8話
†第二章 <歌姫>討伐†
「ライン!一体いつになったら定住先を決めるの?…王宮が嫌なのは分かっていたから転居の許可は出した。でもどこにいるのか分からないのでは、本末転倒よ」
「そもそも定住する気がないからね」
「…私を見捨てる気?聖アカシャに領土を切り取られ、西も南も北も戦争状態で、あなたはこの私を見捨てると言うの?ライン」
ジリアンの懇願は何度目だったろうか、とラインベルクは考える。
それでも目の前で彼女の潤んだ瞳と紅潮した美しい顔とに迫られると、決してその言に抗うことは出来ないでいた。
「…で、何だい?ようやくおれの配属先でも決まったのか」
「騎士団のことは知らない。あのジジイ、頭が固くて。今日は髭のタレーランのほう」
(ジジイというのは騎士団長のサイス=エルサイス元帥のことだな。髭のタレーランは、確か次席外交官だったか…)
大物を普通に扱き下ろすジリアンを見て、そう言えば彼女は二千万の民を統べるグラ=マリ王国の王妃陛下であったな、とラインベルクは気付かされる。
二人が今話をしているのも、王宮の離れにある来賓用の庵であった。
木で組まれた簡素な見た目の建物であったが、その造りの一つ一つからは工業製品とは違った人の手による温かみが感じられた。
開け放した障子からは昼の涼やかな風が流れ、二人は座敷で黒檀の机越しに会話している。
「ディッセンドルフを交渉のテーブルに着かせるにはラルメティ公国をまず口説け、ってあなたは言ったわよね?タレーランがそれを実行に移してくれた。三日後に外交の使者を出発させるわ」
「そう」
ディッセンドルフ王国とは、西部国境付近で紅煉騎士団第2軍が依然交戦中と聞いていた。
「ライン。あなたも行くのよ」
「…初耳だけど」
「いま命令したからね。あなたの配属先はまだ決まっていないから、私の一存が通った格好よ」
二週間前に東部要塞を奪われた王国は、聖アカシャ帝国への周辺領土割譲を認めたくなかったため現在も没交渉で、捕虜返還の道筋すら見えていない。
全滅した紅煉騎士団第4軍は記録上抹消となり、半減した蓮の第6とフィリップの軍8軍には、王都で温存されていた第1軍を解体・再編して増強することとなった。
第1軍の指揮官は通例で騎士団長をもって当たるのだが、エルサイス元帥は高齢で第1軍は実質予備役のような位置付けにあったため、差配された。
そのためラインベルクら旧第8軍旗下の士官たちは、新たな配属先が定まらぬまま王都で一時の休息を与えられていた。
「ラインベルク大尉。貴公にラルメティ公国への外交使者に随行する武官代表を務めてもらいます!…なんちゃって」
「大尉?おれは中尉に昇進したばかりだが…」
先の対帝国戦で、五人組はそれぞれ活躍を評価されて中尉に昇進していた。
中でもアリシアとリーシャの功績は高いとされ、上官であるアラガンの強い推薦もあって二人は大尉に特進している。
ちなみにアラガン自身も中佐に昇っていたのだが、本人は「お前たちのおこぼれに与っちまったな。…まあ、一番の要因は敗戦で士官が死にすぎたせいなんだろうよ」と飄々と言っていた。
「我が国の外交ルールに則ると、武官代表は大尉以上をもって認めるとあるわ。だから昇進させた。…<帝国の竜虎>の一人でも討ち取ってきてくれていれば、もっと簡単に出世させられるのだけれど」
ジリアンが寂しそうな目線でラインベルクを射る。
ラインベルクは恐縮した。
出世に興味はなかったが、ジリアンの期待に応えられず、結果無理をした彼女への風当たりが強くなるのが目に見えたからだ。
(なぜそこまでおれを信用するんだ、ジリアン。君が思っているほど、おれは役には立たないかもしれないんだぞ…)
