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今日が誕生日の男の子

作者: うしとらよう

今日が誕生日の男の子              うしとらよう

 数百年に一度の、素晴らしい日がやってまいりました

 暖かくて、心地よくて、楽しくて

 救世主は

 天から我らを見下ろしているのです

 見守ってくださっているのです




 ひとつ。

 ひとつ。

 またひとつ。

 梯子に足をかける。

 視界を遮る大雪で上はほとんど見えていないが、かすかな手元の感覚だけを頼りに手を伸ばす。分厚い手袋をはめてはいるが、もうすでに手先の感覚は無い。

「おぉい! ソル! ちゃんとついてきているか!?」

 目下に広がる無限のホワイトに向かって叫ぶ。どこかに、あいつがいるはずだから。

 本当は下を見ている余裕はない。声を張り上げる余裕も。だが、気にかけずにはいられなかった。あいつはいつもどこかに行ってしまいそうな危なっかしさがあったから。

 凍てつく風は何枚にも重ねた防寒着の隙間を縫ってルナの肌を切り裂く。全身に抜き身の刃物を当てられているようだ。

 冷たい。寒い。痛い。

 それでもルナは半狂乱になって声を上げ続けた。

「おい! へんじ、しろぉ! おぉい!」

 震える唇をなんとか動かして声に出すが、途切れ途切れにしか音にならない。

「……ル…………ここ……い……」

 暫くしてやっとソルのものらしき声が帰ってきた。強風と、耳に叩きつけてくる雪の音のせいでほとんど聞き取れなかったが、確かにソルの声だ。まだソルは生きている。だが、この声の遠さからして自分から何メートルか離れてしまっている可能性が高いとルナは考えた。もしかしたら、ソルは今にも梯子から手を離してしまうかもしれない。そして、この鉄塔から真っ逆さま。考えたくもないのに脳裏に最悪の状況がチラついてしょうがない。

 やはり力が強いことだけが取り柄のソルに『パリスの弓矢』の役をやらせるのには無理があったか。

 しかし今は自分のやることに集中すべきだ。ソルのことを考えている場合ではないことは、ルナも十分わかっていた。

 上を見ろ。吹雪でほとんど見えてはいないが、確かに梯子が続いている。ルナの頭に道がまだ途切れていない喜びとこの苦行がまだ続くという絶望が訪れた。だがすぐに気を持ち直し、また体を動かす。

 進め。何がなんでも。

 登れ。世界のために。

 この鉄塔の頂に全てがあるはずだから。


 乾いた銃声が一発、夜の雪原に鳴り響いた。

 手応えあり。ルナは獲物が体の一部を負傷したことを確信し、前進した。おそらく目標は息も絶え絶えで死に体。今は『詰める』時だ。

 ズボリ、ズボリと雪に埋まった足を動かす。猛吹雪で視界不良の中でも、ルナの動きはハンターとして洗練されていた。その一挙手一投足が生物としての気配を全く感じさせないほどに。

 まだ急ぐべきじゃないと自分に言い聞かせ、ルナは落ち着こうとして深く息を吸う。吐き出すと息が白く霧散し、闇夜に消えた。体を覆う冷気は悪辣を極めたが、ルナの意志はこの程度じゃ阻喪しない。

 程なくして降り注ぐ雪の隙間から赤い液体が散らばっている箇所が見えた。やはり先ほどの弾丸は獲物の体に深く食い込んだようだ。

近くにいるはず。重傷を負ったのなら、遠くに逃げてはないだろう。

ルナはじっくりと耳を澄ました。聞こえるはず。獲物の吐息が。荒く、途切れ途切れのうめき声が。

 いつもなら吹き荒ぶ風の音と叩きつける雪の音以外聞こえないが、相手に傷を与えたのならこっちのものだ。大自然の発する無限の雑音を、鋭く、正確に聞き分ける。

 ……聞こえた。

 ゼエゼエとした、いかにも死にかけの声。

 こうなったらもうこっちのものだ。後はもう聞こえてくる声を頼りに進めばいいだけ。ルナはゆっくりと足を進めた。

どんどん強くなる血の香り。ルナはすでに獲物の命に王手をかけたと言ってもいい。

「クソ……殺して……やる……全員…………ゴボッ……う……」

 今回の獲物はなかなかタフなようだ。こんなに出血しているというのにまだ喋る元気があるらしい。獲物は雪の上でうずくまりながらもまだ息をしている。

 ここで一旦ルナは考える。こいつは一体何者なのか。自分たちの領地に侵入してくる輩など今まで数多くいた。この間も自分たちが所属する教団の倉庫に食糧をくすねようとしたやつが居たくらいだ。珍しいことではない。だがこいつが『どこ出身か』で話は変わってくる。ただの野良犬だと良いのだが……

 問い詰めてみるか。素直に吐いてくれれば良いのだが。

「おい。おっさん。どこに所属している」

 できるだけ簡潔に、こちらの情報を与えないように質問した。

「常民……め……誰が吐くか……」

 なるほど意志は堅いようだ。だが死に掛けても尚消えない殺意。そして『常民』という語彙。そこからでもこいつの出身はどこか推測できるかもしれない。

「お前ら教団の連中も全員鏖殺だ……『黄金の林檎』を……」

 『黄金の林檎』? 何だそれ。出血のしすぎで意識が混濁しているのか? 言っていることの訳がわからない。いや、それ以上にこいつの正体がわからない。最初は要注意敵対勢力のうちの一つかとあてをつけていたが、頭に浮かぶのは『該当なし』の四文字。やはりただ俺たちの教団の備蓄をあさりに来た野良犬か? いや、ここは食糧庫や武器庫のある一角から遠く離れている何もない雪原だ。食糧の奪取に来たとは考えにくい。やはりどこかの組織からの偵察か? だがこいつがどこに所属しているのかが想像がつかない。

 ここは司祭の意見を仰ぐか……

 ルナはそう考え、雪の上に転がる男の腕を掴んだ。こいつを司祭の前に引っ張り出して洗いざらい吐かせるか。ここから司祭のいる教会まで運ぶには一苦労しそうで億劫だが、こいつは何か重大なことが起こる前触れかもしれない。念には念を、だ。

 ルナは男を背負おうとした。が、自分の腕に伝わる違和感。

 重い。

 何だこいつ。いくら何でも重すぎる。この男も寒さに耐えるために防寒着を重ね着しているためかなり丸々としたシルエットだが、顔やフードの隙間から見える首筋に肉は乗っていないことがわかる。太っているわけではない。何か銃火器を装備しているのか? だがそれでもなおこの重さは異常だ。ルナはあまり力が強い方じゃない。故に、自分にこの男を運搬する能力はないことだけは理解した。

 ルナの頭にさらなる混乱と好奇心が渦巻く。目の前のこの男は何だ? どこから来た? 何者だ? そもそも人間なのか?

 ルナは焦った。どうやって運んだものか。早くしないとこの男は失血で死ぬ。そうなれば尋問もできない。今はまだうめき声を上げているが、いつその声が聞こえなくなるのかもわからない。このだだっ広い『無』の雪原の中で誰を頼ればいい? 誰を……頼れば……

 物は試しだ。ルナはそう思い、手袋を脱ぎ、指を口に咥える。

 思い切り息を吹き込むと、ピィイーと、心地よい音が鳴った。この音が誰かに届けばと願う。そうすれば協力してこの異常な男を運べるかもしれない。か細い願い、だが。

 だが待てども待てども応援の信号は来ない。仕方ない。プランを変えるべきだと判断し、この男にもう一度尋問を開始する。今、ここで。

「おい、あんたもここで野犬の餌にはなりたくねえだろ? どこの所属だ。吐け。」

 頭の中で様々な要注意敵対勢力の当たりをつける。ありがちな線だったら今教団と事を構えている『WFPA』か? それとも過激派の『焔と十字』? 最近出てきた『穢多汚辱』の線もありうるな……

 思索をめぐらせながらルナは乱暴に男を蹴り飛ばす。男は苦しそうな声をあげてえずいたが、有益な情報は吐こうとしない。

「待っててくれ……ヘレネー……」

 それどころかまた訳のわからない言葉まで羅列し始めた。

 だめだこいつ。完全に失血で頭がおかしくなっている。これじゃあ仮に司祭に引き渡せたとしても重要な情報は聞き出せそうにないな。この男には悪いがどうせここで死ぬんだ。身包み剥いでもらえるものだけもらって帰ろう。後で上には「野良犬を一匹排除しました」と報告すれば良いだけだ。

 そう思い男の服を脱がせようとした瞬間、遠くから雪を踏む音が聞こえた。

 考えるよりも早く、ルナは静かに、そして流れるように臨戦体制をとった。使い古した水平二連銃を取り、引き金に指をかける。もしこいつを助けにきた仲間なら、早急に射殺するべきだと考えたのだ。

 一歩、また一歩行きを踏む音は大きくなる。吹雪で前はよく見えないが、今ルナたちはお互いが思っているより近づいている。

 ご対面だ。

 目標のシルエットが見えた。ルナの眉間に自然と皺がよる。

「あれ? ルナだ。どうしたのこんなところで。随分と任務の範囲から逸れた場所にいるけど」

 気の抜けた声と共に雪の幕の間から見慣れた顔が飛び出す。

「……ソル。近づくときは何か合図しろって言っているだろ。もう少しで撃ち殺すところだったんだぞ。」

 足音の主はどうやら俺たちの同胞だったようだ。ソルは屈託のない口調でルナに話しかける。

「ルナの口笛が聞こえたんだ。方向からしてルナの音だってわかっていたからね。」

 何とか同士討ちは免れることはできたが、危なかったな……もうこれ友人は失うのは御免だ。

 この世界で死ぬことは何も珍しくはない。だが、利口なルナですら十四年間生きていてもいまだにこの世界の死生観には混ざりきっていなかった。身近な死にまだ慣れていなかったのだ。

「あ、そうだルナ。今回の哨戒任務終わったらこの間盗んだ鹿肉の燻製食べるんだ。料理長に内緒でさ。羨ましいでしょーって……どうしたのこの男。どっかの組織からの偵察?」

 ソルは寒い中でも屈託のない顔でルナに話しかける。いつもの棒にも箸にもかからないくだらない話をしようとしたらしいが、ルナの足元に転がっている獲物に気がついたようだ。

「だと……思うが」

「だと思うって何だよルナぁ。随分とあやふやだな」

「分からねえんだよ。こいつ。どこ所属なのかが」

 その言葉を聞いてソルは訝しめいた顔をする。

「頭が良くて尋問上手なルナがわからない? 随分と面妖だね。浮浪者という線は?」

「無い」

「じゃあ拠点に連れて帰ろうよ」

「それがなかなか難しくてな。そいつの腕、引っ張ってみろ」

 そうルナが言うとソルは不思議そうに男の腕を握る。

「うわっ重い! 何これぇ!」

「だろ。この男は間違いなく『異常』だ。こいつは司祭に突き出す。力の強いソルが来てくれて助かったよ。じゃ、持って帰るぞ」

「ええ〜持って帰るのぉ〜やだよこんな重いのぉ。っていうかこのために僕を呼んだなぁ!」

「わがまま言うな。大事な情報を持っているかもしれないんだ」

 この男は間違いなく俺たち教団にとって重要な情報を持っている。それが良かれ悪かれ、聞き出した方がいい。

 だがソルはぐずぐず言ってルナに協力しようとしない。めんどくさい奴だとため息をつきながらルナは諭す。

 しばらくしてからやっとソルは男の腕を持ち、帰る意思を見せた。ルナは男の脚を持ち、引きずるようにして持って帰ろうとした。

 幸運にもすでに吹雪は止んでいたため、司祭のいる教団の拠点は見えていた。しかし、月夜に明かりがかすかに見えるというだけで、歩けど歩けど一向に建物に到着する気配がない。ふとソルの方を見ると、あからさまにくたびれた顔をしていた。

「うえぇ……重いぃ〜何が詰まってるのこの男〜ねぇルナ〜ほんとにいい情報を持ってるんだよね〜こいつ〜」

「おそらくな」

「何だよおそらくって〜もうやだ〜」

 吹雪は止んだとはいえまだまだ冷える。一応ソルが寒がっていないかと心配したが杞憂だったようだ。ここまで無駄口が叩ける奴も珍しい。

「遠いな。結構時間かかりそうだ。祭場に到着するまでにこの男も死にそうだな」

「ええ〜! 死んじゃったらほんとに骨折り損じゃんかぁ! やっぱりこいつここに置いていこうよぉ」

 ソルはグダグダ言いながらも足は止めない。おそらく喚いても仕方がないことを心のどこかで悟っていたのだろう。なんだかんだわかりやすいやつだ。

 ルナたちが運ぶ途中でも男はうめき声を上げていた。ただその言葉に力はなく、「annihilate(滅亡を)」と呟くだけだった。

 しかし、本当に重いな……ルナは一種の疲労感を持ちながら考えた。脚しか持っていないのに手から伝わってくるこの感覚、まるで鋳鉄だ。いつもの哨戒任務の帰路なのにこいつのせいで無限に長く感じる。雪に足がとられて全く足が進まないのも関わっているだろう。今期の雪も一段と深い。まだまだ寒い思いをする日は続くだろう。

 もう百年だか二百年だか覚えていないが、この世界は突然大雪に包まれた。頭のいい学者さん方は猟のしすぎで鹿たちを絶滅寸前まで追い込んだ罰だとか、神の怒りだとか、空を覆う天幕に穴が空いたとか、多種多様で多角的な意見が出された。だが、今に至るまで明確な結論は出ていない。ルナも幼少期に自分の村で昔の神に関する学問を独学していたが、教団からの徴兵によって学問から切り離され、自分なりの結論を下せないままでいた。

「あ。ルナ! そろそろ僕達の寄宿舎に近づいてきたよ! やっとこの重いのを床に置ける〜」

「いつもの『鉄塔』も暗がりから見えてきたな。この男が死ぬ前に急いで行くぞ」

 そうしてルナは気だるげなソルに発破をかける。教団のシンボルであるあの鉄塔さえ見えたらもう安心していいだろう。ルナの薄い色の金髪の上にはすでに雪が積もり白くなっていたが、もうすぐで休める。さっさとこの男を突き出して、温かいスープを飲んで、寄宿舎の布団にくるまって寝よう。

 そう考えた瞬間、ルナの背中に冷たいものが走った。

 ——俺は今何を思って生きている?——

 この世界は、もう死んだも同然だ。毎日のように空を覆う大雪も、それに伴い大きく減少した人口も、それにかこつけて啓蒙を説いた教団も。何もかもが、退廃的で、救いようがない。そんな世界で存在しないはずの『神』に青春の大半を捧げて生きているような俺はもっと救いようがない。そんな奴が、なぜ当たり前のようにパンを齧って友人と話せるんだ?

 もはや俺は死んだも同然なのでは?

