40話
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聖アカシャ帝国軍は態勢の立て直しを断念し、敗北を認めてラルメティ公国との国境沿いから撤退を開始した。
<帝国の竜>ことスタイン=ベルシアの戦死と第6軍団の著しい損耗から士気が一向に上がらず、さしものレーン=オルブライトと言えど打つ手が無くなった。
レーンは第5軍団を率いて何度も突撃を敢行したがナハトの巧みな防御陣の前に攻めきれず、スタインの仇であるハリスと撃ち合うもやはり決着をつけることは叶わなかった。
殿軍として最後までラルメティ軍を睨み付けていたレーンであったが、追撃の兆しは全く見受けられない。
帝国の領土を征服することを目的としていない以上ラルメティ軍の反応としては当然とも言えたが、レーンにはその優等生的な態度こそが気に入らなかった。
「オルブライト司令官。そろそろ我々も退きませんと…」
副官が恐る恐る尋ねるが、レーンは剣を収めることすらせずに馬上で固まっている。
親友を亡くしたのだから無理もない、と副官は思ったものだが、さりとて第5軍団の勢力はラルメティ全軍を相手に出来る程に数も意気もないことは分かりきっていた。
直言すれば不興を買うことが安易に想像出来たので、黙って上官が冷静さを取り戻すまで待つことにする。
そして司令官宛の伝令は全て自分のところで塞き止めて、彼をそっとしておいた。
「…中尉。なるほどお前はよく気が利く」
いきなり声を掛けられて、レーンの副官、バーナード中尉は思わず背筋を伸ばした。
「はっ!有難うございます」
「だがな…俺だって美女に慰めて欲しい時もある。ロイドの副官はあれだけの美女で、スタインの奴だって参謀や副官には女を侍らせていた」
「は、はあ…」
「…何で俺の幕僚だけが全員男なんだ」
バーナードが答えに窮していると、レーンはぼそぼそと低い声で独白を続けた。
「思えばマーガレットがスタインなんぞに惚れたところからして、俺のツキのなさが知れるというものだ。結局別れたのだから、俺にしておけば良かったものを…」
(マーガレットって、あの女優のマーガレット=リベロンのことか?まさかな…)
バーナードは首を振って妄想を払った。
帝国一の美女と謡われた女優の艶姿は、戦場で想うには華やかに過ぎると思ったのだ。
「だいたい俺が第5軍団で奴が上位の第4軍団の将軍に就任したこと自体が間違いの元だ。奴が三軍の司令官で俺が副司令というのが逆であれば、ハリスは俺に倒されていた筈だろうが。剣で帝国三番手以下の奴に、竜などと大層な名は似合いやしない。…これで竜虎と並び称されることも無くなった。清々するじゃあないか。…なあ。スタインよ、何とか言ったらどうだ?お前が何も言い返さないのなら、俺はとことんお前を貶してやるぞ。ロイドの彼女が紹介してくれるという婦人方も、独り占めにしてやるからな…。スタイン=ベルシア…」
上官の饒舌ぶりに驚くバーナードであったが、その肩が微かに震えているのを見て、馬を返して第5軍団を少しだけ後ろに下がらせた。
(<帝国の虎>が…。彼も人の子であったか)
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プライム=ラ=アルシェイドはただひたすら防戦に徹するような忍耐は持ち合わせていなかった。
将官の一人に全軍の指揮を委ね、自分は剣皇国の騎士団が仕掛けてくる度に大魔術で盛大に迎え撃ち、調子に乗ると積極的に前へと出て火球や雷撃で直接敵と交戦した。
トリスタンやカイゼルが好き放題に暴れる敵方に対してプライムのそれは羅刹という好敵手がいたわけだが、彼女の本領は障害が高い程に発揮されていく。
「報告します!丘の背後へ回り込むのは難しいとのことです。傾斜が急なのと、要所に敵兵が確認され、小路を進むんだ場合に戦列を分断される恐れがあるようです」
参謀の注進に頷き、トリスタンは形のよい眉をひそめる。
樹林王国の対魔騎士団が陣取った丘陵地帯はことのほか攻め辛く、下手に前進すると矢と魔術を雨霰と浴びることは目に見えていた。
(あの羅刹をここまで抑え込むとはな…。プライム=ラ=アルシェイド。ラインベルクの知己だけのことはある)
宮廷魔術師の羅刹はプライムの魔術をよく防いだが、途切れること無く繰り出される大魔術への対応に終始した結果体力を消耗して後方へと引いていた。
そのため力業で状況を打開する他にないわけだが、どうにも地勢が宜しくない。
「私が強攻で遠距離攻撃を封じましょうか?」
カイゼルが熱の籠った視線をトリスタンへと浴びせる。
「いや、それでは貴方の部隊の犠牲が嵩む。護りに徹した敵は手強い。そろそろ潮時なのかもしれないな」
「…そうですか」
