9話
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<歌姫>という銘は、その魔物が持つ魔術特性と外見から付けられた。
見た目深窓の令嬢といった趣の彼女が歌を奏でると、途端にそれを耳にしたものが悶え苦しみ出すと言う。
歌は耳を塞いでも防ぐことは能わず、有効範囲も広かった。
おまけに知能も高く人語を解するため、人間の戦力では退治することが出来ないでいた。
幸いひとつところには長くて二年と留まらないのと、近寄りさえしなければ<歌姫>から仕掛けてくることがないため、忌避してそっとしておくのが慣例となっている。
「ちょっと待て…そんな奴を俺たちだけで相手にするって?各国が手をこまねいていたような魔物を?」
ゼノアがタレーランへと食って掛かる。
「ええ。話の流れで…」
「…最悪。せめてあのゴリラ女がいたら…」
唯が肩を落とす。
「あの、遠くから魔術で攻撃するとかどうですか?」
ラミアが景気付けに明るい声音で提案した。
ラインベルクは首を振ってそれを否定した。
「<歌姫>は魔術強度が高いとされる。こちらが十分な威力を担保して魔術攻撃を命中させられる距離に近付けば、それはもう歌の射程内だろう」
「そうですか…」
「リーシャが使ったとかいう、竜を召喚する魔術はどう?」
唯がラインベルクの軍服の裾をくいっと引っ張る。
「…儀式召喚で短期的に呼び出す魔物は基本的に制御がきかない。だから先だっては敵陣に忍び込んだわけだ。歌の有効射程外で召喚できても、<歌姫>と戦闘状況に入るかは未知数だな」
(むしろ相手に自分達の存在を知らしめるだけのことか)
「…だいたい、あんなものを使える魔術師は国に何人もいないだろ」
ゼノアが暗い表情をして言う。
タレーランからの報告という形で武官たちを集めて会議の場をもったが、課せられた条件のハードルはあまりに高く、一同の士気は目を覆いたくなるばかりに下がった。
ラルメティ領内の通行が一定範囲内で許可されたため、外交団一行は進路を西にとった。
そのまま西へ進むとレオーネ=シアラ連邦にぶつかるため、ラルメティ領内をさらに南側へ迂回し、その先で進路を北西に転じた。
厳密には、ラルメティ公国とディッセンドルフ王国は国境を接しておらず、ラルメティを出で北上し目的地までは二つの国家の領土を跨ぐ必要があった。
その道案内と、外交団が使命を果たすかどうかを検分する役目を担って、カノッサが同行していた。
ディッセンドルフ王国領内へと無事足を踏み入れ、<歌姫>が住まうという湖畔まであと一日と迫った。
ここまでの道中で八日を要している。
一行は紅煉騎士団第2軍とディッセンドルフ王国軍との戦争状況を気にはしたのだが、情報を得る手段もなかったので諦めた。
(…さて、どうするか)
道中馬車に揺られている間考え続けてはきたものの、これといって<歌姫>を打倒する妙案は生まれてこない。
ラインベルクの頭にあるのは、スタンダードな奇襲作戦の一択である。
ギリギリまで近付き、陽動をかけて背後から斬り結ぶ。
(失敗すれば全滅だが、これしかないか…)
「大尉、森に入りました」
ラミアが窓外を見て注進する。
すでに夕暮れ時を迎え、朱の光が差し込んだ。
ディッセンドルフの兵士と遭遇したときに備え、先導役はカノッサが務めていた。
彼からは事前に、ディッセンドルフ南部の森林地帯を抜けた先に目的の湖畔があると聞かされている。
馬車が休停止した。
タレーランとミットが前のめりに倒れる中、ラインベルクとラミアは即座に車外に飛び出した。
「どうした?」
ラインベルクが馭者に問いかけるうちに、ゼノアと唯も集まってくる。
「カノッサ少佐が止まれと…」
「前方から戦闘状況らしき喚声が聞こえた。待機だ」
馬を返してきたカノッサが上から見下ろしてくる。
「え?まさか第2軍じゃ…」
ラミアが焦りを見せるが、ゼノアは真っ向から否定する。
「ここはディッセンドルフ領内の、しかも南方だ。我が国の西部地域で戦っていた第2軍が侵出してくるとは、補給ルートや制圧余力からも考えにくい」
「遠視、苦手だけどやってみようか?」
唯が提案したときには、すでにラインベルクとゼノアが遠視の魔術を展開済みであった。
それを確認して、唯は鋭敏聴覚の魔術に切り替えて実行する。
三人の得た情報から推論するに、ディッセンドルフの騎士たちが<歌姫>とはまた別の魔物と戦っているように思われた。
「グフフ。なら話は早い。加勢するぞ!」
言うが早いか、カノッサは馬から降りて巨体を揺らして走り出した。
鬱蒼と繁った樹木や雑草は馬による行軍を妨げるため、ラインベルクとゼノアが徒歩でそれに続く。
唯とラミアは外交官たちの護りにと残された。
***
相次いだ犠牲者にディタリアは驚愕しつつも、残りの部下たちを叱咤してフォーメーションの維持に努めた。
敵の右手につけた騎士が斬りかかり、左からは牽制を入れさせる。
離れた木陰からは狙撃手が弓を構えている。
自分の目の前に立つ魔術師は攻撃魔術構築のための詠唱に入っており、間もなく火球を撃ち出せるはずだ
(いける!これなら…)
ディタリアの目に信じられない光景が飛び込んできた。
疾風の如く駆けた敵があっという間に魔術師へと詰め寄り、その喉笛を食い破った。
続けざまに狙撃手へと飛んで、一撃のもとにその胸に風穴を開けてみせたのだ。
胸甲などまるで紙切れかのように貫かれている。
「ハミルトン、ウッダー!散開して!撤退します!」
挟み込んでいた敵を見失っている二人の騎士に叫んで、ディタリアは剣を構えて気を強く持った。
(こんなの…圧倒的に過ぎる!)
