172話 閑話
†閑話玖・最強の師弟†
九郎丸とセイレーンに関する逸話は嘘か誠か数多く残っている。
後年、セイレーンは聖アカシャ帝国の重鎮・ダイバー=アグリカルと運命的な恋に落ちたものだが、それまでは愛とは無縁の生き方を強いられてきた。
そもそもセイレーンことソフィアの初陣は齢十一でしかない頃で、既に魔剣アスタロトを所持していたと言う。
少女は身の丈以上の超長剣を引き摺って戦場へと臨み、人間の大敵とも言える吸血鬼を一刀両断にしたとされている。
どういう経緯で作戦に参加するに至ったのかは知られていないが、少女ソフィアはそこで剣豪・九郎丸と出逢った。
当時二十代半ばの豪傑は、ソフィアの剣腕を見るなりこう声を掛けたという。
「嬢ちゃんよ。そんな闘い方じゃあお前さんは一年以内に必ず死ぬ。そうなりたくなければ俺に師事する他にないが、どうする?」
少女はびっくりした様子で九郎丸を見上げ、何事か卑屈な台詞を口にした。
それは彼女のこれまでの境遇がそうさせたのだと言えるが、簡単に言えば庇護して貰えるのであれば身体を用いた奉仕も厭わないといった内容である。
九郎丸は憐れみと怒りを込めて「二度とそんなことを口にするな。ガキは大人の好意に素直に甘えておくもんだ」と吐き捨て、以来ソフィアを旅に伴った。
「その物騒な剣、捨てちまえよ」
「これは…形見だから…」
幾度も繰り返されたやりとりで、九郎丸は長剣アスタロトの邪気ふんぷんな様を見抜いて取り上げようとするのだが、ソフィアはこれだけは首を縦に振らなかった。
一度となく「お前の寿命を縮めることになる」と忠告すれども、ソフィアはアスタロトから一時も離れないでいた。
大陸東部はフロスト湖の大魔セイレーンを退治したのはソフィアが十四になった時分であり、九郎丸に誘われて同行した重戦士カークや百道魔術師ベリンネルらは彼女の技量に驚嘆したと伝えられている。
「こんな…これが、少女の剣技か?なんという重み…」
「…九郎丸さん、あの剣は封じた方が良い。剣としてはそれなりの逸品だが、使用者を必ず蝕む」
九郎丸は完成しつつあったソフィアの剣に敬意を表し、二つ名を付けてやろうとした。
それに対してソフィアが、「強力な魔物を倒したのだと直ぐに分かるようにして欲しい」とだけ反応を示した為、セイレーンと改名するに至る。
十代の頃に世話になった恩人がいるということで、九郎丸は旅の末にメルビル法王国の聖都エルシャダイを訪ねた。
恩人、つまり時の法王は九郎丸の久方ぶりの来訪に感激し、嫌がる彼を無理矢理に剣術指南役へと任じて愛娘のキルスティン=クリスタルを師事させる。
ここでセイレーンとキルスティンが兄弟弟子の関係となる。
ぽっと出の剣術指南役にメルビルの権力層たる枢機卿や司祭たちはいい顔をしなかったが、そこは九郎丸の力は利用できると判断したようで奇妙な共存が成立した。
九郎丸は法王から国内の闇ギルドを炙り出して狩るよう密命を受けたものだが、はじめの内はセイレーンにそれを明かさなかった。
十六を迎えた彼女が成人と認められ、且つその剣腕を買われてメルビルの筆頭騎士に推挙されたからである。
地下の任務は自分一人で引き受け、セイレーンには吸血鬼退治などの栄誉ある仕事を回すよう九郎丸は差配した。
***
その日は豪雨で、剣を交わす音さえも地を叩く雨音にかき消されるような、そんな有り様であったと伝わっている。
黒装束は雨足が強くなることにも構わず、小剣を手に前へと突っ込む。
一人目が正面から一刀両断にされると、流石に敵の剛剣に警戒心を抱いたようで、十数人の人影が円を描くように包囲の輪を形成した。
「ちッ…正々堂々来るわけがない、か」
黒装束の集団の敵、メルビルの剣術指南役・九郎丸は、エルシャダイ郊外にある建設途上の教会敷地内で斬り合いを演じていた。
