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第2章 安全基地という名の牢獄

地下牢に通い始めて二週間が経過した。 レオの身体的変化は顕著だった。頬に肉がつき始め、カサカサだった肌に微かな艶が戻ってきた。十分な栄養と水分摂取の効果だ。 だが、精神的な壁は依然として厚い。 彼はまだ、一言も発していない。


「……ガ……」


その日、僕が積み木を高く積み上げていると、喉の奥から軋むような音が漏れた。 積み木が崩れる音に重なって、それはあまりに微かなノイズだった。 僕は手を止め、ゆっくりと顔を上げる。 レオが指差していた。 崩れた積み木を。 いや、違う。僕の手を指差している。


共同注意(Joint Attention)。 乳児期後期に見られる、他者と同じ対象に注意を向け、興味を共有しようとする行動。 「あれを見て」という非言語的なメッセージ。 これは、彼が僕を「共有すべき他者」として認識し始めた決定的な証拠だ。


「……これか?」


僕は積み木を一つ手に取り、彼に見せた。 レオは小さく、本当に小さく頷いた。 首の角度が数ミリ動いただけかもしれない。それでも、それは明確な肯定の意思表示だった。


「これは『木』だ。……いや、形としては『四角』かな」


僕が語りかけると、レオは唇を動かした。 声にはならない。発声の仕方を忘れているのか、あるいは長く使っていなかった声帯が萎縮しているのか。 僕は鉄格子越しに、自分の口元を指差した。


「見てて。ク、チ」


大きく口を開け、形を見せる。 模倣モデリングを促す。 レオがおずおずと口を開く。 小さな、ピンク色の舌が見える。


「ア、レ、ク」


自分の名前を教える。 レオの口が動く。 「あ……う……」 言葉にはならない。だが、音が出た。 彼自身が、自分の出した音に驚いているようだった。


「上手だ。すごいぞ、レオ」


僕が褒めると、彼は困惑したように目を伏せた。 褒められることに慣れていないのだ。称賛をどう受け取っていいのか分からない。 この「快」の感情を処理できないもどかしさが、彼の内面に渦巻いているのが分かる。


その時だった。 地下牢への階段から、複数の足音が響いてきた。 重々しい鎧の音。 衛兵だ。それも一人や二人ではない。


「――アレク様、そこにおられましたか」


現れたのは、近衛騎士団長のガレインだった。 無骨な巨漢で、父王の忠実な犬として知られる男。 彼の背後には、武装した兵士が四人。 嫌な予感が背筋を駆け上がる。


「何の用だ、ガレイン」


僕は立ち上がり、無意識にレオを背後に隠す位置に移動した。 ガレインは冷ややかな目で僕を一瞥し、そして背後のレオに視線を移した。


「陛下のご命令です。その『汚点』を、北の塔へ移送します」


「北の塔?」


僕は眉をひそめた。 北の塔は、政治犯や重罪人が収容される場所だ。環境はここよりマシかもしれないが、監視は厳重になる。何より、僕が自由に出入りできなくなる可能性が高い。


「なぜ急に。彼はここで大人しくしている」


「『大人しすぎる』のが不気味だとのことです。それに……」


ガレインがニヤリと笑った。


「最近、アレク様が妙な『餌付け』をしているという噂も耳に入りましてね。魔王に情を移しては困ると、陛下がご懸念されているのです」


(……見られていたか)


脇が甘かった。父王の無関心を過信しすぎていた。 支配者は、自分のコントロール下にない変化を何よりも嫌う。僕とレオの関係性が変化しつつあることを、彼らは本能的に危険視したのだ。


「どけ、アレク様。その化け物に鎖をつける」


ガレインが鉄格子の鍵を開ける。 ガチャリ、という音が、レオにとっては処刑の合図のように聞こえたに違いない。 背後で、空気が凍りつく気配がした。


「あ……ああ……ッ!」


悲鳴。 いや、咆哮。 レオがパニックを起こした。 積み木を蹴散らし、部屋の隅で頭を抱えてうずくまる。 フラッシュバックだ。 武装した大人たち。金属音。閉鎖空間への侵入。 過去のトラウマが、現実の知覚を上書きしていく。


「チッ、これだから怪物は。おい、押さえろ!」


ガレインの合図で、兵士たちが牢内になだれ込む。 彼らは手加減を知らない。レオの細い腕を乱暴に掴み、ねじ上げる。


「やめろ!」


僕は叫び、兵士の一人に体当たりをした。 貧弱な体格の僕が、鍛え上げられた兵士に勝てるはずもない。だが、不意を突かれた兵士はよろめいた。 その隙に、僕はレオの前に割り込んだ。


「触るな! 彼は怯えているだけだ!」


「アレク様、公務執行妨害ですぞ」


ガレインが低い声で警告する。 だが、僕の意識は目の前の巨漢にはなかった。 背後で震えるレオ。 彼にとって、今この瞬間が世界の全てだ。 ここで僕が引けば、彼は学習するだろう。 『結局、誰も守ってくれない』と。 『安全基地なんて幻想だった』と。


それだけは、絶対に阻止しなければならない。 心理学者として、いや、一人の保護者ケアギバーとして。


「ガレイン。僕を誰だと思っている」


僕はハッタリをかますことにした。 伯爵家の「出来損ない」という仮面をかなぐり捨て、精一杯の虚勢を張る。


「僕はユリシーズ家の直系だ。もし僕に怪我をさせれば、貴様らがどうなるか分からないわけではないだろう?」


「……フン。脅しですか」


ガレインは鼻で笑ったが、剣の柄にかけた手は止まった。 腐っても貴族。血筋というカードはこの世界ではまだ有効だ。


「私が彼を連れて行く。鎖も拘束も必要ない。私が責任を持って移送する」


「正気ですか? そのガキはいつ噛み付くか分かりませんぞ」


「構わない。……レオ、おいで」


僕は背後に手を伸ばした。 振り返らずに。 兵士たちの視線が集まる中、僕の手は空中で静止する。 震える気配。 荒い呼吸音。 数秒の静寂が、永遠のように感じられた。


やがて、冷たい感触が僕の指に触れた。 レオの手だ。 彼は、僕の手を握った。 強く、痛いほど強く。


「……行くぞ」


僕はレオの手を引いて歩き出した。 兵士たちが道を開ける。 ガレインは舌打ちをして、唾を吐き捨てた。


僕たちは牢を出て、長い螺旋階段を登り始めた。 レオの足取りはおぼつかない。 だが、彼は僕の手を離さなかった。 これが、僕たちが共有した最初の「共犯関係」だった。 薄暗い階段を登りながら、僕は確信していた。 今、この瞬間、アタッチメント(愛着)の回路が繋がったのだと。 それは同時に、僕自身の運命もまた、この「魔王」と共に地獄へ落ちるか、天へ昇るか、一蓮托生になったことを意味していた。

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