僕の考えた最高の都市伝説 〜口裂け女編〜
深夜。人の往来が絶えた路上は暗闇に包まれていて、そこを照らすのは点々と並ぶ頼りない街灯の灯りのみでした。空からユラユラと落ちてくる雪が、アスファルトを白く染めていました。
その宵闇に浮かぶ光の下に、一人の女が踞っていました。その女は雪景色にとけ込んでいまいそうなほど白いロングコートを羽織っていて、顔を隠す長い髪は濡れ羽色の美しいものでした。街灯の灯りに照らされて、その女は黒の絵の具で塗りたくったような景色の中でも、よく目立ちました。
女は世間で言うところの“口裂け女”というやつでした。過去に散々囁かれ、全国にあり得ないスピードで広がっていった噂の、あの“口裂け女”です。顔を覆い隠すように垂れた髪の中には、しっかりとマスクをしていて、その中もしっかりと顎関節の辺りまで裂けていました。
人が誰も通らないような、暗く、寒い道で、女は二時間ほど同じ姿勢でいました。身体は痛いし寒いし暇だしお腹空いたしで、女は好い加減帰ろうかな、と考えていました。幾らこの行為以外に自分の存在証明ができないからといっても、肉体面の苦痛を我慢してまでやりたいことではないのでした。というか、女は未だに一度も、目的を達成したことはないのでした。
誰とも一対一で遭遇しない。
というか、それ以前に話しかけるのが怖い。
もし「不細工」って言われたら、悲しさのあまり相手を滅多刺しにして殺した後、自宅の枕を涙で濡らすことでしょう。それに、今のご時世、みんな“口裂け女”の対処法くらい常識の範疇でしょうし、もしそれで相手にされなかったら、やっぱり自宅の枕を涙で濡らすことになるでしょう。まぁ、飴は好きでしたし、ポマードも思い出すだけで吐き気がするほど嫌いなので、仕方ないのですが。
はぁ、と常人より可動域の広い口から溜息を漏らすと、マスクを通り抜けた息が白く舞いました。そろそろ、帰ろう。帰って遅い夕食を食べて、本を読んで寝よう……。
そう思って、立ち上がろうとした時でした。
「……あの、大丈夫ですか?」
背後から声がかけられました。
想定外の出来事にビクッと一瞬肩が震え、女は俯いたまま徐々に状況を理解していきました。
(こ、声を……かけられたぁああああ!)
女は歓びにうち震えました。やっと、やっと……! 自分からでは声をかけられないからと声をかけてもらうのを待つやりかたを編み出してから一年! ようやく女の願いは叶うのでした。
思わず涙が零れました。暖かいものが頬を伝うのを感じながら、女はゆっくりと振り向きました。
「え、えぇと……」
目の前にあったのは、女が涙しているのに戸惑いの表情を浮かべた、女より少し年下くらいの、穏やかな雰囲気のをした青年でした。
女は青年の目を見つめながら、お約束の言葉を言いました。
「わたし、綺麗……ですか?」
青年はその問いに一瞬驚いたような顔をしましたが、すぐに優しげな表情になって、
「……ええ。とても綺麗ですよ」
と頷いて言いました。
女は自分がお約束の言葉を言えたことと、その言葉を聞けたことの感激のあまり、マスクをとって「これでもかー!」と言うことを忘れてしまいました。踞った姿勢のまま、嗚咽を漏らすだけでした。
そんな女を心配したのか、青年は女の背中を擦りながら、
「こんなところにずっといては風邪を引いてしまいますよ……。よろしければ、僕の住んでいるアパートにきますか?」
その言葉に、涙で目元の腫れた女は、きょとんと首を傾げました。青年が何を言っているのか、ちょっとよくわからなかったのでした。
その様子を見た青年は、慌てて手を振って言いました。
「ああ、いえ、決して疚しい思いがある訳ではないのです。絶対にあなたを困らせるようなことはしません。……ただ、女性がこんな夜更けのこんな寒い時に、一人で外にいるのは少し見ていられなくて。まぁ、僕の自己満足なんですが」
ははは、と照れ笑いを浮かべるその青年の暖かい言葉に、女は埋没してしまいそうでした。今まで一人ぼっちで寒い思いをして生きていた女に、青年の態度が心に沁みたのでした。口裂け女は実はこんなにちょろかったのです。
