161話
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影が自分達を包んだような気がした。
ジリアンの意識は一度そこで途切れ、気付いた時には全身を瓦礫に圧迫されているような状況と認識する。
(…重い。ニーザの自爆が、神殿を崩落させたというの?)
どうにか這い出たジリアンは、自分にのし掛かっていた物体が瓦礫などではないことを知り戦慄する。
そして酷く取り乱してラインベルクの姿を探した。
「ラインッ!起きなさい!起きて…誰か…」
自分と同じようにそれの下敷きとなっているラインベルクを発見すると、ジリアンは助けを求めるべく仲間たちの様子を窺った。
(誰か…まだ息があるのよ!)
辺りは燦々たる有り様で、ニーザとの戦闘で倒れたマグナやレーンの亡骸が変わらぬ格好で横たわっている。
フュハは全身に手酷い火傷を負った姿で気絶しており、ぱっと見で呼吸があった為にジリアンをほっとさせた。
カイゼルも、フュハと同様に寸前で防御を展開出来たのか、壁に背を預けてじっとしている。
「…女王陛下。頼むから、紅煉石だけは使ってくれないでよね。いま行くわ…」
「プライム=ラ=アルシェイド!」
プライムは構築していた防御壁を解くと、よたよたとした弱々しい足取りでジリアンらの下に歩み寄る。
彼女の唇は固く結ばれており、犠牲の程を知った感である。
床にしゃがみこみ、ラインベルクの額の上に手をかざすと、プライムから彼へと燐光の移り行く光景がジリアンの瞳に映し出された。
「…この馬鹿を、護ってくれて有り難う」
プライムの短い礼に、石像と化したカノッサの巨体は沈黙でもって応じた。
あの瞬間。
ニーザがその身中から暗黒の光を発したその時、ラインベルクとジリアンに覆い被さるカノッサの姿をプライムは目撃していた。
ジリアンの警句に反応したプライムとフュハ、カイゼルの三者は防御を間に合わせたものの、カノッサはラインベルクらの盾となってまともに光を浴びた。
プライムはニーザの最期と共に発現したこの現象を、魂を破壊し脱け殻と化した人体を石に変容させる奇術と定義する。
即ち、何らかの手段で石化を解除出来たとしても、生命活動は戻らない理屈である。
プライムの顔色は段々と悪くなり、それは聖石の尽きた今ラインベルクへと己が生命力を付与している故であった。
酷く痛々しくはあれど、端から見ているジリアンには美しい献身にも感じられた。
「アルシェイド伯…」
「大丈夫です。こいつも、私も。…あの二人も放ってはおけない。こいつを叩き起こして、女王陛下は先に外へ」
「えっ?」
「外の状況がまるで分かりません。数で劣る味方が敗北していた場合、ここに籠っていては脱出もままならないかと。それならば乱戦下を抜ける方が少しはマシと言うもの。さあ、お早く!」
言って、プライムはカイゼルと比べてより容態の芳しくないフュハの下へと治療に向かう。
ジリアンは強く頷くと、ラインベルクの身体を揺すり、頬を叩いて気付けを図った。
***
天から闇は払われ、陽の光が地上へと一斉に降り注いだ。
雲も緩やかに流れ始めて地獄と見紛う世界はあっという間に彼方に去った。
シュウ=ノワールは、神殿を頂く丘の上方を一度だけ見上げ、以後は振り返ることなく戦の跡地を踏み進んだ。
ミース神殿周辺の戦いは紅煉騎士団・対魔騎士団の勝利に終わっており、死体のみならず息がある騎士たちもまた、精根尽きて地に座り込んでいる。
所属不明の身であるシュウは、もしかしたら不審者として取り締まられるかもしれないと覚悟をしていたものだが、戦場は拍子抜けするような静けさであった。
(無理もないか…。この戦が実質グラ=マリ王国の覇権を決めたのだからな)
眺めた範囲では教導騎士団は散り散りとなっていて、統制が取れているのは紅煉騎士団の部隊のみに思われた。
シュウは極力どの騎士ともコンタクトを取らぬよう心掛け、少ない手荷物を肩に掛けて黙々と歩みを進める。
いざという時は頼ることになるかも知れぬと、腰の剣は鞘の留め金を外していた。
「おい…そこのお前!」
シュウは呼吸を止め、いつでも剣の柄を握れるよう身体の力を抜いた。
「ああ、やっぱり!シュウ=ノワールじゃないか!随分と懐かしいな」
呼び止めた主は紅煉騎士団の士官で、顔を盗み見たシュウも相手の素性をそれとなく思い出す。
