165話
†第二十七章 相愛†
年明けを迎え、グラ=マリ王国の治世の波は大挙して大陸を覆い尽くさんとした。
相次いで諸国が王権を停止し、中には革命まがいの過激な騒乱が勃発して、貴族階級の者たちが大量死する事例もあった。
何の抵抗も無しに国主が退く例は少なく、大なり小なり軍事行動を伴ったものであるが、ジリアン女王は惜しみ無く紅煉騎士団を投入し、特権身分の打破を後押しした。
大国がそれほど動揺していない分、大陸規模で見たならば経済的に恐慌を来すこともなかった。
それでも統制経済に近い運営方針が打ち出されていたが故に物価は緩やかに高騰し、警察権力も強化されて市民生活においては息が詰まる事態が頻発している。
大陸北東部のグレートボース王国では、国王が退位したまでは良かったのだが、続く政治の空白に国は乱れた。
グラ=マリによる騎士団の制限の影響で、残された貴族たちの私兵の組織化に対応出来ず、庇護を失った農民が多数耕作地を放棄することになる。
結果、食糧難から物資の流通が滞り、国内各地で暴動が発生した。
貴族たちは自領の締め付けに拘泥して動かず、騎士団はもはや数量的に機能していない。
新たな代議士は見かけ倒しで、グラ=マリから紅煉騎士団が派遣された時には国中が酷いパニック状態に陥っていた。
グレートボース領内の抵抗勢力鎮圧と政治の正常化を託されたのは、紅煉騎士団第4軍のグリプス=カレンティナ少将である。
対教導騎士団戦の終戦後に階級を二つ進められたグリプスは、幹部人材の枯渇気味な紅煉騎士団にあって順当に将軍位へ昇っていた。
後に、グレートボースの混乱を鎮めたグリプスは次のように愚痴を溢している。
「グレートボースはアビスワールドから遠過ぎた。大陸の警察を標榜するのは良いが、明らかに超過勤務だ。せめて、各軍を東西南北に分散させてくれれば…」
ジリアンは騎士団の中央配置を徹底して、アビスワールド以外には、シルバリエに第5軍を設置したのみとしていた。
グラ=マリが持つ騎士団六軍六千という武力は、大陸に比較し得る国が見当たらない巨大なもので、グリプスのように目端の利く幹部からは、中隊単位に分散して運用する提言が過去何度か出されている。
それはその度に黙殺された。
女王と幹部は何事かを恐れ、戦力の分散を認めないのだという噂も流れた。
「では樹林王国への派兵に関して討議を行う」
軍務大臣の高らかな声が、国政で一番権威のある御前会議の始まりを告げる。
王宮は最上階の一室。
大きな黒檀の円卓に着席しているのは、ジリアンが国政の意思決定に必要と定めた内閣と騎士団の重鎮ばかりであった。
軍務大臣が形式的に出兵計画を読み上げ、事前に詳細を知らされていた列席者は長々とした口舌を全て聞き流している。
その予定調和に異を唱える人物など、最近ではただの一人となっていた。
「質問があるわ」
その人物、宰相カタリナ=ケンタウリが挙手して軍務大臣の言を遮った。
慌てふためく大臣が女王の顔色を窺うと、それは見事に不快な表情を形作っており、じわりと背から汗が噴き出るのを感じる。
ジリアンとブリジット=フリージンガーの言いなりでしかない彼は、五十を幾らか過ぎた子爵家の三男で、旧時代の派閥の論理からスライド就任しただけの小人に過ぎない。
それ故ジリアンも大した期待を寄せてはおらず、端からカタリナと論戦が張れるとも思っていなかった。
「戦略と戦術には口を挟みません。そもそも、わざわざ兵を派遣せずとも、樹林王国に抗戦の意図などない。徒に紛争をもって解決の手段とするのは如何なものかしら?」
「さ、宰相閣下…出兵は既に決定され、畏れ多くも女王陛下に御承認いただいたのです。今更蒸し返されても…」
「内閣での決定に、商務・外務の二省を統轄する私の同意すら得ていない点に、不備が無いとでも仰有るの?」
「そ、そそそれは、閣下が長期外遊中のため、拙速を尊んで代理の決裁を得たまでのことでして…他意はないものと申しますか…」
「二日ばかりの地方出張を長期外遊と言いますか。それでは閣僚はおちおち現場の視察にも赴けないわね」
「いや、その…大義なら、ありましょう?何せ奴等は、紅煉石封印の誓文なる挑発的な檄文を発表したのですから。これこそ我が国に対する宣戦の布告に等しい行為です!」
