が、苛立たしげに椅子の背を叩いた。

 わたくしたちの外交官が、顔を引きつらせる。


「大丈夫ですよ」


 わたくしはにこりと笑って、お茶を勧めた。

 新しい話題を差し出す。天気のこと、先日の園遊会のこと。

 ほんの些細な、けれど棘のない言葉を選んで。


 硬い空気が、少しずつほどけていく。


 誰かが笑った。


 その笑いに、別の誰かがつられた。

 使節の表情が和らぐ。

 やがて、議論が再び動き始める。


「ああ、アメリーゼ嬢がいるなら安心だ」


 外交官がそう言って、大きく息をついた。


 わたくしも、息をついた。

 ——ただし、わたくしの息は浅い。


 笑顔を保ったまま呼吸をするのは、案外と難しい。

 口角を上げると、胸が広がらない。

 だから社交の場では、いつも息が足りない。


 帰り道、馬車の中でようやく深呼吸ができた。

 窓の外を冷たい夜風が抜けていく。

 それだけで、少し生き返った気がした。



 また別の日。


「笑顔に価値はない。そんなものは、誰にでも(・・・・)できる」


 ヴィクトル殿下の言葉が、宴の一角に落ちた。


 場が、凍る。


 隣国の使節が顔を強ばらせる。

 令嬢たちの視線が泳いだ。

 グラスを持つ手が、一斉に止まる。


 ——あと三秒で、この場は壊れる。


「大丈夫ですよ」


 わたくしは笑った。


 殿下のお言葉を冗談に変える笑い方。

 声の高さ。間の取り方。目元の緩め方。

 もう何度繰り返しただろう。

 数えるのをやめたのは、いつだっただろう。


「殿下は照れていらっしゃるのです。本当はとてもお優しいかた」


 令嬢たちが安堵の笑みを浮かべる。

 使節がグラスを傾け直す。

 場が弛緩(しかん)し、笑い声が戻る。


 誰もが、いつもの夜会に帰っていく。


 わたくしだけが、帰れない。

 笑顔のまま、その場に立ち続ける。

 足が痛い。頬が痛い。息が浅い。


(……ええ、そうね。誰にでもできること。——あなた以外の、誰にでも)


 頬の筋肉が、かすかに軋む。


 もう何時間、この笑顔を貼り付けているだろう。

 外したい。

 でも、今ではない。ここではない。



 ヘルゼン伯爵夫人の声が、甲高く広間に響いた日もあった。


「まあ、なんですって!」


 夫人の声は刃物のように鋭い。

 相手方の令嬢が青ざめ、周囲が身を引く。

 このまま放置すれば、明日には社交界中の噂になる。


 わたくしは夫人の腕に、そっと手を添えた。

 怒りで熱くなった肌に、冷たい指先が触れる。


「奥様、あちらのお庭の薔薇が見頃ですのよ」


 耳元で、静かに。


 怒りの矛先が、ほんの少しだけ逸れる。

 わたくしの笑顔が、緩衝材になる。

 それだけで十分だった。


 伯爵夫人が深く息を吸い、吐く。

 場が収まる。

 令嬢たちが胸を撫で下ろす。


 誰も、ありがとうとは言わなかった。

 当然のことだから。


 わたくしがそこにいて、笑っていること。

 それは空気と同じ。

 あって当然。なくなるまで、誰もその存在に気づかない。



 夜。自室。


 鏡の前で、化粧を落とす。


 水に濡らした布が頬を拭うたびに、笑顔の残骸が剥がれていく。

 一層、また一層。白粉の下から、疲弊した素肌が現れる。


 鏡の中の顔は、知らない女のものだった。

 目の下に薄い隈。

 頬の筋肉が弛緩(しかん)して、口角が自然に下がっている。


 これが、わたくしの本当の顔。


 蝋燭(ろうそく)の炎が揺れた。

 部屋の空気が、ひんやりと重い。

 夜会場の華やかな熱が、嘘のように遠い。


 息を、深く吐いた。


 社交の場では、こんなに深く息を吸えない。

 笑顔を保つと、呼吸は浅くなる。

 浅い息で笑い、浅い息で取り繕い、浅い息で一日を終える。


 今日も、そうだった。明日も、きっとそうだ。


 蝋燭(ろうそく)の芯が、ぱちりと音を立てた。

 影が揺れる。わたくしの影だけが、ひとり。


「——大丈夫。きっと、大丈夫」


 鏡に向かって、呟いた。


 さっきまで夜会で振りまいていた「大丈夫」とは、違う響き。

 あれは他人のためのもの。

 これは——自分を繋ぎ止めるためのもの。


 誰のための「大丈夫」だろう。


 壁際の令嬢のため?