 そんな鬱屈とした考えがルナの頭を巡る。頭を激しく揺らしてこの思索を振り払おうとした。少し重いものを持って疲れたのだろうと考えた。考えようとした。

 違う。

 死んだのは神の方だ。

 見捨てられたのは、俺たちの方だ。

……こんなこと教団の中で声に出して言ったら厳重懲罰じゃ済まないだろうな。だが心の中で思っていても、表面では敬虔な信徒でいるしかない。生きるためには、仕方がないのだ。

「おぉいルナ! 拠点に着いたよ! 早く入ろう!」

 ソルの声ではっと我に帰る。そうか、もう拠点に着いたか。ルナは大きく息を吸い込んで声を上げた。

「おい! 門番兵! 聞こえているか!? 哨戒隊零七班だ! 門を開けろ!」

 ルナが大声を上げても、一向に門は開かない。

「教団の拠点は高い塀で囲まれているからね。その上門の上に門番兵は待機しているから、扉を開けてもらおうとしても声を張り上げないといけないんだよなぁ」

 まったく不便な門だ。それに待機している門番兵も全く使い物にならない。

「早く開けないとこの間上の食糧庫から燻製肉くすねたの司祭にバラしちゃうよ!」

 ……ソルも鹿肉パクったくせに、猛々しいというか……しかしソルがそう言うと、半ば焦ったように門が開いた。上の展望台から慌てて兵が顔を出し、口に指を当てた。どうやらソルの脅しが効いたようだ。

 門をくぐると、ルナたちは煌びやかな電飾の灯りに包まれた。その光はまるでこの世界を暖かく包んでいるようで、非情な現実を照らすサーチライトになっていた。今の今まで人間の生き死にに立ち会っていたルナにとって、その光は少し眩しく感じられた。

 門をくぐったばかりの場所は、教団員の居住区兼交流の場になっていて、様々な人間がいる。だが大抵は使いっ走りの兵士が大半を占めている。上のお偉いさんたちはもっと温かいところでぬくぬくとコーヒーを啜っているのだ。ルナはそんな当たり前で不条理な格差にどこか不満を抱えていたが、それと同時に清濁を併せ飲む器用さも持ち合わせていた。いつかは自分も偉くなって豪勢な料理を好きなだけ貪ってやればいいだけだと決心していた。その願いが成就する目処は……立っていなかったが。

 ルナとソルは男を抱えながら拠点に入った。幸いこの男の外見に異常はなかったため、横目で見られるだけで特別騒ぎ立てられることはなかった。おかげでスムーズに司祭のいる祭場に行けるわけだが、この男の生き死にに、興味本位で眼差しを向ける周りの兵士たちにルナは心のどこかである種の胸糞悪さを感じていた。やはり自分はこの世界に染まりきっていない。それもルナ自身自覚していた。

 二人は祭場に入った。見渡してみるといつもは信者で溢れかえっている祭場は伽藍堂で、奥の階段の上には二人の男がいた。いかにも人柄の良さそうな、神々しい衣装を纏った老爺と、凛々しい顔つきの、重装備と煌びやかな紋章を携えた身長の高い若い青年がいた。

 ルナとソルは持っていた男の体を下に置き、素早く二人の男に向かって手を組んだ。この教団内での敬礼の姿勢である。

 そんな二人の恭しい態度を意にも返さぬように、二人の男はルナとソルに話しかける。

「哨戒任務大変ご苦労じゃった。零七班と二八班じゃな? 二人とも。ちと早い帰りな気もするがの」

 老爺は砕けた調子で二人を迎える。その様は優しそうなのに、どこか隙がない。そのためルナは教団の最高権力者である彼の前でも警戒を解こうとしたことはなかった。ソルは持ち前の人懐っこさで上の人間だろうと構わず懐に潜り込んでいくが。

「ゼフ司祭。テンマ兵士長。ただいま戻りました。零七班のルナと二八班のソルです」

 ルナがそう言うと、青年が祭壇から降りてきて、仰々しい態度で言った。

「お前らか。よく帰ってきた。ちょうどお前らについてゼフ司祭と話し合っていたところだ。任務はつつがなくこなせたか? 最近はWFPAの連中もなりふり構わなくなってきているからな。こっちもかなり死傷者が出てきている。無事で何よりだ」

「ご心配かけて申し訳ありません。テンマ兵士長。ですが今回もまだ私は死ぬ時期ではなかったようです。この通り傷ひとつありませんよ」

 ルナも軽口を交えて挨拶をする。

「ほっほっほ。お主らはまだ若い。後進に死なれたら上も困るからの。死ぬならわしのような老いぼれで十分よ」

 ゼフ司祭も同じく軽口で返す。笑っていいのか、駄目なのかわからないラインをついてくる冗談だ。

 ゼフ司祭はもちろん、テンマ兵士長もこの教団ではかなり融通を効かせられる。そういうランクの人間だ。重要な書類仕事や人事運営は当然この人たちがやっている。この世界ではどこの組織も人材不足だ。この人たちはそう易々と代えのきく人材じゃない。冗談を真面目に受け取るわけじゃないが、今この人たちに死なれるのは困る。

「しかし、哨戒任務の後はすぐに寄宿舎か食堂に行くはずじゃが、何用でここにきたのじゃ? あまり世間話ができるような時間はないことは重々承知じゃろう」

 本題だ。

「ええ、もちろん雑談に花を咲かせにきたわけではありません。今回は」

「あー! そうなんですよ! 司祭も兵士長も聞いてくださいよぉ! なんかルナのやつがこの変な男持って帰ろうとか言い出して! 雪の中歩くの大変だったんですよもう!」

 ルナが話し出そうとすると、急に後ろで黙っていたソルが割り込んできた。

「外寒いっていうのにこんな男運ばされて! ほんとひどい目に……むぐぅ!」

「いちいちうるさいところも変わらんなソル。司祭の前だぞ。簡潔に説明しろ」

 ソルは臆面もなくギャアギャアと騒いでいたが、テンマ兵士長に無理矢理口を抑えられた。こいつは恐れ知らずというか……無鉄砲なところがある黄口児だが……その度に上の人間から注意されているからいい加減学んでほしい。

「我々教団の領域内に不審人物を発見し、直ちに無力化いたしました。その男がこれまでの侵入者とは常軌を逸していたため、司祭殿と兵士長殿に意見を仰ぎにきました。必要とあらば止血の手当てをして尋問の準備を整えたく存じます」

 少しうるさいやつが入ってきて前後したが、ルナはできるだけわかりやすく来訪の理由を説明した。

「ほう……お前らがわざわざ運んできたんだ。当然なんらかの情報は持っていると見て間違い無いんだな?」

 テンマ兵士長はルナに顔を近づけて半ば脅すかのように言う。それにルナは表情を変えずに応対する。

「おそらく、の範疇ではあります」

 その答えにテンマ兵士長の顔が曇る。

「おそらく……か。あまり重要な情報は期待できそうにないな。こちらも敵対勢力の対応に苦労しているというのに、お前の言う情報ってやつが糞の役にも立たないあくたもくただったら当分嫌味言ってやるからな」

 テンマ兵士長は皮肉ぶった口調で喋る。まあこの人の毒舌は今に始まった事ではないのでルナも気にしてはいない。

「まあ、我々教団の要注意敵対勢力に対する戦力的立ち位置は今ひとつ。このまま要注意敵対勢力と睨み合いを続けてもジリ貧です。ここは泥を攫っていてでも情報を集めるべきかと」

 ルナもテンマ兵士長に負けじと対応する。ここで言い返せるようじゃないと後々舐められるからだ。ルナが教団で学んだ処世術というやつだ。するとテンマ兵士長はふん、と鼻を鳴らす。

「ではいい情報が出てくる目処は立っているんだよな? ルナ、お前は目ざとく小賢しい。この男を運んでいる途中で何かわかったんじゃないか?」

「強いていうなら『分からないことが分かった』と言ったところでしょうか。意識が混濁していたのでしょう。ろくに情報を喋らないままでした」

そう言うと、テンマ兵士長の顔がまた一層険しくなる。その顔は野生の獣のようで、ルナは心臓に針を刺されるような感覚を覚えた。

「貴様……随分と任務先で暇を持て余していたようだな。こっちはやりたくもない書類仕事でくたくただというのに、碌でもない仕事を回しやがって。こんな男持ってくるほど暇ならWFPA領域の最前線に送り込んでやろうか。あそこなら当分は暇しねえぞ」

 やはり兵士長にお願いするにはそれなりの理由と根拠を用意すべきだったか。ルナは心の中でため息をついた。テンマ兵士長は要注意敵対勢力との紛争で数々の戦果をあげている。この間、人類鏖殺主義者の『焔と十字』が教団の領域に押し寄せてきたときは一人で敵将の首を持って帰ってきたという話だ。いつもは基本的に徴兵されたばかりの幼い兵士たちに指導をしている、教団でもかなりの実力者だ。だが、そんな人間が部下の下らないお願いなんかに付き合ってくれるわけもなかったか。

「そう凄まんでもいいじゃろテンマ。よかろう。そこまで言うんじゃったらその床にいる男は手厚く手当てした後に尋問にかけるようにする。それでいいじゃろう?」

 ゼフ司祭のおかげでなんとか最前線送りは免れた。司祭が手を叩くと、後ろから男が数人出てきて、床の男を持って行った。大人数で持とうとしてもやはり重いらしく、持ち上げるのに少々苦労していた。

 なんとか要望は通ったようだ。これで今日の任務は終わりだ。司祭に感謝の意を伝え、もう一度敬礼する。明日には大体の情報が出るだろう。

「それではお忙しいところ失礼しました。ソル、帰るぞ」

「んえ? ああ、うん」

 ソルは気の抜けた声で返事をする。帰る用意を始めると、司祭が声をかけてきた。

「待ちなさい」

 その司祭の声は今までとは打って変わって冷たく、鋭いものだった。ルナは思わず背筋を伸ばす。

「先ほどお前たちの話をしていたと言っておったじゃろう。その話を今話しておこうと思っての」

 司祭から直接俺たちのような兵に話? ルナは少しだけ警戒し話の続きを待った。そしてゼフ司祭はここからは聞いてはならぬとばかりにテンマ兵士長を退出するように促す。その合図を見て、テンマ兵士長は敬礼をし、祭場から出て行ってしまった。

 そして改めて、ゼフ司祭は話を続ける。

「実は、今度行われる『羅針盤の祭典』の実行者二名がお主らに決まったのじゃ」

 ルナは驚駭した。脊髄に電流が走った感覚を覚えた。

「お前たちも名前ぐらいなら聞いていただろう。我々教団が数百年に一度に開催する祭典じゃ。内容は実行者にしか明かされない決まりになっておるからの。今まで黙っていたが、時期が近くなった。もう説明してもいいじゃろう」

 待ってくれ、とルナは心の中で呟くことしかできず、司祭が話していることに全然集中できていなかった。だってその祭典は——

「ええー! あの羅針盤の祭典に!? やったよルナ! 今日はご馳走を食べよう!」

 ソルが嬉々とした表情でルナに語りかける。その様はまさにご褒美を与えられた子供のようで、大げさにはしゃぎ回っていた。ソルは無邪気なようで、どこか大人びたやつだと思っていたが、ここまでわかりやすく喜ぶところは見たことがない。こいつってこんな顔をするんだ。と、ルナは心のどこかでそう思った。しかし、理解していないのか? この祭典の意味を。

「我々教団は遥か昔からこの拠点の北にある巨大な鉄塔を信仰しておる。知っての通り、あの鉄塔は禁足の地。一歩領域に足を踏み入れた者は警告なしで射殺許可が降りるほどに神聖な場所とされておるが、今回お前たちにはあの塔に登ってもらう」

 何年もこの教団に所属し教訓に悖ったことはないが、塔に登るだと? 隠されていたのだから当然ではあるのだが、そんなこと聞いたことがない。だがそんなルナの思いとは裏腹に、ゼフ司祭は温かい声で続ける。

「登るのは二人、教団の最高幹部での話し合いで決めたことじゃ。嫌でも行ってもらうぞ。もちろん、嫌だなんて言わないじゃろうがな。」

 そう、嫌だなんて言うはずがない。この羅針盤の祭典に参加することは教団に所属する人間にとって最大の名誉だ。自分も名前だけは聞いたことはあるが、周りの大人たちに聞いてもほとんど何をする祭典なのか知っていなかった。

「もちろんただ登ってそのまま帰ってくるわけじゃない。この祭典は教団の今後を左右する重大な任務でもある。やらなければならないこと、つまりお前たち二人には『役割』がある。二人で手を合わせて『黄金の林檎』を手に入れてきてほしい」

 『役割』? ルナは困惑した。塔を登るのに役割なんて必要なのか? いや、それよりも『黄金の林檎』? どこかで……

「一つは『金槌と金床』を持っていく役。これは重要であり、一番苦労する役じゃな。金槌はともかく、金床は当然重い。あれを抱えながら塔を登るのは簡単じゃないぞ。あとついでに無線機を持っていくが、これはこっちの都合じゃ。特に考えなくて良い。我々はこの役を『パリスの弓矢』と呼んでおる」

 金槌と金床? パリスの弓矢? 訳がわからない。なぜこんなことをする必要が? そもそも登って何をするんだ?

