15話
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紅煉騎士団陽炎分隊は一個中隊二百からなる独立部隊で、初代分隊長にラインベルクが任命されていた。
二百の騎士の出所は旧第8軍第4、第5中隊の各小隊からで、これはラインベルクら<五人組>が初めて指揮した騎士たちから有志を募っていた。
<五人組>という呼ばれ方が広まり始めたのはこの頃からで、ラインベルクを中心としてアリシア、リーシャ、ゼノア、唯を指すのが一般的だ。
アリシアの代わりにラミア、ないしはラインベルク本人は数えずにディタリアを加えるパターンなどが点在しており、<五人組>の呼称は広くラインベルク一党を表した。
一週間前にいきなり王宮によびつけられ、辞令と部下を押し付けられた当のラインベルクは、気の抜けた顔で隠れ家に隠っていた。
王都外郭部の長屋の一室で、比較的低所得者層が居を構えそうな簡素で寂れた造りをしていた。
窓を閉めても風が漏れるため、換気の必要もなくて楽だとラインベルクは暢気に寝そべっている。
しかしその手にはジリアンから預かった依頼文書が握られており、文面を眺めている間だけは真面目な顔付きにとって変わった。
ジリアンからは「あなたを私の自由に動かせるように、本当に苦労した!色々と妥協もした!我を曲げた!頭も下げた!色仕掛けも使った!…だからお願い。私の前で文句のひとつも言わないで。言ったらあなたを殺すわ。…それと、これお願いね、ライン」と強引な流れで押し付けられた代物で、ジリアンが考え得るグラ=マリ王国の改革と躍進の策が羅列されている。
中には重大犯罪人の粛清項目もあり、法的な量刑上死罪に相当する罪を犯した幹部の暗殺すら求められた。
(あいつ…本気みたいだな。だが、ここまで強引に物事を進められたら、守旧派とて黙っちゃいないだろう)
王宮や執務室にいるとひっきりなしに詰められるので、彼は度々こうして逃亡していた。
コンコンと安普請の引き戸をノックする音が聞こえて、ラインベルクはびくっと肩を震わせた。
咄嗟に隠れる先を探すも、一間で収納すらない部屋ではそれも叶わない。
「少佐、入りますよ?」
戸を引いて顔を出したのはディタリア中尉だ。
彼女は捕虜として王都に入って、あれよという間に転向してちゃっかり紅煉騎士団の中尉の身分を手にしていたのだ。
「…どうしてここが?」
「そのぐらいわかりますよ。私は少佐の副官ですよ?」
ディタリアが艶のある肩までの黒髪を払って言った。
ディタリアは陽炎分隊の隊長付きの副官を務めている。
「ディタ。冗談は止めろ」
ラインベルクが表情を消して凄んだ。
(尾行には散々注意を払った。魔術をかけられた認識はないが、或いはおれの認識の外から…?)
「失礼しました。鳥眼の魔術を使いました。…その、私だけは少佐の動向を把握しておかないと、緊急時に対応が出来ませんので。申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げるディタリアに、ラインベルクは怒る気も失せた。
鳥眼の魔術は文字通り空を行く鳥の目を借り受けるもので、広範囲な捜索に重宝されるが、精度の調整と媒介たる鳥の運用が難しく、且つシンプルに見えて体力の消耗が大きいことから使用者は限られた。
ラインベルクにも操ることは出来ない。
「…ここのことは、誰にも言わないでくれ」
「了解です!少佐と私だけの秘密にします」
「それで、何だい?」
「組織編成を今日までに騎士団本部に提出しなければなりません。これ、素案に手を加えてみました。ご確認いただけますか?」
ラインベルクは文書を受け取り、ディタリアに適当に座るよう促す。
文書には、陽炎分隊の第1小隊から第4小隊までの隊長にそれぞれリーシャ、ゼノア、ラミア、唯の名が記載されており、他に各副長から補給担当まで委細にわたり設定されていた。
(唯は大丈夫かな…)
ラインベルクが気になったのは、その一点だけであった。
と言っても代案があるわけではなし、ラインベルクは承認し、ディタリアに申請を預けた。
