81話
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紅錬騎士団筆頭の久遠アリシアが炎の巨人を退けたという報は、さして時間をかけずに諸国へと広まった。
囚われていたノースウイングの首長と筆頭騎士が無事に帰り着いたこともあり、アリシアの名声は天に届かんばかりに響きわたる。
しかし、当の本人は少しも誇っていなかった。
同行者たちだけがその理由を知っていたのだが、無用の混乱を招かぬよう口を閉ざすことに決めている。
(まさか、あの状況から逃げられるとはな…)
シュウはその時の様子を思い浮かべ、身震いする。
アリシアが止めを刺そうとしたその瞬間、巨人は炎を全方位に放射して、討伐者の一行を弾き飛ばしたのだ。
皆が火傷と打撲傷で弱ったにも関わらず、巨人は「我が罪を預かる者がいるでもなし、ここは大人しく引こうぞ」と言い捨てて吹雪の彼方に行方を眩ましたのである。
帰路、リーゼロッテが炎の巨人について、古くより伝わる魔物の祖たる存在ではないかと評したことをシュウは克明に記憶していた。
シュウとナナの二人が行くのは剣皇国まで繋がる街道で、ビギンズセブンからこちら整地された道程を辿っている。
景色には針葉樹が目立ち、ノースウイングの北部程ではなかったが、時折吹き付ける冷たい風は痛いくらいに肌を叩く。
すれ違う旅人は皆魔物を警戒してか重武装で、徒党を組むことが常態化していた。
剣皇国行きに表立った賛否を示さなくとも、ナナがあまり乗り気ではないことをシュウは感じ取っている。
(まあ、<幻月の騎士>は戦好きだと言うしな。如月が心配するのも分かる)
シュウの剣皇国行きで背中を押したのは、紅錬騎士団神威分隊のヒースローがかけた言葉であった。
魔物に一番苦しめられているのは魔物と一番向き合っている剣皇国。
大山脈を北に臨み、屈強な騎士社会を築いて人類最後の防波堤になっている、というくだりはあざとくも聞こえたが、シュウは一度その激戦地で魔物と対してみることに決めた。
ナナの立てた計画通りの道中となり、日が暮れる前に国境を抜けてコンコルダの街を視界に入れる。
コンコルダは剣皇国西部では比較的大きな街で、近隣を治める領主も城館を構えていた。
さして時間もかからずに検問を抜けられたのは、二人が共に魔物退治を希望して傭兵登録を申し出たからである。
長きにわたって魔物と戦い続けてきた剣皇国では、騎士階級がそれ以外の身分と比べて優遇されているのと、魔物狩人に対する敬意の高さに定評があった。
木造二階建ての宿をとり、シュウは情報を集めに街中へと繰り出す。
ナナは疲れたと言うので部屋に置いてきた。
(まずは…城館まで傭兵公募を見に行くとするか)
街のどこからでも目にすることの出来る高い尖塔が目印となり、シュウは大通りから迷うことなくコンコルダの城館まで辿り着く。
閉じられた城門の前で、剣を下げた遠征帰りと思しき一団と遭遇した。
「そこな戦士よ。マーガイブ伯の城館に何か用か?」
十数騎を従えた先頭の女騎士がシュウへと呼び掛けてくる。
その装備は傷や泥にまみれており、激しい戦闘に参加してきたことを如実に物語っていた。
「流れの魔物狩人です。今日この街に着いたので、挨拶がてら仕事の斡旋を受けようかと」
「それは感謝する。一角獣との戦いで犠牲者もでた。今は一人でも多くの対魔戦力が欲しいところ」
言って、女騎士は馬から降りてシュウに握手を求めた。
「シュウ=ノワールです。騎士殿」
「城門は私が開けさせよう。リリーナ=ウルカオスだ。上級騎士を務めている」
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テオドル=ナノリバースは爵位を一つ上げて侯爵を名乗っていたが、それですら自尊心を満たすものではなかった。