「馬鹿な。あれから武力侵攻を企図する含みなど読み取れないわ。紅煉石の扱いに関しては、高官協議を重ねて潰していけば良いだけのこと。向こうを上回る戦力が有ればこそ、交渉を優位に運ぶことなど容易よ」
「…あの、それは…しかし…」
軍務大臣の顔は、見ている者が同情するくらいに青ざめ、ポタポタと落ちる汗はハンカチでは拭き取れないレベルに増加しつつあった。
ジリアンは「座りなさい」と命じて大臣の発言を封じると、不機嫌な様子を隠そうともせずカタリナに向き合う。
「樹林王国は潰すわ。このままでは国の威信が保てないでしょ?国宝でもある紅煉石を危険だなんて宣伝され続けるのは、喧嘩を売られているも同じことよ」
「陛下。私が申し上げているのは、武力によらない潰し方もあると言うことです」
「結構よ。今は騎士団が充実している。負ける要素が何一つないわ。諸国に変な空気が伝わらない内に、見せしめにしてやるつもりなのだから」
ジリアンの言に翻意の欠片も見付けられず、カタリナは小さく息を吐いた。
「…分かりました。意見は取り下げます」
「そうして頂戴。ついでに荷物も纏めておいてね。今日付けで貴女を罷免とするわ」
「…そうですか」
円卓の空気は一片も変わることなく、カタリナは自分への包囲の網が完成していたのだと理解する。
捨て台詞の一つも口にしようとした矢先、それをブリジット=フリージンガーに制された。
「昨年、ラインベルクとリーゼロッテ=ブラウンの逃亡を幇助したであろう?二人にはスパイの容疑が掛かっていた。宰相閣下、貴女にも同様の嫌疑が掛けられている」
「…フリージンガー大将。あの二人に限ってそんな事実はありません。よく調べもせず、そうまでして政敵を追いたいの?」
「嫁をメルビルの執政官にと差し出したのだ。つい先日まで命の獲り合いをしていた相手国ぞ?おまけに軍機を山程抱えたフュハ=シュリンフェアをも野に放っている。この件は軍務省の一役人も関与を認め、公式に査問へ掛けられているのだ。言い逃れは出来んよ」
容赦のない追及にカタリナは閉口し、録な弁明も許されぬまま会議室から締め出された。
左右を騎士団の剛の者に挟まれ、内務省の役人に先導される形で王宮を出る。
「私はどこに連れていかれるのかしら?」
カタリナの問いに、前後左右の人間たちは何も答えない。
紅煉騎士団本部庁舎の裏手にある演習場は、舗装のされていない地面と馬術用の障害を白日の下に晒していた。
無言のままに連れてこられたカタリナは、内務省の役人たちが去り、残された強面の騎士らが剣を抜いたところで己の処遇を思い知る。
(ジリアン…私如きを殺す程に貴女は追い詰められているというの?これも全てラインがいなくなったせい?こんなやり方…全く貴女らしくない)
「騎士団に軍事素人の団長を天下りさせようなんて考えるからこうなるんだ。閣下とも呼ばれた御方がなあ」
「へへ…死ぬ前に、全裸に剥いて品定めしてやるからな。悪く思うなよ」
二人の騎士が舌なめずりしてそう言ったことで、カタリナはようやく合点がいった。
ジリアンやブリジットはこのように低俗な趣向など好まない筈で、彼女らの背後で暗躍する何者かがこれを機会に自分を始末しようと手掛けたのだと。
そして、黒幕は少なくともカタリナの推進する軍政改革を快く思っていない連中なのだと断定する。
だがそれが分かっても、固有の武力を持たないカタリナにこの場で打つ手は無かった。
(…ラインを助けられただけでも良しとしないと。ジュード、クライファート、キャッシュ。もうすぐそちらに行きますから…)
観念したカタリナは直立不動でその時を待った。
「諦めが早いな、おい…」
「ちとツマランが、さっさと剥いちまうか」
「そこな二人、武器を捨てなさい!」
凛と響く声に、騎士二人が驚いて振り返る。
入り口辺りには十人程の騎士を伴い、怒りに瞳を燃やすオードリー=アキハの姿があった。
大男二人が固まっている間に、オードリーはつかつかと歩を進め、演習場の中を突っ切って来る。
「ケンタウリ様、お怪我はありませんか?」
「ええ、オードリー=アキハ大佐。危ないところでした。助かったわ」