 外交官のため?

 殿下のため?


 ——ちがう。


 わたくし自身に言い聞かせる、ただの祈りだった。



 そんな日々の中で、エレーヌ・ルクレールが現れた。


 治癒の聖女。柔らかな微笑みと、誰をも癒す祈りの力。

 ヴィクトル殿下がわたくしの代わりに傍に置いた女性。


「エレーヌ様は治癒の聖女だそうですわね。……ええ、きっと陛下のお心も癒してくださいますわ」


 わたくしの声は穏やかだった。

 完璧な社交の笑顔。

 ——ただし、目だけが笑っていなかったことに、誰か気づいただろうか。


 エレーヌは善い人だった。本当に。

 傷ついた人に手を差し伸べ、涙を拭い、祈りを捧げる。

 その祈りの光は温かく、誰もが癒される。


 けれど——夜会の空気を読むことはできなかった。

 険悪な場に割って入る瞬発力もなかった。

 笑顔ひとつで場の温度を変える、あの技術もなかった。


 善意と、場を繋ぐ力は、別のもの。


 治癒の魔法は傷を塞ぐ。

 けれど、凍りかけた場の空気を温めるのは、魔法ではない。

 それは、もっと地味で、もっと見えにくい力。


 わたくしは、それを知っていた。

 知っていたからこそ、皮肉が喉を突いて出た。



 ある夜、ヴィクトル殿下と二人きりになった。


 宴が終わり、客が引けた後の長い廊下。

 ふたつの足音だけが、石の壁に反響している。

 灯りが間遠で、殿下の顔は半分影に沈んでいた。


「怒っては、いないの」


 殿下が足を止めた。

 わたくしの声が、いつもと違ったのだろう。


 笑顔の成分が、少しずつ抜けていく。

 口角を上げる力が、もう残っていなかった。


「ただ——疲れたのよ。ずっと」


 その一言が、どれほどの重さを持っているか。

 殿下には分からないだろう。

 分かっていたら、こうはならなかった。


 壁際の令嬢を引き上げた夜。

 外交の場を笑顔で繋いだ午後。


 殿下の失言を冗談に翻訳し続けた、数えきれない宴。

 ヘルゼン伯爵夫人の怒りを受け止めた手のひら。

 鏡の前で「大丈夫」と呟いた夜。


 その全部が、たった四文字に凝縮されていた。


 ずっと。


 窓の外から、冷たい風が廊下に忍び込む。

 わたくしの素肌に触れて、初めて気づいた。

 もうずいぶん長いこと、肌が冷えていたことに。


「明日から、笑うのをやめます」


 宣言は、静かだった。

 怒りではない。嘆きでもない。

 ただの——決定事項。


 もう十分だと、心の底から思った。


「……好きにするといい」


 殿下は、わたくしの目を見ていなかった。

 書類に目を落としたまま、片手で頁を繰る。

 興味のない案件を処理するように、軽く。


 笑うのをやめる。

 わたくしの笑顔がこの社交界で何を支えてきたか。

 その意味を、この方は一度も考えたことがない。


 わたくしは初めて、笑わない顔を殿下に向けた。


 殿下は気づかなかった。

 顔を上げなかったから。


 廊下の窓ガラスが、冷えた夜気に曇っていた。


 翌月——。


 辺境に、手紙が届くようになった。

 旧知の令嬢たちから。外交官から。時には、宰相の名で。


 ——読むたびに、わたくしは紅茶を一口飲んだ。

 格別に美味しくはない。けれど、唇が少しだけ上がるのを止められなかった。



 広間に、以前の華やかさはなかった。


 楽団は演奏していた。シャンデリアは灯っていた。

 けれど、笑い声が足りない。

 談笑の輪が小さく、散り散りになっている。


「アメリーゼ様は——今日は、いらっしゃらないの?」


 壁際で、あの子爵令嬢がまた肩を丸めていた。

 わたくしがいた頃は、手を引いて輪に入れていた。

 今は、誰も声をかけない。


 令嬢の隣に、もう一人。もう一人。

 壁際の花が、ひとつ、またひとつと増えていく。


 以前は、壁際に立つのはあの子だけだった。

 わたくしが手を引けば済んだ。

 今は、壁際が満員で、中央が空洞になっている。