彼の勢力は、今やグラ=マリ王国南部の地方領主とでも言うようなレベルにまで落ち込んでいる。
デイビッド=コールマンが敗れたことで、行き場を無くした貴族の六割方はジリアンに対して膝を折った。
二割は失意の内に自害ないしは国外逃亡を果たし、最後の二割程度が最終的にテオドルの下に合流している。
それでもレイエス=ホルツヴァインに篭るアレン=アレクシーの兵を除いた場合、テオドルの現実的な動員可能戦力は一千程度でしかなかった。
側近たちを討議の場から帰したテオドルは、椅子にもたれ掛かって目頭を揉む。
年若いエンゲルス公子を戴いて以降彼の陣営への支持は拡がらず、協力を誓っている貴族たちの不満は日に日に増していた。
新たに宰相に任じたマリオ=ユンカー子爵は猜疑心の強さから党勢を伸ばすには不向きで、摂政であるテオドル自身と財務・商務・外務・内務大臣を兼ねるカーラン=ミュンツァーの二人が中心となって内外に仲間を募っていたが、戦力の不足は如何ともし難い。
(軍事面で頼るべきアレンがああでは、他に支柱となるべき人材を登用せねばならん。だが心当たりと言えば…)
背に腹は変えられず、テオドルは先日までラルメティよろしく、名のある罪人の引き抜きを積極的に工作していた。
軍部の良識派たるノウランらが大いに反対したものだが、目星をつけていたサン=ハイムの強騎士の急死により、それも暗礁に乗り上げる。
爵位や階級を鼻先にぶら下げたとて、集まってくる騎士は二線級がいいところで、歴史あるグラ=マリ王国の紅煉騎士団を復興させるには人材の枯渇は深刻と言えた。
さらに、デイビッド=コールマンを征伐したジリアンの次の標的は間違いなくテオドルであり、その攻勢は遠くないものと誰しもが睨んでいる。
扉をノックする音が聞こえ、使用人が主たるテオドルに来客がある旨を申し伝えた。
夜も更け、先ほど引き取らせたマリオとカーラン以外でこのような時間に私邸まで押し掛けるのは何者かと、テオドルは警戒する。
「誰か?」
「バイミース=ジョルダンと名乗る騎士です」
ジョルダン姓に聞き覚えのないテオドルが判断に迷っていると、使用人は話を続けた。
「その者が、紅煉石の所有権者たる侯に折り入ってお話があると申しております」
深夜の来訪者はそのままテオドルの私室に通され、室内着のままの彼と相対した。
中肉中背、金髪を短く刈った好青年で、大きな碧眼が人懐こい印象を醸し出す。
銀色の詰襟という奇抜な装いは何れの国家騎士団にも相当せず、青年・バイミースの素性は外観からは窺い知れない。
客をソファに座らせ、テオドルが酒を勧めると、バイミースは馴れた所作でテーブル上の空の杯を差し出した。
「何者かは知らぬが、あれは今私の手元にはないぞ」
駆け引きもなくテオドルが伝えると、さも当然といった風にバイミースは頷きを見せた。
「存じ上げております。私の身分を申しますと、北部では<幻竜の騎士>と呼ばれ、忌み嫌われております。…そう、私は<幻竜>配下の魔物を統率する騎士です。歴とした人間ですがね」
テオドルは驚愕した。
彼の情報網には該当するニュースは存在せず、バイミースが語り始めた内容は常軌を逸しているように思われる。
五年前までイチイバルは群青騎士団の騎士であったというバイミースは、祖国を裏切って仇敵である<幻竜>の下へと走ったのだと言う。
騎士団における部隊統率の経験と実力を買われ、現在は<幻竜>の右腕として人間勢力を敵として力を振るっていた。
「そんな…魔物に従う人間の騎士などが…存在するのか?」
「厳密には、私が従っているのは<幻竜>にのみですがね。<幻竜>の下の魔物たちは、それがたとえ竜であれ、私の命令に服することになっています」
「…他にも、そなたのような人間はいるのか?」
