175話
***
グリプス=カレンティナは充分な用心をしていたつもりだが、結果的に見立てが甘かったと猛省した。
目視の出来る距離に近付くまでまだ数日は猶予があると計算していたところ、あらぬ方角よりメルビル勢の奇襲を受ける。
旧帝都シルバリエを背後に置き、東方への警戒はそれこそ厳重であった。
北方より敵の別動隊が騎馬突撃を敢行してきた時点で陣は無警戒であり、横っ面にまともに攻撃を浴びることになる。
歴戦のグリプスは決断を迫られた。
即座の転進か、乱戦で主導権を取り返すか。
転進を選んだ場合、復興の進むアカシャ領シルバリエの市民生活に甚大な被害の出る恐れがある。
乱戦の継続を選択した場合、何もかもが不明な敵軍にどう対処するかが難題と言えた。
(退くも進むも地獄か…。市民を見捨てた極悪人か、騎士を悪戯に危険に晒した愚将。実に不名誉な二者択一だな)
グリプスは聖アカシャ帝国の軍人であった頃より誠実な騎士として知られ、貴族にありながら道理や公正を尊ぶ姿勢は平民出身の同僚からも支持を集めていた。
元来卑怯を嫌い、そんな評判もあって紅煉騎士団の蓮に重用された経緯がある。
故人・ラミア=カレンティナの夫で彼女との間に一子をもうけていたこともあり、ラインベルクやジリアンにも身内と認められて重要な戦線を任されてきた。
「剣も指揮も正道。なれど、隙はない」と内外から評される程に有能で、遂には将軍位にまで昇っている。
そんなグリプスをして一転、窮地に立たされていた。
「全騎、敵を撃退せよ!北へ直進!」
紅煉騎士団第4軍は、陣を食い破られる前に頑強に抵抗する道を選んだ。
初期の犠牲を諦めた上でのことであったが、グリプスは感覚として敵の戦力を味方の三分の一程度と掴んだ。
そこからはセオリー道理に陣の密集と部隊の再編を狙って動く。
しかしメルビルの騎馬部隊も慣れたもので、馬の脚をフル活用して戦場を縦横無尽に駆け回り、第4軍の制動を悉く乱していった。
(…あれは、<七翊守護>の旗印ではないか!誰か名の知れた騎士が出て来ている?)
思うように統制の取れない状況にやきもきしていたところ、グリプスの視界にその軍旗が飛び込んできた。
だが不思議なことに<七翊守護>の名乗りを上げる剛の者は現れず、それでも騎馬部隊の統率はグリプスの目には熟練のそれと映った。
結局半日ほど紅煉騎士団第4軍を掻き回すだけ掻き回して、騎馬部隊は南方へと抜けて行くことになる。
その引き際も鮮やかで、グリプスは追撃の機会を最後まで得られなかった。
部隊の被害状況を調べさせると共に四方に偵察を散らせたグリプスは、参謀たちと幹部騎士を集めてその場で事後策の協議を始める。
「…被害状況は、大きく見積もって戦死が三割といったところです。実数は集計中ですが、離脱者を含めれば四割に到達するやも知れません」
「本来なら全軍撤退を勧告するレベルだな…。東から押し寄せる大軍の到着まで、正確には幾日となる?」
「…初期の計算では、後二日半となります。しかし先程の騎馬部隊からしてイレギュラーで、別に部隊があるという前提で推論をはじめから組み直す必要があります」
「そもそも数万という有り得ない数の動員が為されている時点で何もかもがイレギュラーだ。別部隊がどれほど現れても今更不思議はない。味方の増援が駆け付けるまで、如何なる攻撃からもここを死守せねばならん」
「…守るに難い地形ですが」
「それでもだ!ここはアカシャ領の首都である。多くの市民に危害が加えられた場合、統一政府の威信は地に墜ちよう。我らこそが最後の防波堤。卿らも栄光ある紅煉騎士団の参謀であるからには、その頭脳を最大限に働かせて防備を一枚でも厚くして見せよ」
「はっ!」
参謀たちは唱和し、気合いを前面に押し出した。
グリプスは満足そうに頷いて見せ、個別細部の検討を促す。
負傷者の後方への移送から補給、新しい陣の形成まで議論が煮詰まる中、一人の士官が変わった視点から私見を述べた。
グリプスはそれを深く追及しなかったのだが、不気味な話として頭の隅に残ることになる。
「あの騎馬部隊、奇怪なことに動作に少しの乱れもありませんでした。なんというか、二騎や三騎を眺めてみても細かい挙動まで皆同じで。相手も無しにあらぬ場面で剣を振る者がいたり…」
***
グリプスと紅煉騎士団第4軍が戦闘に入る少し前のこと。
大陸西部地区武闘会を制した時ですら、アリシアはこれ程の相手には恵まれなかった。
