23話
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フレザントの推量は外れ、ラルメティ公国とメルビル法王国の戦争は一月が経っても収まる気配を見せていない。
ラルメティの<暴れ牛>ことカノッサは負傷で一度後方に下がるも、早々と戦列に復帰して力押しで戦況を五分まで戻した。
それには紅煉騎士団第9軍の助力が大いに効いていたのである。
「ベクレル将軍、敵の布陣が変わったようですが」
ラルメティ公国軍の次席参謀である桂宮ナハト中佐が馬で駆け付けた。
「おお!桂宮中佐殿。…これは決めにくるぞ」
ダナン=ベクレルが武人然とした髭面に愛敬を浮かべて言った。
その左目は黒い粗末な眼帯に覆われている。
彼は平民出身ながら紅煉騎士団第9軍の将にまで上り詰めた三十七歳の騎士で、勇猛なだけではなく下積みをしっかりとこなして今の地位にあるため、部隊統率にも長けていた。
ナハトやカノッサとはすぐに打ち解け、対教導騎士団の策を共に練っていた。
「敵の狙いは御身のようです。陣容を見ればわかります。カノッサ中佐の隊をそちらに横付けする許可をいただきたい」
「それは構わないが。貴軍の方こそ、カノッサ中佐を出してしまって守りは大丈夫なのか?」
「大丈夫かと言われれば、短期で終わらせられなかった時点で駄目だったのでしょうね。魔術都市、アロン王国、ブレナン同盟の何れもメルビルに対して行動を起こさず、それどころか聖アカシャ帝国が南下の動きを見せ始めたと言います。ここで堪えたとして、第二波を受け止める度量は今の我が国にはございません」
ナハトは抑揚のない調子で吐露する。
眼鏡の奥の瞳は深い憂慮に包まれていた。
今この時点でフレザントがグラ=マリのデイビッド=コールマンを詣でていて、友好条約を盾に対帝国戦を始めて貰うべく交渉にあたっていた。
「帝国のことは考えないことだ。我ら紅煉騎士団の第6軍と第8軍が奪い返した東部要塞に詰めている。有事の際には筆頭騎士の蓮将軍が助けとなってくれるだろうさ。…差し当たっては<七翊守護>を何とかせねばならん」
ダナンの気迫に満ちた声を耳にし、ナハトは落ちかけていた心を何とか留め置いた。
「そうですね。キルスティン=クリスタル、ルキウス=シェーカーの二人を相手にすると犠牲が嵩みます。ここは二人を引き付けるだけ引き付けておいて、奥で全軍を統括しているファルートとの距離を開けさせましょう」
「そこでファルートの本陣を強襲するわけだな?よし、乗ったぞ。桂宮中佐殿、俺が厄介者を引き受けようぞ」
ダナンは剣を手に旗下の部隊を静かに動かし始めた。
***
(紅煉騎士団の後退するペースが速い…)
キルスティンは先攻するルキウスの隊に止まるよう合図を出したが、馬蹄の上げる土煙と音によって中々伝わらない。
とって返すべきか迷っていると、カノッサ率いるラルメティの突撃中隊が正面から進み出た。
「俺はラルメティ公国のカノッサだ!いざ、尋常に勝負!」
カノッサが宣言し、全騎一丸となって突っ込んできた。
「三列縦陣を敷け!望み通りぶつかって見せようぞ」
キルスティンの指示で陣形が整えられ、カノッサの隊の先端に教導騎士団が三列でもって衝突する。
初動はカノッサが制した。
大剣を暴風の如く振り回し、当たる先から教導騎士団の騎士たちを弾き飛ばして前進を見せた。
立ちはだかった<七翊守護>の一人、ハイラインをもその勢いで瞬殺し、これでカノッサは二つ目の大将首を挙げたことになる。
教導騎士団が浮き足立つかに見えたその時、<七翊守護>の二大巨頭が動きを見せた。
「そこな逃げ足の達者な騎士はどこぞの田舎騎士か?私は知らぬが、そこそこには出来ると見たぞ!」
大声を出しながらも剣を振るい、ルキウスは下がり行く紅煉騎士団の殿を着実に削っていく。
軍中に切り込んだルキウスの全身鎧が太陽光を反射し、その勇姿もあって第9軍の騎士たちは慌てふためいた。
(このままでは作戦の成功を前に食い破られるか…仕方ない!)