闇ギルドに関する調査で一人二人の権力者に目をつけ、彼らの手掛ける事業を洗っていた矢先の襲撃である。
何れの黒装束にも等距離で囲まれており、両者とも次の出足が戦闘再開を決める空気であった。
(まずは斬り抜けるのが良いか。そして、壁を背にして三方に当たる)
九郎丸は実力的に頭抜けている為焦りはなかったのだが、襲撃者たちは皆必死の一撃を狙ってくるので気は抜けない。
闇ギルドの暗殺者。
ここ最近直接に狙われる頻度が高まっていて、これは法王猊下も苦慮されるわけだと九郎丸も納得するところである。
「さあ、行くぞ!」
九郎丸は全身から闘気を噴出させ、まるで弾かれたかのように地を蹴り前へ飛び出した。
横薙ぎの強撃はたった一振りで二人の黒装束を吹き飛ばし、空いたスペースを駆け抜ける。
後を追い掛けてきた黒装束を振り向き様の一閃で撃退すると、背後に教会の外壁を置いて仁王立ちになった。
(…あと九人か?水飛沫でよく分からんが、視界に収まっている奴に俺は斬れんだろうよ)
三人の黒装束が同時に走るも九郎丸の射程は存外長く、それは長身や長い腕、加えて好んで用いる長剣の効能でもあるのだが、やはり一撃で二人が沈められ、三人目の蹴撃も外されて空しく壁を叩いた。
返す剣でその三人目を斬って捨てた九郎丸は、滝のように降り注ぐ雨の下で目を細め、一人の黒装束を見据えた。
一人だけ、酷く冷たい気配を漂わせる技能者がいたのである。
「あと六人。…お前が来い。他の奴じゃあ勝負にもならん」
指名された黒装束は何も応えず、片手を動かして別の者達をけしかけた。
先程と同様に飛び掛かった二人が九郎丸の剣に撃たれたその瞬間、件の黒装束が明らかに速度の異なる足運びで距離を詰める。
(こいつだ!)
近接戦闘に有り得ない威力と手数に富んだその斬り込みを前に、防御する九郎丸は今日始めて本気を出した。
正確には、出させられた。
零距離では九郎丸の腕力が活かされず、おまけに黒装束は手技足技にも隙がない。
大雨も頭巾を被った黒装束へ有利に働き、九郎丸は一転戦況不利に陥った。
蹴りを受けた左腕が痺れ、続く小剣の切り上げに対する反応が一瞬だけ遅れる。
切っ先が頬をかすめて朱が散った。
直ぐに体勢を建て直し、九郎丸は剣を強引に旋回させて黒装束を引き剥がす。
隊列に戻った黒装束は仲間に耳打ちをして陣形を作り替えた。
(あの野郎…状況が状況とは言え、俺と闘り合えるだと?)
九郎丸は横列に並んだ黒装束たちの下へと先んじて突進し、例の一人に渾身の一撃を見舞った。
黒装束はそれを小剣で受けるも剣身が耐えきれずに砕け、衝撃のみが貫通する。
「…ッ!」
それでも声を発することなく後退した黒装束に対し、九郎丸は左右から襲い掛かる別の敵の相手もせねばならず、追撃は叶わなかった。
更に、猛スピードで新たな影が強襲してきた。
九郎丸は咄嗟の反応で剣を前に出して防いだが、余りの威力に教会外壁にまで弾き飛ばされる。
背中をいたく打ち付けた為に、思わず咳き込んだ。
「げほっ…ふん。成る程、そうきたか…」
雨を切って突撃してきたのは燕尾服姿の紳士然とした男で、九郎丸には姿格好や雰囲気からその者が人間ではないと察知出来た。
吸血鬼。
大陸東部を主な根城としていて、魔物ながらに人語を解し、時代によっては人間社会に領土すら構える勢力があったと言う。
怪力と高い耐性を有し、特に日の光のない環境下では不死に近いとされている。
時刻は夕暮れ前ながら、天候は最悪。
九郎丸は豊富な戦闘経験から吸血鬼の恐ろしさを知り尽くしており、現状で黒装束のリーダー格と思しき敵とこれを同時に相手する無茶には戦慄する。
そんな事情には構わず吸血鬼は拳を振るって九郎丸を追い込みにかかった。
剣で応戦する九郎丸の視界の端を黒い影が横切った。
(やはり来たか!)