結局、女は青年の言葉に甘えることにしました。青年のアパートは女の家よりも近い場所にあったので、二人はすぐに暖をとることができました。幸い青年の住んでいるのは一階部分で、女はホッとしました。女は凄まじい高所恐怖症で、建物の二階ですら怖いのでした。
青年は女に炬燵に入るように言って、リビングに備え付けられた小さいキッチンに引っ込みました。
女は青年の家を見回しました。部屋を彩るような小物などは一切なく、生活に必要な最低限のものしか置いてありませんでした。アパート自体は比較的古いものでしたが、青年の家はとても綺麗に片付いていました。
「お茶です。安物ですが、ないよりましかと思って」
「あ、ありがとうございます……」
青年はお茶を運んでくると、女の対面に座り、相変わらず室内を見回す女に、自分の名前や、自分が就職活動中であること、しかし中々上手く行かず、堕落した生活を送っていること、夜道を歩いていたのは気分転換のためであることなどを話しました。
女は相槌をうちながら、もし自分のことを聞かれたら何と答えれば良いのだろう、と頭を悩ませていました。
しかし、青年は自分のことを話し終えても、女の子とは一切訊こうとしませんでした。ただぼんやりと、カーテンが開いたままになった窓から、雪景色を眺めているだけでした。
それがその青年なりの、女に対する気遣いであることはすぐにわかりました。女は口を付けぬうちに冷めていくお茶を見つめて考えました。
自分はどうすれば良いのだろう?
本来なら、自分はこの青年を絶望のどん底に突き落とさねばなりません。ですが、女には男に対する奇妙な感情が芽生え始めていました。それが何かもわからぬまま、二人の時間は穏やかに過ぎていきました。
一時間ほどした頃、女は意を決して青年に話しかけました。
「あ、あの……っ! わ、わたし、実は、その……あなたに、隠していることがあるんです」
女の必死な声に、男は窓から女へと、視線を移しました。
「隠し事……ですか?」
青年は落ち着いた声音でそう問い返しました。
女は青年の目を見据えて言いました。
「そ、そうです。これは、どうしてもあなたに知って欲しいことなんです……」
女はコートの袖の内に隠してある鋏の冷たさを確認しました。もし、嫌悪感を示された場合は、死なない程度に刺して、自宅に持ち帰ろうと思っていました。初の目的達成記念というやつです。女は自分の青年に対する思いを、所有欲と勘違いしていました。
「……わかりました。正直、僕にはよくわからないのですが、あなたがそう言うのなら、僕はその隠し事とやらが何であるかを聞きましょう」
青年は畏まって、そのように言いました。真剣な眼差しで、女のことを見詰めました。
女は青年の真摯さにより強く決意を固め、耳にかけたマスクの紐に手をかけ、ゆっくりと外しました。
「……わたし、綺麗?」
お約束。その確認の言葉を、女は耳まで裂けた口で言いました。
「…………ッ!」
青年が息をのみ、目を大きく広げました。そうしてそのまま、俯いて肩を震わせました。
(ああ……ダメか……)
女は青年が自分に嫌悪感を示し、自分を忌み嫌うべき存在と認識したものだと思い、悲しく思いました。
凍ってしまったような時の流れの中で、女は青年のどこを刺し、切り裂いて、どの部分を持ち帰ろうかと考えていました。最初は身体全体をお持ち帰りしようかとも考えましたが、やはり重いと思って、やめたのでした。
真夜中の古びたアパートの一室に居座る静寂を破ったのは、青年の言葉でした。
「……き」
気持ち悪い、嫌い、汚い――「き」から始まる暴言の数々を、女は思いました。青年が言葉をいい終える前に、自分が傷つく前に青年を殺してしまおうと、女は鋏を取り出して振り上げようとしました。
しかし、その動きは途中で止まりました。青年の続く言葉が、あまりにも想定外だったからでした。
「綺麗だ! 素晴らしい!」
「……え?」
今度は女がフリーズする番でした。女を見る青年の目は、恐怖などそんなものではなく、まるで素晴らしい芸術品を見た時のような、歓喜を映していました。
あれ? おかしいぞ? どうしてこうなるんだ?
