66話
†第十二章 紅煉か対魔か†
大河アルマジーンに架かる大橋は巨大な石橋で、軍が数十人規模で渡ることのできる頑健な代物である。
イチイバル共和国の南にはドスキア連邦が領邦を持ち、更に南のメルビル法王国との国境に沿ってアルマジーン川が通っていた。
それがためにこの石橋を通る経路は教導騎士団の帰路となる可能性が高く、別の路を選択した場合は迂回に一日ないし二日を余計に必要とする。
川幅や川底は、大半が徒歩行軍の不可能なレベルで、水の流れも速いので渡し舟を使える領域は狭い範囲に過ぎない。
よって、キルスティン=クリスタルは石橋を前にして陣を敷き、数の上では勝るニーザ=シンクレインの部隊を迎え撃つ策を採った。
奇策はなく、己の正当性とニーザの悪逆を説いて敵の勢力を削ることを第一と置いていた。
キルスティンのカリスマはファルートなども認めるところで、騎士たちがニーザへの恐怖とキルスティンに対する憧憬のどちらを選ぶかは五分と予想していた。
しかし、何れも小細工であった。
ニーザの率いる部隊に突撃を浴び、何とか逆撃を食らわせたところでファルートが嘆息した。
「姫様…シンクレイン枢機卿は<十三使徒>を展開している模様です。一度は押し戻しましたが、おそらくは疲れや恐怖を知らぬ騎士たちが止めどなく押し寄せてくるものと思われます」
「狂人めが…」
キルスティンは歯噛みする。
<十三使徒>の召喚により全能神の尖兵として覚醒状態にある騎士たちには説得工作など通じない道理で、仮に総兵力で劣るキルスティン陣営が<十三使徒>を発動させて対抗したとて、消耗戦になれば先に力尽きることになる。
<十三使徒>を使用することで生じる犠牲に目をつぶることのできるキルスティンではなかったし、何よりこの秘術を組み上げるだけの力量を持った魔術師は圧倒的に不足していた。
「かくなる上は被害の少ないうちに速やかに撤退し、地方で再起を図るが宜しいかと存じます」
「…ファルート。聖アカシャが動く目算はないか?ないしは、<騎聖>シルドレと挟み撃ちに出来る確度は?」
「是非もありません。不確定要素に拘って退き時を誤れば、前法王猊下の無念を晴らすことなど叶いますまい。さあ、私が殿を務めます故御決断を!」
「卿は…いや、もはや何も言うまい。卿の進言に従おう」
キルスティンは細面に悔しさを滲ませつつも、毅然とした態度を貫いて全軍に撤退を命じた。
落ちのびる先は、彼女が家督を継いだファナランドの地と定めた。
延々と続く突撃を石橋の前で防ぎ続けたファルートは、敵影の中にルキウス=シェーカーを見付け出したところで馬を返して撤退する。
それを対岸から目視していたルキウスは、軽く舌打ちをするとあっさり剣を収めた。
***
レーン=オルブライトは帝国南部の森林地帯を戦場と設定した時点で、まず間違いなく正面衝突とはならずに局所的な乱戦から戦端が開かれるものと考えていた。
それ故、ゲリラ的に敵を攻撃出来るよう部隊の指揮系統を中隊から小隊単位に移し、小隊長に大幅に権限を移譲してある。
敵の指揮官はラルメティ名うての二人、ハリス=ハリバートンと桂宮ナハトだと聞いており、レーンは奇策を採らず敢えてオーソドックスな戦術を選択した。
木々の枝葉は少しの風にも擦れてざわめき、虫や小動物の鳴き声が近くに遠くにこだまする。
地に足をつけてじっと待つレーンは、この男にしては珍しく円形の盾を左手に持ち、耳をすませて新緑の園を流れる旋律に聞き入っていた。
(ハリバートン…スタインの仇。俺は一軍の将だが、親友の仇を前にして理性を抑えきれる自信はない。こればかりはどうにもなるまい)
やがて森の囀ずりに雑音が混じり、方々から金属の打ち交わされる音や雄叫びが上がり始めた。
その狂暴な性格からハリスは先頭に立って斬り込んでくるものと考え、レーンは配置した部隊の中央に陣取っている。
戦いは森の至る所で開始され、レーンの思惑通りに事が運んでいた。
帝国軍はレーンの構想そのままに小隊全てが遊撃兵と化して、神出鬼没に敵を苦しめる。
それでもラルメティ公国軍は投入した威力偵察の戦力こそ損害を被ったが、それにより帝国軍の出方を把握するに至る。