吸血鬼を蹴飛ばして間合いを取ると、斬りつけてきた黒装束たちの小剣をまとめて払い除ける。
だが、一本の手刀がそれを掻い潜って九郎丸の腹を深く刺した。
衝撃に息が詰まり、多少踏ん張りはきかなくなったものの、九郎丸は横に跳んで吸血鬼の攻撃をなんとかかわした。
次いで地面を転がって、黒装束たちの追撃をも回避する。
そうしたかと思えば即座に起き上がり、雨中にも関わらず冷静に距離を測って敵の渦中を走り抜けた。
また一人、黒装束が斬られて崩れ落ちる。
「足掻くな、人間ッ!」
「上等だ、化け物!」
吸血鬼と九郎丸は爪と剣とを激しく撃ち交わす。
そこに吸血鬼の隙を見出だすことは容易かったが、五人残った黒装束の横槍が九郎丸に決定打を放たせない。
黒装束の一人を突き殺したところで吸血鬼の蹴りをまともに浴びて、九郎丸が吹き飛ばされる。
止めをと接近した黒装束はしかし、九郎丸の下からの斬り上げで真っ二つとなり絶命した。
血の混じった唾を吐き捨てて九郎丸がゆっくりと立ち上がる。
「さあ…来い。あと四人と一匹だぞ」
黒装束たちが腰を低くして構えた途端に、吸血鬼があらぬ方角を見やって言う。
「…邪魔が入った」
それは魔物の超人的な知覚が為せる技であり、その通りに間もなく二人の騎士が駆け付ける。
「師匠!」
「お師匠様!」
姿を現したのはセイレーンとキルスティンで、状況を知ってか武装・抜剣済みの臨戦体勢にある。
吸血鬼が先に動いた。
手負いの九郎丸は追跡出来ず、吸血鬼は少女二人へと襲い掛かる。
「ハッ!」
セイレーンはそれに反応して超長剣で斬り払い、更には連撃で吸血鬼の右腕を斬り飛ばして見せた。
「なにィッ?」
それを見届けた黒装束たちは未練も無しに後退し、吸血鬼も黙ってそれに続く。
敵影は煙る雨中に完全に溶けて消えた。
「お師匠様…大丈夫ですか?」
「キルスティン…どうしてここが?」
「ソフィアが…」
ずぶ濡れの全身を気にもせず魔剣を鞘に収めたセイレーンも近寄ってくる。
「師匠がニーザ=シンクレイン枢機卿やイシュバシュ=ギル枢機卿らに目をつけていたことは知ってます。私のアスタロトと師匠の魔鏡は絆を繋げてあるのである程度の危機は伝わりますし、目星を付ければ追跡も可能です」
「馬鹿弟子が!そいつの力を引き出すなと言ってるだろうが」
「すみません。警告文が届きまして」
「警告文だと?」
セイレーンは小さく頷いた。
「師匠の危険を指摘する内容でした。私宛てに出されたところを鑑みるに、こちらの内情をよく知る人物かと思われます」
九郎丸はキルスティンの顔を窺うが、彼女も心当たりはないようで首を横に振った。
(ニーザたちの動きを感知出来るレベルとなると、<七翊守護>か枢機卿クラスか…。中立派の誰かが俺に助け船を出してくれたんだろうな)
事実は、きな臭い襲撃計画を耳にした<七翊守護>のゲルハルト=ライネルが、同僚のロイ=セトメへと話を漏らしたことが切っ掛けであった。
内部抗争を望まぬロイは九郎丸の緊急避難を提言する為、匿名でセイレーンへと伝聞を試みた。
真相が明かされることはなかったが、この時はまだニーザの恐怖政治を快く思わない勢力もまた一定のバランスで存在していたのである。
九郎丸は立ち尽くすセイレーンの頭に軽く手を置くと、一転破顔して言った。
「…何にせよ助かった。まさかこの俺が、チビスケどもに救われる時代が来ようとはな」
「そろそろ世代交代では?」
「言ってろ。筆頭騎士になったからといって、浮かれてるんじゃないぞ」
「実力です」
不器用ながらも互いに信頼の厚い師弟のやり取りを、新弟子のキルスティンは微笑ましく見守っていた。
***
法王暗殺事件から一月ばかりが経過し、エルシャダイは僅かに平時の空気を取り戻しつつあった。