「少佐、お茶くらい入れますよ。道具はありますか?」
ラインベルクは流し台を指す。
「見ての通り。何もない」
「なら調達しておきます。寝具は?」
「ない」
「では私の分と二セット入れますね。あ、着替えも用意しておこう」
「いや…」
「勿論、お酒も少しだけ準備しちゃいます。私はロイルフォーク大尉やキス中尉と違って、その辺理解がありますので」
「…そう」
ラインベルクの反論を許さず好き勝手を言って、ディタリアは華麗な敬礼だけを残して帰って行った。
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樹林王国の北伐宣言に対し、聖アカシャ帝国は表立った反応は見せなかった。
それは大陸南部のラルメティ公国との親交に配慮したものだが、ラルメティ側が一方的にレオーネ=シアラ連邦の軍を引かせたことで、帝国の上層部に不審の芽を育てた。
その芽を成長させたのが、レオーネ=シアラの政変である。
それを仕掛けたのが宗主国たるラルメティ公国であることは火を見るより明らかで、グラ=マリ王国の敵対国であったディッセンドルフは樹林王国に吸収され、連邦は解体の危機に陥った。
穿ち過ぎかもしれないが、グランディエ軍を撃退した久遠アリシアの出身もラルメティ公国である。
ラルメティ公国外交部の暗躍により、いつの間にか帝国以外の合従軍は空中分解したことになる。
「つまり、我らが帝国軍はラルメティ公国と事を構える可能性がある、ということさ。西に紅煉騎士団と戦い、南にラルメティを迎え撃つ。これでは自殺行為もいいところだ」
スタイン=ベルシアは自宅のソファに深く身を沈め、酒の注がれたグラスを掲げて言った。
「でもスタイン先輩。その理屈だとラルメティにも不安はありますよね?」
ロイド=アトモスフィが蒸留酒をなみなみと注ぎながら指摘する。
「ああ。メルビルだ。人間自然主義を標榜する樹林王国にナスティ=クルセイドを送り込んだ以上、ラルメティとメルビルの関係は良くて一触即発だろうさ。理想を言えば、怒髪天を衝いた法王が教導騎士団を総動員して背教のラルメティに雪崩れ込んでくれれば、俺達は楽が出来ていい」
「…メルビル法王国が動けば大陸東部は荒れるでしょうね。魔術都市とメルビルの二国間も最近は小競り合いがあると聞きます。法王国には敵が多いですから、一度火がつくと、その勢いは止まるところを知らないでしょう」
スタインは頷き、グラスを傾ける。
「だが俺がメルビルの法王なら、九郎丸を出して一気に勝負を決めるがな。なんと言っても、ラルメティにはあのナスティ=クルセイドがいないんだ。案外脆いかもしれないぞ」
「そこは同感ですがね。ただセイレーン中尉から聞いている話では、九郎丸という御仁はたいそう気難しい気分屋だそうですよ。剣術指南役は引き受けたものの、メルビルの戦争にまで付き合う気があるのかどうか…」
ここで大陸中央部以南のの趨勢を論じている彼らはつい先日、元グラ=マリ王国の東部要塞こと現聖アカシャ帝国西部要塞から帰国するよう命が下り、こうして帝都で骨休めの状況にあった。
要塞には交代要員も入り、防備は万全である。
「…付き合うと言えば、ロイド。君は例の看護兵とのアレはどうなったのかな?」
ロイドは酒を吹き出しそうになり、むせた。
「…何ですか先輩、いきなり」
「ひひ。可笑しな反応だな。さては、フラれたようだね?」
「黙秘します」
「人の家でただ酒を飲んでおいて、それはないだろう?なあ、レーン」
スタインは親友に話を振るが、レーン=オルブライトは表情を変えずに静かにグラスを揺らしていた。
「…レーン先輩?」
レーンの態度を訝り、ロイドも声を掛けた。
「…ん?ああ…なんだって?」
「いや…レーン。君はまたラインベルクのことを考えてたのと違うか?」
スタインは、レーンが紅煉騎士団の話題になったあたりから黙り込んでいたのに気付いていた。
(一杯食わされて、おまけにしとめ損ねた奴が<歌姫>を倒して有名になってしまう。引っ掛かるのも分からないわけじゃないけどな…)