公国軍に新たな動きがあったことは、やや遅れてレーンにも伝わった。
「兵を引いた…だと?」
「はい、オルブライト司令官」
「バーナード大尉、どう思う?忌憚のない意見を聞かせてくれ」
「…森を攻めるに常道は火攻めです。また、敵の目的が奈辺にあるか不明ですが、我等を迂回して背後をとる方策も考えられます」
レーンは頷いた。
副官たるバーナードの見解は彼のそれと一致したのである。
とは言っても、レーンには一抹の不安が残った。
(対火計の退路は確保しているし、迂回路を行ったならば東西どちらにも隘路が存在し、そこへ入ったところを突けばよい。直にロイドの本隊も合流する。…だが、そうそうこちらが予測した通りに動くものだろうか?桂宮ナハトは戦術理解が深いと聞く。第三、第四の手を打ってきはしないか…)
レーンは元々攻撃に長じた将であり、並の将とは比較にならない高いレベルの戦術眼を備えてはいたが、そこは本来スタイン=ベルシアの十八番である。
防御戦を指揮するにあたり、気乗りのしない言動や対症療法的に動く傾向が顕著に見られた。
「…魔術師たちは何か言ってきているか?」
レーンの問いを想定していたかのように、バーナードは明快に回答した。
「抗魔術結界に異常はありません。今の態勢を維持していれば、高位召喚や広範囲攻撃の魔術は発動そのものを阻止できるとのことです」
懸念点はないものとして、レーンは戦機を待つことにする。
しかし、その機が訪れることはなかった。
もたらされた報告によれば、ラルメティ公国軍はそのまま全騎撤退してしまったというのである。
***
「元帥が言うには、ラルメティ侵攻の意図は、我々にメルビルの内戦から目を逸らさせることにあったのではないか、とのことです」
ボイス=ミョルニルは勧められた椅子を断り、起立したままで執務卓のヨハン=フライハイトに聞かせた。
ヨハンは得心したように目を瞑ると、一枚の書類を卓上で滑らせる。
見ろというサインだと解釈したボイスが武骨な手でそれを取った。
「…成る程。キルスティン=クリスタルは敗退して執政官の座を追われましたか。三日天下ということですな。フン、情けないことだ。これではクーデター失敗の見本のようなもの。所詮は七光りの俗物だったということです」
帝国第4軍団の将軍にして中将という地位にあるボイスはそう断じた。
ヨハンの目から見ても明らかに不遜な態度である。
「…そうではありません。ニーザ=シンクレイン枢機卿が我が国にラルメティ公国軍をけしかけたのではないか、という話なのです」
「…?メルビルとラルメティが手を結んだなどという話は、寡聞にして存じませんが」
「私もです。だが現実にニーザ=シンクレインは目的を成し遂げ、ラルメティ軍は引き上げた。目的が我が国への侵攻になかったのならこれで納得はいきます」
ヨハンはそう言い聞かせるが、ボイスは腑に落ちないといった渋面を作った。
彼はヨハンが見出だした騎士の一人で、侯爵家の長子という栄えある身分のせいか視野が狭窄で気性も荒い。
三十七になるが家庭も持たず、日夜美術品の収集と漁色に耽っていた。
しかし素行の善し悪しとは無関係に、ヨハンの調べた限りでは部隊統率とその攻撃性に長所があり、得難い才能に思われた。
ヨハンは大貴族ながら佐官に止まっていたボイスを大抜擢する決断を下すが、ボイスには常人以上の野心があり、ヨハンの風下に立つのは己の栄進を図るがためという利己主義からその推挙を受けた。
「ミョルニル中将。遠からずメルビルとラルメティの同時侵攻があるやもしれません。貴殿の攻撃力には期待させていただきます」
ボイスは長身を強調するが如く更に背筋を伸ばし、敬礼をもって応えた。
「副宰相閣下の御為に全力を尽くしましょう」
「帝国の為に、でしょう?ではアトモスフィ元帥にも宜しくお伝えください」
そう言って、ヨハンはボイスを退室させた。
彼が考えるに、ニーザの戦略は首尾一貫していない。
魔術都市を攻略したかと思えば統治はせず、幾度にもわたりグラ=マリ王国を攻撃すれども結果的に撤退に追い込まれ、今度はイチイバル共和国を伐った。
どう論理を探ろうと、領土を拡げることや信仰を伝導することに非効率な作法が目立ち、それなのに彼に都合のよい展開が多すぎるとヨハンなどは思うのである。