一時期シュウと同じく旧第4軍に所属していた騎士で、記憶では旧第7軍に異動となっていた。
「…君か」
「騎士団に復帰したわけじゃないよな。対魔騎士団の伝かい?何にせよ、久しぶりだ。無事で何より」
「ああ。お互いに。…これでグラ=マリの天下か」
「そういうことだ。まさか、生きている内に大陸統一の偉業を拝めるなんてな。ラインベルク将軍さまさまさ」
「彼は、強過ぎる」
「そう。将軍のお陰で俺も今じゃ大尉様だよ。お前さん程に腕は立たないが、コツコツやってきた甲斐があったってわけだな」
「…おめでとう。急いでいるから、ここで失礼するよ」
昔話に花を咲かすつもりのないシュウは、やや不自然な態度で話題を切った。
なんと言っても、彼は出身の紅煉騎士団に剣を向けた身なのである。
「そうか。もし戻る気になったならいつでも訪ねて来てくれ。君ほどの剣士だ。ラインベルク将軍に直訴してでも登用すると誓うぞ」
「…ありがとう」
シュウは先程まで対峙していたラインベルクを思い返す。
出会いはプライム率いる樹林王国遊撃隊の一員として、エルネスト山岳国家における対決と共闘。
直接に顔を合わせることはなかったが、アビスワールドを竜が襲った際にはシュウも参戦してこれを撃退した。
ラインベルクの盟友・久遠アリシアとも協調し、ノースウイングでは炎の魔神を相手に立ち回りを演じて、果ては<幻竜>を敵とした。
そして大陸の命運を決した合従軍戦において、アリシアと並んで<石榴伯爵>を打倒するに至る。
つまり、シュウはラインベルクとは深い縁があり、外部の戦士としてはこれ以上ないくらいに志向を同じくしていた。
(魔物を敵とするただ一点。俺がラインベルク将軍を信用するのは、それだけだ。だから…)
ミース神殿でジリアンの不明を弾劾し剣を取っシュウに対して、ラインベルクは必ず全てを明らかにすると約束した。
ニーザとの決着が急がれる事態だという説明を受けたシュウは、敢えてそこを退いたのである。
一連のアビスワールド侵攻に力を貸したことで教導騎士団への義理は果たしたとの思いもあったのだが、やはり彼は魔物を相手とした戦いにこそ意欲を燃やすタイプなのだと言える。
あの場でジリアン女王から何一つ答えを得られなかったことに不満はあれど、シュウはその始末をラインベルクに託したのであった。
そして、暗天が解消される直前に感じたおどろおどろしいプレッシャーから、ラインベルクの言う通りにニーザやレウが途方もない凶事を働いたことは推察出来た。
(…彼は無敵だ。勝ったのであろうな。だがあれほどの邪気、仲間たちが皆無事ということにはなるまい)
かつて失った自らの半身とも言うべき魔術師のことが思い起こされ、シュウはそれを打ち消そうと頭を振る。
ここに来た目的のある程度は果たし、シュウが次に流れる先を決めるのは一枚の簡素な銀鏡であった。
魔鏡と呼ばれたそれをシュウは手荷物中に忍ばせており、当分は魔物狩人の使命を遂行することに全力を傾けるつもりでいる。
一陣の風が流れた。
そしてミースの戦場からシュウ=ノワールも去った。
***
「ゼノア…」
ラインベルクは声を詰まらせたきり固まって、総じて石像となったゼノアと彼の旗下にあった騎士たちを悼んだ。
神殿へと続く丘の石段には、ラインベルクに加勢せんとした騎士たちの亡骸が雄々しい姿のままで残されている。
彼らはニーザの断末魔の魔力をまともに浴びて、カノッサと同様に魂を砕かれていた。
初陣より戦場を共にした、紅煉騎士団最古参の仲間をまたラインベルクは失ったのである。
ラインベルクは同期ながらに年少であったゼノアの育成に力を注いできたし、今では彼ほどに信用を預けられる指揮官は存在しない。
私人としても、友人と呼ぶよりはむしろ歳の離れた弟のように思っていた。
「ライン…これは事故よ?貴方が如何に万能でも、人間の身では防ぎようがなかった」
「…ああ」
「総指揮をとっていた筈のゼノア大佐がここまで登って来たということは、つまり味方が勝利したということでしょう?」
ジリアンの指摘に疑問を挟む余地はなく、それであればゼノアは最後に華々しい戦果を上げたことになるとラインベルクは思った。
実質的に大陸統一が成った最後の大戦で指揮官を務めた騎士。
ゼノアの名が大陸史に刻まれるであろうことは確実で、ラインベルクにはそれが彼にとって名誉なことに違いないと、僅かばかり溜飲を下げた。
