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プロローグ 被虐の怪物は、泣き方を忘れている

錆びついた鉄格子の向こうで、世界を滅ぼすと予言された「怪物」が膝を抱えていた。 だが、僕の目に見えたのは魔神などではない。 そこにいたのは、愛着アタッチメントを剥奪され、魂が凍りついた、ただの六歳の子供だった。


地下牢特有の、湿った石と古い藁の匂いが鼻腔に張り付く。 松明の炎が爆ぜるたび、鉄格子の影が歪な生き物のように石壁を這い回った。その影の檻の中で、少年はピクリとも動かない。 痩せこけた四肢。泥と油で固まり、本来の色を失った銀色の髪。そして、何よりも僕の目を奪ったのは、その瞳だった。 王家の証である鮮烈な紅玉ルビーの瞳。しかしそこには、憎悪も、悲哀も、恐怖さえも映っていなかった。 ただ、虚空を見つめている。 焦点の合わない、ガラス玉のような眼差し。


(……解離だ)


僕――前世で発達心理学者だった神崎アキラ、現世での伯爵家三男アレク・ユリシーズは、心の中で冷静にカルテを書き始めていた。 あまりに過酷な現実から自我を守るため、意識を切り離す防衛機制。彼は今、この冷たい石床の上にはいない。精神だけがどこか遠く、痛みのない場所へ逃避している。


「見ろ、アレク。これが我が国の汚点だ」


吐き捨てるような低い声。隣に立つ豪奢なマントを羽織った男――この国の国王であり、僕の父でもある男が、苛立ち紛れにブーツで石床を鳴らした。 乾いた音が地下室に反響する。 その瞬間、鉄格子の奥の少年が、弾かれたように肩を跳ねさせた。 虚空を見ていた瞳が、一瞬だけ焦点を結ぶ。父王の姿を捉え、そして即座に床へと視線を落とす。 その一連の動作の速さ。 条件反射。 父の姿と「痛み」が、彼の脳内で強固に結びつけられている証拠だ。


「おい、返事をしろ。この化け物が」


父王が足元の小石を拾い、無造作に投げつける。 石は正確に少年の額を捉え、鈍い音を立てた。 赤い筋が、煤けた白い頬を伝う。 それでも少年は声を上げない。痛みに顔を歪めることさえしない。ただ、口元に微かな、痙攣のような笑みを浮かべただけだ。 生理的な反応としての笑い。恐怖が限界を超えたとき、人は笑うしかなくなることがある。


「気味の悪い……やはり殺しておくべきだったのだ。預言ごときに惑わされずにな」


父王が忌々しげに舌打ちをする。 僕の胸の奥で、冷たく重い塊が熱を持った。 それは正義感などという美しいものではない。プロフェッショナルとしての、純粋な憤りだ。 この世界の人々は、これを「魔王の呪い」と呼ぶ。生まれながらにして心を持たぬ、破壊の化身だと。 だが、僕には分かる。 これは呪いではない。 学習性無力感。 抵抗できない苦痛を与えられ続けた結果、「何をしても無駄だ」という絶望を学習し、逃げる気力さえ奪われた末路。


そう、ここにいるのは魔王ではない。 不適切な養育環境マルトリートメントによって心を砕かれ、再構築されることを待っている「迷子」だ。


僕は一歩、前に進み出た。 前世、研究室に籠もり、何百人もの「問題児」と呼ばれた子供たちとその親に向き合ってきた知識。それが今、この理不尽なファンタジー世界で、どんな高等魔術よりも強力な武器になると確信していた。


「父上」


努めて冷静な声色を作る。喉の奥が緊張で渇いていたが、それを悟らせないように深く息を吸った。


「この『汚点』の処理、私にお任せいただけませんか?」


父王が怪訝そうに眉を寄せる。その目には、三男である僕への侮蔑の色が隠そうともせず浮かんでいた。


「貴様がか? 魔導の才能もなく、剣を持てば震える、あの『出来損ない』のアレクがか?」


「ええ。剣も魔導も使えませんが、猛獣使いの真似事くらいはできるかもしれません」


僕は嘘をついた。 猛獣使いになるつもりはない。 僕がなるのは、この子の「安全基地セキュア・ベース」だ。 子供が外界という未知の世界を冒険し、傷ついたときに戻ってこれる場所。それがあって初めて、人は他者を信頼し、世界を愛することができる。


「……フン。好きにしろ。どうせ長くはない命だ。食い殺されようが知ったことではない」


父王は興味を失ったように背を向けた。マントを翻し、重い足音を響かせて階段を上がっていく。 鉄の扉が、轟音と共に閉ざされた。 鍵がかかる音が、地下牢の静寂を決定的なものにする。


残されたのは、僕と、鎖に繋がれた少年――第二王子レオナルドだけ。 僕はゆっくりと息を吐き出し、乱れた心拍を整える。 そして、彼の方を向いた。


レオナルドは、再び虚空を見つめていた。 まるで、僕など最初から存在していないかのように。 ここからが、僕の戦いだ。 剣も魔法も使わない。 言葉と、態度と、理論だけで、この崩壊しかけた世界を救う。


これは、転生した学者が、たった一人の子供を救い、やがて世界そのものを救済する長い「育児」の物語の始まりだ。

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