第五話
──藤枝 空は、スタジオの天井を見ていた。
リードのいない音は、やけに軽かった。
ドラムのキックが空回りして、ベースだけがむなしく地面を這っている。
その隙間を、ボーカルの声が頼りなく漂っていた。
「やっぱ、あいつ抜けたの痛いな……」
ベースの茂木 歩夢が、アンプの上に腰かけたまま呟く。
柚木 響のスネアが、ふっと静まった。
わかってる。そんなの、とっくにわかってる。
音楽は空白を作れる。
でも、空白を音に変えるのは簡単じゃない。
「ギター、どうする?」
響が、スティックをくるくる回しながら言った。
「一応、募集かけてもいいけど……」
「いや」
空は首を振った。
「ちょっと心当たりがあってさ」
スマホを取り出し、再生履歴からあの動画を開く。
Scuttle Buttin'。
荒削りなイントロ。
焦げ跡のあるヘッド。
「I play because I breathe.(呼吸するように、私は鳴らす)」のステッカー。
間違いなかった。
あのギター。
あの手。
音はまだ粗い。けど、ちゃんと“鳴ってる”。
あれはまぐれじゃない。——覚悟の音だった。
空は、動画の投稿者ページをもう一度開く。
ユーザー名はアルファベットと数字の組み合わせ。
プロフィールも何も書かれていない。
でも、いい。
この音が鳴るってことは、生きてるってことだ。
DMボタンを押す。
「突然ごめん。君のギター、すごく印象に残った。
よかったら、一度一緒に音を出してみない?」
送信。
それだけ。
彼女が返してくる言葉は、音であってほしいと思った。
空はスマホを伏せ、少しだけ口元をゆるめた。
―――
DMが届いていた。
「突然ごめん。君のギター、すごく印象に残った。 よかったら、一度一緒に音を出してみない?」
……は?
スマホの画面を二度見した。 いや、三度。
なんで……なんで、私?
演奏下手だし、録音も雑だったし、名前すら出してないのに。
でも。
「君のギター、すごく印象に残った」
この一文が、心のどこかをぎゅっと掴んできた。
……ほんとに、あれを聴いて、そう思ったの?
画面をスクロールしても、そこに名前はない。 顔写真もない。ただ、まっすぐな言葉だけが残ってる。
うれしい、かも。
でも……怖い。
私なんかが、一緒に? バンドって、ライブとか、人前で弾くってことじゃん。
無理だよ。 そんなの、できっこない。
思わずスマホを伏せて、布団に潜り込んだ。
だけど。
頭の奥で、何かが言った。
──「弾け。音を出せ。言葉なんかいらねえだろ」
……誰。
一瞬、そんな声が、自分の中から聞こえた気がした。
違う。私は、そんなふうに思ってない。 怖いし、不安だし……
でも、その“声”は消えずに、微かに残っていた。
俺は、俺のために弾いてた。 俺が楽しいから、みんなついてきただけだ。
……誰の記憶? 誰の想い?
わからない。 でも、
指先が、ピクッと動いた。
ギターに、触れたくなってしまった。
指先が動くまま、ギターのネックを握る。 自然にコードが押さえられていた。
ジャラ……ン。
ひとつのコード。 たったそれだけの音。 なのに、心がぞわっと震えた。
——あれ、この音……知ってる。
鳴らしたのは自分なのに、どこか遠くから聴こえてきたような感覚。
続けて指が動く。 コードが、メロディに変わっていく。 それは、ある曲だった。
でも、曲名が出てこない。
知ってるはずなのに。 覚えてるはずなのに。
誰かと一緒に演奏したことがある。 誰かが、このフレーズを弾いてくれて、私が横でリズムを取ってて。
誰かの声が重なって、誰かが笑って、誰かがピックを落として……
でも。
その「誰か」の顔が、どうしても思い出せなかった。
……前世、だったりして。
ふざけて笑ったけど、ギターはそれに答えるように、小さく共鳴した。
ふわりと、部屋の空気が揺れた。
音が、記憶の奥に触れた気がした。
登場人物
茂木 歩夢Ba.
・言葉を慎重に選ぶタイプ。音楽理論に詳しく、リズムの中に“秩序”を見出す人。
・澪のことを最も客観的に見ているが、内心では何かを見抜いているような視線を時折見せる。
・メンバーの中でいちばん地に足がついている存在。
・音の“隙間”を大事にするタイプのベーシスト。
柚木 響Dr.
・感覚で音を捉えるドラマー。リズムというより“体の揺れ”で演奏しているタイプ。
・無理に踏み込まず、でも澪といちばん自然に会話ができる人物。
・鳴らす音は力強くてしなやか。ドラムの音が“呼吸”のように感じられる。
・名前のとおり、響きあうことにとても素直な子。
【ドラムの“心臓と声”――スネアとキック】
ギターが“言葉”だとしたら、ドラムは“心拍”だ。
その中でも、スネアとキックは、一歩一歩、呼吸を刻むような音。
■ スネア(Snare Drum)
ドラムの「パーン!」っていう抜けるような音。
曲のリズムを“区切る”役目。呼吸や会話の「間」みたいなもの。
演奏者の“手”の表情がそのまま出る。鋭くも優しくも叩ける。
バンドが走り出すとき、スネアは「行け」って背中を押してくれる音。
■ キック(バスドラム)
ドラムの「ドン」っていう低くて大きな音。
足で踏むやつ。リズムの“心臓”みたいな存在。
地面から響いてきて、体の奥を揺らす感じ。
キックが鳴ると、足元から「歩け」って言われてる気がする。