141話
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王都アビスワールドの市中では、数週間もの間お祭り騒ぎが続いていた。
勇者ラインベルクが大国ラルメティを下したことが主因であり、ジリアン女王が近い内に大陸を統一するであろうという呼び声も高まっていた。
国が一丸となっての賑やかな気運に水を差したのは、剣皇国の敗戦とメルビル法王国による北伐成功の報である。
この日、主要閣僚が軒並み地方へと出払っている中でジリアンは会議を強行していた。
北はミレディへと迫る魔物の群と、東で起こるであろう対メルビル戦の対策を練ることが議題である。
冒頭、ジリアンがイリヤに軍配置に関して報告させていた折に、それは起こった。
王宮の外で爆発音が響き渡り、それも単発ではなく二発、三発と連続して発生する。
会議室の窓が震動でガタガタと揺れ、慌てて席を立つ者、眉をひそめる者と反応はそれぞれであった。
中でも内務大臣代理として治安を担うべきシバリス=ラウの表情は険しく、窓外をじっと睨んでいる。
一際大きな爆発音がこだました。
「揺れからして…そう遠くはないわね。シバリス!」
「はッ!至急確認に動きます」
シバリスは弾かれたように席を立った。
大臣級はカタリナ=ケンタウリを除いて皆この場に不在であり、騎士団からはイリヤと騎士団長代理役の老少将だけが、申し訳程度に顔を揃えている。
「陛下、何があるか分かりません。私が先導するので避難を!」
黒のローブを翻して、リーゼロッテ=ブラウンは優雅な動作で起立した。
つい先程までは心ここにあらず、実に呆けた表情を晒していたものだがと、ジリアンはリーゼロッテの変容に目を疑った。
ジリアンはここ暫くリーゼロッテが精彩を欠いていた様を、唯=ナノリバースの死が原因だと特定している。
爆発は俄然収まらず、会議室が揺れて軋む度にリーゼロッテの眼光が鋭さを増した。
「これって陽動の類じゃないかしら?イリヤ」
「そうでしょうね。防備は王宮が一番堅い。外で騒ぎを起こして戦力を分散させ、本丸を叩く。この場合の本丸とは、陛下、即ち紅煉石のことです」
「…ということは、黙っていても敵は向こうから姿を現す、というわけね。ロッテ、貴女が迎撃なさい」
リーゼロッテは難しい顔をして、強引にジリアンの手を取った。
「…ここでは皆が巻き添えになります。失礼致します」
ジリアンの手を引き、リーゼロッテは王宮奥に位置する玉座の間を目指した。
そこに至るまでに近衛の騎士が多数配されていたし、リーゼロッテの目には魔術結界も平常通り機能しているものと映る。
二人に付いてきたのは従卒の若手騎士が三人で、総勢五人が玉座を前にして立ち並んだ。
「ただの爆発事故とかだったらいいのだけれど。いくらなんでもこのご時世で、それはないわよね」
リーゼロッテはジリアンの軽口を無視し、全方位に向けた感知型の魔術を展開する。
(…成る程)
既に異変は起きていて、王宮へ入り込む人間の数が出ていくそれと比して異常に多いと知れた。
そして王宮内で刃傷沙汰が起きていないことから、流入しているのは顔の知れた紅煉騎士団の騎士であろうとリーゼロッテは推測する。
アビスワールド出立前にジュード=ケンタウリ内務大臣が残していった警句を思い返す。
「陛下。賊が侵入してきたものと思われます。素性は紅煉騎士団の騎士身分にあり、ケンタウリ大臣の予測に基づけば<紅煉の風>の構成員である可能性が高いかと」
ジリアンは一瞬怪訝な表情を浮かべるも、直ぐにその名称を思い出して得心した。
「…そう言えば、聞いた気がするわね。王政廃止を目論む急進派だったかしら?たしか主宰は…」
「サイクス元中佐です。ミリエラ=オービット将軍に仕えていました。大戦後に騎士団を辞して以降行方が知れず、内務相はテロリズムに染まる可能性を憂慮されていました」