レーンの縁なし眼鏡の奥の瞳が僅かに光を取り戻した。
「…まあいいさ。で、ロイドはあの田舎娘にどうフラれたって?」
「レーン先輩!」
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「グランディエ入りが決まったよ」
「え?陽炎分隊の初任務ですか? 」
ラミアがカウンター横に掛けているラインベルクへとにじり寄る。
ラミアの膝とラインベルクの腿とが密着するが、二人に動じた様子はない。
「そう。アリシアが傭兵団を叩きのめしたお蔭で、都市の治安が悪化してるんだと」
「敵国の治安維持のために出動するんですか?何か複雑ですね…」
「そうかい?荒くれの傭兵たちが無垢な市民に暴虐を働いているのなら、おれは懲らしめてやりたいけどね。グランディエは民主国家である以上、市民は政治には責任を負うべきさ。でも軍事的失敗にまで、彼らの先見の無さを責められるだろうか」
ラインベルクは涼しい顔をして、ラミアの目を見て言った。
有り体に言えば、グランディエは北方諸国に見放されていた。
ラルメティの口車に乗ってグラ=マリを攻めたはいいものの、結果久遠アリシアに跳ね返されて、自警戦力が格段に低下した。
元来イチイバル共和国や剣皇国をはじめとした北部諸国にとって、対魔物戦闘の観点からグランディエの傭兵団の存在は重要である。
しかしその戦力をまともに供給出来ないとあらば、わざわざ自国の労を割いてまで救済の手をさしのべる義理はなかったのだ。
「とかく皆国家という枠組みを前提に物事を考える。キス、おれはね、グラ=マリ王国という器に対する思い入れは、出身国だという以外にないから」
ラインベルクからの突然の告白にも、ラミアにそれほど驚きはなかった。
むしろ、愛国心や出世欲のような分かりやすい嗜好を持たない彼が、どうして紅煉騎士団の一員として優れた働きをしているのかが不思議なのである。
「ライン…では何で紅煉騎士団に籍を置き続けるのです?」
「それは難しい質問だけれど、人のために、かな」
「ジリアン王妃陛下のために、ですか?」
ラミアは踏み込んで聞いた。
ラインベルクはふむと頷いて、空になったグラスを振ってマスターに追加の酒を注文する。
「始まりは、そうだった。ジリアンを助けるために参加した。そうして知り合った人たちがいて、例えば君だ。リーシャに、アリシアに、唯、ゼノア。他にもアラガンやタレーラン、ボース、ディタと数え上げればキリがない。…今は、そういった人たちが困る姿を見たくないから、いきなり全てを投げ出すつもりはないよ」
「イチイバルや魔術都市でも知り合った方々は当然いらっしゃるのでしょう?彼ら彼女らとは、戦えるんですか?」
(我ながら意地悪な質問よね…)
ラミアはラインベルクを信頼しているからこそ、ここで確信のようなものを得たかった。
自分が全霊をかけてついていってもいいものか、決定打となるような彼の信念を見付け、感化されたかった。
「…ジリアンの施政が公正であり続けるのならば、紅煉騎士団の一員として友人とも戦う。これは約束する」
人間同士の争いに絶対の正義や絶対の悪が存在するなどと信じるほどにラインベルクはロマンチストではなかった。
彼は若かりし頃にその身に受けた不幸から、状況への適応に異才が見られた。
その代償と言うわけではないのだろうが、終始物事を他人事として捉える傾向が強く、その辺りにラミアなどは不安を感じるのである。
(…それでも、この人は最後には紅煉騎士団から去る選択をする気がする。それを少しでも遅らせるためには、私でもディタでもいい。誰かがラインの錨となって、その身を紅煉騎士団に係留し続けなければ…)
「こんな回答では、満足いかない?」
ラインベルクは寂しそうに笑う。
「…ラインが今夜この後の予定を真摯に話してくれたなら、納得しましょう」
その発言にはラインベルクも意表を突かれた。
彼とて二十六歳の健康な男であり、奇しくもこの夜は妓館に予約を入れてあったのだ。
そして、その予約はラミアによってキャンセルさせられた。