ブラックコーヒー
僕にとって大人の象徴とは、父が好んで飲んでいたブラックコーヒーだった。
遠い昔……。まだ僕が小学校に入学する前、テーブルに置いてあった父のコーヒーをこっそりと飲んだことがある。毎朝父が美味しそうに飲むものだから、とても甘くておいしいものだと思っていたのだ。父の「これは苦い飲み物だよ」という忠告すら、僕にコーヒーを取られたくないがための嘘ではないかと疑っていたくらいに。
残念なことに、期待に満ち溢れて口に含んだその液体はとてつもなく苦かった。
あまりの苦さに吐き出しそうになったことを今でも覚えている。そのとき僕は、大人だからこれが飲めるものだと思った。
そこから、ブラックコーヒーが飲めること、イコール、大人ということになったのだ。
*
たいしてめでたくもない三十路を迎えた僕は、一日三本ブラックの缶コーヒーを飲むのが日課となっていた。朝起きて一本、仕事中に一本、残業中に一本。朝七時出社で二十三時帰宅を繰り返す僕に、ブラックコーヒーは欠かせないものとなっていた。
あの液体は社会人の敵ともいえる睡魔を一時的とはいえ遠ざけてくれるのだ。カフェインが体に沁みわたり、思考がすっきりと冴えるあの感覚はもはや中毒ともいえる。
そんなカフェイン中毒の僕は、本日三本目のブラックコーヒーを手にしていた。
「西田さん」
「っ、……っ。な、なに?」
コーヒーを口に含んだ瞬間話しかけられ、思わずむせてしまった。
ゲホゲホとせき込みながら声のした方を振り向くと、今月からこの部署に異動してきた新人が思いつめた表情でたたずんでいた。
まさかトラブルでも発生したのかと、心臓がドクドクといやな音を立て、手先がひんやりとしだす。
「どうした山内」
「おれ、もうこの会社辞めようと思うンス」
「はあっ!?」
それはある意味トラブルだった。
先方からの急な依頼により、デスマーチと化したこの状況でなにを言い出すんだこいつは。
そう思うも、ふと冷静になれば辞めると言い出しても仕方がない環境だった。
「西田さん、もう四日間家に帰ってないっスよね?薄給で激務で労働基準法も守ってるかすら怪しい会社、おれはもう無理ッス」
「いや、気持ちはわかるが……」
「もう無理ッス。マニュアルすら用意されてない、先方に振り回されまくりのスケジュールでスケジュールが意味をなしてない、社畜まっしぐらなのはもう我慢できないンスよ」
「そ、そうか」
山内は黙々と仕事をこなすタイプだったため、こんなに熱く語られるとは思ってもみなかった。
実はこんなにも不満を抱えていたんだなと思うと同時に、語尾に「ッス」と付ける言葉遣いは社会人として直してもらわないといけないなと考える。
僕自身の思考回路が現実逃避をしだした。しかし山内は何も言えないできる僕に次々と言葉を吐き出していく。
「最近退職代行サービスとかあるじゃないですか。おれ、あのサービス頼もうと思って。だから今日が最後ッス。ほんと、くそみたいな職場でしたけど、山内さんにはお世話になったんでどうしても挨拶したくて」
「えっ、は?いま今日までって言った!?」
「はい、今日までッス。おれ、こんな社畜になりたかったわけじゃないンス。もっと、子どもの頃に思い描いてた、かっこいい大人になりたいンスよ……。西田さん、世話になりました」
山内はそう言うと、頭を軽く下げてオフィスから飛び出していった。
捕まってたまるかと言わんばかりにガチな走りだった。颯爽と駆け抜ける、ではなく弾丸のように勢いよくオフィスから出て行った。
会社に泊まり込みはや数日。同じプロジェクトのメンバーはクマを作っているだけですめば優しい方。激務にフラフラし、体調を崩しながら仕事をしている人も少なくはない。
そんななか、一人抜けた?抜けたというか逃げた?