「そう気を落とすな。敵将は討ったし、初戦で敵軍にも被害は与えた。これで北伐などという夢物語もそうは口にするまい」
トリスタンは優しい口調で諭した。
彼女とて敵を完膚無きまでに叩きたくはあったが、自軍の補給の状況や、自分とカイゼルが不在の本国を魔物が襲撃しはしないかという心配もあり、猛る心を納得させる。
(聖剣を使う手もあるがな…)
トリスタンは此度の戦で一度も握っていない、腰元に差す銀製の小剣の柄に触れた。
彼女の聖剣技はその余りの威力故に、普段は使用を戒めていた。
威力以外にも、使用者の身体にかかる負担の大きさこそが封印の主因だということは、国王とカイゼルのみが知らされている秘密である。
「ハーベストはどうします?」
「どうもしない。国王陛下からも、特にどうこうしろという指示はない。そこは外交部隊に一任する」
トリスタンらが到着した時点ではもはやハーベスト王国は陥落寸前であり、ここから独力で復活を遂げて対魔騎士団に抵抗出来るようになるとは誰も思っていない。
外交手法にもよるだろうが、剣皇国が飛び地として支配することになる可能性は高いだろうとトリスタンは見ていた。
カイゼルはトリスタンに確認の上、陣を払う指揮をとる。
この後、物見の兵から戦況を一変させる程の報せが届くなどとは、二人は露思いもしていなかった。
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グランディエ評議会議長のフギンは難しい顔をして、呼びつけた<神威>のシャッティン=バウアーとドラッケンに相対していた。
シャッティンは顔を紅潮させてフギンへと詰め寄った。
「評議会は何を考えているんです?大恩あるラインベルク大佐らに国外退去を促すなどと…。それもわざわざ当人たちが出陣して不在の間を狙って!」
「もしかして、剣皇国からの圧力ですか?」
シャッティンの言葉に重ねたドラッケン問いに、フギンはゆっくりと首を縦に振った。
「…それと、イチイバル共和国からもだ」
「だからと言って、易々と脅しに屈するのはどうなんです?グランディエは独立国家ではなかったんですか?」
なおも激するシャッティンに、フギンはあくまで静かに言って聞かせる。
「まず勘違いして貰っては困るが、剣皇国及びイチイバル共和国は我が都市の二大スポンサーだ。この二国にそっぽを向かれれば、傭兵団が早晩干上がることは疑いの無い事実。彼らからの依頼が正に生命線なのだよ。…それから、私は個人的にはラインベルク大佐が好きだ。朴訥として見えるが、人情に厚い好青年だ。実力はあるし、女にももてる」
「だから恩を仇で返すと?荒れ果てた惨状の都市を助けてくれた大佐を見限って、当時見て見ぬふりをした北方諸国に尻尾を振ると?馬鹿げてます」
「…シャッティン。止しなよ」
収まらないシャッティンの裾をドラッケンがやや強めに引っ張る。
「いや、俺は従わないぞ。<神威>を飛び出してでもラインベルク大佐に付いていくさ。ドラッケン、後は任せた」
「何を言ってるんだい?僕も行くに決まってるだろう。他の面子なら兎も角、この僕にそれを言わせるのか?金には恩で、恩には恩で報いる。忘れる筈がない。僕が言いたかったのは、フギン議長を責めるのはお門違いということだよ。評議会が決めたのならば、議長だって嫌でもそうする他に無いんだから」
ドラッケンは一気に喋って、細面に人懐こい笑顔を形作った。
シャッティンはしばし黙して神妙にし、フギンには非礼を詫びる。
「お主達が出て行ってしまうのは痛手だが、ラインベルク大佐の手伝いをするというのは悪くない。他にも彼ら陽炎分隊を支援したいという傭兵団はおろう。そこで、義援拠出基金というものを創設してみた」
フギンが言った。
それは、表向きは弱体化した傭兵団を国として援助するというごく一般的な雇用助成の政策である。
しかし、資金の一次拠出先は「グランディエに貢献した団体」と定められ、二次以降にグランディエに正規登録がなされている傭兵団を入れることが条件とされていた。
「…なるほど。陽炎分隊は一次拠出先たる要件を満たしている、と。そうすれば、ラインベルク大佐はグランディエの金で僕ら傭兵たちを雇って使うことが出来る訳ですね」
ドラッケンの要約にシャッティンは目を輝かせてフギンを見た。
議長権限でこの法案を通したとなれば、これほど絶大なアシストは他にない。
フギンは椅子にふんぞり返り、不敵に笑みを浮かべている。
この時ばかりは、シャッティンやドラッケンの目にもフギンが渋い味のある男性と映った。
「言ったろう?私はラインベルク大佐が好きだと。二人とも、しっかり彼を助けて差し上げるんだぞ」