 どんなに考えても理屈がわからない。いや、そもそも……

「二つは『鋏』を持って行く役。これはなんの比喩でもなく、本物の鋏を持って行くのじゃ。重さの点で言ったらこっちの方が楽じゃが、ある意味苦労する役とも言えるじゃろうな。この役は」

「ちょ……ちょっと待ってください! 役の事は分かりましたし、とても光栄なことは重々承知です! ですが……何故私たちなのですか!? 何故!?」

 いてもたってもいられずにルナは司祭の言葉を遮ってしまう。聞きたい事は山ほどあったが、何故……

「何故……私たちなのですか!? こんな重大な役! もっと他に有望な人材がいたのではないですか!?」

 聞かなければならない。この人選の意味を。

「なんじゃ不満か? まあもう決定事項じゃから今から騒いでも変わらんが。お前らに決まったのも色々会議を通してな。まあ大人の事情ってやつじゃ。あんまり詮索してもいい事ないぞ」

 上からの情報統制か……! 宗教系の組織形態としてはよくある事だが、隠される身としては何をされるのかわからずたまったものじゃない。理由を聞きたいのが心情だ。だが下っ端に属するというのはいつだって上のわがままを聞かなければいけないということだ。仕方ない、ここは納得したふりをするしかない。

「えー、はいじゃあ質問!」

 ソルが無邪気に声を上げる。今、暗に詮索するなと言われたばかりなのにこいつときたら……

「なんじゃ。ゆうてみなさい」

 ゼフ司祭が顔を険しくして聞く。

「あの、僕たちが羅針盤の祭典の実行者に選ばれたことを周りにしゃべっていいんですかー?」

 そんな下らない事聞きたかったのか……ルナは呆れ果てた。

「内容を口に出さない限りなら勝手にすればよい。祭典の決行日は明日。準備せい。」

 ゼフ司祭はそう言って祭場を出て行った。

 司祭が出て行く直前、思い出したかのように立ち止まり、呟いた。

「そうじゃ。お前たちが任務に行く前にわし座の方角から雷が落ちた。森のある方角じゃったから火事になっていなければいいんじゃがの」

 そう言った後、司祭は扉から出て行き、見えなくなってしまった。


「うおー! 騒げー!」

 まだ夜も更けていないというのに食堂では大変な騒ぎだ。特にソルときたらさまざまな料理を同時に手に取って食べている。器用だなこいつ。

 この拠点の中でもかなり大きい施設の食堂。教団の中央に位置し、かなりの人数を収容できる。あと他にこのレベルの大きさの施設と言ったら俺たちの寝泊まる寄宿舎ぐらいだろう。今、食堂では俺たち二人が羅針盤の祭典の実行者に選ばれた祝賀会が開催されていた。ここでは大人子供関係なく大騒ぎしていて、後ろでは規律にうるさいテンマ兵士長が今にも怒りを露わにしそうでかなりヒヤヒヤする。

「この僕が羅針盤の祭典の実行者だぁ! 祝え祝え!」

 ……しかし本当にうるさいな。こっちはもうたらふく食って腹が裂けそうだってのにもう食える訳ないだろ。こっちは少食だってのに。

 ルナはすでにこの宴会に飽き、神学の本を読んでいた。こういう空気は苦手だった。テンマ兵士長もあまりこの空気に乗り気じゃないらしく、部下たちと明日の一大行事に向けて話し合いをしている。ルナもソルと話し合いたいと思っていた。行事のこと。『役割』のこと。そしてもう一つ。司祭は話していなかったが、この行事には重大な事実がある。それを話したかった。それなのにソルはこのざまだ。周りに囲まれて話し合いどころじゃない。

どうしたものかと考えていると、ミモリがどかっと椅子に座り、ルナに話しかけてきた。

「おい、祭典の実行者に選ばれたってのに随分とのんびりしているじゃねえか、おい。あそこで大騒ぎしている馬鹿みたいにあからさまに尊大な態度とっているより鼻につくぞ、お前」

 相変わらずミモリは毒付いた態度で接する。大方、直属の上司のテンマ兵士長に影響されたのだろうが、うざったいだけだ。

「うるせえぞ赤髪野郎。こっちは明日のことで頭いっぱいなんだ。一人で整理させてくれ」

「ふん、実行者に選ばれて内心では大喜びしているくせに。あと俺は野郎じゃねえ。何度言ったらわかるんだカス」

 そう易々と喜べる状況じゃないんだよ、と心の裡でルナは毒づく。

「俺たち零零班は明日のお前たち二人の護衛役。とんでもなく重大な役割を任されたもんだ。ありがたすぎて涙が出るよ、全く。で? そんなに周りに世話焼いて貰っているっていうのに俺たちに感謝の言葉ひとつもない。おかしいだろ。ええ?」

 少しばかり面倒くさくなってきたな……こいつはかなり拗らしているからな。

 ミモリ。教団の所有領域の外れの村から来た俺と同年代の女。先ほどテンマ兵士長が話していたWFPAとの戦線の最先端に位置するシギナ村の出身。WFPAが村に攻め入ってきた時にテンマ兵士長にギリギリで命を助けられたとこいつは言っていた。テンマ兵士長に恩を返すために教団に自ら兵役を志願したらしい。そのあとこいつは飛ぶ鳥を落とす勢いで成績を上げてきた。そのおかげでこいつの今の配属先は恩人の隣まで来ることができた訳だが、どうやらこいつはまだ満足していないらしい。こんな奴に見初められたテンマ兵士長殿も気の毒だが、ミモリも今の環境を手に入れるためにそれなりの努力をしてきた。少年兵訓練の時のこいつはまさに鬼の形相で己を錬磨している。こいつが部隊の足を引っ張っていたところを見たことがない。こういう奴は嫌いじゃないが、自分は狙撃兵として好成績をあげた為テンマ兵士長に目をかけられている。こいつはそんな自分を目の敵にして普段は嫌味しか垂れ流さない。身の上話は偶然部隊の出向先が被った上、つまらない後方戦線の配属だったため、暇をしていた時に気を紛らわす目的でだらだら話をしていただけだが。

 ルナはミモリの憎まれ口に辟易し、皮肉ぶった口調で言葉を返す。

「……ま、ミモリみたいな奴班に引き込むことができてテンマ兵士長も楽できてんじゃないか? 仕事ができる奴が増えたら誰だって嬉しいだろうよ。あの人の周りは顔のいい女で溢れているし、テンマ兵士長も言うことなしだな。引く手数多だ。女性関係に苦労することはない。まあ、お前の出る幕はないだろうがな」

 軽い皮肉のつもりだった。だがその言葉はミモリの琴線に触れたようだ。

 その言葉を聞いた瞬間ミモリはルナの襟首を掴み、強引に食堂の机に押し倒す。その衝撃で机の上の食べ物が散らばる。宴で大騒ぎしていたソルたちもあまりの轟音に静まり返る。

「あの人はそこまで膚浅じゃねえ! それにてめえみたいなカスが軽率に口に出していいほどあの人は簡単な人間でもねえんだよ!」

 地の底から響くようで、それでいて耳をつんざくような大声。食堂にどよめきが渦巻くのをルナは感じた。だがルナは怯まない。

「『お前の出る幕はない』ってところは否定しねえんだなぁ。図星か? そりゃそうだよなぁ! てめえみたいな訓練の成績だけにしか興味ねえ奴なんて兵士長の伴侶には力不足だろうよ!」

 ミモリの顔に青筋が浮き出る。今にも血管が切れそうなのが見てわかった。

 次の瞬間にはルナは起き上がっていた。いや、立たされたと言ったほうがいいかもしれない。まだ十四の女子とは思えない力で引き起こされ、意識をミモリに移す前に腹部に巨大な鉄球のようなものが食い込んだ感覚がした。

 ルナの体は大きく翻り、またもや体が机の上に乗る。豪勢な料理がルナの体で吹き飛び、スープが散乱する。

 横隔膜がせり上がり、先ほど食べた料理が胃から逆流する。吐瀉物を机の上にぶちまけながらルナは涙目になって呼吸しようとした。

 やっと目を見開くことができたら、ルナの体の上にミモリが馬乗りになっていた。

 ミモリは小さな声で殺してやると呟きながらルナの顔めがけて拳を振り下ろす。

 すんでのところでミモリの拳を避ける。顔のすぐ横で木製の机が割れる音がした。

 ルナは振り下ろされた右腕を素早く掴み、ミモリの体勢を崩し、放り投げる。ミモリは地面に落ちた瞬間顔を打ったのか、鼻血を指の隙間からぼたぼた垂らしながら嗚咽を漏らしている。

「ド……ブ……カス……が…………! てめえみたいなカスに……あの人を語らせねえ……!」

 ミモリはよろめきながら起き上がる。その青い目からは一向に敵意は消えず、まだまだやる気だ。

 周りの人間はさっきまでの静寂が嘘のように、大声を出して盛り上がっている。下らない野次馬根性だと内心辟易しながらもルナもまだ闘志は消えていない。ゆっくりと机の上から降り、ミモリに近づく。

「あぁんまりカスだのなんだの蓮葉な言葉を言うもんじゃないですよミモリお嬢。育ちが知れるんだよ。こんなに料理も散らかしてよぉ。せっかくご馳走を作ってくれた人たちに申し訳ないとか思わないのか?」

 ルナは体についた料理を払い落としながら今度はルナがミモリの襟首を掴む。

「それにわざわざ美味しい料理になってくれた食材たちも粗末にしやがって。やっぱりお前みたいなやつは命の重さもわからないのか? まあ到底理解できるはずもないか。ミモリはまだ戦場で敵を殺したことがないんだってな? そのまま寄宿舎で寝てろよ。俺が明日塔に登ってこの世界を平和にしてやるから。拠点の中でしか粋がれねえ奴はこの教団にいらねえんだよ」

ミモリはルナの腕を掴みブツブツと何かを呟いている。ルナが顔を近づけると、ルナの顔に血の混じった唾を吐きかけられた。

「別に心配しなくても殺す相手には不足してねぇんだよ。今から俺の討伐成績がひとつ増える。わざわざ目の前に来てくれてありがたいくらいだ」

 ミモリはルナの手を振り払い、後ずさる。ルナは微かにミモリが後ろ手に皿の横にあるナイフを手に取ろうとしたのを瞬間的に察知し、近くに置いたままの自分のライフルを掴もうとした。

 さっきまでの騒音が嘘のように静まり返る。お互いの命に指がかかる間合いだ。

 もう二人は止まらない。後ろでソルが何か言っているようだが、ルナの耳には全くもって入ってきていなかった。

 一瞬のようで無限に長い時間が流れた。

「バカが」

「カスが」

 お互い得物に手をかけようとした瞬間、ミモリの体が横に吹っ飛び、体は後ろで騒いでいた野次馬に激突した。

 現実を理解するよりも先にルナの腕に黒い影が走る。

 気がついた時にはルナは冷たい石の床に突っ伏していた。

「おいおいおいだぁからおいおいおいおいおい。お前らは料理のありがたさを知る前に自分の命がまだあることに感謝するべきだ。俺の前でこんなに料理を散らかしやがって。どんだけ墓の手前で生きてんだ」

 ルナの背中に鈍い痛みが走る。硬いブーツが上に乗っている感覚。さらにその上からくる強烈な殺気。

「テンマ……兵士長……!」

 黒髪の青年は厚手のマントを肩にかけながらルナを踏みつける。ルナはなんとか起きあがろうとしたが一センチたりとも動かすことができなかった。

「ミモリ……てめえも何やっている……明日の護衛役にお前を指名したのは過大評価だったか? それとも俺の顔に泥を塗るつもりじゃねえだろうな」

 ミモリはなんとか起きあがろうとしたようだったがうめき声を上げるだけで何も言い返せないでいた。

 テンマ兵士長はさらに足に力を込める。硬い靴底が背中に沈み込み、ぎゃあと情けない叫び声がルナの口から出てくる。

「テンマ兵士長……足を……退けてくだ」

「ルール其の一。料理を粗末にしてはいけない。わかるか? この世界には今日の飯にも困っている子供がいるんだ。かわいそうに」

 ルナの呼びかけにも応じずにテンマ兵士長は続ける。

「ルール其の二。教団の施設内で武器を使用してはいけない。使用していいのは敵勢力が攻め入ってきた時だけ。それにもかかわらずお前らは得物を取ろうとした。射殺も辞さないつもりだったが……俺も甘くなったな。後輩が可愛くてしょうがねえ」

 一呼吸置いてテンマ兵士長は言葉を繋げる。

「最後、ルール其の三。俺より階級が下のやつは俺に指図しないこと。なんだルナ。俺の足がどうかしたか?」

 硬い足がルナの上から無くなった瞬間、ルナの腹に凄烈な蹴りが飛んできた。

「さて……まずはルナ。てめえからだ。躾が足りないと後々痛い目を見るのは俺だしな」

 テンマ兵士長は物々しい威容で吹き飛んだルナに向かって歩く。

 殺される。

 そう思った。その時。

「待ってください。兵士長殿」

 後ろで誰かの声がした。腹を蹴られた衝撃でよく聞こえなかったが、確かにそう聞こえた。

「所属。そして名前」

 テンマ兵士長がそれだけ伝えると、人混みの中から男が出てきた。

「第七分隊二八班所属。ソルです」

 ソル……ソル!? 何やってんだあいつ!? 大人しくしていればいいものを!

「テンマ兵士長殿。ルナの処分をする決定権は今現在兵士長であるあなたがお持ちです。しかし今は処断することは推奨されません」

 ソルはさっきまでの無邪気さが嘘のように恭しい態度でテンマ兵士長に提言する。赤い髪で隠れたその顔は精悍としか言いようがなかった。

 しばらく沈黙が続く。その間ソルとテンマ兵士長は睨み合うように直立していた。

「まあ……時期が時期だしな。今回はこんくらいで許してやる。次はねえぞ」

 数秒立ったのち、テンマ兵士長はなんとか納得してくれたようだ。

「ソル、てめえの連れはてめえで飼い慣らしとけ。そしてミモリ。お前は後で特別訓練だ。お前がふっかけた喧嘩だ。文句はねえだろ」

 ミモリは『特別訓練』という言葉を聞いただけで少し萎縮したように見えた。ミモリほどのやつでもテンマ兵士長直々の訓練は地獄なのだろう。しばらくしたのち、ミモリは力なく頷いた。

 テンマ兵士長が食堂から立ち去ったのち、ミモリが小さく「なんでお前が祭典の実行者に」と呟いた声が微かに聞こえてきた。


「いやあ大変だったね! 大丈夫なのルナ?」

 大変だった……の一言では言い表せないな……とルナは思った。

 ミモリの売り言葉に買い言葉で喧嘩を受けたのは反省すべきだったが、それにしてもソルが仲裁に入ってきたことにルナは一番驚いていた。自分が未熟だったとはいえ、何かソルに負けた気がした。

 今ルナたちは寄宿舎の近くの渡り廊下で料理や血で汚れた体を拭いている。少し寒いがここなら人はいない。

「あのさ〜ルナ! 明日が大事な日だからってはしゃぎすぎだよ! もっと考えて行動して!」

 お前にだけは言われたくねえよ、と言おうとしたがなんとか飲み込んだ。今回ばかりはこっちに非がある。黙ってソルの説教を聞くことにした。

「ルナはもっと分別のあるやつだと思っていたのに。明日の祭典が心配だよほんと! ……ってルナ? 聞いてる?」

 ルナの心の中ではそれとは別にある疑念があった。それはただ自然と、口から溢れていた。

「なんでお前は……そんなに祭典の実行者になれたのが嬉しいんだよ……」

 本当に、自然と口から溢れていた。

「なんでって、当たり前でしょ? 実行者に選ばれるのは教団に所属する人間の最高の名誉なんだよ?」

 そうじゃない。そうじゃないんだ。

「知ってるだろ……司祭はあの時話していなかったけど……毎回この祭典の実行者は……」

 途中でソルはルナの口を塞いだ。そして静かに優しい顔で言った。

「いいの……知ってるよ。『祭典の実行者のうちどちらか片方は必ず死ぬ』……でしょ? 知ってる」

「だったらなんで……なんでそんなに喜べるんだ! 自分が死ぬかもしれないんだぞ! なのになんで……!」

 ルナは困惑した。どうしてそれを知っていてあんなに喜べるのか。どうしてそんなに優しい顔ができるのかわからなかった。

「お前も……ミモリもそうだ! こんな役何が羨ましいんだ! 周りのやつだって手放しに喜んで……俺は嫌なんだ! こんなの!」

 ルナの口からは隠し通すべき心の裡がつらつらと流れ出す。普段なら言うわけがないことを今はどうしてか言ってしまう。テンマ兵士長に勝てなかった悔しさからか。ソルに借りを作った不甲斐なさからか。こんなこと教団の人間が聞いたら黙ってはいないだろうに、ソルはただ黙って頷いていた。ずっと。優しい顔で。しばらく聞いた後に一層柔らかい声で話し出した。