「あの……どなたか、ヘルゼン伯爵夫人(あのかた)をお止めに……」


 別の令嬢が、青い顔で周囲を見回した。


 ヘルゼン伯爵夫人が声を荒らげている。

 以前ならわたくしが腕に手を添えて、薔薇の話をすれば済んだこと。

 今は、誰もその役を引き受けられない。


 エレーヌが歩み寄った。

 穏やかに微笑み、伯爵夫人に声をかける。


 しかし、夫人の声は止まらなかった。

 善意だけでは、怒りの矛先を逸らせない。

 エレーヌの祈りは傷を癒すが、場を温めることはできなかった。


 ヘルゼン伯爵夫人の声は広間の隅まで届き、令嬢たちが顔を伏せる。

 相手方の令嬢が涙ぐむ。

 とりなす者がいない。


 夜会の温度が、じわじわと下がっていく。


 グラスを置く音。椅子を引く音。

 人が、早く帰り始めた。

 以前は夜が更けるまで賑わった広間に、空席が目立つ。

 シャンデリアの灯りだけが、変わらず煌めいていた。

 照らすべき笑顔が、もうほとんど残っていないのに。



 執務室。


「——殿下。ローゼンハイム条約の件ですが、先方が……」


 外交官の声が、途切れた。


 あの自信に満ちていた外交官の顔に、困惑が浮かんでいる。

 以前はアメリーゼ嬢がいるなら安心だ、と笑っていた人だ。

 今は、誰も安心できない。


 交渉は凍結していた。


 わたくしがお茶を勧め、話題を変え、空気をほどいていた。

 あの場で笑顔を向けるだけで、硬い空気がほぐれた。

 天気の話、園遊会の話——些細な言葉が潤滑油になる。


 その緩衝材がなくなった途端、両陣営は再び硬直した。

 書類の山は増え、署名欄は空白のまま。


「エレーヌ様が取り持ってくださるのでは?」


 誰かが言った。

 返ってきたのは、別の令嬢の静かな声。


「……善意と、場を繋ぐ力は、別のものですわ」


 その一言が、広間に静かに染みた。

 誰も反論しなかった。反論できるだけの言葉を、誰も持っていなかった。


 広間の窓から見える中庭の噴水が、冷たい水を吐き続けている。

 以前は、あの噴水の周りで令嬢たちが笑い合っていた。


 今は誰もいない。

 水の音だけが、静かに響いている。



 ヴィクトル殿下の元からも、人が離れ始めていた。


 側近の令嬢が一人、また一人と辞退を申し出る。


 殿下の言葉は鋭い。悪意はないが、配慮もない。


 以前はわたくしがその鋭さを丸めていた。

 冗談に変え、言い換え、場を温め直す。

 今は誰もその役を担えない。


 最後の一人が、丁寧にお辞儀をしてこう言った。


「殿下のお傍に控えておりますと、どうにも……息が詰まりますの」


 息が、詰まる。


 わたくしがいた頃は、殿下の傍でも皆が息をできた。

 わたくしの笑顔が空気を温め、殿下の言葉の棘を丸め、場を保っていた。

 それがどれだけ繊細な仕事だったか、誰も知らなかった。


 殿下はその「空気」に気づいていなかった。


 空気は、消えて初めて存在を知られるもの。

 笑顔も同じだった。


 殿下の執務室から、花瓶が消えていた。

 以前はわたくしが季節の花を活けていた場所。

 今はただ、薄い埃がその空白を覆っている。



「殿下。このままでは、社交の季節(シーズン)が終わります」


 宰相の声は、静かだった。

 静かだからこそ、重い。


 ヴィクトル殿下は、広い執務室にひとりで座っていた。

 両脇の椅子は空。側近もいない。令嬢もいない。

 窓が開いたままで、冷たい風が吹き込んでいる。


 誰も閉めない。以前は、そんなことはなかった。

 以前は——わたくしが、さりげなく閉めていた。

 殿下が寒さに気づく前に。それが、当たり前のことだった。


「——なぜだ。なぜ、誰も俺のそばに」


 殿下の声が、石壁に反響した。

 返事はない。


 笑顔に価値はないと言った。

 好きにするといいと言った。

 書類に目を落としたまま、頁を繰りながら。