「ふうん…そのサイクスとやらが私を狙ったと。だとすると、ここに突っ込んでくるのは…」
「味方か敵か、外見では判断がつきかねます。全員を排除する許可をください」
ジリアンは眉をひそめて考え込み、倒れ込むようにして玉座に収まった。
「ちょっと…待ちなさい。<紅煉の風>の構成員は分からないの?」
「…内務相か、ラウ次官なら或いは。私には情報がありませんし、確かめている間もありません。魔術で探知したところ王宮に入り込んだ人間は一路ここを目指しています。表向きは陛下の警護を謳うでしょうから、誰にも邪魔をされないのです」
リーゼロッテは言い切り、従卒たちにジリアンの周囲を固めるよう指示を下す。
ラインベルクにジリアンの身を託された彼女としては、少しでも危険を伴う方針を選択するわけにはいかなかった。
そして現在、頼りに出来る知己は皆が地方に散ってしまっている。
何より、リーゼロッテはジュードの真の警告を忘れていない。
「サイクスが小賢しいことは承知していますが、決して強大な武力を持っているわけではない。貴女とシバリス=ラウが残っていれば排除も可能でしょう。警戒するべきは、メルビル法王国の介入です。シャッティン=バウアーやボイス=ミョルニルの如き歴戦の士をも沈めた暗闇の刃。標的を同じくする者同士が結び付いて、安易なテロリズムに走ることをこそ私は恐れているのです」
玉座の間に通ずる扉が荒々しく叩かれた。
扉の向こうではジリアンの身を案じる声と、護衛を目的として駆け付けたので扉を開けるようにという声が渦巻いている。
声は、時間が経つに連れて少しずつ脅迫の色を帯びていった。
リーゼロッテがそれを静観していると、騎士たちはやがて彼女の予想通りに力任せの破壊行動に打って出た。
「陛下、お覚悟を!手心を加えては御体に害が為される可能性もございますれば。賊であるかに関わらず、侵入してきた者は皆打ち倒します!」
「…見分けがつかないとは言え、真に忠義をもって駆け付けた騎士をも殺すかもしれない。…それでは駄目よ!ロッテ、何とかなさい!ラインだったらきっと何か方法を見出だす筈!貴女もトリニティなら、ここで真価を発揮して!」
「…ッ!」
轟音と共に扉は破られた。
リーゼロッテの目算では、玉座の間で起きた異常事態は遠からず内務省親衛隊の知るところとなる。
問題は後から現れる関係者の内、信用に値する人間をどう判別するのかという点に収斂された。
(全員眠らせられるのなら話は早いのだけれど…抵抗されたら一気にこちらが窮地に立たされる。…でも!)
迷いを払い除け、リーゼロッテは侵入してきた複数の騎士へと魔術を放つ。
瞬く間に、入り口付近に魔術による靄が立ち込めた。
ある者は口を塞ぎながら意識を失い、またある者は振りかざした剣を取り落として味方を傷付けた。
リーゼロッテの魔術は精度が高く、並の騎士では抵抗すら出来ずに眠りへと落ちる。
その中で、気合の入った二人の騎士が靄を突破してリーゼロッテへと肉薄した。
彼女に近付くや、騎士らは無言で襲い掛かる。
リーゼロッテは催眠の魔術を維持しつつ腰元の細剣を抜き、立て続けに二人の利き腕を打ち据えて得物を無効化した。
「魔術師が剣を使えないと思うのは浅はかというもの。命だけは助けてあげます」
リーゼロッテは靄の範囲を拡げ、再び二人を絡め取った。
「眠りなさい!」
剣で劣勢に立たされた二人の騎士は、今度は魔術に抗えず床へと崩れ落ちる。
(問題はここから…。催眠術があると予め分かっていれば、幾らでも対処のしようはあるのだから)
リーゼロッテは氷結の魔術を用い、玉座の間に足を踏み入れる騎士の動きを封じに掛かった。
足下を凍らされた騎士がその場に倒れ、全身に凍傷を負った騎士もまた同様に膝をつく。
不意に、鋭い矢がリーゼロッテの頬をかすめて背後へと抜けた。
(弓矢!)