「お前たち…所属と官姓名を名乗りなさい!一歩でも動いたら、反逆と見なして討ち果たします。私は第2軍のオードリー=アキハです」
カタリナとサンドイッチにする格好で、オードリーは目の前の騎士たちを威嚇する。
天を向くその手のひらの上には、魔術で具現化したエネルギーが球体を形どって揺らめいていた。
先の戦でも戦果を挙げたオードリーは、高級士官の不足とラインベルクの第2軍の指揮者不在から、駆け足で大佐にまで特進となっている。
将軍代行の地位に就いたこの若き魔術師の実力は「新五人組」の一員として騎士団内外でも知られており、この二人組の暴漢をして身動きを封じられた。
「…紅煉騎士団万歳ッ!」
オードリーは、剣を構えて突進してきた二人に強力なエネルギー弾を見舞い、速業で昏倒させた。
屈んで制服を改めると、第6軍の記章が確認出来る。
「…エルベンス=ヨーデル准将の第6軍!」
「アキハ大佐。知らん振りを決め込みなさい。後は私が処理します。さもなくば、貴女にも危害が及ぶ」
「しかし、それでは御身が…」
「私は大丈夫。法に因らない私刑を回避したとて、誰に追訴されるいわれもない。今後は護衛を常備するわ。…まあ、内閣を放免になった今、私に拘る筋合いなどないのかもしれないけれど」
功労高いカタリナが罷免されたという事実は、オードリーの心中に暗い影を落とした。
ただでさえ数多くの忠臣が戦死、または公職を辞している中で、カタリナの如き有能の士を欠いて政治は一体誰が音頭をとっていくのであろうかと、オードリーならずとも功臣たちは漠然とした不安を覚えずにはいられない。
グラ=マリ王国の大陸制覇は確かにあと一歩に迫っているのだが、その覇権が拡がるにつれて、何やら居心地の良くない空気がアビスワールドで濃度を高めているようにカタリナやオードリーなどは感じるのである。
カタリナから樹林王国への攻撃計画を聞かされたオードリーは、自分と第2軍が蚊帳の外に置かれ軍議が知らぬところで進んでいる厳しい現実にも直面する。
(ラインベルク将軍…早く…戻ってきてください。第2軍には…この国には、やはり貴方が必要なのだと思います)
***
「はあ…疲れた。おい、晩飯はまだか?」
「…いま支度中だ」
「塩っ気を濃くしてくれ。大分汗をかいた」
「何で私が…。もう歳なのだから、塩分は身体に悪いわよ」
「おれはまだ三十ちょいだぞ。年寄り扱いはよせ。…そうだな、先に風呂に入ってくる」
「他人の家の浴室に、よくも勝手に…」
ぶつくさと文句は言うのだが、リリーナ=ウルカオスはしおらしくもラインベルクの言われた通りに準備をする。
鍋の火はそのままに塩を一つまみだけ足して、彼が浴室に入っている間に洗濯済みのタオルと着替えをセットした。
紫の長い巻き髪は家事に似つかわしくなかったが、元々躾の厳しい家に育ったが故、生活に必要な全般を難なくこなすスキルを持ち合わせている。
貴族制度の緩やかな廃止に先立って、カイゼルやリリーナといった剣皇国の最上位に位置する身分の者は、所領や豪邸を手放して生活水準を大幅に切り下げていた。
上級騎士であり、剣皇国でも屈指の貴家にあったリリーナはこれも世の趨勢と達観し、ゴールドランスの一軒家に寝起きしている。
剣皇国は列強の中でも聖アカシャ帝国、ラルメティ公国に次いで解体となった身で、戦で滅びた訳ではなかったが、昨年末にグラ=マリ王国への臣従と編入を正式に決定していた。
リリーナの現行の職位は紅煉騎士団の地方軍の高級士官ということで、主に北の大山脈方面の魔物退治を生業としている。
「ただいま帰りました」
木製の玄関扉がキィと音を立てて開き、長衣姿の女性が遠慮がちに顔を出す。
「お帰りなさい。夕飯はもう少し待ってて。ラインは今浴室よ」
「あ、手伝います」
「そう?それじゃお言葉に甘えて。冷暗所から葉物野菜を取ってきて貰える?三人分で良いから」
「はい」
二十歳を過ぎたばかりのリーゼロッテに対してリリーナは二年程年長なだけであったが、ここでは姉然として振る舞っている。
まだ日が浅く不自然さは否めないものの、リーゼロッテも新しい家に溶け込もうとリリーナを意識していた。
やがて風呂上がりのラインベルクを待って、慎ましやかな晩餐が始まった。
「旨いな…これは」
「そうか」