自分へと直進してきた敵の手刀を斬り払えたのは奇跡に近かった。
ディタリアは反撃に剣を振るうが、難なく回避されて逆に腹に拳を入れられる。
「かはっ…!」
腹を貫かれんばかりの衝撃に息も出来ず、膝から崩れかける。
黒髪が汗で額に貼り付き、整った顔が苦悶に歪んだ。
それでも踏みとどまり、気丈に剣を構え直すディタリア。
敵はそんな彼女に目もくれず、ハミルトン、ウッダーの両騎士へと標的を代えて跳躍した。
「…逃げてッ!」
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俊敏さで勝るゼノアがカノッサを追い越してその場に到着したが、切り開かれた林道のあちこちに折り重なる騎士の死骸に目を奪われて硬直した。
「避けろ!」
後ろからカノッサが突き飛ばすと、ゼノアが立っていた地点に全身黒ずくめの人影が牙を剥いて襲い掛かってきた。
三番手として追い付いたラインベルクがその敵を視界に収め、警告を告げる。
「こいつは吸血鬼だ!力もスピードも段違いだから、目に頼るな!」
(よりによって…もう夕暮れ時じゃないか!)
浅黒い肌に赤い目をした吸血鬼はラインベルクに目を向けた。
カノッサが剛剣をもって吸血鬼を狙うが、あっさりとかわされて脇腹に強烈な蹴りを見舞われる。
「ぬおっ!」
バキンと金属が破砕される音が鳴り、カノッサは地に片膝をついて崩れた。
そこにラインベルクが躍り出た。
剣で斬りかかると見せて、懐から短剣を二射する。
吸血鬼は軽々とそれらを払ったが、距離を縮めたラインベルクの上段からの剣撃に肩口から深々と切り裂かれた。
ラインベルクの追撃が吸血鬼の右腕を切り落とし、ゼノアが気合いの声と共に放った突きは背中から身体の中央を貫通する。
絶叫を上げて吸血鬼が倒れ伏した。
「ゼノア、左腕と両足を切落としてくれ」
「えっ?」
「こいつはもうじき不死の時間帯を迎える。適切に処置しないと、逆にこちらが全滅させられる恐れがある」
「…了解」
切り落とした手足をゼノアに遠方に埋めにやらせ、ラインベルクは吸血鬼の首をはねる。
カノッサの手を借りて手近な木の幹を杭状に加工し、大樹に胴体を打ち込んで磔とした。
首は布で包んで夜明けまで厳重に警戒し、持ち歩くことにする。
(これで大丈夫だろう。…ん?)