ダナンは馬を返し、近衛の十数騎を従えてルキウスの前に出た。
「メルビルの生臭坊主共!恐怖せよ!貴様らの神より至強の、このダナン=ベクレルが相手をしてやろう」
(おっ!イライアス卿の間接的な仇ではないか。紅煉騎士団の大将首か)
ルキウス旗下の腕利きの騎士たちが三騎で挑む。
信仰を侮辱されたことで皆怒声を発して憤りを見せていた。
ダナンは少しも気圧されることなく、武辺の者らしい剛の剣で三騎を圧倒し、十合と剣を交わすことなく制圧してしまう。
「あ〜あ…勿体無い人材だった。神よ、彼等三名の魂をこの異教徒の血でもって救いたまえ!」
ルキウスが真面目にやっているのかよく分からない祈りを捧げ、馬を進めた。
二人の剣が交錯する。
二度三度と撃ち合い、鍔迫り合いに持ち込まれた。
「<七翊守護>のルキウス=シェーカーだな。坊主にしては出来るそうだが、狭い世界で武を誇った罰だ。貴様らの信ずるところの極楽で、紅煉騎士団の強さを語り伝えるといい!」
「二十六で坊主呼ばわり…」
「その坊主ではな…?」
ルキウスの見え見えのフェイントをやり過ごしたかと思ったダナンだが、頬を斬り裂かれた痛みに顔をしかめた。
続く剣を弾こうと手首を返すも、信じられない速度と角度で曲がったルキウスの剣先はダナンの左手首を深く確実に抉る。
(この邪剣は何だ?まるで騎士の剣術ではない…!)
ルキウスの強襲に胸甲を砕かれたダナンは吐血し、不利を悟って即座に馬を返した。
「あ、こら…」
ルキウスは追おうとするも、第9軍の騎士たちに阻まれて足が鈍った。
(敵将は負傷したんだし、まあ良しとして紅煉騎士団を葬り去るか)
前に出てきた騎士を速業で蹴散らし、ルキウスは自らが指揮する精鋭を前へと押し出した。
一方、戦列が伸びたことから中軍に位置することになったキルスティン=クリスタルは、技の冴えを見せつける。
三列縦陣をものともせずに突き進んできたカノッサをいとも簡単に斬り払い、三振りの連続した剣閃を浴びせて落馬させたのだ。
「ぐおっ…なんだッ?」
もんどりうって地面に投げ出されたカノッサが吠える。
その脳天にキルスティンの剣が叩き込まれ、兜を二つにかち割った。
衝撃でカノッサは気絶した様子で、キルスティンが止めを刺そうと構えたその時、教導騎士団の後軍へとラルメティの全軍が一斉に押し寄せた。
大歓声がキルスティンの鼓膜を震わせ、剣を押し止める。
(…ファルート卿が討たれれば我が方の統率は絶望的ね。不本意だけれど、とって返す以外に方法はないか)
見ると、カノッサの巨体はラルメティの騎士二人がかりで引き摺り下げられていた。
はあとひとつ息を吐き、キルスティンは新たに定めた標的へと馬首をめぐらせた。
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「何だって?それ、中佐には言ったのか?」
ゼノアが片手を頭にやって金髪をくしゃっと握る。
(ちょっと怒ったかな)
唯は「まだ」と一言で返す。
グランディエ市内に設置された士官専用のラウンジには二人以外に姿はなく、必然的にカウンターで隣り合わせたので唯はゼノアに秘密を告白した。
唯の実家であるナノリバース伯爵家から、唯に王都への帰還命令が出たのである。
「ま、直にここからは撤退することになるんだ。多少早いか遅いかの違いだけだろう?どうせ本国に戻れば解散になる部隊だ」
「やっぱりそう思う?」