それでもともすると嗚咽を漏らしそうになり、ラインベルクの悲しみは後から募る。
「感傷に浸るのは後よ。急いで本隊と合流しないと」
ジリアンは気丈な様子で急かすのだが、ラインベルクは中々動こうとはしなかった。
「ライン…?」
「ジリアン。ニーザは倒した。これで、紅煉石を狙って無駄に世を乱す輩もいない」
「レウ=レウルが残っているわ」
「あれは愉快犯のようなものだ。本星亡き後で何するものでもない」
「…そうね。ニーザが倒れて教導騎士団も崩壊。かくてメルビルも大国の看板を下ろすことになる」
「今回の戦も多くの犠牲を伴った。多数の騎士を失い、知己を失い、ミースという国をも失った」
ラインベルクは失われた戦友たちの顔を一人一人思い浮かべていく。
アラガン、ヒースロー、ジュデッカ、ジュード=ケンタウリ、シバリス=ラウ、ヴィアン=クー、ベルサリウス、レーン=オルブライト、マグナ=ストラウス、カノッサ、ゼノア。
何れもラインベルクと因縁浅からぬ者たちで、彼は身の回りが急速に冷え込んでいくような錯覚を覚えた。
「その分、責任をもって大陸の統治機構を整えるつもりよ。私が地位や国家に拘ったのもその為。分かるでしょう?」
ジリアンは上目遣いに語り掛ける。
「おれは、ただ君を守る」
「そう。あの時約束してくれたものね。この先ずっと、守ってみせるって。…十三年もの間反故にされたわけだけれど。私の治世をここまで支えてくれたのだもの。それも帳消しにしてあげるわ」
「大陸を統一して、特権階層を破壊して。魔物も制し、平等の世を実現し、それで…どうする?」
ラインベルクの黒瞳が挑戦的な光を宿す。
ジリアンは逃げることなく、碧眼で真っ向からその視線を受け止めた。
「…どうしようかしらね。貴方は、奥様と旅に出るも家庭に落ち着くも良し。メルビルだって、ニーザが消えたのだから少しは住み易くもなるでしょう。私は…どこぞの山荘に隠るのでは、性格的に我慢がならないわ。やっぱり、放浪の旅かしら?」
「紅煉石を持って?」
「そうよ」
「それでは…おれたち以外の者は納得すまい。いつ何時、やっと形になった平等の世が異界の圧倒的な力で覆されるとも知れないのだから」
「シュウ=ノワールの戯言…でもないわね。彼は気付いたのだし。確かに石を持つ者が望めば、或いは犠牲を顧みないならば、世界を引っくり返すことだって出来る」
「何故だ?何故石を使った!ジリアン=グラ=マリ?」
「それが私への不審の正体?」
「道義が無くなれば、戦死した仲間たちへの哀悼も倒した敵への供養も無意味だ!ギュストやナノリバースと何が違う?お前とおれに命を預けて戦ってくれた騎士たちに、一体何と弁解する気だった?」
「…貴方がそれを言うの?大事な時にそばに居てくれなかった貴方が、今更私を責めるの?前々国王がナノリバースに倒されたとき、私は気が気でなかった。テオドル=ナノリバースとデイビッド=コールマンは、必ず傀儡を擁立して紅煉石を欲しいままにする。大陸には魔物が満ち、国政は門閥貴族に壟断される。ニーザの如き悪鬼に付け入る隙を与えるだけだと。公爵家にあるとは言っても、私はただの女。騎士でも魔術師でもない身ひとつでは、国政に影響なんて及ぼしようもない。…それでパーティーの折りに王宮を捜索して、見付けた石に迷わずアクセスしたわ。かつて、いつかの時代の王がニーザを生み出したように、私はグラ=マリの新王となる存在を造り出した」
「何…だと…」
「それで私を王妃に選ばせた。多少放蕩嗜好を持たせた方が、私が政治に口を出し易くなって都合が良かった。護身用の限定された空間支配能力を除いて、何一つ特殊な技能は付与していない。国王になることと、私と紅煉石を不自然でない程度に庇護すること。求めたのは…本当に、それだけ」
ジリアンははらはらと涙を流していた。
それでも瞳からは揺るぎない信念が窺え、対したラインベルクを心底たじろがせる。
しかしラインベルクにも引けない道理であった。
既に彼とジリアンのために多くの同志が道半ばで命を落としている。
ラインベルクが自身の悔恨に執着してジリアンを守護し続けるには、流された血の量が大きくなり過ぎていた。
「それさえ…それさえ無かったなら、お前と紅煉石はおれが最後まで守り通したものを!」