 ——そのとおりになっただけのこと。


 宰相が書類を広げた。


 外交の停滞。夜会への出席辞退の増加。

 数字の羅列が、殿下の孤立を冷徹に示していた。


 わたくしの笑顔が「誰にでもできること」なら。

 なぜ今、殿下の周りには誰も笑っていないのだろう。


 答えは簡単だった。

 誰にでもできることでは、なかったのだ。

 殿下だけが、それに気づけなかった。


 宰相が一礼して退室する。

 扉が閉まった後の執務室は、ただ静かだった。

 風が窓を鳴らす音が、やけに大きく聞こえる。



 手紙を畳んで、卓に置いた。


 窓の外で、小鳥が鳴いている。

 辺境の朝は静かだ。


 わたくしは——笑わなかった。

 けれど、紅茶は美味しかった。



 わたくしは、王宮を去った。


 行先は辺境。

 シュヴァルツベルク辺境伯領。


 寒い土地だと聞いていた。

 冬が長く、花の咲く季節は短い。


 馬車を降りたとき、頬を打ったのは冷たい風だった。

 ——けれど、不思議と嫌ではなかった。

 社交界の、笑顔で取り繕った偽りの温もりよりも、ずっと正直な寒さだった。


 ここには、嘘の笑顔は要らない。

 そう思っただけで、肩の荷が少し降りた。


「遠路、お疲れでしょう」


 迎えに出たのは、クラウス・フォン・シュヴァルツベルク辺境伯。

 大柄で、寡黙な人だった。


 社交界では滅多に見かけない人だった。

 宮廷の華やかさとは無縁の、静かな佇まい。

 けれど、その目には嘘がなかった。


 わたくしは反射的に笑顔を作ろうとした。

 口角を上げる。頬の筋肉に力を入れる。

 いつもの——社交界の仮面を。


「笑わなくても、いい」


 その一言で、頬の力が抜けた。


 笑わなくても、いい。


 誰かにそう言われたのは、生まれて初めてだった。


 笑顔を求められない場所。

 取り繕わなくていい場所。

 息を、深く吸える場所。


 目頭が、じわりと熱くなった。

 泣いてもいいのだろうか。

 この人の前では、泣いてもいいのだろうか。


 クラウスは何も言わなかった。


 ただ、外套(がいとう)を脱いで、わたくしの肩にかけてくれた。

 重くて、温かかった。

 社交界の誰も、こんなことはしてくれなかった。



 辺境の日々は、静かだった。


 朝は早い。空気が澄んでいて、遠くの山脈が見える。

 紅茶の湯気が、冷えた空気の中でゆっくりと立ち昇る。


 クラウスは多くを語らない人だった。

 けれど、わたくしの隣にいる。

 食事のとき、執務のとき、庭を歩くとき。

 静かに、確かに、そこにいる。


 笑顔を見せなくても、隣にいてくれる。

 取り繕わなくても、追い出されない。

 それだけで、胸の奥で硬く結ばれていた何かが、少しずつほどけていった。


 最初の朝、食卓に花はなかった。

 飾り気のない木の卓に、焼きたてのパンと、湯気の立つスープ。


 社交界では見たこともない素朴な食事だった。

 けれど、味がした。ちゃんと、味がした。

 宮廷の晩餐は豪華だったけれど、味の記憶がない。

 笑顔を保つのに必死で、何を食べていたか覚えていなかった。


 辺境の朝は寒い。けれど、暖炉の火は温かい。

 クラウスが淹れてくれる紅茶は、少し濃い。

 それが、不思議なくらい心地よかった。


 庭に出ると、霜が降りた草の上を小鳥が跳ねていた。

 遠くで羊飼いの笛が聞こえる。


 広間のざわめきの代わりに、風と鳥の声。

 静かだった。けれど、寂しくはなかった。


 ある朝、窓辺で紅茶を淹れていた。

 湯気が立ち昇り、窓の向こうに山脈が霞んで見える。


 ふと、クラウスの顔を見た。


 この人は、強い。

 辺境を守り、寡黙に仕事をこなし、民に慕われている。

 けれど、その肩にもきっと重荷がある。


「……大丈夫、ですか?」


 気づいたら、口に出していた。


 大丈夫ですよ——ではなく。