「こんな祭りだけがみんなの心の支えなの。みんな、誰かに縋らないと生きていけないんだよ。ミモリもそう。ミモリはテンマ兵士長に。テンマ兵士長は料理に。周りのみんなは司祭に。そして僕は、かみさまに。みんなみんな、弱いんだ。」

 そう言うソルの顔はどこか悲しげで儚かった。こいつ、こんな顔ができたんだ、とルナは思った。

「みんな誰かに寄りかかって生きているの。そうして誰かに寄りかかると、自分はなんでもできると思うんだ。思ってしまうんだ。それもこれも、みんな錯覚なのにね。ばかだよね」

 みんな誰かに縋っている。そのセリフはルナの胸の中にストンと落ちた。なんでこんなに簡単に納得がいったのか、よくわからなかった。

「ルナは、何に縋って生きているの?」

 唐突に質問されて、少し戸惑った。考えたこともなかったのだ。自分が何に縋っているのかなど。自分はずっと自分の力だけで生きてきたと思っていた。でもそれはただの錯覚でしかなくて、よく考えてみたら自分は周りの人間に助けられて生きてきた。今日だってソルがいなかったらどうなっていたことか……

 自分の拠り所。何もない。やはり自分は空っぽだ。俺は虚で、虚が俺だった。

「あ」

 小さく声が漏れる。あった。拠り所。心の棲家。

「俺さ……夜になったら空を見るのが好きなんだ。小さい星が、俺を慰めてくれたような気がするから」

 その言葉を聞いてソルは微笑む。その様はどこか母性を感じられた。

「星座が好きなんだね。ルナは。……とっても素敵だ」

 その声はどこまでも優しくて心地よかった。悲しくなるほどに。

 そうか……星座か……星座……

 しばらく黙っているルナを見て、ソルがどうしたのと声を掛ける。ルナはゆっくりと口を開く。

「雷」

「雷?」

「司祭が言っていたんだ。わし座の方角に雷が落ちたって」

 言うが早いか遅いか、突如爆音がなった。その音が自分の隣から発生した音と理解するまで時間がかかった。

 なんだ? 何が起こった? 訳もわからないまま音の発生源を見つめる。

 壁が……破壊されている。粉々に。大きく空いた穴を覗くと、奥から機械音が聞こえてきた。

 本能が言っている。逃げろ、と。

「ソル!」

「わかってる!」

 今の応酬で言葉以上の意図を伝え合った。こちらが無事だということ。上に報告するべきだということ。直ちに逃げるべきだということ。だが体は動かなかった。ただ待つしかなかった。この壁の奥から何かが出てくるのを。

 舞い上がった砂埃が落ち着くと、『それ』は姿を現した。

「ギギギ……ガガ……」

 無機質な機械音を出してくる人型の何かはガクガクとぎこちない動きをしていた。

 異形。

 見つめたくなかった。なのに視線は動かない。

「ルナと……ソル……」

 この謎の機械はこっちの名前まで把握している!? どうして。どこで。どうやって。

「目標……補足……」

 目標補足? 何言っているんだ? ルナがこの機械から出る音の羅列を理解するよりも前に、機械は腕の銃口をこちらに向けてきた。

「走れ!」

 どっちが叫んだのかはわからない。だがその声を皮切りに体が動くようになった。鉛のように重かった体を動かす。

 走った。ずっと。訳もわからないまま。どうするべきかはわからなかったが、後ろで聞いたこともないような銃声が聞こえてきたから死ぬ気で走った。

 いつの間にか祭場前に着いていた。今日帰ってきた時に司祭と話した場所。ここに来たかった訳じゃない。でもがむしゃらに走っていったらここに着いていた。

 ソルは……いる。はぐれてはいないが、かなり息を切らしている。

 まいたか……?

 ひとまず安心だろうか。早く……報告しなければ。こんなこと今までになかった。侵入者は速やかに対処しなければ……

 ルナは俯いていた。息を切らしていたから。決して油断していた訳じゃない。『そいつ』に気がついたのはソルがルナの肩を叩いたからだ。

「……なんなんだよ……なんなんだよお前ら!」

 ルナは目の前の黒い外套を羽織った男に声を荒げる。目の前の男は完全に黒い布で体を覆いかくし、祭壇の上に立っていた。どこの所属なのかもわからない。もしかしたら女かも。理解できるのは、自分達二人に向けられるドス黒い殺意だけ。

 ……いや……こいつ何かおかしい……何かが——

「ソル……俺に考えがある……」

 あの外套の男に聞こえないように、なるべく小声で話す。ボソボソと、簡潔に。

 その時キラリと、外套の隙間で何が光った。

 ルナは本能的に走り出す。それはソルも同じだった。

「走れ走れ! 目的地は『あそこ』だ!」

 後ろから大量のナイフが飛んできた。そのうちの一つがルナの頬をかすり、赤い線となって顔に温かいものが伝った。

 またもや走る二人。だが今回は無策じゃない。疾走しながらもルナの頭の中には既にルートが出来上がっていた。

「ねえ! さっきの話……秘策があるって本当なんだよねルナ!」

「秘策があるってより生き残る確率の話だ! 悪いがアテが外れたら潔く死んでくれ!」

「なんなんだよ! ルナの話そんなんばっかじゃんかぁ!」

「文句あるんだったら自分で策を考えろ!」

 文句を言い合いながらもルナは頭を回す。自分達が生き残ることができる道を必死で探し出した。

 『あそこ』に行くことができれば……

 だがそこに行くまでに『用意しなくてはならない物』があった。

 ルナたちは食堂の人混みを通り抜けて奥にある教団の備品倉庫に向かう。

「ソル! ちゃんと盗めたか!?」

「うん! なんとか!」

 二人の手には教団で基本的に全員の歩兵に支給される水平二連銃と何十発かの弾薬が入った弾薬盒が握られていた。そして追加でルナの手にはスナイパーライフルが。

「これで……あの変な機械と黒い外套の男に対抗できるの!? ちょっと心もとないんだけど!」

「早まんな! まだ用意するものはある!」

 そう、これではまだ足りない。まだあれを手に入れられていない。

「ところでソル! 明日の祭典の役割! もう決めたか!?」

「何それ! 今必要なこと!?」

「いいから言え! 『パリスの弓矢』はどっちがやる!?」

「確か『パリスの弓矢』って重い金床を背負うんだよね!? じゃあ僕の方が適任だ! 力ならルナより僕の方が強い!」

 それだけ聞いてルナはまた前を向いて走り出す。もうやることは決まった。あとは実行するだけだ。

 二人の足は既に備品庫の中に入っていた。外には警備がいたが、ルナたちは祭典の実行者だったため余計な問答はなく顔パスで侵入できた。

「奥の方にあるはずだ! 探せ!」

 どこだ。

 どこだ。

 あるはずだ。

「あった! ソル! 見つけたぞ! 『金槌』と『金床』! 『鋏』まである!」

 これが欲しかった。見つけるのに少し時間を食ったが問題はない。外には警備がいるから奴らは入って来られないだろう。

「本当にこれでいいの!? 祭典に使うにしてはなんかボロいけど!」

「こんな倉庫の奥の方で大事そうに仕舞ってあるんだ! これに決まってる!」

 よしよし……! なんとかうまくいっているぞ……!

 なんとか時間もある。少し作戦会議と行こうか。

「ソル、よく聞け。俺たちの荷物を確認しよう」

「えっと……銃と弾数発分、僕専用の無線機、あとはこの祭典に使う道具だね。これで何するの?」

「北に向かう。そしてこれ全部持って鉄塔を登るんだ」

 その言葉を聞いてソルは激昂する。

「鉄塔を登る!? 祭典は明日だよ!? なんで今日なの!? それに祭典に使う道具なんてこの倉庫から持ち出せないだろうしその前にいくら祭典の実行者だからって勝手に鉄塔は登れない! 警備に見つかってその時点で警告なしで射殺されるぞ!」

 ソルの言っていることも尤もだ。だが……

「そんなこと言っている場合じゃなくなったんだ。ソル。俺たちは何がなんでも鉄塔に登らなくてはならない」

 なんで、とソルの口から漏れた。

「多分祭典の道具たちは『司祭が持ってこいと言っていた』と警備に言ったら実行者の俺たちなら違和感はない。そして塔の方の警備は……こっちから先に殺す。居ても二、三人程度だ」

 またもやソルの顔が歪む。まだ現実を受け入れられていないらしい。だが、そろそろ行かなくては。

 ルナが立ち上がると、ソルも金床を背負った。なんとか準備は出来たらしい。あとは覚悟を決めるだけだ。

 倉庫から歩いて出るルナとソル。外の警備はさっき言った通り司祭が言っていた、でなんとかパスできた。二人は人目のつかなくなるところまで歩き、誰もいないことが確認できた瞬間走り出した。

 北へ。

 北へ。

 塔は既に見えている。その下に点在する三人の警備も。

 ルナはすかさずライフルを取った。この距離ならスコープを覗く必要もない。警備のうちの一人を素早く射殺する。

 弾倉にはまだ弾が残っている。すかさずルナはもう一人を撃ち殺す。

 あと一人。ルナが弾をこめる間に警備の一人が急いで臨戦態勢をとった。

「ソル!」

「わかってるよ!」

 ソルは自分がもう後に引けないことを知って、腹を括ったのかようやく猟銃を構え——最後の一人を撃ち殺した。

 なんとか警備はクリアした——と思ったが。

「……クソッ」

 最後の警備員の手には無線機が握られていた。だとするともう——

 そう考えた瞬間、気味の悪い音が鳴り響いた。

「『異常事態発生サイレン』……! 音からして警戒度最大レヴェルファイブか!」

 ソルはまだ同胞を殺した実感がないのか、まだ俯いている。

「じきに大量の兵士が押し寄せてくる。早いとこ登るぞ」

 そう言ってもソルは応じない。

「ソル……?」

 ソルはやっと顔をあげ、口を開いた。

「これで……これで僕達はお尋ね者だ! 同胞を殺したから! この教団に……この世界に僕達の居場所は無くなったぞ!」

 ソルは泣きそうな顔になりながらルナに詰め寄る。どうしてくれるんだ、と言わんばかりに。

 ルナはその声に応じず黙って鉄塔の階段に足を乗せた。ソルもしばらくしてからルナに続いた。

 カン、カンと、鉄塔に足音だけが響いた。

「居場所なんてない、元々」

 ルナは階段を駆け上がりながらつぶやいた。

 その声にソルはどういうことだと聞き返す。

 流石に説明するしか無くなっていた。もうソルも精神が限界に近くなっていた。

「居場所はない、というのは、厳密にいうと、俺たちがあの男をゼフ司祭に届けてからだ」

「どういうこと!? わかりやすく説明して!」

 訳がわからないとばかりにソルは聞き返す。

「少し長くなる。走りながら説明するぞ。まず俺たちが渡り廊下で出会ったあの機械。あいつは外見から所属を推測できる。『穢多汚辱』の尖兵だ。」

「『穢多汚辱』……知っている。確かこの世界の寒さに耐えきれず人間の体を捨てた集団だよね! 聞いたことがある!」

 ソルは周りを見渡し階段を駆け上がりながらながらルナと会話する。追手を警戒しているのだろう。

「ああ、独自の科学技術で自身を義体化し、生身の体を穢多と考えるヤバい集団だ」

「なんでそんな奴が僕らを追っているんだ! しかも僕達二人だけを! それだけじゃない! あの黒い外套の男も僕らを殺そうとしていた! あいつは見た感じまた別の勢力だぞ!」

「半分、正解だ。あの男は別の人間だが、ある意味別じゃない」

 またしてもわからないとばかりにソルの顔が疑問に歪む。当然、想像なんてできないだろう。だが筋道を立てて考えればわかることだ。

「あの黒い外套の男は、おそらく俺たちの同胞……教団の人間だ」

「わからない! なんで僕達のことを教団が殺そうとするんだよ! 僕達は大事な祭典の実行者じゃなかったのか!?」

「この話を説明するには結構遠回りするが、『黄金の林檎』って覚えているか?」

「『黄金の林檎』……司祭が言っていた! この塔を登って持って帰ってこいって! それがどうかしたのか!?」

「『黄金の林檎』ってのはだな、昔の神話に出てくる奴なんだ。数多くその名を残してはいるが、司祭の言っていたのはおそらく『パリスの審判』っていう話だ。昔本で読んだんだ。簡単にあらすじを纏めると、ゼウスはパリスという男に三人の女神の中から最も美しい女神を決めさせたんだ。散々争ったが結果はアプロディーテーの勝ち。そしてこれが後に戦争を引き起こす発端となる」

 一呼吸おいてルナは続ける。

「なぜ三人の女神は争うことになったのか……それは女神たちの宴会の席に投げ入れられた黄金の林檎に『最も美しい女神へ』と書かれていたからなんだ」

 ソルはわかったようなわからないような、中途半端な声を上げた。

「その話が……どう教団の裏切りに関わってくるの!?」

「まだ焦るな、よく聞け。司祭が言っていた黄金の林檎もこの林檎のことだろう。おそらくこれから俺たちが取ってくる林檎にも書いてあるんだろうな。『最も美しい女神へ』と……。で、ソル。お前はこの意味をどう捉える」

「どう捉えるって……わからないよ!」

「この林檎は後に戦争を引き起こしたって言ったろ。もっと説明するぞ。その戦争の名は『トロイア戦争』。大勢の神たちが戦ったかなり有名な神話。まさしく今の俺たちじゃないか。さまざまな信条の奴らが入り乱れて、殺し合う。そしてその後には何も残らない」

 それを聞いたソルはハッとしたようにあることに気がついた。

「『最も美しい女神へ』……その意味って、まさか司祭の言っていた『黄金の林檎』には……『これから起こる戦争の勝者』が書かれているのか!?」

「そう考えるとこの祭典が今後の教団の今後を左右するっていうことにも納得がいく。要注意敵対勢力との戦争に誰が生き残るのか……誰だって知りたいだろうな」

 『羅針盤の祭典』か……よく言ったものだ。まさしく俺たちが今後の教団の羅針盤になっているというわけだ。

「ゼフ司祭はその戦争の結果を取ってこいと言っていた訳なんだね。でも……」

 ソルは納得した。だが、まだわからないことがあった。

「でもなぜそれが僕達を狙う理由になる!? 教団だってそうだ! なんで僕達を殺そうとするんだ! 祭典の実行者である僕達を! 戦争の結果を知ることができるやつは僕達だけなんだぞ!」