魔術都市の手練れが市内を視察していた法王を襲撃・刺殺したとのことであったが、セイレーンや九郎丸が詳しく調べたところでは、一味はニーザ=シンクレインを狙った可能性が高かった。
その場にニーザ派のルキウス=シェーカーが護衛宜しく控えていたことも彼女らの推測を補強する。
何れにせよ犯人は逃亡し、メルビルの政庁は魔術都市が犯行に関わっている節があると断定して断交を言い渡した。
法王の愛娘であるキルスティンは憔悴しきっていたが、新たな法王が即位するにあわせて彼女も枢機卿位に就くことが確定している。
(キルスティン様は悲劇の姫として国威掲揚に利用される…。これもまた悲しい宿命ね)
キルスティンの側には九郎丸がついており、この頃のセイレーンは教導騎士団を率いて東部に巣食う吸血鬼の討伐や、国境を争う周辺諸国の騎士団との戦に精を出していた。
闇ギルドと魔物が何かしら接点を持っており、それらに君臨するのがニーザだということは、彼女らメルビルの良識派と呼ばれるメンバーの間では周知の事実と化している。
至って政治闘争とは無縁に育ったセイレーンは、政庁での刺し合いを師とキルスティンに任せて自らは率先して剣を取った。
魔剣アスタロトを手にしたその日から、自分は闘い続けることを運命付けられたのだと彼女は頑なに信じている。
この点を九郎丸は何度も諫めたのだが、ことアスタロトに絡んだが最後セイレーンは聞く耳を持たなかった。
法王国南部の市街を吸血鬼が襲ったという通報があり、セイレーンは精鋭三個小隊を率いて急行した。
だが現地入りをするや、目当ての敵は撃退されたと聞かされて肩透かしを食わされる。
「男型と女型、二匹の吸血鬼が暴れていたのです。駐在の司法騎士と神官はやられてしまい、聖都からの救援をお待ち申し上げていたのですが…」
市の役人によると、白日の下で旅の研究者たちが吸血鬼に挑み、これを見事に退治したのだと言う。
セイレーンは連れてきた騎士たちを周辺偵察と被害の確認へ回し、自身は件の研究者とやらを捜した。
生身で吸血鬼と戦える人間など珍しく、更に敵は二匹である。
純粋に騎士として興味があったし、不審と言えば不審であった。
労なく目当ての人間は見付かり、街外れの旅の宿にその者らは逗留していた。
「ええ。私は魔術道具を専門に研究しています。ここから東に一日程馬を走らせると、ちょっとした広さの湿地帯に行き当たります。とある文献によれば、古オースタシア王家の呪われし秘法・独眼竜の涙という魔石が辺りを湿らせたのだとか。確かに水源からは遠く、地下水の豊富な地質でもありませんから確度はそこそこのものかと。もはや学術的価値しかないと思われますが、敵性国家の農耕妨害にも転用が可能かもしれませんので、そこは管理を徹底する所存です。本格的な調査へは明日赴く予定です」
詰問するはずのセイレーンは圧倒され、やや引き気味に「…健闘を祈る」とだけ返すのが精一杯であった。
研究者の男は護衛の剣士と女従者を伴っていて、セイレーンの見たところどちらも相当に腕が立つ。
(商売柄危険もあろうが…女の方は匂いが違う。どことなく、私に近いものを感じる)
「…貴女、もしかして慢性的に身体の不調を感じていたりはしませんか?」
「藪から棒に、何を…」
「これでも魔術研究者の端くれですから。貴女の全身から、善からぬ気が漏れ伝わってきました。もし宜しければ、騙されたと思って私の応急処置を受けてみませんか?ほんの少しだけ、身体が楽になること請け合いですよ」
不思議なことに何故かセイレーンは逆らえず、男にじっと見詰められるやその提案をあっさりと受け入れる。
下着姿になることすら抵抗はなく、護衛の剣士が席を外した室内でそのまま儀式に臨んだ。