これからどうすればいいんだと、混乱した頭で山内の抱えていたタスクを洗い出す。洗い出そうとして、頭が全く回らないことに気が付いた。
山内が消え去った方を見ながら、僕はまだコーヒーを飲み切っていないことに気がついた。
そうだ、思考を冴えさせてくれる素晴らしい飲み物が僕にはあるじゃないか。一度飲んで冷静になろう。
そうだ、それがいい。机の上に置きっぱなしになっているコーヒーを、ぐいっと一気に煽る。
ぷはあ、とビールでも飲んだかのような音を吐き出して僕は叫んだ。
「嘘だろ!!!」
冷静になんてならなかった。
*
消え去った山内のあとを追わなければ、それよりも彼の仕事をどうするか、いや、そんなことをしている暇はない。自分の前に積み重なったこの仕事をなんとかして消化しなければ。でも。
「どうすればいいんだよおい……」
オフィスには僕しか残っていなかった。そりゃそうだ。もうとっくに終電はなくなっている。僕以外のメンバーは仮眠室で死んだように寝ているだろう。
山内の後を追うにも、もう彼が出て行って十分以上は経っている。とうにタクシーに乗るなり気合いで歩くなりして家への帰路についているだろう。
カフェインが効いてきたのか(あるいはプラセボ効果で効いたような気がするのか)、さきほどより混乱が収まったように感じる。
僕は深呼吸をして、とりあえずPCに向かった。上司へ山内が飛び出したことを連絡しなければならない。
社内チャットを立ち上げ文章を打つ。しかし社会人経験八年目にして初めてのことで、どう打てばいいのかわからず途方に暮れてしまった。
「山内……」
おとなしい青年だった。けれど仕事は投げ出さず、わからないことはすぐ質問してくれ、意欲的な青年だった。
そんな彼が仕事を投げ出すとは未だに信じられず、溜息が口から漏れる。
「社畜か……」
勤めている先が、いわゆるブラック企業に該当するものだと認識して入る。
しかし、転職する時間も作れず、薄給で貯金もままならない僕には仕事を辞める勇気はでなかった。新人の頃は山内のように辞めたいと何度思ったことだろう。この頃は麻痺したのか、そんなことを思わなくなっていった。
「ブラックね……」
机に置かれた空の缶コーヒー。
脳裏に、山内が言った「子どもの頃に思い描いてた、かっこいい大人になりたい」というセリフが蘇った。
僕がかつて子供だったころ、ブラックコーヒーは大人の象徴だった。当時の大人といえば両親で、両親は楽しそうに仕事をする人だった。
ブラックコーヒーを飲めるようになった僕は、そんな大人とはかけ離れた存在になっている。
楽しそうに仕事をすることもなく、おいしくブラックコーヒーを飲むこともない。この飲み物は苦行を乗り越えるためのドーピング剤のようになってしまっている。
「僕も、こんな大人になりたかったわけじゃない……」
友達と遊ぶことも少なく、ただひたすら家と会社を往復するだけの日々。
山内の言葉が、強く頭に残った。
自然と手が動く。上司に山内が消えた旨を書き、最後にこう付け加えた。
『大変急なお話ではなりますが、このプロジェクト終了後、わたくしも退職いたします』
法的には退職する最低二週間前に伝えればそれでOKのはずだ。プロジェクト終了まで一ヶ月くらいなのでなんとかなるだろう。もし無理なら、山内も利用したという退職代行サービスなるものを利用してもいいかもしれない。
子どものころ、思い描いた大人になりたい。そうだよな、山内。逃げたとか言ってごめん。こんなブラックな会社にいたからか、僕の思考も鈍っていたようだ。
僕は朝、ブラックコーヒーを楽しんで飲む時間が欲しい。仕事に常に追われているのではなく余裕を持ちたい。人生を楽しみたい。
ブラックコーヒーをはそれの象徴だったはずだった。仕事を乗り切るための薬のような存在ではなく。
仕事は山積みなのに、送信ボタンを押した僕の気持ちは晴れやかだった。