「その謎の鍵を握るのは俺たちが持ってきたあの男だ。ソルは聞いていないだろうがあの男は『黄金の林檎』のことを知っていたんだ。ブツブツと訳のわからないことを言っていたが今なら納得がいく。確かヘレネーとも言っていたな。トロイア戦争における重要人物、中核となる囚われのお妃様だ」

 だがまだ謎が残っている。ルナとソルはこの謎を解かなければならない。

「何故……あの男は教団の最高機密である『黄金の林檎』のことを知っていたんだ?」

「……それはわからない。だが、教団は聞き出したんだろうな。あの男から『黄金の林檎』のことを。そして教団はあの男を運んだ俺たちが最高機密以上の何か、それどころか『黄金の林檎の内容』を知ってしまったのかもしれないと当たりをつけた。」

 ソルはそれを聞いてこの騒乱の全容を把握したのだろう。ソルの顔からはもう疑問の色は消え失せていた。

「なるほど……祭典の前にそんなものを知っているやつがいるのは教団も看過できなかったんだね。もしかしたら僕達が祭典の前に脱走して『勝ち馬』に寝返るかもしれないから……」

「いや、それどころじゃない。も俺たちがし戦争の勝者を言いふらしてみろ。それを信じたやつまでどんどん寝返る。やがてそれは他の団体にまで広まり、『勝ち馬』はどんどん力を蓄える。そうなればもうそいつが世界を蹂躙する。世界がひっくり返るかもしれないんだ。それは教団が最も恐れていたことだろうな」

 滔滔とルナは恐ろしい事実を語る。だがこんなところで何を語っても自分達が窮地にいる事実は変わらない。

「話したいことはまだまだあるがとにかく登れ! いつ追手が来るか……」

 周りを警戒したルナの視界に何かが掠る。黒い、人影のようなものが。

 すぐさまライフルを構え、スコープを覗く。誰だ。黒い外套の男か? 小さくて見えない。もっと、もっと良く見ろ……

 強風に煽られて手元がブレる。よく見えないが、あの人影は……

「テンマ兵士長だ」

 第七分隊零零班。祭典の警備に抜擢された最強の猟犬。

 ルナの顔から冷や汗が一滴。

 スコープの奥から見え隠れする眼光はさながら究極の追手。何人たりとも逃さないという気迫が見てとれた。

 ミモリのやつもついている、だが二人だけだ。おそらく自分達の謀反は教団にとっても寝耳に水だったのだろう。すぐに人員がまとまらず、あの二人だけしか動ける人間がいなかったのだ。だが、何か様子がおかしい。まるでこっちの居場所がわかっていない動きだ。無線機で情報は入っていたのでは?

 ソルに状況を話す。今は少しでも意見を仰ぎたかった。

「……おそらく僕達が逃げるのは教団も考えていた。だけどこの時点で鉄塔に登るのは流石に想定外だったんだろうね。警備の無線も最低限のことだけ、さしずめ『謀反者発見』の一言しか伝えられていなかったんでしょ。それも相まってあっちは正確に僕達の居場所を把握できていない。それでも尚ここを嗅ぎ当てたテンマ兵士長には驚かされるよ。」

 淡々と語るソルの言葉にルナは納得しはした。ただ、ソルの何処か他人事のような口ぶりにどことなく共感できた。こんなこと人生で体験したことがなく、ルナも何処か俯瞰した感覚で現実を見つめていた。

 だがソルの言葉がそんなルナを現実に引き戻す。

 その声は極限まで冷めきっていた。

 ——どうする? 殺しておく?——

 その言葉を聞いた瞬間、ルナの体は鉛のように重くなった。息苦しく、動悸がする。

 さっきの警備員を殺した時は感じなかった。同胞とはいえ、顔も知らない奴を仲間とは言えなかった。だから撃ち殺せた。無情にも、残酷に。

 だが今回の相手は顔を知っていた。それどころかテンマ兵士長には何度も世話になっている。さっきは殺されかけたが命を救われた数の方がずっと多い。ミモリもそう。嫌な奴だが、それでもあの強さへのひた向きさに心を打たれたこともある。さっきの警備員とは訳が違う。ルナは知ってしまった。いつの間にか芽生えた情の味を。恐ろしさを。

 自分がこんな感情をまだ持ち合わせていたことに内心で舌打ちする。戦場に慣れていたつもりだった。殺すことにも。だが顔見知りを殺したことなんてなかった。ルナはまだ冷酷になりきれていなかったのだ。

 引き金に掛かった指が動かない。殺したくない、殺せない。

 考えているうちにスコープの奥のテンマ兵士長が立ち止まった。そして——

 スコープ越しにルナと目があった。

 瞬間テンマ兵士長は走り出す。続いて後ろのミモリも。向かう先は当然鉄塔の足元だ。

 見つかった!? なぜ!?

 そんな疑問はルナの頭からすぐに消えた。

 スコープの反射光か! 迷いすぎた!

「走れ!」

 ルナとソルはまた走り出す。だがこっちは銃を持っている上に祭典の道具を抱えている。ソルに至っては重い金床を背負っていた。全速力で走れない。祭典の道具を集めたのが裏目に出た。

 どんどん近づいてくる足音。もう駄目だ、追いつかれる。

「動くなッ!」

 怒声と共に二人に銃口が向けられる。当然ルナとソルのほうが先に構えていた。それでも尚こちらに向けられる殺意に気圧された。

 二対一。ミモリのやつはまだ到着していないようだ。三人の間に無限に長い時間が流れる。

「テンマ兵士長……少し優しすぎじゃないですか? 無断で鉄塔に入った者は『警告なしで銃殺』でしょう? わざわざ待ってくれるだなんて思っていませんでしたよ」

 ルナは皮肉まじりに語りかける。

「突然凶行に走った訳を聞き出してから殺したかっただけだ! お前ら一体どういうつもりだ!」

 ルナとソルは困惑した。どういうことだ。自分達にはもう暗殺命令が下されているんじゃないのか?

 ……そうか。やはり自分達の逃げる決断があっちの予想より早かったんだ。だから上の指揮系統に乱れが出た。テンマ兵士長でさえ知らされていなかったのだろう。教団最上部からの通達が。

 ——ならば交渉の余地はある。

 二人はそう確信し、なんとか話し合いに持っていこうとした。そこにミモリが後から到着する。

「な……お前らだったのか!? いきなり発生した謀反者は!」

「話を聞いてください! 銃を下ろしてください! 潔白なんです!」

 ソルは自分達の正当性を主張する。

「三人も殺しておいて潔白だと!? 笑わせんな! 何を言おうとお前ら二人は謀反者だ!」

 テンマ兵士長は一向に銃を降ろさない。当然だ。同胞を殺しておいてこの言い分は通用する訳がない。

「テンマ兵士長! この二人は危険です! 速やかに銃殺した方がいい!」

「ミモリも銃を下ろせ! 俺たちの話を聞いてからでも遅くないだろ!」

「てめえに貸す耳はねえんだよ! 薄汚い裏切り者が! やっぱりさっき殺しておくべきだった!」

「落ち着けミモリ! まずはこいつらから話を聞き出すのが先だ!」

「テンマ兵士長は甘すぎます! 話なんか聞いて何になるんですか! こいつらは危険すぎです!」

 入り乱れる言葉の数々。テンマ兵士長はなんとか話を聞きたがっているがミモリはもうこっちを殺すことに頭が支配されている。ここから話し合いに持っていけても冷静に聞いてくれるかもわからない。教団が先に裏切ったと話しても信じてくれないだろう。だが言わないわけにはいかない。

「俺たちが警備員を殺したのは教団が先に俺たちを殺そうとしたからだ! 仕方がなかった!」

「前々からバカだとは思っていたがここまでのバカだったとは思わなかったよ! 教団がなぜ祭典の実行者であるお前らを殺す!? もっとましな嘘をつけ!」

「落ち着けと言っているだろミモリ! ルナ! その話続けろ!」

 テンマ兵士長はなんとか聞く耳を持ってくれたようだ。だがミモリは今にも引き金を引きそうになっている。この状況も長くは続かないだろう。早くケリをつけなくては。

「この祭典の目的はこの先起こる戦争の勝者を知ること! だが俺達は知りすぎた! だから教団は俺達を消そうとしているんだ!」

 ルナの言葉はテンマ兵士長に届いただろうか。

「その話……本当か?」

 揺らいだ。いける。

「はい。僕たちは殺される前に殺した。それだけです」

 あと一押しだ。もう少しでこの人は落ちる。

「テンマ兵士長! こいつらの言っていることは教団に対する重大な背信行為です! そんなものに耳を貸してはいけません!」

 だがミモリはまだだ。まだ自分達の話を信用しない。

「わかっている……この二人のいうことを頭から信用はしないが、この二人が考えなしにこんなことをするとも思えない!」

「テンマ兵士長! まさかあなたもこの裏切り者に加担するんですか!?」

「話を聞くだけだと言っているだろ! お前はもう少し考えろ!」

「いいかミモリ! 教団が俺たちを裏切っていると仮定してみろ! だとするとこの話を聞いたお前も殺されるんだぞ! 指揮系統がうまく作動していないんだ! 教団もなりふり構っていられなくなってる! 下手すりゃ俺たち全員ここで殺されるかもしれないんだぞ!」

 ルナの言葉に二人は顔を歪ませる。おそらく今二人は脳が焼き切れるほどに思考を巡らせているはず。もう少しだ。

 言葉を間違えるな。

 そう自分に言い聞かせてルナはゆっくりと口を開く。

「あなたたち二人はここに来た時点でどちらにせよ殺される可能性が高い……! よく考えてください……!」

 数秒の沈黙を先に破ったのはテンマ兵士長だ。

「……ミモリ。銃を下ろせ」

「ですが!」

「いいから早くしろ! これ以上は不毛なんだよ!」

 テンマ兵士長はなんとかミモリを宥める。こちらの話を聞く気になってくれたのだろうか。

「ルナ。追手の数は」

「……信じてくれるんですか?」

「それを今から確かめるだけだ! もう一度聞くぞ! 追手の数は!?」

「……二人です。一人は黒い外套の男。もう一人は穢多汚辱の奴です。今はもっと増えているかも」

 できるだけ簡潔に事実を伝えた。その話を聞いてテンマ兵士長は銃を下ろした。

「この目で確かめてくる。全部聞き出す」

 その言葉を聞いてルナとソルも銃を下ろす。だがミモリは何処か納得していないようだ。

「ご理解ありがとうございます。テンマ兵士長」

「言っておくが降りて確かめるのは俺だけだ。お前らにはミモリを同行させる。不審な動きをしたらいつでも射殺されると思え」

 テンマ兵士長のその言葉にミモリの感情は揺らぐ。

「……わかりました。おい、最後尾は俺だ。行くぞ」

 ミモリを同行させるという判断は妥当だろう。ここで監視の目を外す訳がない。だがミモリならテンマ兵士長が目を離した隙に問答無用で自分達を殺す可能性も否めない。ルナはミモリに視線を投げかける。やはりミモリの目から殺気は消えていない。ミモリが大人しくテンマ兵士長の指示に従う可能性は低いと言える。

 そう考えているうちにテンマ兵士長は階段を駆け降りていった。

 三人の間に沈黙が木霊する。

 本当にミモリに背中を預けてもいいものか。

 ——選択の余地はないか——

「……俺たち二人は祭典の道具を持っている。歩きは遅くなるが文句言うなよ」

「うるせえさっさと行け」

 一応ミモリも銃口は降ろしたもののまだかなり警戒している。こちらも一分も気を抜けない。

 三人は鉄塔を登り始めた。だが三人は何も喋らない。あの陽気なソルでさえ今回ばかりはいつもの調子はなりを潜めていた。

「……テンマ兵士長は何を考えているんだ……こんな奴らさっさと殺してしまえばいいのに……」

 やっと口を開いたと思ったらミモリはまた強い殺意を露わにした。

「まだ言っているのミモリ。僕達は少なくともミモリを攻撃したりしないよ」

 ソルの言葉を聞いてミモリはふんと鼻を鳴らす。

「どうだかな。案外隙を見て俺を殺そうと二人で画策しているかもしれない」

「いい加減にしろミモリ。もうお互いを疑うのは意味がない。わからないのか」

「うるせえぞルナ! お前の声聞いていると射殺しとけばよかったと後悔しそうだ! 黙って……」

 ミモリの声が途切れた。何か上を見ている。ルナも何事かと思って上を見ると、そこには——巨大な物体が浮いていた。

「なんだ……あれ……」

 ミモリは困惑したような声をあげた。

「あれは……飛行船だ!」

「『ひこうせん』!? なんだそれルナ!?」

「この世界が雪に覆われてから無くなった旧時代の技術だ! 俺も本で見た知識しか知らない!」

 あんな大仰なもの動かしているんだ。おそらく大層な目的があるのだろう。自分達を殺すという目的が。

「どこの団体だ!?」

「船体にデカデカとマークが描いてあるだろ! あんなに自己顕示欲丸出しにするやつなんて『焔と十字』しかいない!」

「どうして他の団体まで!? さっきも穢多汚辱と聞いたぞ! どういうことだルナ!」

 ミモリは理解できないと言わんばかりにルナに詰め寄る。ソルも流石にこの状況がわからなかったのだろう。ミモリの次に声を上げた。

「そういえばなんで他の団体は僕達が戦争の勝利者を知っているってわかったんだ!? あの男が何か関わっているのか!?」

 あの男、とは自分達が持ってきた男だ。確かになんで他の団体がそんなことを知っている? 誰かが情報を漏らしたか? だが他が動き出すまでが早すぎる。時間的に教団から情報が流れ出たのは考えにくい。

 ルナが思考を巡らしているうちに、飛行船が動き出した。船体を塔に横付けして、何かをしようとしている。

 ルナはすぐさまライフルを撃った。本で知っていたのだ。あの船の大部分は風船のようになっているということ。そしてその中身は『水素』という可燃性の気体で満たされているということ。案の定、飛行船は爆音を立てながら墜落した。だが……

 ルナたちの目の前、階段の上には降り注ぐ雪の中、炎に包まれた男が立っていた。

 すでに焔と十字は戦闘員を送り込んでいた。

 三人はすぐさま銃を構える。目の前の男が自分達を死に至らしめる力を持っていることを直感的に理解したからだ。

 ミモリが初めに銃を撃った。だが男は瞬時に弾丸をかわし、三人に肉薄する。

 男の纏う高熱がルナの皮膚を焼く。まずい。ここまで近づかれたら——

 男は素早く手を突き出す。掴み技に持っていく気だ。当然といえば当然である。男の体の火はまさに全てを焼き尽くす爆炎。少し自分達の体に触れただけで炎は伝染する。そうなれば自分達まで火だるまだ。

