第六話
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次の日、なんとなく楽器屋に足が向いた。
店主のおじいさんは、いつものようにカウンターで静かに何かいじってて、私が入ってきたのに気づくと、軽く目を上げてにこっと笑った。
「今日は何を見ていく?」
「……なんとなく、です」
そう言って、店内をふらふら歩いた。
ギター、弦、エフェクター、よくわからないコードの束。
見てるだけで、ちょっとだけ落ち着く。
ガラスケースの中に、前回には無かったエフェクターがあった。
四角くて、緑色。丸っこいつまみが三つ。
TS808、と書いてある。
……その下に、小さな手書きのタグ。
《Weed MOD。音の粘りと輪郭を強化。状態良好》
なんか、妙に目を引いた。
見たことある気がする。どこでかはわからないけど。
この緑、この形、この……“音の粘り”っていう言葉。
一歩だけ、近づいた。
その瞬間。
——“歪みは、押すんじゃない。沈めて、持ち上げるんだよ”
声がした。低くて、でもどこか優しい。
……誰?
思わず周りを見渡したけど、店主はレジ奥で静かに作業をしていた。
声なんて、してない。
「……変なの」
呟いて、ガラスケースから目をそらした。
でも、心の奥にその“声”が微かに残っていた。
そして——なんとなく、また来るような気がしていた。
―――
夜、ベッドに寝転びながら、スマホの画面を何度も見た。
未返信のDM。
「よかったら、一度一緒に音を出してみない?」
指が、何度も返信ボタンの上を行ったり来たりする。
やめとこ。
いや、やっぱり返そう。
でも、やっぱ無理だってば。
でも。
ギターを弾いたときの、あの音。
動画のコメント。
それに、今日見た緑のエフェクターと、浮かんできたあの“声”。
全部が、私の背中を押していた。
自信なんてない。
怖いし、不安だし、逃げ出したい気持ちだってある。
だけど。
このまま何もしなかったら、また何も変わらない。
「……やってみたいです」
打ち込んだ。
送信ボタンに、そっと指を重ねた。
「場所とか、時間とか……教えてもらえたら、行ってみます」
送信。
心臓の音が、ちょっとだけ大きくなった。
それでも、指は震えていなかった。
―――
藤枝 空のスマホが、静かに振動した。
通知は、たったひとつのDM。
「……来た」
画面を開くと、そこには短く、でも真っ直ぐな返事があった。
「やってみたいです。場所とか、時間とか……教えてもらえたら、行ってみます」
それだけの文面。
でも、言葉の裏にあるものが見えた気がした。
——この子は、まだ“今”にいない。
だけど、“今”に来ようとしている。
空はスマホをポケットにしまい、スタジオのロビーにいた歩夢と響のもとへ向かった。
「決まった?」と響。
「うん。一回、仮で合わせたい子がいる」
「例の動画の?」
歩夢が眼鏡を押し上げながら尋ねた。
空は頷いた。
「音が、生きてた。粗かったけど、勢いがあった。指が迷ってなかった」
「動画ってだけで決めるのは、ちょっとギャンブルじゃない?」
歩夢の声は穏やかだけど、警戒もしている。
「わかってる。でも、確かに“鳴ってた”。だから、賭けてみたい」
響が、スティックをぽんぽんと膝に打ちつけながら微笑んだ。
「賛成。新しい音、楽しみ」
「いつ?」
「日曜。ここで15時。リハスタ押さえてある」
空は予約済みのスタジオの確認をしながら、窓の外を見た。
春の光が、どこか遠くから差し込んでくるようだった。
——“あの音”が、本物でありますように。
心の中で、ひとつだけ願いながら。
空は静かに、ギターケースの蓋を閉じた。
―――
【後書き:TS808とWeed MODのこと】
小さな緑の箱に、澪は“誰かの音”を感じた。
それは、ただのエフェクターじゃなくて、感情に触れたときにしか鳴らない音だった。
■ TS808(Tube Screamer)
日本のメーカー「Ibanez」が生んだ、世界的に有名なオーバードライブ。
小さな緑色の筐体。スイッチを踏むと、音がなめらかに歪む。
「歪み」といっても暴力的じゃない。真ん中の音がグッと前に出る感じ。
澪のように、ギターの声を“歌わせる”タイプの人にはぴったり。
■ Weed MODとは?
東京のエフェクターブランド「Weed」が手がける、改造(MOD)モデル。
オリジナルのTS808に手を加えて、より滑らかで透明感のあるサウンドに調整されている。
中域が柔らかくなり、音の輪郭と厚みが絶妙に整う。
現場で使うギタリストたちの間でも、「あのWeedのやつか」と分かる音がある。