「…すまん」
「あ、ごめんなさい。責めるつもりはないのよ?ラインの活躍はアラガンとかいう隊長から直接聞いてるし。この間の敗戦はあなたのリハビリ代わりと思ってる」
ジリアンがにっこりと笑顔を作る。
金色の髪が風に揺れ、形の良い額が露になった。
「場合によっては、ラルメティ公国からディッセンドルフ王国方面にそのまま移動してもらうかもしれないから。しっかり準備してね。それと、同行する武官を三人、下の階級の者から適当に見繕っていいわ」
***
王都の端にあるその酒場は、繁華街から離れた場所ということもあって喧騒とは無縁でいられた。
ラインベルクはラミアを誘って連日ここに繰り出して来ていた。
彼には他に王都に知り合いなどなかったし、仕事がない以上体を動かすか酒を飲んでいるしかなかったのだ。
「ライン、寝ないでください」
ラミアはよく磨かれたカウンターに突っ伏しているラインベルクを遠慮がちに揺すった。
王都に帰参してすぐの頃は、ラミアはラインベルクのことを「ラインさん」から「ラインベルク中尉」へと硬化させて呼んでいた。
根が真面目な性格で、ここ二日でようやく「ラインさん」に戻り、より親しく「ライン」に変化していた。
「今夜はラインの昇進祝いなんですから…」
「…ああ、ごめんごめん」
ラミアの私服は品の良い赤のワンピースで、ネックレスやブレスレットといった装飾品にも嫌味がない。
露出はそこそこ大きく、二十四という年齢相応の色気を感じさせた。
(さて、どう切り出したものかな…)
多少酩酊気味ではあったが、ラインベルクは本題のことを忘れてはいなかった。
「何か言いたいことがあるんでしょう?」
「…何でだい?」
「何となく、機会を窺っていたように思えました。…珍しくラインの視線が、その…胸に来なかったですし…」
顔を赤らめてラミアが俯く。
「キス。君は王国の外に出た経験はあるかな?」
「言ってませんでしたっけ?私の出身はメルビルです。だから合計で二か国ですね」
「そうか、メルビル法王国の…。おれはね、生まれはここなんだけど、あちこちを回ってきたんだ。イチイバルにいた頃は騎士団外交に付き添って大陸の北部諸国を訪れた。その前は魔術都市で過ごして、そこでは東部全域や南部の国家とも交流があってね」
「魔術都市…東部の、あの?」
「ああ。…それらの国々と比べて、この国は対外関係はまるで閉鎖的だ。騎士団や政府の幹部にすらろくに外遊経験がないし、他国との人材交流も僅か。それでもここ何年か威勢が良かったのはある意味凄いことかもしれない。でも、それとて紅煉騎士団の武名に頼ったものだろう?」
「言われてみれば…同盟や商業提携を結んでいる国は少ないですよね。周りでも国外経験の話は聞いたことがありません」
「そう。それでおれにお鉢が回ってきたのさ。ラルメティ公国への外交に随行するよう命令があった。武官として」
「え?」
ラミアが目を丸くする。
「西で第2軍が戦っているディッセンドルフ王国は小国だ。その動向には大陸南部の雄、ラルメティ公国の意向が働いているとみるべきだ」
「それで…二国間外交に」
「ああ。キスにも同行して欲しくてね」
「勿論、それは良いですけど…」
「ありがたい」
役目は終わったとばかりに、ラインベルクは目を閉じる。
ラミアは彼の暗青色の髪がカウンターに垂れるのを眺めやり、頭の中を疑問で埋め尽くしていた。
(ラインはこの国の政治や体制に批判的なスタンスを取っている。なのに何故、最前線で身体を張るのかしら。入団したての彼がここまで重用される理由はいったい…)
***
ラルメティまでの道中は二頭立ての馬車が二台あてがわれていた。
