始まりの前に
世の中には才能という言葉がある。目に見えない形の無いものであり、人の行う行為やその結果から、それが有るとされたり無いとされるもの。
あなたの才能はなんですか?
運動、知能、芸術、学問、仕事と、ありとあらゆる分野において才能が重要と考えている人は多い。
自分には才能が無いという言葉は、諦めたり見切りをつけたりする理由に使われたり、知ったかぶりのひとや知ってるひとが、才能が無いから諦めろ、と言ったり。
反対に何気無くしているようなことをある日、才能が有ると評価されてその事に自覚が無く驚いたりと、なにかとままならないようなしろものである。
何事かを成そうとする人や、高みを目指す人においてこの才能の有る無しはとても重要なことらしい。
天は二物を与えず、という言葉があるが才能とはこれには当てはまらない。
僕から見て、この世界に才能の無い人なんてひとりもいないからだ。それどころかひとりで二つ以上、ときには十を越える才能の持ち主というのがいたりする。
ただ、才能というものを自覚して使える人というのがほとんど存在しない。これはその人にとって幸運なことなのか、不幸なことなのか、人類全体から見て良いことなのか悪いことなのかまでは解らない。
昔の兵法に、天の時、地の利、人の和という言葉があるが、才能が発揮されるのもこの条件が必要になる。
例えば、コンピューターのプログラムについての天才であったとしても、生まれたのがコンピューターの存在しない江戸時代であったならば?
反対に石器でマンモスを仕留めることの天才であっても、現代に生まれたならば?
どちらもその才能は日の目を見ないままに終わることだろう。
たとえ時代が合ったとしても、俳句の天才がヨーロッパの国に生まれて、他の国に行くことも無く、日本語とも俳句とも五七五とも無縁ならばその人は一生自分の才能には気がつかないことだろう。
銃の扱いに天賦の才があっても、現代日本に生まれて一度も銃に触らないまま生涯を終えることもあるだろう。
あなたは試したことがありますか?
自分にどんな才能があるのかを。
幸運にもその才能に気づき、それを育てる良き指導者に恵まれたとしても、その才能では社会の中で暮らして行けない事もある。
例えばあなたが、人の爪を剥ぐのに無二の才能の持ち主とする。世界で一番人の爪を剥がすのが上手い天才。人が最も苦痛を感じる瞬間を感じとり、的確に確実に最高のタイミングとスピードで爪を剥がすことができる、爪剥ぎ専門の世界最高の拷問官。
さて、この才能で現代日本で爪剥ぎ職人という拷問官として就職して収入を得て生活することは可能だろうか?
爪剥ぎのプロフェッショナルでは、そんなスポーツも無いから、競技選手になることも無くオリンピックにも出ることは無い。
元から反社会的な才能というのも多い。スリ、誘拐、強盗、空き巣、詐欺。
あなたがこれらについて世界で一番の才能の持ち主と聞いて、さてこれを実行するかどうか。その才能を発揮して、世界で一番になれるとしたら、どうするのだろうか?
世界一の大泥棒ならばまだ格好いいだろうけれど、日本一の下着泥棒とか、世界一の強姦魔とかだったらどうだろうか?
孫のふりをして知らないお年寄りにATMでお金を振り込ませれば、右に並ぶ者がいないと誉められて、あなたは喜べるだろうか?
子供を捕まえてペンチで前歯を引き抜くことでは、世界一の速さでギネス級と呼ばれて、その偉業で歴史に名を残したいだろうか?
会社で部下を言葉の暴力だけで発狂寸前まで追い込むことにかけて、世界中探してもあなたより上手い人はいない、と讃えられて、自慢できるだろうか?
その才能がその人の性格や思想や主義に合っていれば問題無い。だけどそうならないことの方が多い。
人をいたぶるのが大好きなのに、脳外科医の天才だったり。
困っている人を助けるのが生き甲斐なのに、結婚詐欺の天才だったりと。
本人の嗜好や性格とは上手く合わないことの方が多い。
それでも、
ときにはその才能に引きずられて、まともに生きることができなくなることを考えれば、自分の才能に気がつかないというのは幸運である。
一例として、もしもあなたが爆発物を使ったテロ行為ならば世界最高レベルの才能があり、それに気がついてしまったなら。
その才能を発揮させるために毎日爆破テロのことを考え、毎日爆発物の作成を練習したり、毎日、息をするように爆弾の最適な接地場所を探すように町を見て、人の通りの多い場所ではどこにどんな種類の爆発物を仕掛けるのが効果的か、どのタイミングで爆発させれば何人死ぬか。通勤通学時間でも朝と夕どちらがいいか。どれだけの規模なら効果的な恐怖が演出できるか。死者と重症者どちらが多いとセンセーショナルになるか。老人ホームと学校、どちらに仕掛けた方がメッセージ性を込められるか。駅やデパート、人の多いところをふらふら歩きながらも頭の中は爆破テロのシミュレーションが繰り返し繰り返しリピートする。
そんな考えで頭がいっぱいになる。いや、それしか考えられなくなる。それ以外は思考に現れにくくなる。
ときには食事を忘れ、ときには寝ることも忘れて集中する。爆破テロ以外のことは些末などうでもいいことになる。
ただひたすら爆破テロの想像が脳の表面に印刷したようにべったりとこびりつき、寝ても覚めてもその思考から離れられなくなる。
才能に気がついて才能に引きずられるというのはそういうことだ。
人類全体の可能性の顕現のひとつが才能というものでもある。その可能性のなかには破滅的なもの、自滅的なものも多い。それも数ある可能性の中のひとつ。
だからこそ眠ったまま目覚めない才能が多いのだろう。
災厄をもたらす祟り神は、奉って鎮めて、起こさぬようにするべきだから。
だから才能が無いと嘆くことは無い、と思う。目覚めた才能で自身と周囲に不幸と破滅を振り撒くよりは。
あと、もうひとつ。
才能が無いと嘆く人は、実はこっそりとひとつの才能を発揮してる場合がある。
それは人が平穏無事に生きるために必要な能力のひとつ。
危ないものに気がつかないまま、知らないままにやり過ごす。
気がついてしまっては心穏やかに日々を生活することができなくなってしまう真実。
それから無意識のうちに目を反らし、触れることなく通りすぎる。
どんなに恐ろしいものでも、見えなければ無いのと同じ。
視界に入っても記憶に残らなければ無いのと同じ。
聞こえてしまっても気にしなければ無いのと同じ。
気がつかない、という才能。
平穏無事に毎日を過ごす天才。
心が鈍いということは、ひとが生きていく上でとても重要な才能のひとつだから。
昔から言われることのひとつ。
知らぬが仏。
知ってしまえばまともではいられない。
正気を保ってはいられない。
世界には、人の中には、そんなものがけっこうあるのだから。
そんな才能に気がついてしまったならば、
上手くつきあっていくしかない。
だから、僕は、