海の上
見渡すかぎりの、青の色。
快晴の空と凪いだ海。白い鳥が列をなして、太陽のほうへ翼を広げて飛んでいく。
「さいっこーね」
ぶわりと風が吹く。運ばれる、潮の香り。
ミラはそれを、胸いっぱいに吸い込む。不安感が、ほんのりと和らいだ気がした。
海に住む隣人と言えば、マーメイドやセイレーン、メロウなどが有名だろうか。
ミラは脳内の知識を引っ張り出しながら、水面を眺める。エンジンの駆動による振動が、足裏から頭まで走っていくようだ。
彼女らはどれも美しい声で歌い、そばを通りかかった船を海底に沈めていくのだ。そして乗っていた積み荷を奪い、乗組員を襲い食らうことだってある。
さっと、背筋に冷たいものが走る。
「彼女たちには、会いたくないなあ」
実際に会って話をしてみたい気もするが、そのために船一隻を沈めるなんてとてもできない。
きらめく水面を眺めながら、そうやってミラがつらつら思考を続けていたときだ。
「なにをしてるの、ミラ」
いつの間にやってきたのか、テトが隣にいた。彼も先ほどまでのミラと同じように海面を見、砕ける波を見、眩しそうに目を細めている。
「なにって、海を見ていたのよ」
「楽しい?」
「ええ、とても」
はっきりとうなずいて見せれば、テトも嬉しそうに笑う。
「そういうあなたは? いつきたの?」
「さいっこーね、ってあたりから」
「……なんで教えてくれなかったのよ」
「水の乙女って、きっと君ほど美しいんだろうなあって考えてたら、つい。ミラって妖精みたいだし」
水の乙女とは、先に名前を上げたマーメイドやセイレーン、メロウたちのことだ。水辺に住む妖精たちは、多くが美しい女性の姿をかたどることから、いつの間にかそう呼ぶことが多くなった。
「ならテトは水夫にむいてないわね。こんなものに引っかかるんだったら、あっという間に本物に魅了されて座礁するのがオチよ」
「そうかな」
テトの視線がミラにむけられる。負けじと、ミラも彼を睨み返す。
「僕は君以外になびく気はしないけど」
まただ、またこれだ。
ミラはでかかったため息を飲み込んだ。
「あなた……そういうこと言うの、人を選んだほうがいいわよ」
「もちろん。言いたい人にしか言わないよ」
きれいな顔をほころばせて、彼は言った。
テトは自分の容姿を自覚しているのかなんなのか、思わず照れてしまいそうな言葉を次から次へと口にする。ミラの反応を面白がっているようにも聞こえるし、純粋な好意からくる言葉のようにも聞こえる。
これ以上問答を続けても無駄だと早々に見切りをつけて、ミラはまた海原を見つめる。
「ああ、そういえば。カイは散策してくって。レナはノノンと部屋にいる」
「そう、分かったわ」
耳を澄ませばざわざわと、人の話し声が増えてきた。
ミラは海鳥の声、波の音、人々が目覚めた朝の音をじっと聞きながら、この船に乗り込んだ日のことを、そっと思い出す。
依頼を請けたミラが、さてなにをしようかと考えているとき、テトが「まずはミラに、印の領地まで一緒に来てもらいたいと思ってるんだ」と提案してきた。
ミラももとより印の場所には赴くつもりだったのでそれを快諾したところ、あれよあれよという間に話が進んでしまい、あっという間に出発日が決められてしまった。そのあいだミラが口を挟むことができず、唯一救いだったのは、荷造りを手伝ってくれたレナが「主が強引で、申し訳がありません」と謝ってくれたことだろうか。
ノノンは我関せずの態度で最後まで猫のふりを貫き通しているし、カイは妖精の存在自体あまり信じていないのが態度や言動からすけて見えて、どうにも話しづらい。テトもテトで、ミラにちょっかいをかけて楽しんでいるのか、普段聞き慣れない甘い言葉ばかりを渡してくるから、どうにも居心地が悪く感じる。
落ち着いて話ができるのは、唯一の同性で良心である、レナひとりだけだ。
彼女は突然の出立に戸惑うミラを気遣って、荷造りの手伝いを買って出てくれた。
「本当に助かるわ」
トランクに詰める荷物をまとめながら、持っていくかどうか、荷物の選別していく。
「私、遠出をしたことがないの。だから、とても助かっちゃう」
「いえ、あの二人がわがままを押し通したお詫びのようなものですから」
ミラが分けた荷物をさらにレナが分けて、必要最低限のものだけを、茶色のトランクに詰めていく。