その一矢はジリアンらに命中こそしなかったものの、リーゼロッテの背筋を寒からしめた。
直ぐ様催眠の靄を解き、魔術で室内に風の流れを発生させた。
強風を入り口へ向けると以後の弓撃は室内にすら届き得ず、加えて賊の前進をも妨げる。
同位の魔術を駆使してリーゼロッテの風を中和した騎士が一人、雄叫びをあげながら突進して来た。
「お命頂戴ッ!」
その発言は命取りとなる、
はじめから賊と分かれば容赦はなく、リーゼロッテの剣が斜めに閃いて騎士の喉元を裂いた。
ジリアンは驚いた様子で、鮮血を散らし床に沈む騎士とリーゼロッテとを交互に眺めやる。
彼女の剣腕に関しては秘められており、ラインベルクやキルスティンといった身内以外にこれ程扱えるとは知られていない。
その秘密主義が奏功し、ここまでは賊を撃退するのに一役買っていた。
「なかなかやる…。流石はラインベルク将軍の一族だ!」
小太りの中年騎士がゆっくりとした足取りで室内へと歩を進めてきた。
「…サイクス元中佐ですね?」
リーゼロッテは確認の言葉を投げ掛けると、迎撃用の魔術の構成をそっと編んだ。
サイクスの両隣には小剣を構えた男女が控えていたのだが、何れも紅煉騎士団の騎士正装とは異なり、見慣れぬ黒装束を全身に纏っている。
それを目撃したジリアンが明かな動揺を声に乗せた。
「…暗殺者、咒黄!」
「おや?陛下におかれましては、この者を御存知でしたか」
サイクスは右隣に立つ黒装束の男にチラリと目線を送ると、直ぐにジリアンらに注意を戻して簡潔に口上を述べる。
「グラ=マリに特権階級の存在しない、真に平等の世を実現させる。血統に因らず、市民の声を汲み取ることのみを是とする共和政治を生誕させるため、恨みは無いが貴女を除かせていただきます。ジリアン=グラ=マリ女王陛下!」
リーゼロッテの見たところジリアンは反応を見せず、何も言わずにそれを受け止めていた。
「…リーゼロッテ=ブラウン殿。敢えて貴女に危害を加えるつもりはない。そこを退いてはいただけまいか?」
リーゼロッテは答えず、ジリアンが咒黄と呼んだ長身痩躯の黒装束の男を睨み付けている。
頭巾に覆われて目の周りしか露出がなく表情を掴むことは出来ないが、ラインベルクから聞いている通りに隙のない様が窺えた。
(…ということは、反対側にいる女も暗殺者ということね。闇ギルドの凄腕が二人に紅煉騎士団の勇将が一人。相手にとって不足はない…!)
「元身内が手引きして、ニーザの暗殺者が侵入してくる。…あなたたち、土足で王宮に押し入っておいて、まさか無事に帰られるとは思っていないでしょうね?」
リーゼロッテに替わってジリアンが凄んで見せるが、覚悟を決めているサイクスからは動揺は微塵も見受けられない。
返答は行動をもって為された。
咒黄と女黒装束が左右へと別れて一気に飛び出す。
「待てッ!」
サイクスの咄嗟の制止に咒黄らはよく反応した。
態勢を崩すことなく見事に急停止すると、二人は説明を求めてサイクスに目線を送る。
「見えんのか?そのまま突っ走っていたなら、お前たちは仲良く輪切りになっていたぞ」
「…ほぅ」
咒黄は目を細めて前方を窺うと、サイクスの忠告の正しさを認めた。
リーゼロッテは先に展開していた風の魔術を昇華させ、鋭利なかまいたちを形成して待ち構えていたのである。
敵に気付かれたことで、リーゼロッテは魔術を待機状態から活性化させて撃ち放った。
咒黄と女黒装束が二人がかりで抗魔術の防壁を構築し風撃を抑え込むと、その隙を縫ってサイクスが代わりに発進する。
(…間に合う?)