「フュハ、聖石を六芒星になるよう配置して下さい。中央の魔方陣は私が描きますから」
「はい」
研究者の男こと帝国貴族のロイド=アトモスフィは、フュハ=シュリンフェアの助けを借りて儀式魔術を起動する。
古代の術式による解毒の魔術は、セイレーンの全身からてきめんに痛みや倦怠感を消し去った。
「…聖石がこうも変色して尽きるとは。セイレーン卿、失礼ながら貴女の身体の状態は末期に近い」
「知っている。…有り難う、旅の賢者。これでしばらくは快適に過ごせそう。こんな感覚、久方ぶりのことよ」
「聞きなさい。自暴自棄になるのは愚かです。久方ぶりの感覚を吉と捉えるのであれば、それを続けようと己を律するべきです。…その魔剣、手離せない理由が何かあるのですか?」
セイレーンは反射的にアスタロトの柄に手を掛けた。
同時に扉が開かれ、ハリー=オーヴェルが血相を変えて飛び込んでくる。
いつの間にか、フュハも小剣を腰だめに構えていた。
「ハリー!フュハ!動かないで下さい。闘うつもりは一切ありません。…セイレーン卿、私は趣味で各地の危険な魔術遺産を収集・管理しているのです」
「魔術…遺産?」
「はい。現代人の手に余る、古代魔術文明の遺した強力な魔術道具を指します。聖剣・魔剣の類いも該当しますが、中でも貴女の持つそれは邪悪さが桁違いに思われます。怨念とでも言うべきか、正に呪われし剣です。私はそういった遺産に魅入られて破滅を迎えた者を何人も見てきました。文献を辿れば、時には国家をすら傾けるだけの力を持つものすら存在するのです。私はそれらを集めて適正に管理し、人間に使いこなせる理性と叡智が授かるまで封印したいと考えて行動しています。…公職もあり普段は同志たちに任せきりな点は否めませんが」
セイレーンはアスタロトに手を伸ばしたままの姿勢で質問する。
「貴様は…誰だ?」
「聖アカシャ帝国軍中佐、第4軍団第4中隊長のロイド=アトモスフィです。こちらはフュハ=シュリンフェア曹長と、ハリー=オーヴェル。私の思想に共感し手助けをしてくれている同志です」
ハリーとフュハは、セイレーンが動けばロイドの前に出て身を挺して守る気概で身構えている。
セイレーンにもそれが伝わって来、ロイドの言動に偽りがないことを認めた。
アスタロトから手を離すと、セイレーンは鞘に収められたままのそれを静かにテーブルの上に置いた。
それを見てからハリーとフュハも戦闘体勢を解く。
「…アスタロト。この剣は…寄生型の魔剣だ。私が所有を止めれば、強制的に次の宿主を探してその毒を振り撒く。人間の力では決して逃れることが叶わないと、幼少の頃に通りすがりの魔術師から教えられた」
「魔術師…ですか?」
「ええ。若い女性の魔術師で、もう顔も覚えてはいない。家族が私と魔剣を置いて逃げたことを不憫に思ったようで、私に剣技の基礎と魔剣の扱い方を指導してくれた。ただ、私は二十歳までは生きられないだろうと…」
「魔剣の呪縛。経験上、所有者の生命を吸う代わりに自らの魔力を供給するタイプは多いのだが。この剣は…所有者を毒で侵す分たちが悪い。呪いを断ち切る方法は、多分…」
ロイドが口にする前にセイレーンが回答を被せた。
「所有者が誰に剣を押し付けるでもなく没すること。女魔術師は、私が犠牲になれば以後同じように苦労する者が現れないで済むのだと言った。当時は怒りと憎しみに支配されて、ただ胸が張り裂けそうだったが…今となっては少しだけ理解できる。アスタロトの不幸の連鎖は、私で断ってみせる」
「…立派な生きざまですよ、セイレーン卿。願わくは貴女にも長生きを約束してあげたいが、現状の私に出来ることはヒーリングと経過観察がやっと。後は研究の先に、魔術遺産の効力をある程度制御出来る術を手にすることを期待します」