穏やかな日差しが、部屋に降り注いでくる。眠気を誘うゆるやかな時間だ。
二人は静かに、それぞれの作業に従事する。
風が謳う言葉が聴こえてきそうなほどの静けさが、そっと部屋に満ちていく。
「引き受けてくれて、ありがとうございます」
静けさに、ぽんと波紋が広がった。
手を止めてミラは顔をあげた。
ひとつひとつの物品を宝物のように扱うレナの横顔は、穏やか。甘やかな瞳が、優しく溶けている。
「テトやカイのやり方は強引でしたが、私たちが困っているのは本当です。相談所の数が減っていて、見つけにくいというのもありますが、彼はあなた以外に依頼するつもりがなかったようでして」
トランクの中に、隙間なく荷物が詰められていく。きれいに、整えて、入っていく。
「とても、大切なものなんです。だから、引き受けてもらえて、よかった」
優しい手つきで、ぱたんとトランクが閉じられた。レナの髪がさらりと揺れる。そして、焦げた砂糖の瞳が、ミラにむけられた。
そこでミラは、自分の手が止まっていたことに気づいた。彼女の、一挙手一投足が流れるようで、美しかったから。
トランクが差し出される。ミラはそれを両手で受け取って、胸元に抱えた。
「ありがとう、レナさん」
「どういたしまして。レナで構いませんよ」
ふわりと笑ったレナから、甘く優しい香りがした気がした。
そうして荷物を持って、長年住んでいた土地を離れた。
もちろん依頼が終われば相談所に戻るつもりだ。しかし引っ越しも旅行も体験したことがないミラにとって、船に乗って知らない土地に行くというのは大冒険と言っても過言ではない。
知らない景色、知らない匂いに囲まれる。妖精だってきっと、見慣れた友人以外の出会いが待っているに違いない。それが不安で、――楽しみで仕方がなかった。
初めはミラひとりで出立するつもりだったのだが、いつの間にかノノンが何食わぬ顔でミラの隣を歩いていたときは驚いた。カイはノノンを相談所に戻しに行くし、レナも戸惑ったようにその様子を見ている。ミラは一緒に来てくれたら心強いと思いつつ、ノノンをただの猫だと思っている三人になんと説明すれば彼を連れていけるのか分からなかった。
幾度目かの脱走を果たしたノノンがミラのそばに戻ってきたときだ。
テトがノノンの背をなでながら、彼の目を覗きこみ、「君もみどりの瞳なんだね」と微笑んだ。
「別世界が見える子は、多いに越したことはないよね」
「その子、猫ですけれども」
レナの声を無視し、ノノンを抱き上げながら「ねえ、ノノンくんも連れて行こうよ」と続ける。
「彼も相談所の従業員だもの。……ってぇ!」
手の甲を思い切り噛まれたテトはノノンを投げ出した。
そのままノノンはミラの足元にきれいに着地し、思い切り毛を逆立てて威嚇をし始める。
そうして、ノノンも旅の仲間に加わったのだ。
――がこんと、ひときわ大きな揺れが伝わり、ミラの意識が戻ってくる。
目の前で輝く海原を見て、遠くまでやってきた気になった。あの緑ばかりだった相談所から、青一面の景色の中まで、やってきたのだ。
そっと隣にいるテトに目をやる。青の海と金の髪、水面のような碧い瞳。まるで絵画のように完成された空間がそこにある。なのにノノンに噛まれた小さな傷が隙を生み出し、作品でも絵画でもなく、彼は生きているのだと告げてくる。
周囲にいるほかの乗客も、ちらりとテトを盗み見てはほうっと感嘆の吐息をもらしていた。そこに老若男女の差はなく、テトがいる空間に釘付けになっている。
ずるい、とミラは思った。容姿が優れているというのは、それだけで武器になりえるらしい。周りの反応を見れば、瞭然だ。
と、不意にテトが顔を上げ、ミラににっこりと微笑みかけてきた。小さな歓声があちこちから上がる。
「やっとミラに、僕の魅力が伝わったかな?」
「なに言ってるの。軽い人は好みじゃないわ」
「なら、充分君の好みのうちに入るはずだ。僕、一途なんだ」
「どうだか。誰でも口説いていそうだもの」
「ひどいなあ。……あ、妬いてくれてるってこと?」
「まさか!」
「……ところで、ミラ」
「なにかしら」
「気づかない?」
意味深に、テトが笑みを深めた。ゆるく弧を描く口元が憎らしい。
じっとあたりを見回して、変わったところはないかと、感覚を研ぎ澄まし、――足裏から伝わっていた振動がなくなっていることに気づいた。