リーゼロッテはサイクスの一太刀目を細剣で受けるが、続く一振りで剣身を叩き折られてしまう。
彼女が一歩下がるに合わせてサイクスは踏み込みを強め、止めの一撃を見舞おうとした。
「…させないッ!」
リーゼロッテは風術を解除し、殺傷威力のまるでない光弾を胸元に発生させる。
接近状態でのその術を自爆覚悟と見たのか、サイクスが逡巡を見せたことでリーゼロッテに挽回の余地が生まれた。
改めて撃ち出したのは炎の壁で、高さが天井近くまであるそれが賊とリーゼロッテらとを隔てて室内をひた走る。
「やるな!小娘ッ!」
炎壁の向こうでサイクスが嘆息した。
リーゼロッテの築いた炎壁は強力で、如何にサイクスや咒黄と言えど易々と手出しの出来る代物ではない。
リーゼロッテは魔術が破られる前に次なる手を打たんとするも、力が抜けたのかよろめいて床へと片膝を付く。
「ロッテ?」
「くっ…」
ジリアンの掛け声にもリーゼロッテの応答は鈍く、こめかみから脂汗が垂れて落ちる様子が窺えた。
(…聖石が、切れたというの?)
リーゼロッテのガス欠をそう見抜いたジリアンであったが、かといって必要な聖石のストックを持ち合わせているわけではない。
戦乱の世が長く続き、大陸に流通する聖石の量は常時不足状態となっている。
目下最大の需要家たるグラ=マリ王国であったが、先の大戦で聖石の保有数を大きく減らしており、その影響からリーゼロッテの所持品にもイミテーションが目立っていた。
体力と引き換えに魔術を行使することになれば、リーゼロッテが用いるような高精度・高出力な仕様の魔術は身体に相応の負担を強いる。
体力を使い果たせばそれまでであり、ここでリーゼロッテが気絶でもしようものならジリアンと紅煉石は敵の手に落ちるのである。
(…残された力は僅か。一か八か、敵全員を一発で昏倒させるしかない…!)
リーゼロッテは決して消耗の少なくはない、必殺と言ってよい類いの魔術を起動させる。
その狂気にも似た選択は、魔術の詠唱に入っただけで彼女の身体から生気を奪っていった。
まるで湯気が立つかのように、リーゼロッテの全身から赤い血の煙が立ち上る。
ジリアンは慌てて駆け出した。
「止めなさい!」
リーゼロッテの頬を思いきり張って、魔術の発動をすんでのところで妨げる。
「…陛下?何を…」
「ここで貴女の命を貰って生き永らえて、後でラインに殺されるなんて結末、私はごめんよ」
「…伯父様は陛下に手をあげたりはしません。…きっと、陛下を護った私を誉めてくださいます…」
「馬鹿!命を大切になさい!…貴女は、ラインに残されたたった一人の血縁なのだから。ナノリバースが逝って気落ちしてるところに、これ以上彼を苦しめさせはしない!」
言って、ジリアンは力の抜け落ちたリーゼロッテの身体を優しく抱き止める。
追い掛けてきた従卒の騎士たちが炎の壁に異変を見出だした。
「…奴等、力ずくで破るつもりです!」
直立する炎のあちらこちらで乱れが生じており、サイクスらが逆側から物理攻撃を仕掛けているのだと分かる。
炎壁にはリーゼロッテの魔力供給が途絶えているわけで、穴を開けられたならば塞ぐ手立てはなかった。
「…背に腹は代えられない。こうなったら、やるしかないわね…」
ジリアンの雰囲気に不穏なものを感じ取ったリーゼロッテが、苦し気に戒めの言葉をかける。
「…紅煉石だけは、使っては、なりません…」
「ロッテ。貴女も私も、ここで歩みを止めるわけにはいかないでしょう?」
「でも…駄目…です。また蒼樹女王のような、信念を持った敵を、作り出します…」
リーゼロッテの言葉には力があった。
