その4 古書店の店員
失意のうちに東京から実家へと戻り、週に一度心療内科に通うだけで何もできない日々が続いていたおれであるが、真面目に医者の指導に従って服薬し、真面目にカウンセリングを受けたり生活改善をしていった甲斐あり、十ヶ月ほどでやる気が戻ってきた。
おれは元来仕事というものは好きなのである。ただ威張りんぼうなオッサンが大嫌いなだけなのだ(社会生活を営む上で、これは致命的なのだが)。元気が出てくると、何かしたいなあと思ってくる。ふと手に取った求人雑誌に、実家からほど近い古本屋のアルバイト募集が載っていた。古本屋というよりは古書店と言うべき佇まいで、漫画の類は一切置いていない、硬派な古本屋だった。おれも本が好きだ。本についての思いはいつか違うところで書くことにするが、本好きも手伝ってこの古本屋には一時期通っていたこともある。何より、本に囲まれてボーっとできる古本屋という商売は素晴らしいではないか、とこのときは思っていた。とりあえずアルバイトから慣らしていくのもいいだろう。軽い気持ちでおれは履歴書を書いて、その古本屋へと走った。
白髪頭を短く切り揃えた、恐らく歳は60を過ぎたころだったろう。優しい笑顔の店主が面接をしてくれた。ところが面接では本に対する思いなどは聞かれずに、おれの体格を見て(おれは高校時代にラグビーをやっていたので、自慢ではないがガタイはいい)、一言。
「いつからこれる?」
かくしておれは古本屋のアルバイトに採用されたのだった。
店に置いてあるのは大手の古本屋ではとても扱えないような酷い状態の本ばかりだったが、それ自体が貴重であるものが多く、今は絶版となってしまったもの、元々部数が少なく手に入りにくいもの、かなりマニアックな専門書、いつの時代のものかわからないぐらい古い、もはや本というより書物と言った方がしっくりくるようなものまであった。
余談だが、おれは少しカビくさいような、日焼けした本の匂いが好きである。だから電子書籍が普及した今も、紙の本を好んで買っている。もちろん読むだけなら電子書籍でもいいのだが、何度も読み返すうちに読みグセが付いたり、少しずつ紙質が劣化していくのが、なんとなく好きなのである。
だからその店の中はとても居心地がよかった。
で、おれの仕事だが、最初に任されたのは、店内をジャンル別に仕分けることだった。店主曰く、最初は買い取った本をジャンル別にきっちりと並べていたのだが、本が増えていくにしたがって店は手狭になり、いつしか空いているところに適当に置くようになった結果、本のカオスが生まれたそうである。手狭と言っても小さいコンビニぐらいの広さはある店内だったので、本が何冊あるのか見当もつかなかった。当然だが本というものは重ねるとメチャクチャに重くなる。おれの体格を見て採用を決めたのは、つまりそういうことだった。
店が休みの日を選んで、おれは仕分け作業を始めた。店が開いている日は店主の代わりに店番をしたり、裏にある本の整理をしたり、店内の掃除をしたり、そうでないときは店内にある本を立ち読みしまくっていた。店主だってカウンターに座りながら本を読んでいたので、おれに文句を言うことはなかった。天国だった。自分では中々買って読めないウィリアム・バロウズ、アントナン・アルトー、稲垣足穂、アンドレ・ブルトンなどを読みまくった(これらはおれが敬愛する作家、中島らもさんの影響である)。客は一日に何人も来ない。十五人も来ればいいほうだったが、しかし来る客は必ずそれなりに値が張る本を買っていくのだ。ネットショップなどはやっていないのに、どこで聞きつけたのか、難しい専門書を探し求めてくる人や、貴重な本をあちこち探し歩いてようやくこの店を見つけた、というような人が多かった。古本にしては法外とも思える値段が付けられているのに、一切の躊躇なく財布からお金を引っ張り出している。店主にしろ、これらのお客さんにしろ、本の値打ちというものをよくわかっているのだろう。
さて仕分け作業である。床にシートを敷いて、まずある棚に乗っている本を全部ドサっと床の上に置く。小説の類は膨大な人数の作家ごとに分類しなければならないのでそれは後回しにして、まずは画集や辞書、事典、学術書、実用書などの専門書を仕分けることにした。しかしこれがまた面倒なのだ、まだ小説を作家別にしていく作業のほうが楽だったかもしれない。例えば、「宇宙」について書いてある本は天文学だが、「多元宇宙論」について書いてある本は物理学である。もっとややこしいのもある。精神学者であるユングは同じ精神学者のフロイトの弟子であるが、フロイトの著書が「精神分析学」であるのに対して、ユングの著書は「分析心理学」に分類される。素人にはどう違うのかサッパリわからないが、こんな風に学問というのはメチャクチャにややこしい。しかも結構厳密である。よくわからないものはネットで調べて(当時はスマホというものがなかったので、店にあるパソコンを使っていちいち調べていた)、気長に分類していく作業が続いた。同じジャンルのものがある程度まとまったら、棚の上に背表紙が見えるようにして並べていく。客がわかりやすいように、ジャンル別にタグも付けていった。暗くなるまで作業をしていたことも何度もあった。
数ヶ月かけて、店内の書物はおれの手によって完璧に分類された。気の遠くなるような作業だった。
しかしその年のうちに、店主は店を畳んでしまった。当人の健康不安が原因だった。元々持病があったらしく、その状態が思わしくなくなってきた、とおれは説明を受けた。おれが引き続き店を、ということは諸々の事情でできないらしかった。
おれが整理した本たちが、どこか別の古本屋でそのまま売られていることを、今でも願ってやまない。