 先頭にいたルナに男は襲い掛かる。ルナはライフルの銃床で押し返し、相手の体勢を崩した。

 階段上。崩れた体勢は戻らない。なだれ込むように男は階段を転がり落ちる。その先にはミモリがいた。

 ぶつかる体と体。瞬時にミモリの体は炎で包まれた。まずい。いや、その前にこの勢いのままだと——

 絡み合う男とミモリ。階段を転げ落ちながらもミモリは必死に抵抗する。だが、その先に道はない。完全な空中だ。

「ミモリィ!」

 叫ぶ間も無く二人は鉄塔から投げ出された。ルナとソルは急いで手を伸ばしたが——その手は虚しく空を切った。

 取り残されたルナとソルに沈黙が訪れた。


 テンマは階段を素早く駆け降りていた。ルナたちの証言の真偽を確かめるため、ゼフ司祭に会いにいく途中だった。

 階段を降り切って、大地に足を下ろす。司祭のいる場所はあまり明かされていないが、ある程度は見当がついている。思い当たる箇所を虱つぶしにあたるつもりだった。

 だが、行ったところでどうする? あなたは教団を裏切りましたかと聞いて馬鹿正直に答えてくれるはずもない。それどころか司祭を疑っただけで射殺されるかもしれない。そもそもルナたちの言い分も信用できない。もしかしたら本当にあいつらはただの人殺しかもしれない。どんどん問題が頭に浮かぶが結論は出ない。どうすべきだろうか。わからない。

 テンマは自分自身に苛立ちを覚えた。ここまできて何が『わからない』だ。この様で何が兵士長だ。と——

 こんな自分についてきてくれる部下たちに申し訳なかった。特に自分に尊敬の眼差しを向けてくれるミモリに。

 だが、今は自分の不甲斐なさを呪っている場合じゃない。それに、まず片付けるべき『仕事』ができた。

 テンマは前方に銃を向ける。その先にいるのは——黒い外套の男だ。

 男は銃を向けられてもなおテンマに近づく。その歩き方からも相手が自分に匹敵する実力を持った人間だと見てとれた。

「一応言っておくが、普通銃を向けられたら手を上げるもんだぜ。大人しく投降してくれないか」

 冗談まじりにテンマは男に話しかける。だが男は何も喋らないし、止まらない。

「……部屋で美味い飯食っていたかったな……」

 近づく両雄。待ったをかける者はここにいない。

 互いの射程制空権が触れた。

 ——決着はすぐについた。

 先手を取ったのは黒い外套の男だった。突然吹いた強風がテンマの体を直撃した時に外套からナイフを投げたのだ。

 テンマの首に白刃が辷る。赤い液体が迸った。

 だが、刃先は表皮を掠っただけ。頸動脈には届いていない。テンマはわざと掠らせた。黒い外套の男が自分が罠に嵌ったことを自覚した時にはもう——テンマの銃剣が自身の体に食い込んでいた。

 崩れ落ちる黒い外套の男。しばらくうめき声をあげていたが、暫くしたら——動かなくなった。

 テンマは急いで男の外套を剥ぎ取り、顔を確認した。

 その男の顔はテンマがよく知っていた顔だった。重要な会議の時。負けられない戦争の時。その時いつもこの男がいた。その胸には当然——教団の紋章があった。

 慟哭。

 テンマは全てを理解した。故に叫んだ。そうせずにいられなかった。なるほどよく考えられている。自分達がここで戦うのも想定済みだった。この男が勝てばつつがなく暗殺を遂行すればいいし、負けて殺されたらその時は殺した人間に——自分に同胞殺しの罪を着せればいい。後に真実を知るものは残らない。この男は、ゼフの側近だったのだ。となると当然この暗殺指令を出したのもゼフ本人だろう。

 考えれば考えるほど憎悪が自分の心を染める。自分は利用されたのだ。そして踏み躙られた。教団に対する忠誠心を。

 やることは決まった。ゼフを殺す。自分と部下を危険に晒したツケを払わせる。その後自分が殺されようと知ったことではなかった。

 その時、鉄塔の上で爆音が鳴り響いた。何事かと思いテンマは空を見上げる。

 そこには墜落する巨大な飛行船があった。

 上で何かがあった。三人が危ない。引き返し鉄塔の階段に足をかけた瞬間、テンマの体を銃弾が貫いた。

 口の中に鉄の味が広がる。

「そういえば……まだいたんだっけな……」

 テンマの視線の先にいるのは人——のような何か。

「障害物……補足……ギギ……絶大な危険人物と判断……排除します……」

 穢多汚辱からの差金——

 次から次へと現れる強敵。すでに銃口は自分に向けられ、弾丸は腹部を貫いた。だがテンマは——

「ハハッハハハハ! いいぞお前! 俺を排除だと!? いいじゃねえか!」

 笑った。ハッタリではない。本心だった。

 テンマは飽きていた。戦争に。人を殺すことに。命の重みを忘れていたわけではない。戦争に行くたびに心は痛んでいた。故郷のためだと割り切って敵を殺した。だがテンマは強かった。強すぎた。死の恐怖などずっと感じられないほどに。

 どいつもこいつも、あくびが出る。それなのにこいつはどうだ。間違いなく強い。猛将と謳われたこの自分が一瞬圧倒された。さっきの男もそう。短い戦闘だったが、今まで戦ったやつよりずっと強かった。そんな奴がいきなりずらずら現れる。恐怖より楽しさが勝るというもの。

「幾年ぶりかな。俺の命が脅かされるのは」

 先ほどの憎悪などとうの昔に吹き飛んでいた。

「来いよ鉄屑! せいぜい愉しませろ!」


「ミモリが……死んだ……?」

 ソルが呟く。だが。

「いや、下には柔らかい雪が積もっている。それに運よくあの炎の男が下敷きになればなんとか生き残る可能性がある。身体の火も雪で消化できるだろう。まだ生きているかもしれない」

 まだミモリは生きている可能性はあった。あくまで可能性、だが。

「登るぞソル。下を見ている暇はない」

 ソルは黙って頷く。もう引き返せないことは承知していた。

 階段を急いで登りながらルナは考え事をしていた。

 なぜ教団だけでなく敵対勢力まで自分達を狙うのか。理由は教団と同じだろうが、どうして自分達が戦争の勝者を知っていると気づいたんだ? 

穢多汚辱だけじゃない。焔と十時も。

 思い出せ……何か理由があるはずだ。

 ——そういえば俺たちが持ち帰った男、誰かに似ていたな——

 誰だろうか。思い出せない。

 駄目だ。いくら考えても堂々巡り。有効な手がかりは浮かばなかった。

 そう思った瞬間、轟音が鳴った。

 何事かと思いルナは振り返る。もしかしたら新しい追手かもしれない。すかさずライフルを構える。

「ただの雷だよルナ。追手じゃない。雲が近くなってきたしこの天候だ。随分と大きく聞こえたね」

 ソルは落ち着いた様子で言った。

 ルナは安心した。少し過敏になりすぎていたようだ。

 ただの雷か。そう思った時——ルナの頭に稲妻が走った感覚がした。

 ——そういえば司祭はわし座の方角に雷が落ちたと言っていた。わし座の方角って確かルナが教団に帰る前に無力化したあの男がいた方角だ。そういえば忘れていたが、なぜあの男は『黄金の林檎』のことを知っていた? 教団の最高機密じゃなかったのか? でもあの男は黄金の林檎どころかトロイア戦争のことまで知っていた様子だった。今時神話なんて知っているやつ自分のような物好きしかいない。だというのに、あの男は知っていた。あの男も神話に明るかったのか? あんな痩せ細った野良犬のような男が?

 あの男はどこから来た? あの方向にそれらしい村は無かった。あり得るとしたら『雷と共に出現した』としか……

 そこまで考えてルナは頭を振る。

 まさか。ありえない。

 機械でできた男も、炎を纏った男もいた。だがあれらは全て科学的に説明できる。機械は体を機械と交換しただけ。炎の男も耐火性の服を燃やしながら来たのだろう。にわかには信じられないが『そういうもの』と言われたら納得がいく。

 だが『雷に乗ってきた男』だと? 流石に面白くない冗談というものだ。そんなの神様にしかできない芸当だ。神様にしか……

 そこまで考えたルナはある『恐ろしい結論』に辿り着いた。

 ——もし本当に神様だったら?——

 そこまで考えてルナは立ち止まる。ソルもルナの違和感に気がついた。

「ルナ? どうしたの?」

 ルナは答えない。考えることに必死だった。後少しで何か核心に迫ることができそうだったから。

 もしあの男が神様だったら? 全てに納得がいく。雷と共に現れたことも。トロイア戦争のことを知っていたことも。おそらく教団はあの男から『これから起こる戦争の結果そのもの』を聞いたのだろう。あの男は口が硬かったが、拷問して聞き出したことも容易に推測できる。

 だが神様と言えこれから起こる戦争の結果まで知ることができるものなのか? 未来の予測だなんてできるわけがない。神様とはいえ力に差がある。末端の神だなんて誰かを呪うこともできないと聞いた。未来予測だなんてそれこそ最高神にしかできない——

 わし座の方角から雷に乗って現れた最高神——

 わし座。

 雷。

 最高神。

 まさか——

「ゼウ……ス……なのか?」

 突如蘇る記憶。昔読んだ神話の本に描かれていた、精悍な顔。

 あの男の顔はほとんど記憶と一致していた。

 バラバラのピースが合わさった。

 ルナは震えていた。恐ろしい、悍ましい事実に。

「ルナ……本当にどうしたの? 大丈夫?」

 あからさまに挙動がおかしいルナにソルが話しかける。

「ソル……もしかしたら本当に天地がひっくり返るかもしれないぞ……」

「どういうこと!? ちゃんと説明してよ!」

「だが……それを言う前にお前に聞きたいことがある。正直に答えてくれ」

「何? 大事なこと?」

「ああ」

 ルナは気づいた。あの男が神の頂点に位置する男かもしれないことに。

 だがそれは——どうでもよかった。それ以上に大事なことがあったから。

「端的にいうぞ。俺たちが持ち帰ったあの男は神様だった」

 ルナの狂気じみた言葉にソルは驚きすらしなかった。

「何言ってるのルナ? そんなわけないでしょ」

 当然だ。こんなこといきなり言われて信じる方がおかしい。

 だがそんなソルを差し置いてルナは話を続ける。

「で、だ。ソルは確かなぜ他の団体が俺たちを追っているのか、と聞いたな。その答えはわし座の方角に雷が落ちてそこに男が現れたという摩訶不思議な現場を目撃した奴がいたからだ。そいつはどこかであの男を運ぶ俺たち二人をつけていたんだろう」

 ルナの荒唐無稽な言葉にソルは半ば呆れたように返す。

「ルナ。馬鹿なこと言ってないで早く」

「そいつは俺たちがあの男を持ち帰ったことを言いふらした。だから教団だけじゃなく他の団体も俺たちに目をつけた。そう考えると納得いくだろ? 俺たちはあの男と関わった時点でこの世界から居場所を失ったんだ。笑える話だよな。俺たちはただ仕事をしていただけなのにな」

 ルナはソルの声を遮りながらも口を止めない。一つだけ、聞きたいことがあった。

「だがここでひとつわからない事がある。この世界にはさまざまな団体がいて大体の奴らは教団に攻撃を仕掛けてくる。『穢多汚辱』や『焔と十字』はさっきあった通り刺客を放ってきた。だが」

 一呼吸置いてルナは続ける。

「なぜ、『WFPA』は何も攻撃してこない? あの団体は教団と肩を並べる力を持っている。教団と合わせてこの世界の二大巨頭だっただろ。他の奴らが攻撃している時に『WFPA』が何もしてこないのはかなり引っかかる。なぜあいつらはだんまりを決め込んでいるんだ?」

「そんなの……わからないよ……」

 ソルの声に力はない。まるで死にかけの小鳥の囀りのようだ。

「答えはひとつ。何も攻撃しないのは『もうすでに攻撃している』からだ。それならずっと刺客が来ないのも納得できる」

「……何が言いたいの?」

 ソル。

 ルナは静かに問いかけた。

「お前の髪は赤色だよな。確か」

「……赤、というか赤に近い茶色だよ。それが?」

「言いたいことは分かるだろ。その髪はミモリのやつと同じ色だ」

「……」

 ソルは何も言わない。石になったように、口をつぐんでいる。

 ——お前、ミモリと同じ村出身だな?——

 その声を聞いた途端ソルは言い訳をするようにポロポロと語り出した。

「……あまりいい所じゃなかったよ。戦場の最前線の村で、ずっと貧しかった。人口も少なくて。教団に拾われてよかったと思ってる」

「違うだろ」

 ルナの声は冷たく、その瞳は真っ直ぐソルに突き刺さった。

「お前を拾ったのは教団、ではなく」

 もう分かるだろ——

「『WFPA』だな?」

 ルナが言い終わる前にもうソルは銃を構えていた。その顔はいつもの鷹揚さはなく、人を殺すことも辞さない覚悟を思わせる剣幕だった。

「ルナには……いつも驚かされるよ。そこまで勘がいいなんて思わなかった」

「あんま褒めんなよ。照れるだろ」

 一歩、ソルは近づく。

「ルナに冗談を言う余裕があるの……? もう僕は君の命に指をかけているんだよ」

 ルナは何も言わない。銃を構えもしない。ただ、ソルを見つめていた。

「なんとか言ってよ!」

 ソルは怒声を上げる。その様子に余裕はなく、口からは荒い息が漏れていた。ここからは何よりも大事な時間だ。ルナはゆっくりと喋りだした。

「お前の村は教団とWFPAとの戦争に巻き込まれた。ミモリは教団についたが、お前はWFPAからなんか吹き込まれたんだろ。『教団に潜り込め。言うことを聞かなければ家族を殺す』ってところか? で、お前は言う通りにして、ここにきた。違うか?」

 ソルの手に力が入ったのが見てわかった。

「ほんと……お互い仕事をしていただけなのにな。悲しいよな」

「何が……何が悲しいんだ! ルナはただ教団の中でのらりくらり暮らしていただけのくせに!」

 尤もだ。自分はただ面倒ごとを避けて生きてきただけ。空虚な人生だった。

「そんなルナに何が分かる!? 教団に正体を見破られないか怖くてしょうがなかった僕の気持ちが! 毎日毎日が戦場だった! 生きた心地なんて実感したこともない!」

 想像するだけで悍ましい話だ。辛かった、だなんて言葉で表せないくらいに。

「気持ちはわかる、とは言わない。中途半端な同情もするつもりはない。ただお前は運が悪かった。それだけだ」

 ソルは強く歯噛みする。揺らいでいた。今まで感じたことのない感情に。

「だがお前は……ずっと優しかった。文句を言いながらも俺を助けてくれた。いつも一緒だった」

「だから……撃てないと思うか!? 僕はそこまで優しかった覚えはないぞ!」

 だろうな。とルナは思った。ここまできて撃てないわけがない。

「『Worldwide Flattening Project Alternative』 世界平坦化計画。最後のAlternativeは『代替案』って意味だ。あいつらはこの世界を更地にするのが目的。その以外の全ての手段が『代替案』である全てを捨て去った死人の集団。教団も碌な奴らじゃないが、あいつらも大概だ。お前が与してもいいことはない。まあお前も言われなくたってわかっているだろうけどな」