ロストセラフィが振るわれる度に空気を裂く轟音は鳴り響き、剣の撃ち交わされる毎衝撃波が広範囲に伝わった。
二人は絶えず有利なポジションを争い、それでいて必殺級の威力の攻撃を繰り出し続けている。
それを野外修練場の端から眺める観客たちは、息を飲んで成り行きを見守っていた。
アリシアとワイバーンの実剣演習は怖いくらい真剣で、実力は伯仲していると言って良い。
アリシアが踏み込んでの強打を叩き込むと、ワイバーンは剣の角度と体勢を調整して絶妙に力を受け流した。
反撃にと動作をコンパクトにまとめた連撃を見舞い、アリシアを一時的に後退させる。
再び距離を詰めるアリシアにワイバーンも剛毅の一閃をもって応じた。
一進一退の攻防は続く。
「…かつてナスティ=クルセイドが言っていた。大陸は広い。強い奴などどこにでも隠れているものだと。…脱帽だな」
「ラインベルク。ワイバーンがここまでやると知っていたのか?」
ブリジットが、自身も半ば驚いているといった風情で訊ねた。
「分かっていたら、正面きって挑むような真似はしていないさ。あれは…間違いなくマスタークラスだ」
ラインベルクは断定する。
近年のグラ=マリ王国の躍進を支えた蓮やクライファートといった名騎士たちでさえも、ワイバーンの技巧には一歩劣るであろうと。
大陸史を読み解けば、小国が一人の筆頭騎士の働きから台頭した例など枚挙に暇がなく、ナスティの言うようにどこから強騎士が現れてもおかしくはないとラインベルクも思う。
(彼も小国で親衛隊長なりを務めていたと聞く。その国が亡びたというのなら、それは上層部の采配が不味かったということなんだろう)
「さあ、ここまでだ。邪魔者は退散するとしよう。おれたちも忙しいことだしな」
ラインベルクは一同の背を押して、修練場からの引き上げを強制した。
リーゼロッテやカタリナは素直にそれに従ったものだが、ブリジットやオードリー、ジョシュアといった騎士たちは後ろ髪を引かれる思いで背後をチラチラと窺っている。
道中、ラインベルクが何気無しにブリジットへと語り掛けた。
「あんな化け物がいるのであれば安心だ。統一グラ=マリとブリジットの未来は安泰じゃないか」
「私が?なぜそうなる」
「奴と結婚すればいい。そういう仲なのだろう?」
ブリジットは隣を歩くラインベルクの足を軍靴で思い切り踏み抜いた。
「…ぐ、おッ!」
「…馬鹿ですか?伯父様は」
苦悶するラインベルクへとリーゼロッテが白い目をして小声で言う。
ブリジットがラインベルクを憎からず想っているのはリーゼロッテの目からして明白で、鈍感にも程があるとブリジットに対して同情すら湧き起こる。
ブリジットは何事もなかったかのように平然としており、周囲の者は皆触らぬ神に祟り無しと無視を決め込んでいた。
紅煉騎士団の本部庁舎へ着くと、皆がそれぞれに役割を持って出発する直前であり、自然バラバラに散って各自の備えを徹底することとなる。
オードリーは第2軍の執務室にてノウラン少佐の訪問を受けていた。
ノウランの現所属はブリジットの第1軍となっており、次の戦いでも二人は別々の作戦行動に従事する予定である。
「大佐、またも戦地は分かれましたね。私は第4軍への援軍で敵の正面に。貴女の第2軍は特殊任務を仰せつかり、一路エルシャダイを強襲するのでしたな」
「フフ…ノウラン少佐。二人の時はいつも通りオードリー君、で結構ですよ。あと第2軍は私のものではなく、ラインベルク将軍のものです」
「彼は将軍位への復帰を拒んだのだろう?立場的にはオードリー君の方が上なんだよ。…まあ、彼は特別だがね」
位人臣を極めながらそれをいともあっさり返上したラインベルクに対し、ノウランもまた同世代の騎士として憧憬の念を抱いていた。
「そう。特別です。ナノリバース伯は…唯は間違っていなかった。これで天上では、一生彼女に頭が上がりません」
「唯君か…そうだな。あの子は早い内からラインベルク将軍の実力を見抜いていた。先見の明ってやつだ。…まあ、君や僕が天上の心配をするのはまだ先で良い。直に戦も無くなる」
「はい。彼女の分も、ラインベルク将軍の手足となって働くだけです。第2軍としてはこれが最後の奉公になりますからね」
カタリナの指針では、紅煉騎士団という組織の解体は早期に予定されていた。
それだけではなく各国の騎士団も同様で、各領には警察戦力以外の個別武力の保有を禁じ、統一グラ=マリとしての新騎士団の設置が決まっている。