「当たり前だろ。ラインベルク中佐の後ろ楯はジリアン王妃陛下だったって話だ。だけど今はデイビッド=コールマン元帥のギュスト一族と、ナノリバース伯爵家の二頭政治の世。栄枯盛衰、陽炎騎士団はその名のごとく揺らいで消えるのさ」
ゼノアがグラスを一気にあおいだ。
自棄になっているきらいがあり、彼の酒量はいつにも増して多かった。
「…あたしね。ラインの言ってた紅煉石の話が気になってて」
「あんなのはただの与太だ。願望成就の魔術特性なんて聞いたことがない」
「嘘なわけない。イリヤとかいう魔物がそれっぽいことを言ってたでしょ?」
「…グルかも知れないぞ。中佐は行方知れずのトリニティ侯爵家の跡取りだって言うんだろ?考えても見ろ。なんで十年以上も他国を放浪していた?イチイバル共和国や魔術都市に正式に留学をした事実があるのなら、少しは国内で知られていなければおかしいはずだ。…侯爵家が廃流になっていること然り、魔物に対する知識然り。中佐には怪しいことが多すぎる」
ゼノアは熱弁をふるい、カウンターに肘をついて金髪を掻き回した。
「グルなんて、そういうことはないと思うな。…あとさ、侯爵家が潰されたのは、王宮の新王擁立の流れに逆らったからで間違いない。パーティーとかの集まりで、聞きたくなくても聞こえてきたからね。開明派のトリニティと守旧派のナノリバースの対立。つまり…首謀者は父だわ」
「ナノリバース伯爵…」
「…今更父があたしを呼び寄せる理由はわからないけど、意味の無いことはしない人だから。多分、このタイミングで何かが…」
「くそっ…。俺も実家に探りを入れてみる。アビスワールドはこことは時間の流れが違い過ぎる!メルビル法王国と戦争を始めたと言うし、竜が暴れたとも聞いている。騎士団長の交代といい、一体何が起きているんだ…」
唯は白い手でグラスを弄びながら、ラインベルクがここに顔を出さないものかと待ちわびていた。
(あたしが帰るって言っても、ラインは御苦労様としか言ってはくれないんだろうな…。別に何か関係があるわけでもないし。リーシャですらあっさり放しちゃったもんね。…軍人なんて寂しいものだわ)
***
更級離宮の二階西側の角部屋。
ガラス窓にコンコンと何かが当たるので、ジリアンは警戒しつつも窓辺に寄った。
小さい石礫であった。
気になって窓を開けると、今度は紙に巻かれた小石が投げ入れられた。
魔術によって盗聴されている恐れがあり、ジリアンは静かにその紙を広げる。
中には、「扉開リーシャ」とだけ記されていた。
ジリアンは全てを理解し、自らの自由になる行動範囲に関して思考した。
(外に出れば監視が付くし…かと言って、他に人一人が通れそうなスペースとなると…。ここまで来ることが出来たリーシャ=ロイルフォークの手腕に期待するしかない)
一階の広間に顔を出し、侍従の一人に、「空気がこもっているわね。風を入れるわ。紅茶を入れて貰える?」と断って、窓を開け放した。
一人で紅茶を楽しんだ後、「しばらく書斎にこもります。誰も近付かせないようにね」といつもの調子で伝えて二階へと上がる。
ジリアンに確信はなかったのだが、書斎の扉をややゆっくりとした動作で開閉し室内の椅子に腰を落ち着けると、そこにリーシャの姿が浮かび上がった。
書斎なので遮光されており、他人の視線は届かない。
姿隠しの魔術を解いたリーシャが小さな声で詠唱を始めると、室内に一陣の風が吹くのをジリアンは認めた。
「姿隠しに、遮音の風術かしら?