前を行く一台に、外交団の代表を務めるタレーラン次席外交官とその補佐役のミット=ボース、武官代表のラインベルクにラミアが同乗している。
後続の一台には、ラインベルクが選んだ残り二人の武官と外交事務員が二人の計四名が乗り込んでいた。
政府専用車とあって、馬車の内装は天鵞絨の赤い絨毯に絹の真っ白なカーテンと豪奢な造りであった。
「さすがに士官ともなれば落ち着いたものだね、ラインベルク大尉」
タレーランが立派な口髭を撫でながら言った。
齢五十の大台に到達したものの髭だけでなく頭髪もまだまだ元気で、あがり症のためか常にハンカチで顔のどこかを拭っている。
「…不思議と貴賓用の馬車に同乗する機会には恵まれてまして」
「ふむ。それは興味深い半生だな。ところで、ラルメティには?」
「何度か。政治体制や周辺諸国家との関係性くらいは諳じられます」
「結構!ボースくん、やはり彼はジリアン王妃陛下が推されるだけのことはある。かくいう私もボースくんもかの国は初めてでね!約束を取り付けるにも苦労したものだ」
ラミアはタレーランの言葉を聞き逃さなかった。
(ジリアン王妃陛下ですって…?噂では開明的なお考えをお持ちだとか…)
ラミアが「どうやって初めての国と接触されたのですか?」と尋ねると、金髪のミットが工作の仕方をレクチャーし始めた。
ミットとタレーランが代わる代わる身を乗り出してラミアに語るのを、ラインベルクは上の空で聞いていた。
出発前、わざわざリーシャやアリシアが訪ねて来て、激励を貰っていた。
リーシャは「貴重な外遊の機会を…何故私を指名してくれなかったんです?」と詰問混じりに。
アリシアは「私が行ったら即戦争になるかもね。だって私、ラルメティ出身ですもの」と陽気に打ち明けたものだ。
正直なところ、二人を伴えば随分楽ができるとラインベルクも考えはした。
知勇兼備なうえ魔術師でもあるリーシャと、西部最強の武力を誇るアリシアだ。
しかし、制度上は武官代表とその下の武官が同じ階級であってはならず、やむ無く断念した経緯があった。
(おまけにラルメティの外交代表はあいつだという。おれでは荷が勝ちすぎているな…)
「聞いているかね、ラインベルク大尉?」
タレーランが向かいに座るラインベルクの顔を覗き込んだ。
「そろそろ戦地の横を通る。惚けて貰っては困るな、大尉」
ミットが半眼で物申した。
彼はまだ二十代で、貴族階級ということもあって居丈高な物言いが目につく。
グラ=マリ王国南部一帯ではレオーネ=シアラ連邦との戦争状況が続いていた。
西も北もそうなのだが、東方で聖アカシャに破れた余波で他エリアへの補給や救援がままならず、各地に派遣された軍は孤立を強いられている。
本来戦力的には互角以上であるのだが、各軍のカバー範囲が広がりつつある情勢も長期戦に拍車をかけていた。
***
ラルメティ公国の公館は質実剛健を地でいくような、石積みで頑丈そうな建物であった。
白一色の景観は採光を調整されていても眩しいほどで、タレーランやミットはそわそわし出している。
「ラルメティへようこそ。私が担当のフレザントです」
灰色の頭髪をきっちりと撫で付けた目付きの悪い少壮の役人が、一人の巨漢を連れ立って現れた。
「彼は武官代表のカノッサ少佐。ナスティ=クルセイドの代理の者です」
「宜しくお願い致す!」
カノッサが巨体をくの字に曲げて深々とお辞儀をした。
グラ=マリ側の三人も頭を下げるが、胸中では同じことを考えている。
(あのナスティ=クルセイドの代理…)
ナスティ=クルセイドと言えば、ラルメティ公国の筆頭騎士にして、南部最強、大陸全土最強との呼び声高き騎士である。