(そもそも何を餌にラルメティを釣ったのだ?いくら敵の敵とは言え、蜜月な樹林王国の宗教性を考えれば、あの二国が誼を通じるとは考えにくいのだがな…)
ヨハンとしては二正面作戦は避けたいところで、ようやく関係性をプラスに転じたグラ=マリが樹林王国との決戦に臨んでいるこの大事な時期に、これ以上の厄介事など御免こうむりたいところであった。
***
夜営の準備を終えて指揮天幕で休むリーシャの下に、ラインベルクは単騎で訪れていた。
木製の小さなテーブル越しに向かい合って床へと直に座る。
広げた戦場図面を眺めていたが、戦術行動は出陣前に検討済みのことであり、この場合はただのポーズに過ぎなかった。
軍装を解いたリーシャは露出過多な薄手の短衣のみという際どい格好で、すべやかな長い手足を惜しみなく晒している。
そちらに視線をチラチラと向けながらも、ラインベルクは地図の一点を指して言った。
「七割がた、この地で決戦になるだろう。おそらく犠牲なしには終わらない。女王蒼樹なりナスティ=クルセイドなりを討ち果たすまでにどれだけ被害を抑えられるかが全てだ」
「分かっています。皆准将に命を預けていますから、後は少しでもダメージを軽減出来るように全力を尽くしましょう」
「…おれとジリアンに、命を預けるだけの価値があればいいんだがな」
リーシャはにこりと笑顔を作って慈愛に満ちた瞳をラインベルクへと向ける。
「まだ拘るのですね。それならば、貴方が価値を研けば済むだけのことかと」
「研く?」
「はい。久遠准将にせよディタリア大尉、キス大尉にせよ皆貴方個人を慕ってついてきているのですから。一方的に命を預けられてしまった以上、価値の問題は貴方自身がどうにかする他に、自らを納得させる方法はないのではありませんか?」
「おれが、皆からの信頼に値する人間になるよう努めるのが唯一の解決策ということか。…ひどく自信がない」
苦笑を浮かべ、ラインベルクは天井を仰ぎ見た。
「…国を離れて五年を闇に生き、さらに四年を霧の中で過ごした。霧が晴れてからの四年はがむしゃらに魔物を狩り続けたが、あんなのはただの現実逃避だったわけだ。グラ=マリに帰って二年もして、おれはまだ燻っている。…リーシャ」
「はい」
「おれは、逃げていた過去と対峙することに決めたよ。ナスティ=クルセイドを退けて、国内を平定した暁には全てを清算する。…その時には、君やゼノア少佐はもうおれの傍らに居てくれはしないのかもしれない」
ゼノアといっしょくたにされたことで、リーシャはラインベルクの言わんとするところをよく理解していた。
国内を平定するということはジリアンに敵対する貴族と決着を付けることを意味し、大貴族の一員たる二人には当然それに抗う選択肢が残されているのである。
「…はい」
「それでも、君たちの献身は忘れない。この先どういう道を辿ろうとも。そしてリーシャ、おれは君に全幅の信頼を寄せている。それこそ他の誰よりも。アリシアよりも、ミリエラ=オービットよりも。…だから今回の配置もああした」
防衛戦である以上、対魔騎士団の攻撃を最初に受ける部隊は必ず存在する。
ラインベルクはその任にリーシャを充てていた。
相手が相手だけに、フルパワーの全軍突撃を浴びたならば戦死の可能性は相当に高いものと予想される。
リーシャは明日には布陣を終えるはずで、ラインベルク来訪の意図を恒久的になるかもしれない別れの挨拶と受け止めていた。
だがラインベルクは、リーシャに安易な戦死を赦さないと言う。
「必ず生き残れ。紅煉騎士団のラインベルクにはリーシャ=ロイルフォークという片腕がいたと、大陸中に知らしめる時が今だ」
(大陸最強の騎士に挑んで勝ち残ったとしても、その次はこの人と戦うことになるさだめ。決まっていることではないにしても、おそらくラインベルク准将も予感はしているのね…)
リーシャはランタンを手に取ると、ふっと軽く息を吹き掛けて火を消した。
暗闇の中テーブルを横に押し退けて、身軽な動作でラインベルクへと寄り添う。
「…明日だけは、貴方のために戦ってみせますから。ラインベルク准将…お慕い申し上げます」