一連の作業を終えると、林道の脇からじっとこちらを窺っている騎士がいることに気付いた。
ディッセンドルフの騎士の生き残りのようで、カノッサが自分はラルメティの騎士だと主張して手招きをする。
騎士は女性で、震えた声でディタリア中尉と名乗った。
そこらに転がっている遺体は彼女の部下だそうで、ラインベルクは埋葬を手伝ってほしいとの申し出を快く引き受けた。
ラミアらが合流し、皆で作業にあたった。
***
「えっ…。紅煉騎士団の人たちだったの…?」
森林を抜けた先の川辺で夜営の準備をしていて、ディタリアが目を丸くした。
「グフフ。すまんすまん、驚かせたな。俺は間違いなくラルメティの騎士なんだが」
カノッサが痛む脇腹を押さえながら笑う。
グラ=マリの外交団一行と聞いて、彼女は心中複雑だった。
(それじゃ…戦争をしている相手国の騎士を弔ってくれたと言うの?しかも夜営にまで加えてくれて…)
「吸血鬼ってそんなに危ないんだ…」
テントの外、唯が川っぺりの石の上に腰掛けて星空を見上げている。
天から落ちてくる微かな光を反射して、唯の白銀の髪がちらちらと光った。
「もう一時間も遅れて遭遇していたなら、犠牲は覚悟しなきゃならなかったかな」
傍らのラインベルクが答えた。
「あたしとかラミア?」
「それにタレーラン、ミット、事務員たち。ゼノアだって危ない」
「カノッサ少佐は?鎧、砕かれてたでしょ?」
「不意を突かれはしたが、彼は一段上の武人だ。戦っているうちに順応するさ」
(彼はナスティ=クルセイドの相棒だと聞いている。であれば、吸血鬼が相手でもそうはひけをとるまい)
見張り番に立つ二人の間にゆったりとした時間が流れる。
「まさかこんな田舎で野宿させられるなんて…」
「騎士ならよくあることだ。…伯爵令嬢にはらしくないかも知れないが」
「でしょ?」
「君は何で騎士になった?そもそも士官学校に入学した時点でこうなることは予想が出来たろうに」
唯が瞳に困惑した色を浮かべる。
「話さなきゃ、ダメ?」
「いや。おれだって何でここでこうしているのか、自分で自分のことがわからないくらいだしね」
「…イチイバルに戻りたい?」
アラガン発で、ゼノアや唯にもラインベルクの出自は一部だけ伝わっていた。
「どうだかな。あの国には世話になったけど、望んで飛び込んだわけではないから」
「大尉…」
「ラインでいいさ」
「…ライン、グラ=マリの出身だったよね?」
「ああ」
「十年以上国外にいたんだっけ」
「そうだよ」
「答えなくてもいいけど…ライン、貴族の出でしょ?」
唯は慈愛に溢れた穏やかな表情をして聞いた。
「どうしてそう思うんだ?」
「なんとなく。ラインの所作ってしっかりしてるし。社交界と士官学校とでその辺の違いは見てきたつもり」
大貴族に生まれた唯故にわかる部分があるのだろうか、とラインベルクは考えた。
「子弟を十年以上留学させる家なんて聞いたことがない。…あの風変わりだった一族を除いては」
「…そんなところだろうな」
ラインベルクの生家は上流階級であってもそうあろうとはしていなかった。
家人は皆汗を流して働くことを好み、ラインベルクには当事異色であった留学が勧められたほどだ。
十三歳にして独り国を出ることになったが、幼馴染みを除いては特に反対意見も出なかった。
(ジリアンだけは最後まで抵抗したか。あいつ、怒りながら泣いてたよな…)
「…トリニティ侯爵家」
そう口にして、唯は黙り込む。
二人は静かに川面を眺めた。
「新国王擁立の過程で廃流とされた家名だ。グラ=マリ唯一の革新派、トリニティ侯爵。…ふむ」
二人の側にタレーランが歩み寄ってきた。
「そのご子息は、十数年前に出奔したと聞いている」
「こら。おっさん、何勝手に話に入ってきてんのよ」
相手が次席外交官であっても、唯は物怖じせずに文句をつけた。
「すまんね、ナノリバース中尉。つい若い者が羨ましくて邪魔してしまった」
タレーランは「よいしょ」と声を出し、唯とラインベルクの間に腰を下ろした。
「…間に座るし」
唯が愚痴る。
「大尉。王妃陛下のご期待には応えられそうかね?」
「どうでしょうね。…あのフレザントという冷血漢は、損得勘定でしか動かないことで有名です。我々が<歌姫>を倒すにせよ倒されるにせよ、どちらでもラルメティにとっては利があると判断したのでしょうし」
「彼らの思惑など知ったことではないよ、大尉。ジリアン王妃陛下の信を裏切らないことだけが大事なのだ」
タレーランが髭を撫でながら言う。
星々の輝きが灯明代わりとなり、タレーランの堂々たる表情が窺え、ラインベルクは当惑する。
「なに?どれだけ王妃様が好きなのよ」
「愛している。ええ。私は王妃陛下に首ったけで、敬愛しているとも」
「キモい…」
「良いのだよ。偶像崇拝結構じゃあないか。私は彼女個人に忠誠を誓い、彼女のために今回の難事も成功させてみせる。それが私の生存意義なのだから。それには、ラインベルク大尉に頑張って貰う必要がある」
タレーランは熱弁をふるった。
「他力本願…」
「そう。だが私はラインベルク大尉の力をあてにしても良いはずだ。私たちは志を同じくしているのだからね」