一部では、新騎士団の呼称がジリアンナイツに内定したと噂されていた。
将軍執務卓でてきぱきと事務決裁をこなしていくオードリーを愛しげに眺めやり、ソファに腰掛けたノウランは出された珈琲を一気に飲み干す。
そうしてやおら立ち上がると、「オードリー君」と改まって声を掛けた。
何事かと目をぱちくりさせているオードリーを見据え、ノウランはえいっと自らを押し出すように気を入れてその言葉を紡いだ。
「今度の戦いから帰ってきたら、私と…結婚してくれないだろうか?…新しき世ではかつてのような贅沢な暮らしは約束出来ないが、これで精一杯働くつもりだ。その、二人で慎ましやかに暮らすというのも悪くないと思う。…や、はじめから貧乏と決めつけるわけではないんだが、そういう気概を持ってというか…まあ、なんだ。このタイミングで言うのも何だけれど…」
「フフ…ノウラン様。いつになく自信が無い様ですよ?」
「いやあ…柄にもなく緊張してしまった。やはり、なあ」
「承知致しました」
「え?」
「求婚、お受けします。…ふつつかものですが、どうぞ宜しくお願い申し上げます」
「そうか…ありがとう」
ノウランはオードリーの返事に満面の笑みでもって応え、ひと仕事終えたとばかりに大きく息をつく。
オードリーはそんなノウランを優しい目で見守っており、じんわりとこみ上げてくる幸福感に心地好く浸っていた。
(…これくらいはいいわよね?私は昔からノウラン様のことを慕ってきたのだもの。貴女の分まで幸せになるわ。…意気地無しとは笑わないでね。私だって貴女に恨まれたくはないのよ。唯…)
***
ラインベルクと第2軍はアカシャ領の南端、ラルメティ領との境に沿うようにして東進を続けた。
オードリーはラインベルクに指揮権を委ねており、この軍には宮廷魔術師のリーゼロッテの他にシュウ=ノワールとアリシアが従軍している。
ブリジットとワイバーンの率いる第1・第3軍は、グリプスの救援にと東への最短経路をひた走っていて、こちらにはプライムやカイゼル、リリーナの姿もあった。
ラインベルクはレウ=レウルの残した「エルシャダイで待つ」という言葉を愚直なまでに信じ、巨大なメルビル軍との衝突を避けて聖都を目指した。
メルビル領へ侵入すると、ラインベルクは各町村に積極的に人を遣って情報を集めた。
本隊は今頃グリプスの第4軍と合流して敵の大軍と交戦中の筈である。
その隙にレウの駆使した奇術のタネを明かし、叶うならば打破しておきたいというのがラインベルクの本音だ。
集められた話の共通項として、聖都エルシャダイへと向かった者が帰らないというものがあり、これによりリーゼロッテが「やはり、魅了の類いでしょう」と推測を述べた。
「おかしいぞ。魅了は本来異性にしか効かない半端な術だ。帰らない者の性別に法則性は無かった筈だな?」
「はい。しかし…突然現れた万単位の兵力。エルシャダイから戻ってこない人間。レウ=レウルが一般市民を操っていると見るのが自然です。魔術による魅了とは違った法則で運用されていると考えざるを得ません」
リーゼロッテは多少の無理を承知で、起きている事象から強引に原因を解釈した。
ラインベルクはそれには納得がいったものの、何かが頭の隅で気にかかっていると言う。
アリシアが単純な感想を口にした。
「エルシャダイに行った人間が魅了なりにかけられたとして。百万からなる人口のあの都市なら、もっと無茶な兵力に膨らみそうなものだけれど」
「…それだ!偵察要員の戻りはまだだったな?」
ラインベルクの確認にオードリーが小さく頷く。
「急いで部隊を動かそう。ここから先の目立った行軍は危険だ」
「え…本当に、何十万という数の敵が出てくるの?」
「アリシア。ロッテの予測と君の指摘を組み合わせて導き出された答えが、それさ」
ラインベルクが第2軍の進路を直進から迂回潜行へと切り替えたそこに、軽く万を超える大部隊が進行中という報告がもたらされた。
間一髪正面決戦を回避した第2軍は、極力痕跡を残さぬよう隠密移動を心掛けたものだが、何分千を数える人間の移動は目立ってしようがない。
次の一報で幹部たちの緊張は飛躍的に高まった。
「進行方向、数万規模の敵と思しき集団が待ち構えております!」
オードリーやシュウは真っ先にラインベルクの顔色を窺った。
(我等をすんなりとエルシャダイまで行かせる気はないようだな…レウ=レウル!)