女は混乱しました。青年の反応は、明らかに常人のそれではなかったのです。口が裂けた女を綺麗と思う人間がこの世にいるとは、女は思っていないのでした。
青年は先ほどとは打って変わって、熱っぽい口調で言いました。
「あなたはマスクを着けているとき、確かに綺麗でしたが、何か違和感があった……。それが今、取り払われたんですよ! ああ、それにしても、裂け方が綺麗だ。出回っている画像はもっと歪だったけど……あなたのはいいですね。綺麗な容姿にマッチングしている。あなたの美しさは、口が裂けてこそ際立つものだったのだと僕は思いますよ……」
「えぇと……」
触れていた鋏を取り落とし、女は呆然と青年を見ました。この青年、どうやら普通なんて言葉は通用しないようです。逆に女の方がドン引きしてしまいました。
「あー」とか「えー」とか何を言って良いかわからない女に、青年は唐突に正座をして、頭を下げて言いました。
「あなたのことが好きです。どうか僕と、お付き合いしてください」
女は耳を疑いました。え? 今この人、何て言った?
そして脳内で時を戻して思い出して、驚愕に声を上げました。
「うぇぇええええっ!?」
なんだこいつ!? なんなんだこいつ!? 嬉しいけどそれはともかくこいつ変だ! わたしなんか比にならないくらいおかしいよ!?
一体この世界のどこに口裂け女を綺麗だ綺麗だと誉め称え、その挙げ句ドストレートに告白してくる人間がいるというのでしょう? ああ、いました。一人だけ、目の前に。
女は自分のやるべきだったこともやろうとしてたこともすっかり忘れて、あわあわと慌てました。目がぐるぐる回り、くらくらしました。
訳がわからない自分の存在以上に意味不明な青年の心理に、女は嵌ってしまっていました。もとより、寂しさをただひたすら耐え忍ぶ毎日を送っていた女にその申し出を拒否する気など毛頭ないのでした。これから先、自分を本当の意味で、「好きだ」と言ってくれる人間がいるかなんてわかりません。というか、絶対いないでしょう。この青年のような異常者、変態がそんなにいたら世も末です。この日本という国がぶっ壊れるのも時間の問題でしょう。
女は全力で自分を落ち着けると、未だに頭を下げたまま固まっている青年に言いました。
「か、顔を上げてください………」
すると、青年は恐る恐る、と言った感じで顔を上げました。
女は言います。
「すみません……こんなこと、始めてなものですから、混乱してしまって……」
上目遣いに青年を見ると、笑っていました。優しさのこもった微笑でした。
「顔が赤いですよ。可愛いですね」
女は脳が沸騰するような思いをしました。なんだこいつ……なんで平然とそう言うことを言えるの……。
「や、やめてくださいよっ! 恥ずかしいじゃないですか……」
「すみません」
女の講義を青年は笑って受け流しました。
「……それで、お返事は頂けますか?」
今度は青年が、女に問いました。期待と不安を混ぜこぜにしたような、そんな表情と声でした。
答えは決まっていました。女は、青年が美しいといったその口で、自分がつくれる最大限の微笑をつくって言いました。
「不束者ですが、よろしくお願いします……**さん」
かくして二人は付き合いを始め、やがて結婚し、紆余曲折を経て幸せに生涯を終えたのでした。
めでたしめでたし。