「はい。<七災厄>で言えば、<邪蛇>には<邪蛇の三姉妹>と呼ばれる人間の魔術師が三人、腹心として仕えているとか。<石榴伯爵>は異端で、人間と契約を交わして別の人間に臣従しているそうです。お聞き及びでしょうが、ラルメティ公国のレムルス新王にです」
レムルスの宮中に骸骨騎士が集結しているという噂はテオドルも聞いている。
レムルス公王がメルビル法王国と同盟を結んだことを思い返せば、<石榴伯爵>の契約主体がメルビルにいるのではないかという推察は、テオドルには確度が高いように思われた。
「なぜ、人間を敵に回す?」
「魔物への恐怖心以外に理由や目的が必要ですか?少なくとも私は、騎士として魔物を相手にしていた頃より遥かに、胸中穏やかに過ごせています。騎士団にいれば他国の人間を害することもありますし、人間が人間を殺すことなど別段珍しいことではないでしょう?」
テオドルはその理屈は強引に過ぎると受け止めたが、敢えて指摘はしない。
<幻竜の騎士>を名乗るこの男の来訪目的が奈辺にあるかの方が肝心であった。
テオドルがそこを促すと、バイミースは目を輝かせんばかりに破顔して来訪の意図を明かす。
「我々が北の上空からアビスワールドを攻めます。侯には南より陸戦を仕掛けていただきたいのです。聖アカシャ帝国の介入前にことを運べば、都は一気に陥れられます」
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「部隊の工兵比率をもう少し高めないと、最前線の陣立ては困難だ。それと、この人数の衣食を賄うにしては補給体制が脆弱に過ぎる。おまけに護衛も足りていない。北に行くに従って魔物の奇襲を予め想定に入れておく必要がある」
席の後ろからラインベルクに覗きこまれ、プライムの筆を握る手が都度止まる。
ラインベルクは勝手に次の決裁待ちの書類にも手を伸ばし、軍政の規定改正案にダメ出しを始めた。
手元の申請書に赤を入れていたプライムは、ラインベルクが語っているその内容もしっかりと頭に入れている。
二つのことを同時にこなすその辺りに、彼女の非凡な学才の片鱗が窺えた。
執務室の扉がノックされると、ラインベルクは速やかに隣の寝室へと隠れた。
プライムの許可を経て文官と武官が一人ずつ、それぞれ新たな申請書や報告書の類いをどっさりと抱えて入室してくる。
彼らのプライムを見る目は一週間前とは大分違っており、目の前の魔術師が騎士団とその周辺事項の運営改善を的確に図っていると、評価は鰻登りであった。
「アルシェイド卿、レイバース伯から物資の提供に協力する意思があるとの連絡が入りました」
「ありがとう。ならば早速挨拶に赴くとします。日程を調整した上で、馬車を用立ててください」
この言葉遣いと笑顔も、ラインベルクが半ば強要したものである。
プライムは元来気性が激しく相手を必要以上に威嚇する傾向があり、後ろ楯のない現状の彼女にとってそれは致命的な欠陥と言えた。
適切な指示と上申、それに加えて社交性をもラインベルクがコントロールしている。
これらは急速に権力を持たされた自身の経験にも因っていた。
「五日前に進発したハーベスト駐留部隊からも、万事順調、引き続き支援を頼むとの速報です」
「了解です。ちょうど支援体制と物資の算定を済ませたところです。これを行政府の方へ回してきてください」
言って、プライムはラインベルクの指摘事項を即興で書き直し、その文書を手渡す。
連絡事項を交わして二人を退室させると、どっと押し寄せる疲れからプライムは机に突っ伏した。
それでも対魔騎士団が回り始めたことによる充足は、蒼樹を失ってからここまで得られるものの少なかったプライムにとって、かけがえのないものに思われた。
「プリムラ、昼食をとってくれ。二人前」
そんな消耗しているプライムの背に、ラインベルクが気楽な調子で声を掛けてくる。
(私は食べられないわよ…。あいつ、なんでこんなにタフなわけ?)