あれ、と不思議に思い、周囲を見回す。そうして、ミラは自分が甲板に上がってから景色が変わっていないことに気がついた。ちっとも船が進んだ様子が見られない。
問うようにテトに視線を投げつけるが、彼は肩をすくめるばかり。
「エンジントラブルかな」
「テトーっ!」
まるでタイミングを計ったように、カイがこちらにやってきた。
紫の瞳をきらきらと輝かせて、まっすぐにテトのところへ。隣にいるミラには見向きもしない。まるで主人に褒められたくてボールを持ってきた忠犬だ。
「聞いてくれよ、さっき船員から話聞いたんだけどさ、やっべえの!」
「うん、聞くから。聞くから少し落ち着いて。ミラがびっくりして固まっちゃってるから」
「そんなのどうでもいいんだけどさ。今……っつうかさっき、エンジンがトラぶったんだってよ。原因不明で整備士もお手上げ状態らしいんだ」
「……本当にエンジントラブルだったのか」
テトがぱちぱちと数度まばたきをする。カイはなんの話か分からず首をかしげた。
「ねえ、」
服のすそを引っ張れば、カイは今ミラに気づきましたといわんばかりの態度をとって、「なに、どした?」と腰をかがめてきた。幼い子どもに対する行動だ。
そこまで小さくないのにと思ったが、カイを見上げっぱなしで首がつらかったのは事実だから、仕方ない。
「機関室に、きちんとお菓子は置いておいたの?」
「お菓子?」カイが首をかしげる。「いや、そんな話は聞いてない」
「飴とか、クッキーとか。……本当になにもおいていなかったのかしら」
「あ、ああ。俺は聞いてないけど……」
「ミラは、エンジントラブルの原因に心当たりがあるんだね?」
テトの問いかけにミラは迷いなくうなずき、「きっと、グレムリンよ」と返す。
瞬間、二人は納得したように声をもらした。
「いたずら好きの妖精だよね」テトが小さくつぶやく。
「好奇心が強くて頭がいいって聞いたことがある。飴が好きなんだったっけか?」
「そう、だからグレムリンにいたずらされないように、飴を筆頭にお菓子を置いておくんだ……。そうだよね?」
「え、ええ」なんとかミラはうなずく。「そうするとお菓子に夢中になって、大事な機械にはいたずらされないから」
「今の機械技術を教えてくれたのもグレムリンっつー話だけど、そっちは本当かどうか怪しいもんだぜ」
ぽんぽんと出てくるグレムリンに対する知識に、ミラはただ目を丸くするばかり。説明をする暇など、どこにもなかった。
テトは喜色を顔いっぱいに浮かべると、ぎゅっとミラの手を取り握る。――骨っぽく細い、指の感覚。
「なら早く機関室に行こう!」
「ええっ、私も?」
「グレムリンを見てみたいんだ、早くっ」
「あ、機関室は階段を降りて右側の、……はっえーの。もう見えない」
テトの背中を見送ったカイは、ぽつんと取り残されたミラにむきなおった。――もう、腰はかがめてはくれなかった。
上から注がれるのは、挑戦的で挑発的な目。妖精を否定し、ミラの友達を否定してきた人々がしていたのと、同じ、目。
「……随分と」
「ん?」
「妖精について、随分とお詳しいのね」
「ああ、あれか」
適当な柱に寄りかかってずっと遠くのほうを見るカイには、ミラも海も、なにも写っていないようだった。
「頭ごなしにいないって否定すんのは、バカがすることだろ。敵を知るのは重要。……間違ってるか?」
「ええ、間違っている。妖精たちは敵じゃない、友達よ」
「あんたにとってはそうかもね」
「……カイ、さんにとっては違うとでも?」
「あー、やめやめ。その取ってつけたみたいな敬称やめー。気色悪いんだけど」
「はぁ!?」
「はいはい、はいはい。うるさいうるさい。俺に突っかかるより、あんたも下に降りてったらどうなの? 本当にグレムリンなんてのがいるなら、あんたの出番でしょ。妖精相談所の店主さん」
ぐっと喉元で言葉が突っかかる。
頭上から降ってくる視線は、熱の欠片もない。
初対面で朝焼けの暖かな太陽のようだと思ったのに、その印象はあっという間に霧散する。
「言われなくても、機関室に行くわよ!」
くるりと彼に背を向けて、足早にその場を立ち去ろうとする。
そんなミラの背に、言葉が投げかけられた。
「グレムリンだったらいーね。あんたの言う友達をどうやって退治したのか、あとで教えてよ。俺、友達は退治したことないからさ」
――カイの顔なんてもう見たくもない!