 ソルは何も言えなかった。こんな過去を誰かに知られた事がなかったから。初めての経験に思考回路がショートしていたのだろう。

「で、そんな奴らの仲間がなぜか俺と仲良くなり、祭典の実行者となった。これも偶然じゃなく上がなんか一枚噛んでるんだろ。陳腐な話だが教団とWFPAとの間でなんか約束があったんだな。今にして思えば祭典の実行者が二人一組で行われることも納得がいく。一人で登らせるとそいつが教団とWFPAどっちにつくかで揉める。だから二人に戦争の結果を知らせて、文字通り情報を半分分け合った。祭典の実行者のうち片方は死ぬってのも自然だ。死ぬ、と言うより行方不明になる、と言った方がいいか。教団は片方の実行者をWFPAに差し出したんだ。情報を一人で独占して世界征服するよりお互いが『強力なカード』を持って牽制し合いながら争い続けた方が儲かる。戦争なんて金儲けの道具なのはわかっていたことだが、上の都合で無限に殺し合いをさせられる俺たちにとって迷惑この上ない話だ」

「……今更そんなこと知ったってどうしようもないよ。ルナはここで僕に殺される。違う?」

 脅し、ではないな。ルナは直感的にそう感じた。

「ああ……こうなることも薄々わかっていた。だから俺はお前にわざと『パリスの弓矢』の役を譲った」

 ルナの言葉にソルは困惑した表情を見せる。

「どういうこと……? なんで今ここで『パリスの弓矢』の名前が出てくるんだよ!」

「まだ言っていなかったな……『パリス』という名前にはパリスの審判という意味があるって言ったが、もう一つある。『パリスの弓矢』の他にもう一つの役……『俺の役の名前』を司祭は教えてくれなかった。だが大体予想はつく。俺の役の名前は『アキレウスの踵』……パリスに殺された猛将の弱点の名前だ」

 吹雪が一層強くなった。大粒の雪が二人に叩きつけられるが二人は動かない。

「情報は教団とWFPAの二人で分けられる。だがちゃんと分けられるか保証はない。もしかしたら相手が直前で裏切って片方の実行者が殺されてしまうかもしれない。それを教団は恐れた。ゼフ司祭はお前には祭典の内容を告げた後内密に話すつもりだったんだろうな。WFPAとの話がうまくまとまらなかった時。もしくは相手が不審な動きを見せた時。『私が合図を送った瞬間にもう一人の実行者を殺せ』と……だから『パリスの弓矢』にだけ連絡用の無線機が与えられた」

 ソルの顔の剣幕は一層強さを増した。

「ルナは……全部わかっていながら『アキレウスの踵』の役を引き受けたのか!? 僕が裏切ることも! 教団から殺されるかもしれないことも!」

 ルナは黙って頷いた。

「教団の倉庫を漁った時にはもうわかっていたよ。お前が俺を殺すかもしれないこと……わかっててあの時『パリスの弓矢』の役をやらせた。お前自身が役を決めたように見えたが、俺には優しいお前が金床を背負う役を引き受けるって知りながら言った」

 ソルは納得できないと言わんばかりに詰め寄る。

「なんで……殺されるっていうのに僕に『パリスの弓矢』の役をやらせたんだ! 自殺行為だろ!」

 ソルはルナの顔を見つめたが、その表情に戦慄した。ルナの目には哀しみが宿っていた。世界に絶望した、深い色をした目だった。

「俺とお前、生き残るならお前の方だと思ったからだ。お前になら……俺の信じた優しいお前になら殺されてもいいと思った。それだけだ」

 ルナは優しく、それでいて儚げな顔をしていた。だがその顔の奥深くに強い覚悟を感じさせられた。

 なんで、とソルはこぼす。理解できていなかった。ルナの自己犠牲を。

「さあ、撃てよ。それでいいだろ? もう終わりにしてくれ」

「本当に撃つぞ……それでいいのか!?」

 ルナは何も言わずに頷いた。そして両腕を広げ、目を閉じた。

 ソルの呼吸がさらに荒くなる。銃口も震えていた。

「ごめん」

 乾いた銃声が一つ、空高くに鳴り響いた。


 テンマは腹部の激痛に耐えながら、目の前の機械の体を分析した。

 ——相手は全身が装甲で出来ている。並の弾丸は通用しない。その上奴の両腕はフルオートの小銃だ。それに対して自分の装備は一般的な歩兵銃。まともにやり合っても勝ち目は薄い。

 だが、全てが固いというわけではない。関節部分。あそこは部品同士のジョイントだから衝撃に弱くなっている可能性が高い。狙うならそこしかない。

 そう考えているうちに機械の腕から銃火が閃く。テンマはなんとか鉄塔の柱の影に隠れる事ができたが、このままだと近寄られて死ぬのも目に見えていた。

 テンマは意を決して柱から走り、銃を乱射する。

 弾丸が相手の左腕関節部に当たった。するとテンマの予想通り機械の左肘から先が吹っ飛んだ。

 残る相手の武器は右腕の銃。だがテンマの走る先に隠れる場所はない。まさしく格好の的だった。

 相手の残った右腕から弾丸が飛び出し、テンマの右脚を貫いた。軽くうめき声を上げながら雪の上に転がり込む。

 相手の弾丸はテンマの重要な血管を撃ち抜いたようだ。白い雪の上に鮮血が飛び散る。

 テンマは本能で悟った。このままでは自分は数分以内に失血で死ぬ。早く決着をつけて早急に手当をするべきだ。

 だが動けない。身を隠す場所もない。このままでは蜂の巣にされるのは明白。

 一瞬死を覚悟した。だが相手から弾丸は飛んでこない。テンマは這いずりながら相手を見ると、何か様子がおかしいことに気がついた。

 相手の機械は意味不明な言葉を喋りながら震えていた。

 どういうことだ? なぜ撃たない?

 疑問がテンマの頭を埋めたが、すぐに消し飛んだ。

 さっき撃った弾丸の一つが相手の首関節のジョイント部分に当たったのだ。左腕のように吹っ飛びはしなかったが重要な回路を撃たれて体の制御ができなくなっている——

 そう確信したテンマは銃を構え、冷静に右腕関節を撃ち抜く。続いて右脚、左脚と正確に弾丸を叩き込んだ。

 崩れ落ちる機械。こうなればもう勝ちと言っていいだろう。テンマは痛む脚を抑えて立ち上がる。

 ゆっくりと機械に近づき、とどめを刺した。

 終わった——

 テンマは一息つき、脚の手当てに移る。

 大丈夫、救急の用具は支給されているのですぐに止血できる。そう思った時、倒したはずの敵機体から違和感を感じた。

 なんだこいつ。何か、何かおかしい——

 さらに機体に近づき手を伸ばすと、違和感の正体に気がついた。

 こいつ、熱い。熱を持っている。

 その証拠に機体の周りの雪は溶け始めていた。

 なぜだ? まだ死んでいないのか?

 だが機体は動かない。それどころかどんどん熱量が上がっていく。

 まさか——

 自爆する気だ。

 そう気付いた時には自分は走り出していた。と言っても足を引きずりながらでかなり遅いが、それでも機体から遠くに離れようとした。

「機体宿主の生命活動の停止を確認。機体宿主の生命活動の停止を確認。爆破プログラム起動。爆発まで十秒前」

 わざわざ秒読みまでしてくれるなんてありがたい。テンマは内心皮肉りながらも逃げる。

 大丈夫。かなり動きにくかったが後少しで安全圏内まで行ける——

 そう思った時、後ろでドサッと音がした。

 何かが落ちてきた音。テンマはすぐさま振り返った。

「うゔ……ああ……」

 そいつは体の雪を震わせながらうめき声を出していた。

 音の正体は——自分の部隊に所属する後輩だった。

「ミモリィ!」

 テンマは叫んだ。訳もわからないまま、自然と。

 なぜ上から落ちてきた? ルナとソルについて行ったのではなかったのか? まさか揉めてミモリだけ落とされたのか?

 さまざまな思いが頭の中で散乱する。だが今考えるべきは——

 ミモリは今、機械の自爆範囲にいるということ。

 すぐさまテンマはミモリのそばに駆け寄る。急いで共に機械の自爆から逃れようとしたが、足の負傷のせいで上手に運べない。

 このままだと二人して粉々になる。

 どうする? ミモリを見捨てて自分だけ逃げるか?

 考えたくもないのに最低な考えが浮かぶ。いや、人間として当然の考えだ。誰だって自分が一番可愛くてしょうがない。

「爆破まであと三秒……二秒……一秒……」

 どれだけ考えても後ろから聞こえる死のカウントダウンは止まらない。やはりミモリは捨てるべきだ。自分の脳は冷酷に働く。そう考えたはずだった。

 ——だがテンマの体の方は脳の指令に反いた。

 テンマは半ば反射的にミモリに覆いかぶさる。

「零秒」

 その時、なぜかテンマの頭に「あなたは優しすぎじゃあないですか?」とルナの声が響いた。


 体が……痛い。動けない。足が折れている。腕も機能していない。声を出そうにも情けなくうめくことしかできない。

 体に走る激痛はミモリの意識を覚醒させた。しかし雪に埋まっているのか前が見えない。

 だめだ。痛いし寒い。それになんだか眠くなってきた。

 もう、寝てもいいか。ずっと大変だったもんな。

 村が戦場となり、家族が死んだ時、俺の心も死んだ。WFPAの連中に見つかった時、俺は震えて死を待つことしかできなかった。

 そんな俺を救ってくれたのはテンマ兵士長だった。あの人は俺の頭に銃を突きつけた兵士を吹き飛ばし、残りの兵士を鏖殺した。

 鮮やかとしか言いようのない動きだった。流麗で、豪壮だった。瓦礫の上に血みどろで立っているあの人の姿は地獄の鬼そのものだったが、少なくとも俺の目には弱き民を救う英雄に見えた。あの人が教団の兵士と知ってからは早かった。知ったその日に教団の門をたたき、自ら兵士となった。俺のことを女だからと馬鹿にしてくるカスは全員訓練の成果で黙らせた。あの人に少しでも近づくために泥水も啜った。だからあの人と同じ班に所属することとなった日はそれはもう柄にもなく大喜びした。一歩ずつあの人のようになれる自分が誇らしかった。

 だけど——あの人は俺が思っているよりもずっと先の場所にいた。一緒の場所で過ごせば過ごすほどに思い知らされた。この人にはこの先ずっと追い付けないと。悲しかったはずなのに、それと同時にこの人はやはり凄い人なのだと確認できて嬉しかったのを覚えている。形容できない、複雑な感情だった。そう、抱いてはいけない感情。兵士だった俺の心に燻る唾棄すべき病。

 それを自覚した時俺は途轍もない自己嫌悪に襲われた。あの人は格好良かった。だから周りの女たちもあの人のことを放っておかなかった。あの人に向けられる女たちの眼差し。それに気づく時に激しい苛立ちに襲われる自分が嫌いだった。いつしかあの人を思う気持ちが純粋な憧れなのかわからなくなっていた。だから俺は自分を殺した。出来るはずもないのに男であろうとした。自分の気持ちを忠義で押し殺した。それなのにあの人が夢に出てきた時に喜べばいいのか嫌がるべきなのかわからなかった時は絶望した。いくら自分を抑えても所詮自分はこんなことで悩む生娘でしかなかった。もう嫌なんだ。こんな自分。もうあの人に迷惑をかけたくない。ここで終わりにしよう。なのに……

「なんであの人の声が聞こえてくるんだよ……」

 ずっと憧れていた声が近くでする。ボソボソと、小さい声だが確かに聞こえた。神様は意地悪だ。なんでこんな時に限って夢を見せるんだよ……

 近くに行きたい。私が死ぬ前にもっと。もっと近くに。

 ミモリは言うことを聞かない体を強引に起こそうとした。それでも起き上がれなかったから、芋虫のように這いずるしかない。それでも尚聞こえてくる声の元に行こうと力を振り絞った。

 後少し。後少しで声の元にたどり着く。

 ずるずると体を引きずってなんとか声の元らしきものの近くに来ることができた。

 あの人だ。

「テンマ兵士長……私です……ミモリです……」

 弱々しくミモリは話しかける。だが返事はない。

「聞こえていますか……返事をしてください……ミモリです……」

 ミモリは手を伸ばし、テンマ兵士長に触れる。しかし予期せぬ返答が返ってきた。

「そこに……誰かいるんですか……?」

「……は?」

「私の名前はテンマと申します……そこに誰かいるんですか……?」

 急いでミモリは体を起こす。自分の体の痛みなど知ったことではなかった。

 なんとかテンマ兵士長の安否を確認したくて必死だった。だがミモリは自分の目に飛び込んでくる情報が信じられなかった。

 なんだこれ。目がやられている。それに脚もない。

 全身血まみれのテンマ兵士長はかつて見た形をしていなかった。

 なんで。どうして。誰がこんなことを——

 そういえば自分が地面に激突する直前何か機械のようなものが見えた。それに向き合うテンマ兵士長も。

 よく周りを見渡してみると、金属の破片が飛び散っている。なぜ。

 まさか——

「爆発……したのか……?」

 多分あの機械はテンマ兵士長に追い詰められて、爆発するしかなかったんだ。やっぱりテンマ兵士長は凄い。機械人間にまで勝つなんて。

 ——あれ? でもなんでテンマ兵士長は逃げ遅れたんだ? この人なら敵の爆発をまともに受ける筈がない。いや、それよりも。

 なんで俺の体に破片が刺さっていない——

 急いでミモリはテンマ兵士長の背中を見る。するとそこには夥しい数の破片が突き刺さっていた。

 待て。嘘だ。うそだうそだうそだ。そんなの嫌だ。迷惑をかけたくないって思ったばかりなのに、こんなこと。この人はそんなことしない。この人は俺なんかを命をかけて助けることなんてしない。俺の知っているこの人なら俺を見捨てたはずだ。冷酷で残忍であるのがあなただ。そんなことする筈がない。する筈がないのに——