仕方なしにとプライムは席を立ち、配膳係に一声掛けに部屋を出ようとする。
「あんた、確か葉物野菜はいらないのよね?」
「ああ」
「…偏食が過ぎると身体を壊すわよ」
「魔術都市にいた頃は食べていた記憶があるんだがね。今は無理」
「なら果物を足して貰うわ…ポルン以外で」
「そういうこと」
出掛けにそんな会話を交わした二人であったが、これが別れの挨拶になるとはプライムも想像だにしていなかった。
プライムが戻ってくると寝室はもぬけの殻で、下手な字でアドバイス帳なる題字が記された、組織運営と軍政の要点をまとめた一冊のノートだけが残されていた。
プライムが調達した男性用の衣服も畳んでまとめられている。
「…こんなの、いつ書いたっていうのよ…」
ラインベルクはプライムの執務中は付きっきりで課題に対処しており、考えられるのは僅かな就寝時と会議に参加していた時分だけである。
ラインベルクの押し掛けた一週間でプライムは自身の成長を感じつつも未熟さを露呈し、こんな二人三脚の生活が続くのも悪くはないと思い始めていた。
この奇妙な共同生活が有限のものだとは分かっていたのだが、思いは止められなかったのである。
魔術都市に留学していた頃以来の蜜月。
ノートにぎっしりと詰められたよれよれの文字を眺めている内、プライムは感情を我慢しきれなくなって涙を流した。
彼女はそれほどに弱い人間ではなかったはずだが、しばらく泣き止むことはなかった。
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大食漢で有名なその男爵は、グラ=マリ王国の激動下にあってどの権力者からも見向きをされないでいた。
ジリアンとラインベルクですらノーチェックであったこの男は、ラルフ=ブランジュ男爵と言い、七年前の三十歳時点で紅煉騎士団を退役している。
その後王国南西部の領地に戻り、主に穀物と果実の栽培を経営して過ごしてきた。
デイビッド=コールマン、テオドル=ナノリバースという派閥領袖からの召集にも応じず、時代の流れに棹差すこともなく黙々と租税を中央に納める。
そんな男が一躍脚光を浴びたのは、アビスワールドに届いた直訴の手紙によってであった。
その話を持ち込まれたとき、ディタリアは何で私がと内心で反発したものである。
はじめは小事に過ぎないと無視しようかと思ったジリアンであったが、何かが心の隅に引っ掛かり、<五人組>で王都に残る二人の内、ディタリアへと事案を回した。
ラインベルクの執務室に遊びに来ていた唯=ナノリバース少佐は、ディタリアの手から命令書を引ったくって端から眺める。
「…何これ?牛と豚って」
「私に聞かないで。領主が牛泥棒と豚泥棒を働いたから、成敗してくれってだけのことでしょう?」
「私、この男爵のこと知ってるかも。父のパーティーに来て、すっごい量の料理を平らげた人だと思う。うん。ラルフ=ブランジュ男爵」
唯はそう言って、命令書をディタリアに返した。
そこには領民からの嘆願として、領主に牛や豚など大型の家畜を全て徴収されてしまい、死活問題であるとの内容が記されている。
ついては、小隊を率いて事態の収拾を図るようにとのことだ。
「ご丁寧にも早馬で上申してきたようね。男爵の私兵は推定で三十から五十。武装レベルは並。魔術師はゼロないし一で、脅威度は一個小隊相当。…こんな事案で私が指名されるのは何故?」
「陛下が信頼してるラインの腹心だから。以上」
「…誰が指揮をしても全く労の無い作戦に思えるのだけれど」
「なら私が代わってあげようか?」
「できるわけないでしょ…さっさと片付けてくるわ」
ディタリアは命令書の内容を各種の手配書類へと速記で落とし込み、頭の中で携行する装備のチェックを始める。
「もう少ししたらアリシアたちが戻って来るし、ヒース、ロッテと三人、連れて行けば?」
「牛泥棒相手にアリシアなんて同行させたら、逆に私の命が危ないわ。今から万事手配して、明朝には発つから」
「せっかちねえ…聖石のストック、夜までに一個回しとく」
「有り難う。助かるわ」
いつものように軽口混じりに語り合い、各々が職務へと立ち返る。
執務室へ戻ってきたメレに残務を引き継いだディタリアは、小隊の点呼にと勇んでその場を飛び出して行った。
すでに士気を高揚させているところなど、ディタリアの一流たる由縁である。
メレはディタリアの指示通りに方々へ調達や訓練の命令書を回送し、その過程でとある奇怪な噂を耳にする。
西部向けの輸送に従事した部隊からのそれは、次のような話であった。
「どでかい人間が空を飛んでいたらしい。北の方角から来て、真っ直ぐ南に向かったとか。何でも見た人間によっては、全身が真っ赤に燃えていたって。魔物の類いに違いないのだろうが…」