蒼樹の名を聞かされたリーゼロッテは唇を噛み、紅煉石に翻弄され、紅煉石とそれが生み出す悪夢を滅することに命を懸けた聖女の姿を思い浮かべる。
「来ますッ!」
小さな竜巻状の風の流れが炎を巻き込んで拡がっていく。
その隙間から短剣が投げ込まれ、従卒の内一人の首に吸い込まれた。
「…ッ!」
咒黄の一投で、彼はそのまま炎が舞い散る中をジリアン目指して駆け抜ける。
リーゼロッテが身体を投げ出すようにしてジリアンへと覆い被さった。
咒黄は小剣を腰元に構え、リーゼロッテもろともにジリアンを刺し貫くべく突進する。
「止まりなさい」
その涼声は唐突に響いた。
刹那、玉座の間に凍気が立ち込め、異変を察知した咒黄は静かに足を止める。
炎が晴れたそこでは、サイクスと女黒装束が武器を手に、入り口より現れたイリヤへと注意を向けていた。
「…イリヤ=ラディウス参謀長のお出ましか。この凍気は、貴女の仕業か?」
「誰も、動かないことをおすすめするわ。闘気に反応するよう意味付けをしてあるから」
イリヤは左手で白髪の乱れを直す。
その仕種は敵対するサイクスの目にも雅なものとして映った。
咒黄は手のひらを握っては離して、しばらくそうしてあたりに充満した凍気の具合を確かめた後、連れの黒装束に無愛想に告げる。
「戦闘の続行は不可能だ。エキドナ、帰るぞ」
エキドナと呼ばれた黒装束の女は黙って剣を収めた。
納得がいかないのはサイクスで、「どうした?こんな小手先の魔術、レジストすればいいだろう!何なら私が抑える役を…」と咒黄に向かって捲し立てる。
その疑問には、咒黄ではなくリーゼロッテが代わって答えた。
「これは…魔術と呼ぶには危険に過ぎる現象。この空気は闘いの意思を持つ者に反応して、周辺の凍気を凝縮させる」
リーゼロッテが凍り付いた右手を掲げて見せる。
彼女もまた咒黄と同様にイリヤの警告を聞いて試した口で、それを見たサイクスは全てを理解し肩を落とした。
「…これは、一体何の手品です?イリヤ…参謀長。…私の作戦が、このような結末…」
「敵味方関係なく、戦意にのみ反応すると見た。我らの撤退を妨げるものでもあるまい」
サイクスを慰めるつもりでもないだろうが咒黄はそう分析を披露し、エキドナを従えて悠然と後退する。
サイクスはジリアンを睨み付けていた視線を切り、歯を食い縛りつつその背後に続いた。
入り口の扉を潜る際、咒黄は一言だけイリヤへと水を向けた。
「お前が参戦するのであれば好都合。これでレウ=レウル殿も動く理由が出来た」
「部屋を出たら、数多の騎士が貴方たちを狙うでしょうね。さようなら」
イリヤの返答にサイクスが一瞬だけ怯んだ顔を見せたが、咒黄とエキドナの頭巾から覗く瞳は変わらず無機質な色を湛えている。
玉座の間の騒動はこうして終息した。
それでもイリヤは依然として凍気を解く素振りを見せず、焦れたジリアンが碧眼を怒らせて質した。
「…これは何?貴女、紅煉石の力を引き出したのでしょう?」
ジリアンは玉座の周囲を舞っている白銀の塵を指差す。
「力を新たに解放したのではないわ。漏れ出ている力に指向性を与えただけ。この力場の中で誰が何を願っても届かない。現に、石に封印を施したのは女王、貴女の筈よ」
イリヤは玉座の背面あたりに視線を向けた。
そこには紅煉石が隠されており、ジリアンから命じられたシバリスの手によって外界の干渉を遮断するよう頑丈な魔術封印が施されている。
「漏れている力に、ですって…そんな真似が出来るというの?」
「これは私が紅煉石の所有者だからこそ出来る芸当。女王、貴女は石を使おうなどとは金輪際思わないことね。何せ残る石はあれ一つなのだから」
イリヤが軽く手を振るとその所作に合わせて玉座の間から凍気が消え失せた。