「見た目と違って家庭的なところがポイント高いんだよな。お前はいい嫁さんになるよ」
リーゼロッテはリリーナの目が三角になるのを見逃さなかったが、口を出して敢えて火に油を注ぐような真似はしない。
ラインベルクは気にも留めず、冗談めかした話題から一気に内容を転じた。
「イチイバルもメルビルも変わらずの返事だった。紅煉石の有り無しを基本方針に考慮しないそうだ。紅煉騎士団に対抗するなんて夢想だと、けんもほろろに突っぱねられたよ」
「…今更絶対優位なグラ=マリに抵抗するのなら、諸国と比して少しでも強い立場を確立したい。相対思想が蔓延しているのでしょうね」
「話は分かりますが、もう少し紅煉石の恐怖が伝わってもいいように思えますが…」
「ロッテ、今は過渡期だ。大陸中の政治体制が移行する中で、聞きたくないものには蓋をしてでも皆が実利を取りにきている。プリムラがあれだけ挑発した以上、伝わってはいるはずだ。…だが、行動は鈍い」
ラインベルクは、自身がアクセスした先の反応が芳しくないことに悔しがる。
樹林王国以外にグラ=マリ王国の紅煉石所有に異を唱える勢力は現れず、下手に煽っても厭戦の空気を助長しかねないきらいがあった。
その為ラインベルクはごり押しを諦め、正面突破に関しては失敗に終わっている。
「早々に樹林王国入りをしないのは、何故だ?」
リリーナが真っ当な疑問を口にした。
「おれがパーシバルに入ればジリアンは容赦をすまい。あまりあいつを刺激すると、プリムラに直接的に迷惑が掛かる。何れ開戦は避けられない情勢にあるが、いま直ぐにやり合っては勝ち目がない」
「…私には迷惑が掛かっても良いと?」
「他に頼る先がない」
ラインベルクは真っ直ぐにリリーナの目を見て言う。
その言葉に嘘偽りは無かった。
イチイバルのシルドレは腕の一本を無くした身で、おまけにカザリン=ハイネマンに続いてマグナ=ストラウスをも失い、戦力的に消沈している。
キルスティンはメルビル入りして日も浅く、下手に巻き込めばいきなり立場を危うくする可能性が高い。
ラルメティに至ってはフレザントの出方が読めず、彼の国の損得を鑑みるに彼がラインベルクに力を貸すという選択肢は成立が微妙と見られた。
ましてや樹林王国は正面からジリアンにノーを突き付けたわけで、戦力差が多大であることからも先に述べたように決戦を早める道は取り得ない。
「…そういうことなら、仕方がないわね」
リリーナが心持ち頬を赤らめたのを見て、リーゼロッテはまたかと舌打ちをしたい気分に駆られる。
(なんで…会う女性会う女性が皆、伯父様に欲情するのよ!それも揃いも揃って器量良しばかり。リリーナさんだって、伯父様にキルスティン伯母様がいることやアルシェイド伯との仲もご存知でしょうに…)
「だが、プライム=ラ=アルシェイドと対魔騎士団は、実際のところ紅煉騎士団とどの程度やりあえるのだ?」
「歯が立つまい。紅煉騎士団は公称で第6軍まで整備されていると聞く。推計六千だ。ブリジット、ワイバーン、グリプスの三将は決して侮れないし、おれの率いていた第2軍は手前味噌ながら精鋭揃い。対するプリムラの手勢はいって一千程度のはず。諸国が闘えるだけの練度の兵を出し合ったところで、もうグラ=マリ一国の戦力にも敵わないのが実情さ」
「…そうよね。我が軍だって、かき集めても五、六百がいいところ。それも士気は全く期待出来ないわ。イチイバルやラルメティだって似たようなものでしょう?これは、もう詰んでいる」
リリーナの敗北宣言にリーゼロッテはしかし、ただ一つの正論を口にした。
「まだです。紅煉騎士団には足りないものがあります。筆頭騎士と宮廷魔術師です。強力な一手は盤面を引っくり返せる筈でしょう、伯父様?」
この一月後、ジリアンの号令一下紅煉騎士団は、樹林王国の王都パーシバルへと向けて出陣した。
動員された騎士はおよそ四千。
公布された陣容はその破壊力から、樹林王国だけでなく諸国をも震撼させた。
ブリジット=フリージンガー大将の第1軍、ワイバーン少将の第3軍、フィリップ特佐の第5軍、エルベンス=ヨーデル准将の第6軍。
そして、筆頭騎士に久遠アリシア。
宮廷魔術師リーゼロッテ=ブラウン。
紅煉石を巡る最終戦の火蓋はここに切って落とされた。