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オードリー=アキハ中尉は絶望に表情を歪め、ともすれば泣き崩れそうになる弱気を必死に押し止めていた。
貴重な魔術師である彼女を護るための騎士の多くは血の海に沈み、また残った者も四肢を欠損するといった重傷を負い、命の灯火が消えるのをただ待つ身となっている。
視界に蠢くそれは想像すらしたことのない恐怖で、近くにそれが寄ってきてもオードリーに抵抗する気力など残されてはいなかった。
「オードリー君!」
単騎で走って来たノウラン少佐がオードリーを馬上まで一気に抱え上げて、そのまま全速でその惨劇の場を後にする。
「オードリー君、しっかりするんだ。第3軍はまだ無事だ。シルバース大将も健在で、戦線は維持されているから」
抱えている腕を通じて、オードリーの痙攣する様子がノウランにも伝わってくる。
覗き込むと顔は真っ青で、瞳孔も開きっぱなしに見えた。
(このままではオードリー君の精神が持たん…。だが、どうすればいい?要塞もその周囲も、戦闘状態にない場所はもうどこにもないんだ…)
グラ=マリ王国東部要塞は決戦と呼ぶに相応しい大規模戦に発展していた。
攻め寄せた五千に近い教導騎士団は四方から要塞を全力攻撃した。
籠城ならば当分は持たせる自信があった紅煉騎士団の側は、すぐにその考えを改めさせられることになる。
第一にメルビルの宮廷魔術師であるラティアラ=ベル率いる魔術師隊の放つ魔術が強力で、要塞側の抗魔術では被害は増える一方であった。
第二に教導騎士団の騎士たちに異常な興奮状態が見られ、防御側が繰り出す矢や投石の嵐に怯むこと無く突撃を繰り返したことで、紅煉騎士団全体に動揺が走った。
第6軍の参謀を務めるグリプス=カレンティナ大尉はその状況をつぶさに観察し、一つの結論を導く。
メルビル側は<十三使徒>を召喚しているに違いないと。
それはメルビル法王国の法王並びに枢機卿だけに伝わる秘術で、空前の規模の儀式魔術として知られている。
召喚対象は全能神に使えた十三人の伝道師だと言われており、メルビルの一神教を信仰する者は例外無く影響を受けるとされた。
即ち、<十三使徒>の召喚中は、信徒たちに精神的高揚を与え続け、背教者への憎しみ以外の心を封じ忠実な神の尖兵を造り出すのだ。
儀式召喚には術者の大半の命を必要とし、また術の終了と共にかけられた者たちの三割が命を落とすというこの大魔術に抗することが出来るのは、ただメルビルの神への信仰心を持たない者だけという話であった。
不利な状況を打開するためグリプスの発案で、召喚された<十三使徒>の打倒を目指した出撃が敢行され、蓮と第6軍は教導騎士団の本陣を目指した。
そこに援軍としてシルバースの第3軍が到着したのだが、ニーザ=シンクレインと直属の部隊が押し出してきたことで、ノウラン率いる中隊二百はあっと言う間に壊滅させられた。
ニーザの剣と魔術は桁外れであった。
魔剣フェンリルを鞘に収めたニーザは、馬で遠ざかるノウランとオードリーには興味を示さずに自らの指揮する部隊へ整列を命じる。
ニーザの元に、偵察のため方々へ走らせていた直属の騎士が駆け寄った。
「報告します!紅煉騎士団の第9軍が新たに参戦した模様です!」
「ルキウスとラティアラはどうしていたか?」
「はっ!ルキウス様は依然敵第6軍と交戦中。ラティアラ様も要塞攻めを継続されていました」
「ならばファルートの部隊を対第9軍に回せ。奴も理性は残っておろう?私はこのまま第3軍を狩る」
「はっ!」
騎士が再び馬を走らせるのと交代する形で、今度はニーザの腹心が一人フェルミが近寄って来る。
「シンクレイン様。ゲルハルト=ライネルの部隊は第3軍本軍と睨み合ったまま動きがありません」
水色の瞳をした若い女性騎士で、ニーザに対しても表面上は臆する様子がない。
「<十三使徒>の効き目が弱いのではないでしょうか?」
「それは弱いであろうな。あの者は敬虔な信徒などではない。動きがないのも、我らの援護を待ってのことだろう」
ニーザの答えにフェルミは冷たく目を細める。
「…<七翊守護>にも色々な御仁がいると言うことですね」
「あの者は潮目を見る。我に勢いのある内は逆らいはすまい。こちらも全隊を第3軍へ向けるぞ」
「刺客は放たないでもよろしいので?」
「必要ない」
フェルミは頭を垂れる。
「では騎士のみを動かします」
ニーザは手を挙げて会話の終了を告げる。
フェルミは予めニーザの指示を想定した段取りを終えていて、遠くに控える士官に簡易の合図を出すだけで部隊は動き始めた。
その手際に特に感慨を抱いた風もないニーザにチラリと視線を送り、フェルミは馬を駆って部隊の先頭へと合流する。
(甘いな…。私なら暗殺者を散らせて徹底的にやるところだ。出し惜しみする理由など今更あるまいに)