 場を取り繕うための「大丈夫」ではなく。

 目の前のこの人を、本当に気遣いたくて出た言葉。


 クラウスが、少しだけ目を見開いた。

 この寡黙な人が驚く姿を見たのは、初めてだった。

 それから、穏やかに——本当に穏やかに、微笑んだ。


「大丈夫だ。——君がいるから」


 ああ。


 この人は「大丈夫」という言葉の正しい使い方を知っている。


 わたくしの「大丈夫」は変わった。


 他人のために貼り付ける定型句から。

 自分に言い聞かせる祈りを経て。

 いま、目の前のたった一人を想う言葉になった。


 四つの「大丈夫」を経て、わたくしは知った。


 本当の「大丈夫」は、自分が大丈夫でなくても言える。

 相手のことだけを思って、口に出せる。


 息を吸う。

 深く、ゆっくり。

 辺境の冷たい空気が、肺の奥まで届く。


 笑顔を作らなくていい場所で——気づいたら、笑っていた。


 誰に求められたわけでもない。

 誰のために見せるわけでもない。

 ただ、この人の隣にいることが嬉しくて、自然に。


 社交界の笑顔は、他人のために作るものだった。

 この笑顔は、わたくしのためのもの。



 社交の季節は、まだ終わっていないらしい。

 ただし、凍ったままで。


 ヴィクトル殿下は、ようやく気づき始めたと聞いた。


 夜会は開かれなくなった。

 外交は停滞したまま。

 殿下の傍には、もう誰もいない。


 エレーヌの祈りは、傷を癒した。

 けれど、凍りついた広間を温めることはできなかった。


 壁際の令嬢に手を差し伸べることも。

 ヘルゼン伯爵夫人の怒りを逸らすことも。

 殿下の鋭い言葉を笑いに変えることも。


 それは祈りではなく、笑顔の仕事だった。

 殿下はそれを「誰にでもできること」と言った。

 今、誰にもできていない。


 あの笑顔の値段を、殿下は今、思い知っているのだろうか。

 けれど、もうわたくしには関係のないことだった。

 わたくしの季節は、ここで新しく始まっている。


 笑わない令嬢に価値がないのではない。

 笑わない令嬢に価値がないのは——社交界のほうだった。


 わたくしは窓を開けた。

 辺境の風が、部屋を通り抜けていく。


 冷たいけれど、心地いい。

 この風には嘘がない。裏表もない。

 ただ、正直に冷たい。

 社交界の微笑みよりも、ずっと信頼できる冷たさだった。


 背後で、ゆっくりとクラウスの足音がした。

 振り返ると、湯気の立つ紅茶を二つ持って、そこにいた。

 少し濃いめの、いつものやつ。


「春になったら、見せたい場所がある」


 クラウスが、ぽつりと言った。

 この寡黙な人が自分から何かを言い出すのは、珍しいことだった。


 どんな場所だろう。

 花が咲く場所だろうか。それとも、山の上から辺境を一望できる場所だろうか。


 わたくしは笑った。

 本当に、自然に、笑った。


「ええ——楽しみにしています」


 ああ——息が、楽だった。

社交界予報、修正のお知らせ。

凍結は長期化の見込みでしたが、辺境より暖かい風が届いております。


なお、辺境の体感温度は予報を大幅に上回っているとの報告がございます。

原因は不明。ただし、隣にいるかたの影響ではないかとの見方もあるようです。


社交界の天気は、まだ回復しておりません。

ただし、辺境では本日も晴れ。


お読みいただきありがとうございました。

辺境の春の便りは、もう少し先になりそうです。


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― 新着の感想 ―
聖女は何を思って王子の隣にいたのでしょうか。略奪愛だったのか流されるままだったのか。今は王子を支えるには力量不足の自分をどう思っているのでしょう。 アメリーゼがいれば場は保てるかもしれないけど、王子…
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