「ライン。私は斬ることが出来るわよ」
アリシアは敵がどんな状況に置かれた存在であっても、ラインの命に従って切り抜けると表明する。
「ありがとう、アリシア。偵察によれば、敵の兵種は歩兵で軽装だという。馬でまければそれが一番良い。…ロッテ。仮に集団催眠なり魅了に掛けられていたとして、そいつらを眠らせたり気絶させたりするのは難しいか?」
「数が…。それと、掛かっている精神攻撃の深さによっては、そもそも意識がない可能性も否定出来ません」
「なるべく斬りたくはないが、そうも言っていられないか…。よし、右横を抜けるぞ!全軍の指揮はオードリーがとれ。アリシアはおれと共に左翼に。ロッテとシュウは最後尾のアシストを頼む」
各員が散らばって配置につくと、第2軍は行軍速度を急激に上げる。
雲霞の如きメルビル勢が立ち塞がる様はある種壮観で、先に合従軍戦を経験している騎士でさえあまりの威容に直視を躊躇う程であった。
オードリーは最高速度に達した第2軍をよく制動してメルビル勢の向かって右方を駆け抜けんとする。
だが、そうは問屋が卸さないとばかりにメルビル勢は左翼から雪崩を打って横に広がっていく。
その展開は、岸に押し寄せる小波のような美しさを伴った。
(これは…!一糸乱れぬ統率…誰が指揮を?)
左翼に陣取るラインベルクは、致し方無しと敵と最初に交戦することを決断する。
聖剣アルテミスの大振りで一気に三人を斬り飛ばすが、敵は数を頼りに怯まず突っ込んできた。
ラインベルクやアリシアが剣を繰り出す毎にメルビル兵はまとまった数を失うのだが、恐れを知らぬ前進が第2軍を徐々に侵食し始める。
オードリーはそれと知っても方針を変えず、全騎をひたすら前へと走らせ戦闘からの離脱を第一とした。
その為押し込まれるのは左翼に止まり、後軍のリーゼロッテが去り際に魔術迎撃を実施したこともあって、どうにか短時間で敵を置き去りとすることに成功する。
馬脚で距離を稼いだ後、オードリーは軍に一時の休息を与えた。
自然と一つの天幕に集まってきた幹部の顔には沈痛な色が窺え、それは何も部隊の被害だけが理由とは言えなかった。
メルビル兵には女こどもを問わず、単に刃物を構えただけの人間が参戦していたのである。
そして、見るからに尋常でない士気は、魔術的な干渉を確信させるに充分であった。
散々に斬り合いを演じたラインベルクは、更に一歩踏み込んだ分析を披露して見せる。
「敵の行動は完全に連動していた。模倣のレベルを超えて、同期していると言って間違いない。…十中八九、レウ=レウルが持ち出したのは他者との同調に関する能力と思う」
アリシアが同意を主張した。
「狂戦士さながらに、誰一人脱落せずに前に出てきた。攻撃のタイミングや動きまで一致してるんだから、まったくもって不気味よね…」
「伯父様、それですと疑問が生じます。もし全兵が同調を強いられて操り人形と化していたとして、大元の一人はどこにいるのでしょう?前線なら戦死の危険がありますし、後方にいては剣を振るう機すら分からず闇雲な素振りをするのみです」
リーゼロッテの言にシュウや駆け付けたジョシュアも首を捻った。
「…ただの同調ではないのかも知れない。ロッテの言う通り、そもそも元凶であるレウ=レウルと聖女だかいう存在以外に同調兵を指揮する人物が必要となる。奴等がここにいないことは明白だ」
「遠隔操作をしているとか?」
「流石にそれはないと思いたい。エルシャダイからここまで距離があってどうにかやられたら、それこそおれたちに対処のしようもないからな」
「…問題の本質は、アリシアさんやリーゼロッテさんの推論が当たってしまった点にある」
シュウが酷く真面目な顔をして皆を眺め回した。
そして勿体振らずに絶望的な観測を口にする。
「これで我々は、百万を超える敵兵と事を構える覚悟を決めなければならなくなってしまったのだから」
これには誰もが天を仰ぐ他になかった。