「はい、陛下。沈黙の風の応用です。私共の声は決して外には漏れません」
リーシャがその場に跪く。
その肩はやや上下しており息遣いも幾分荒いことから、魔術の多用で消耗しているのだと知れた。
「リーシャ=ロイルフォーク、よくぞここまで来てくれたわ。ラインの指示ね?」
「はい。中佐から陛下の身を案じるよう文が届きまして。お時間がかかりまして申し訳ありません」
そう言うリーシャの顔を、ジリアンはまじまじと見つめる。
手入れの行き届いた艶やかな金髪を手で払い、椅子を立ってそばに寄り、身を屈めた。
ジリアンの円らな瞳を目の前にして、リーシャが一層畏まる。
(王妃陛下…やはりお美しい…。いい匂いがして、まるで天使のよう。王宮にはこの御方に絶対の忠誠を誓う者が多いと言うけれど、それも分かるわ)
「あなた、もうラインにやられちゃった?」
「…は?」
「若いから肌艶いいし、美形だし。あいつ、黒髪好きなのよねえ。ほら、あいつ顔はそこそこいけてるでしょ?魔術都市やイチイバルでも、相当たらしこんだみたい」
「たらしこんだ…」
「まあ、ラインの場合なぜだか女の方から寄り付いてくる節もあるから、一概には責められないんだけどね」
呆けているリーシャの手をとって立たせ、ジリアンは改めて礼を述べる。
「ありがとう。ここまで来るなんて大変だったでしょう?…そのついでに、中央への連絡役を務めてもらえないかしら。この恩には、必ず報いてみせるから」
「勿体無きお言葉。臣の身の上などお気遣いなく。必ずや成し遂げてみせます」
「堅いわよ、リーシャ」
「は、はあ」
「折角綺麗な顔してるんだし、もう少し砕けた方が魅力的よ?それと、ラインの使いで来たのなら、それは軍務ではないはずよね?あまり畏まらないでちょうだい」
「しかし…」
「リーシャ、考えてもみて?私とあなた、何かが違うの?王族や貴族みたいな身分なんて代物、所詮私たちの頭の中だけにある概念に過ぎない。そんなものに振り回される人生なんて、怖気がする。…そもそも何で私がギュストやナノリバースに軟禁されていると思う?」
言われて、リーシャはその点に思いを巡らせていなかった自分を恥じた。
確かに、幾らラインベルクを贔屓したとか外交に口を出したとは言え、どちらも一中佐や次席外交官のような中堅幹部レベルへ影響を行使したに過ぎない。
例えばデイビッド=コールマンなどはギュストの総領として騎士団全軍を統べ、ナノリバース伯爵一門は政財界に広く深く人脈を有していた。
それがジリアンを怖れる理由などそうはあるとは思えない。
「一つはね、私の思想。国という器に私の関心はないの。極端なことを言えば、より良い統治機構を有した勢力がいるのであれば、グラ=マリ王国を解体して統治を任せてもいい」
「…なっ!」
「あ、でも聖アカシャ帝国とかメルビル法王国とかでは駄目よ?あれじゃむしろ悪化しちゃう。マシな勢力がないのなら、少しでも民の暮らしのことを考えてあげられる人材に政治を託す他ない。当然身分の差は関係なくね。で、この考え方には軍閥の政治干渉は不要なの。戦争だって無くせるものなら無くして、軍は対魔物を想定した抑止戦力に特化するべきね。…それが軍を利権化しているギュスト一族には危険と映るわけ。ナノリバースは王国の社会的安定のことだけを志向しているから、私のことなんて和を乱す害虫くらいにしか思ってやしない。全くやんなっちゃうわ」
(この御方は…ただの開明派ではなかった)
ジリアンの披露した持論は、ギュストと同じく軍を拠り所とするロイルフォーク一門の直系たるリーシャにとっても理解を超えていた。
ただ何となく、ラインベルクの考え方もそれと近いのではないか、とは類推出来た。
「…一つは、と仰いましたが。二つ目は?」
「王家の秘宝、紅煉石。ずばりこれね。私は使用の禁止を命じていたのだけれど、我慢を知らないコールマンあたりが恐らく手を出す頃合いでしょうよ。アビスワールドで何か、魔物絡みの事故は起きていない?<門>のコントロールは、もはや危険領域を突破している」