「はい」
「私と共に来ませんか?セイレーン卿」
「はい…宜しくお願いします」
セイレーンは自然と涙を溢れさせていた。
孤独から救い出してくれた九郎丸にも話せなかった想いを、どうしてかこの場でロイドには白状してしまい、そして彼の行く道をサポートしたいと心底熱望した。
ロイドの人間性にいたく当てられたセイレーンは、これまで我慢して溜め込んできた感情を一挙に爆発させてはらはらと涙を流している。
恋や愛とは明確に異なる感情であり、セイレーンは何を共に為したわけでもないロイドに対して、かつて抱いたことのない絶大な共感を持ち得ていた。
聖都に帰還したセイレーンから出奔の希望を聞かされた九郎丸は、詳しい理由は訊かずに一言だけ投げ掛けたという。
「ソフィアよ、お前自身がそうしたいのだな?」
キルスティンは散々に引き留めたものだが、予想外にも教導騎士団が淡々と退団を受理したせいで孤立を深め、最後には何も言えなくなってしまう。
事後非公式に集まった<七翊守護>のロイ=セトメ、ゲルハルト=ライネル、ファルートらの会話が、従卒を伝って次のように残されている。
「天下無敵の魔剣士を失ったわけだな、我らが騎士団は」
「セトメ卿…彼女にとっては幸いかも知れんぞ。まともな人間が生きにくい世に変わりつつある」
「どういう意味だい?滅多なことは口にせん方が良いぞ、ファルート卿」
「ライネル卿。私はな、彼女を引き止めねばと思った。個人的な交友が有るわけではないが、国益を考えてのことだ」
「ああ」
「だがな。政庁のどこに働き掛けても賛意を得られなかった。クリスタル様が御一人で訴えられているのみでな。…可笑しかろう?あのルキウス=シェーカーよりも腕が立つ、我らが国の筆頭騎士が離脱せんというのに」
「…ああ。九郎丸殿がいるから、政治屋どもには危機感がないのと違うか?」
「ライネル卿。ニーザ=シンクレイン枢機卿だよ。それくらいは調べがつく。政敵の戦力故に何ら手を打とうとはせず、寧ろ慰留を排除した。なんと浅慮なことだ」
「おいおい。それ以上は日和見の俺でも看過は出来んぜ、ファルート卿?餅は餅屋。俺たちは騎士団を引き締めておけば良いのと違うか?」
「その騎士団の臓腑に手を突っ込んでくる恥知らずな輩に我慢がならなくてな」
「…卿は喧嘩を売っているのか?あの女はいけ好かなかったが、確かに剣は一級品だった。俺は十分に惜しんでいるつもりだ」
「卿個人に含むところはない。騎士団の弱体化を憂うばかりだ」
「両人とも、止さんか!<七翊守護>同士が揉め事を起こしては、それこそ騎士団が空中分解しようぞ。ここは自重せよ」
「…すまねえ」
「言葉が過ぎた。しばらく慎むとしよう」
「ファルート卿の言い分も分かるが、ライネル卿の指摘した通り我等は職責に従い騎士団が弛まぬよう監督するのみだ。何せ身内から、大陸最強騎士の一人を失ったのだからな。…行き先すら告げられず、まるで我らは見捨てられたかのようだ」
「…聖アカシャ帝国だ。巷で鷹と噂されるロイド=アトモスフィ中佐の世話になるんだとよ」
「…そうか。聞かなかったことにしておいた方が良いのだな?」
「知るか。あすこの派閥が内偵した話を小耳に挟んだだけだ」
「ライネル卿…感謝を。セトメ卿、私は泣き寝入りをする気はない。彼女と何れ戦場で遭遇した時に、面と向かって恥ずかしくないだけの陣容を整えようぞ」
「それこそ異存はない。なあ、ライネル卿?」
「…訓練はほどほどで頼む」
これは余談であるが、ニーザ=シンクレインの派閥に在りながらセイレーンに一目も二目も置いていたゲルハルトは、この後騎士団に復帰した聖騎士フェルミの強さにセイレーンの影を見て、崇拝と依存を強める結果になるのである。