<竜殺し>の異名の通り、彼は南部ビル・ノーテル湖の水竜と、北部ギガント渓谷の氷竜を打ち倒したことで名を馳せていた。
(早速ジャブを打ってきたな…ナスティ=クルセイドの名など持ち出しやがって)
苦々しく思いながらも、ラインベルクは恭しく着席する。
交渉は始終フレザントのペースで進んだ。
タレーランからの「ディッセンドルフ王国への干渉・支援の緩和と、グラ=マリ及びラルメティの相互不可侵条約の締結」への理解はまるで得られなかった。
「当方に利益がありませんな」
何度目かのフレザントの断定に、タレーランは汗をかいて縮こまっていた。
そんな外交代表を尻目にミットが激昂する。
「これでもこちらが最大限に譲歩しているのがわかりませんか?何だったら、戦う相手をディッセンドルフからラルメティに変えてもいいんだ!」
「…なら交渉は打ち切りで宜しいか?話を持ち込んだのはそちらの方だが」
「ぐぐ…」
(…こうも沸点が低い外交官か。これでは冷静な駆け引きなどとても期待できないな)
武官代表なため発言権のないラインベルクは、ミットとフレザントのやり取りを冷ややかに眺めていた。
今のところ、お互いが何も手札を提示してはいない。
ただ主張をぶつけ合っているだけで、まともな交渉とは言えなかった。
「…ひとつ提案があります」
「何かな?タレーラン殿」
「我々は腕利きの武官たちを連れて来ています。…貴国ではここ最近、魔物が頻出するとか。どうでしょう?それの駆除を当方が手伝ってみせると言うのは」
タレーランはジョーカーを放った。
少なくともラインベルクには有効な札とは思えなかったのだが。
ラルメティ公国は南部の大国で、少なくとも数千の騎士を抱えている。
幾ら魔物が強大とは言え大陸最強のナスティもいるわけで、他国の力などはなからあてにはするまい、と思われた。
「…ほう」
フレザントが初めてラインベルクの顔に視線を投じてきた。
ラインベルクも見覚えのあるその威厳ある表情をじっくりと見返す。
「代表?何を…」
ミットが瞳に困惑の色を浮かべてタレーランを窺う。
「生憎、我が国は戦力が充実しており他国の助力を必要としません」
フレザントが調子を変えずに言い、タレーランのこめかみから汗が滴り落ちる。
「…しかし、友邦たるディッセンドルフは別のようだ。領内の重要拠点に<歌姫>が住み着いたらしく、支援を求められています」
「<歌姫>?」
タレーランとミットが同時に声を上げた。
***
グラ=マリの外交官らが退出し、ラインベルクのみがその場に残された。
「カザリン=ハイネマン殿は壮健かね?」
フレザントは特に感情を露にせず尋ねた。
ラインベルクは「そう聞いているが、一年以上会っていない」と答えるに止めた。
「顔色が悪いぞ、ラインベルク殿。<歌姫>の名が相当堪えたと見える。グフフ」
カノッサが巨躯を震わせて笑った。
軍服越しにも全身を覆う隆々たる筋肉が窺え、面と向かうラインベルクは圧迫感すら覚えた。
「グフフ。まあ、俺もあの化け物に勝てる気はせんがね!ディッセンドルフには可哀想だが、あれがもたらす災厄は回避不能だ」
「…カノッサ少佐」
フレザントの冷たい目に、カノッサが「おお、すまんすまん。黙るとしよう」とおどけた。
「…おれたちを<歌姫>にけしかける意図はなんだ?あんたは損得勘定でしか動かない。ラルメティに何の得があるというんだ?」
ラインベルクが捲し立てたが、フレザントは能面の如く動じない。
「お互いが本音を語るのが外交ではない。交換条件が成立したならば、あとは約束を違えぬ信義だけがものを言う」
グフフ、というカノッサの笑声だけが室内に響いた。