 自分の目がその考えを否定する。

 気がついたら涙がミモリの目から流れていた。村が襲われたとき以来泣いたことのないミモリが——泣いていた。

 泣きたくないのになぜか温かいものは止まらない。拭っても拭っても一向に乾かない。とめどない涙はついに一滴、二滴とテンマ兵士長の顔に滴った。

「あなたは……泣いているのですか? どうか泣かないでください……お願いです……」

 聞こえない。聞きたくない。

「私の名前はテンマと申します……先月入隊したばかりの新兵です……私は先ほどの敵兵の爆撃をまともに食らいました……もう目も見えないし音も聞こえない……」

 爆発の衝撃で頭を打ったのかテンマ兵士長は意識が混濁している。ここが戦場で、自分が新米の兵士だと思い込んでいるのだ。

「あなたは私の部隊の上官殿ですか……? 上官殿に大変失礼だと存じますが……お願いがあります……」

 やめてください。やめてくれ。やめて。

「どうか……私の故郷の村にいる私の恋人に伝えてください……あなたの恋人は戦場で勇敢な死を遂げたと……私の恋人は私には勿体無いほどの美人でした……器量も良く、相手など他にいた筈なのに……それなのにぶっきらぼうで誰とも仲良くなれない私を愛してくれた……いつも腹をすかせた私を温かい料理を作って迎えてくれた……ほんとうに私には勿体無い恋人なんです……叶うことならもう一度あの子の料理が食べたい……お願いします……」

 テンマ兵士長はブツブツと小さい声で呟く。体からはもう取り返しのつかない量の血が流れていた。

「私の村は辺境にある小さな村です……ご存じないと思いますが……シギナ村という貧しい村です……どうか……どうか……」

 消える。命の炎が。『私』の手の中で……

 呟くテンマ兵士長にミモリはそっと唇を合わせた。こんなことしてもなんの意味もない。テンマ兵士長の傷が癒えるわけでも、『私』の心が満たされるわけでもない。それでも。ただそれでも。

「……ユーリ、なのか……?」

 最期くらい、いい夢を見てください——

 テンマ兵士長は微笑んだまま、動かなくなった。

 雪が、降っていた。

 静かに。

 ずっと——


 暗闇の中、確かにルナは銃声を聞いた。

 自分は死んだ。そのはずなのに。

 目を開くと、自分の体には傷ひとつない。

「なんで……なんで……」

 目の前でソルは顔を覆って泣き崩れている。

 先ほどの弾丸は空を切ったようだ。ルナには当たらなかった。それがどういう意味を持っているのかルナにはわかっていた。

 ルナがどうして殺さなかったと聞いても、ソルは何も返さない。

 ルナは空を見上げる。鉄塔の頂上はもうすぐだ。追手もいつくるかわからない。はやく行かないと。

 黙ってルナは階段を登り出す。

「待てよ……待ってよルナ!」

 ソルがそう叫んだ。ルナは振り返らないまま聞いていた。

「なんで僕を殺さない! 僕は裏切り者なんだぞ! ルナの敵なんだぞ! なんで!」

「……まだまだ塔は続いているし……それにお前が死んだら寂しいからな」

 その言葉を聞いて、ソルは訳がわからないという表情をしたが、それ以上は何も言わなかった。

 二人は黙ってまた歩き出す。この長い鉄塔を登るために。


 ひとつ。

 ひとつ。

 またひとつ。

 梯子に足をかける。

 視界を遮る大雪で上はほとんど見えていないが、かすかな手元の感覚だけを頼りに手を伸ばす。分厚い手袋をはめてはいるが、もうすでに手先の感覚は無い。

「おぉい! ソル! ちゃんとついてきているか!?」

 目下に広がる無限のホワイトに向かって叫ぶ。どこかに、あいつがいるはずだから。

 本当は下を見ている余裕はない。声を張り上げる余裕も。だが、気にかけずにはいられなかった。あいつはいつもどこかに行ってしまいそうな危なっかしさがあったから。

 凍てつく風は何枚にも重ねた防寒着の隙間を縫ってルナの肌を切り裂く。全身に抜き身の刃物を当てられているようだ。

 冷たい。寒い。痛い。

 それでもルナは半狂乱になって声を上げ続けた。

「おい! へんじ、しろぉ! おぉい!」

 震える唇をなんとか動かして声に出すが、途切れ途切れにしか音にならない。

「……ル…………ここ……い……」

 暫くしてやっとソルのものらしき声が帰ってきた。強風と、耳に叩きつけてくる雪の音のせいでほとんど聞き取れなかったが、確かにソルの声だ。まだソルは生きている。だが、この声の遠さからして自分から何メートルか離れてしまっている可能性が高いとルナは考えた。もしかしたら、ソルは今にも梯子から手を離してしまうかもしれない。そして、この鉄塔から真っ逆さま。考えたくもないのに脳裏に最悪の状況がチラついてしょうがない。

 やはり力が強いことだけが取り柄のソルに『パリスの弓矢』の役をやらせるのには無理があったか。

 しかし今は自分のやることに集中すべきだ。ソルのことを考えている場合ではないことは、ルナも十分わかっていた。

 上を見ろ。吹雪でほとんど見えてはいないが、確かに梯子が続いている。ルナの頭に道がまだ途切れていない喜びとこの苦行がまだ続くという絶望が訪れた。だがすぐに気を持ち直し、また体を動かす。

 ソルの裏切りが発覚した後、階段をある程度登ったら道は細い梯子だけになっていた。そこを登り始めた途端天候も大荒れ。まるで俺たちが来ることを拒んでいるようだ。

 ただ、今は何も考えるな。

 登れ。登れ。登れ。

 だが、ルナは梯子に手を掛けながらボーッと考えていた。これからのこと。ずっと先のこと。

 ここから生還しても、教団は自分達を殺そうとするだろう。他の団体もそう。もはやこの世界に自分達の隠れ場所はない。だから自分達は今祭典を終わらせて、戦争の勝者を知る。そしたら勝者は誰なのか誰彼構わず言いふらして、世界をひっくり返す。そんなことをしたら世界はもっと荒れるだろうが、少なくとも教団や他の団体は自分達を殺す必要はなくなる。そしたらあとは……あとは……

 どうしようか。

 当然だがルナは世界が終わった後でどう生きていくか考えたことがなかった。想像の埒外。考えの及ばぬところだった。

 そうだ。ソルと暮らそう。どこも平和なんかじゃなくなっても、あいつとならどこででも生きていけそうな気がする。そうだそうしよう。

 ルナは半ば意識の外を揺蕩いながらどうでもいいことを考えていた。体温が低くなりすぎて考えがまとまらないのである。

 わからなくなってきた。この鉄塔を登る理由も、世界が自分達を拒絶する理由も。

 この手も、もう離してしまおうか——

 そう考えて、周りを見渡したら、いつの間にか視界が晴れていた。

 視界だけじゃない。雪もない。風もない。今まで雪の世界しか知らなかったルナにとってその世界は昔本で見た天国に近かった。

 雲の上まで来たのだと理解するのに多少時間がかかったが、ルナはあまりの絶景に気を取り戻した。

 ここまで来たか——

「おいソル! 聞こえるか!?」

 ルナは下にいるはずのソルに声をかける。先ほど確認したばかりだが、心配になったのだ。

「うん! いるよ! すごい光景だね!」

 姿は見えないが、確かにいる。

 一人じゃない。その事実にルナは心の底から救われた。

 ここまで来たら後少しだ。

 上を見上げると、梯子の先に何か小さい足場のようなものが見えた。

 あそこが頂上か——

 自然と梯子を上るスピードが速くなる。後少し、後少しで——

「着いた」

 ルナは足場に乗ると、ふらつきながらもなんとか二本の足で立つ。そして改めて周りを見渡すと、言葉では言い表せないほどの美しい景色が広がっていた。雲の彼方からは太陽が出始めていて、空を綺麗な茜色のグラデーションで彩っていた。見事な朝焼けだ。

 しばらくするとソルも登ってきた。ソルも同じくこの美しい景色を見て感嘆のため息を漏らしていた。

「……登り切ったね」

「……登り切ったな」

「えっと……なんか感想とかある? 聞きたい」

「なんだよそれ……いや……辛かったけど、この景色見たらどうでもよくなった」

「普通だね」

「うるせえ」

「でも僕も一緒。今はもう、何もかもどうでもいい」

 無意味で非生産的な会話。だが不思議とそんな言葉の応酬が心地よかった。

「で……登ったら何するんだっけ」

 そういえばそうだ。もうどうでも良くなってきたが、自分達にはやらなければいけないことがあった。

「黄金の林檎……どこだ?」

「見た感じ無いね。当たり前だけど」

 どうする。自分達は黄金の林檎に書かれている戦争の勝者を知るために来た。今更『何もありませんでした』と言って帰るわけには行かない。

「そうだ。祭典の道具」

 ソルはそう言うと、背負っていた金槌と金床を足場に降ろした。

「多分これを使うんだよ。ルナも鋏出して」

 そう言われてルナは背中の鋏を降ろす。人の胴体さえ断ち切れそうな、巨大な鋏だった。

「……で、どう使うんだこれ」

「僕に聞かないでよ。わからないけど、多分鋏を金槌で打つんじゃないかな」

 ソルは鋏を金床の上に置き、思い切り金槌で叩いた。

 カァーン……

 大空に心地のいい音が木霊した。

 ……それだけ。

 何も起こらなかった。

「何も起こらないじゃねえかよソル」

「そんなこと言ったってしょうがないでしょ! こっちも何もわからないんだから」

 ハズレか。

 そう思い顔を上げると、目の前になんと男が立っていた。いや、立っていたと言うより、浮いていた。ただ静かに、そこに存在していた。

 美しい男だ。ルナはそう思った。その男はそこに存在しているだけで神々しく、今にも二人を光で包まんばかりだった。

「うわ! びっくりした。あ、なんか見たことある人だ。この人あれじゃない? 僕達が運んだ人。すごい似てる」

 確かにそうだ。顔の肉のつき方が全然違うが、確かにあの男だ。今は教団の施設に囚われているはずだが、そんなこともうどうでも良かった。

「あんたが『黄金の林檎』か。俺たちは戦争の勝者を知りにきた。早いところ教えてくれ」

 そう言うと男は下を指差した。

「いや、下じゃなくて。はやく戦争の勝者を……」

 それでも尚、男は下を指差したままだった。

「……どうするルナ」

「殴って無理やり聞くのも罰当たりだよな」

「でも最初ルナは銃で撃ったじゃん」

「あれは……しょうがないだろ」

 どうしたものか。二人でうんうん唸って考えていると、ソルが何かを思い出したかのように服のポケットをまさぐり始めた。

「どうしたソル」

「ちょっと待って……えーと……あった!」

 そう言ったソルの手に握られていたのは……ソルが盗んだ鹿肉の燻製だった。

「これあげたら何か言ってくれるかも」

「……動物の餌付けじゃないんだぞ」

「やってみなきゃわかんないよ! はい。これあげます。なのでなんかしゃべってください」

 適当な指示だな……と思ったがソルの顔は急に晴れやかになった。

「え!? はい……はい……わかりました〜ありがとうございます〜」

 ソルが急に独り言を始めたのだ。これにはルナも驚いて口を挟まざるを得ない。

「おい……ソル! いきなり何言って」

「ルナちょっと待ってて……あ、ごめんなさい……はい……はい……わかりました」

 しばらくソルは独り言を続け、ようやくルナに向き合った。

「ちょっと聞いてよルナ! この人が鹿肉のお礼になんでも願い事を一つ叶えてくれるんだって!」

 突拍子のないソルの言い分にルナは面を喰らう。鹿肉を与えただけで? 随分と安上がりだな。それになんでも願い事を一つだなんて物語でしか見たことのない文句だぞ。それになんでソルにしか声が聞こえないんだ。

 だがしかし……この手に乗らないわけにはいかない。

 叶えてもらおうじゃないか。俺たちの願いを。

「えーとね。僕の願いは……そうだな……お金がいっぱい欲しい! あ……あとお腹いっぱいご飯が食べたいな……あと柔らかいベッドでいっぱい寝たい!」

「……俗物の塊みたいな願いだな。気持ちはわかるけどさ……それに願いは一つまでって言ってるんだろ? 一つにまとめろよ」

 ルナの言葉を聞いてソルは顔を赤くしてぷんぷん怒る。

「じゃあルナならなんて願うんだよ! 言ってみろ!」

 俺の願い? そうか……俺の願いか……

 しばらくルナは黙り込む。その様を見てソルはなぜか勝ち誇った顔をした。

「ほぉらみろ! ルナだって大した願い事ないじゃないか!」

 だがルナはそんなソルの態度を意にも返さない。

 俺は……そうだな……

「……俺は」

 もう、ルナの願いは決まっていた。

「俺はソルと一緒にいたい。できれば戦争とか、宗教とか、差別とか煩わしいものがない新しい世界で。あったかいところがいいな。そこでいっぱい美味いもの食べて、いっぱい寝て、二人きりで静かに暮らしたい」

 そんなルナの台詞にソルは少し恥ずかしそうに答えた。

「……よくそんなこっぱずかしいことが言えるね」

「ん? でも悪くないだろ? ずっと俺と一緒なのは嫌だろうが、暇はしねえぞ」

「ん……まあ……いいか。ルナと二人きりの世界も案外悪くないかもね」

「決まりだな」

「うん」

 意を固めたソルは目の前の男にこう言った。

 さっきソルが言ったみたいな世界でルナと一緒に暮らしたいです——

 そう言うと、男は再び下を指差した。

 だが、今度は意味がわかった。わかったと言うより悟ったと言った方が正しいだろうか。もう、どうでもいいことだが。

「……なんか想像と違うな。俺はなんかもっと光に包まれていつの間にか別世界に……みたいなの想像しいたんだが」

「せっかく願い事を叶えてくれるんだから文句言わないの。行くよ」

「……ああ」

「怖いの? 案外ビビリなんだね」

「別に。ちょっとこの世界が名残惜しかっただけ。悪い思い出もいっぱいあるけど、いい思い出もあったから」

 そんなもんかな

 そんなもんだよ

 そうかな

 うん

 二人はいつの間にか手を繋いでいた。手袋越しに互いの手の大きさが分かる。

 呼吸を整え、前を向く。

「じゃ、さようならだな。この世界にも」

「そうだね。バイバイ」

 ルナとソル。二人はいつも一緒にいる。

 まさしく太陽と月のように、離れることはない。

 二人は駆け出し、大空に翔び上がった。

 冷たい風が二人を迎える。だがそれはいつもの悪辣な鎌鼬ではなく、心地よく二人を包み込む羊水だった。

「さよなら。また会う日まで」

「こんにちは。新しい世界に」

 ルナ。行くよー

 待ってよ。ソル

 もうすでにルナとソルは鉄塔の頂上から姿を消してしまった。

 後に残ったのは、下を指差しながら静かに鹿肉を頬張る男だけだった——

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