ややしてシバリスが手勢を率いて姿を見せるが、ジリアンとリーゼロッテの表情は曇ったままであった。
リーゼロッテは覇気なく玉座に収まったジリアンと、あれきり口を開かないイリヤとを交互に見比べる。
(紅煉石はあと一つしかないと言っていた。元々あったものが失われて残りが一つなのだとすれば、それすらも失われる可能性があるということ。…参謀長の警告は、伯父様や陛下が守ろうとしている何かが存外脆い立場にあると示唆しているのだ)
リーゼロッテは頭を振ると、紅煉石に関する疑念をひとまず払う。
そうしておいて命が助かったという事実に感謝し、一息ついてから唯=ナノリバースへと心中で語り掛けた。
(貴女の分まで、私が伯父様と陛下を御守りします。…それが、私に出来るせめてもの償い。どうか、安らかに眠ってください。唯さん…)
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「…何故、私を助けた…?」
「話し掛けるな!アレに追われているのよ。…気を抜けば追い付かれる!」
ライザ=フロイこと久遠アリシアは、鞍上で男性騎士を抱えながらも上手いこと手綱を操っている。
岩と石ころとで覆われ足場は悪かったのだが、馬は良く地面を蹴って走っていた。
アリシアらが駆け抜けた後を、複数の黒い影が音もなく滑り行く。
それこそがアリシアの警戒する敵の追撃であった。
「…私を捨てて行け」
「黙って!あなたの持つ情報がラインの役に立つと踏んだから拾っただけ。言われなくたって、危なくなったらそうさせて貰うわ」
口振りとは裏腹にアリシアにその気は無さそうで、背後から迫り来る脅威を気に止めつつも必死に馬を操っていた。
ただ寝かされているだけの騎士はそれを歯痒く思い、せめて何かアリシアの援護が出来ないものかと必死の形相で思案する。
(吸血鬼に竜に幽鬼、単眼巨人、鉄甲虫、骸骨騎士、火兎、氷狼、小鬼に大蛇…魔物のオンパレードだ。そして…!例え我が身が万全であっても、まともに斬り合って勝てる気がしない。アレは…一体何だ?この<暗黒騎士>が、こうも…)
カイゼルの苦悩を慮る余裕は無く、アリシアは視界遠方に広がる緑の大地を凝視している。
岩土で塗り固められた丘陵地帯を抜けた先に見える地質の変化こそ、エルネスト山岳国家と樹林王国の国境を示すものであった。
アリシアとカイゼルは剣皇国からエルネスト入りし、そのまま西進してここまで辿り着いたのである。
「もう少しで国境を越えるわ!」
希望を匂わせるアリシアの声音に、カイゼルは疑問をしか抱けない。
彼らを追う何者かは人間が定めた国境線など気にかけるようには見えなかったし、何より樹林王国の北端にそれと闘えるだけの戦力があろう筈もなかったからだ。
しかし、アリシアの表情は自信に満ち満ちていた。
それを証明するかの如く、二人の向かう先から光弾と氷の矢が多数飛来し、馬の横を素通りして後方へ流れた。
(…今のは?)
背後でそれら魔術攻撃が炸裂し、アリシアはゴールが間近だと言わんばかりに愛馬を急がせた。
そして、巨大な岩石群に身を隠して魔術を放つ一団を視認するや、アリシアはカイゼルを抱えてひらりと下馬して見せる。
「助かったわ」
カイゼルを岩陰に転がしておいて、剣を握って戦闘態勢に入ったアリシアが殊勝にも礼を述べる。
「…フン。<氷傑>を連絡役に仕立てておいて、よく言うわ」
丸きり親しみを感じさせない冷たい調子で応えたのは、樹林王国の宮廷魔術師プライム=ラ=アルシェイドその人である。
その隣で休む間も無く氷撃を見舞っているのはジュデッカで、彼女はアリシアの依頼でアビスワールドからパーシバルへと移り、プライムをこうして北部国境へと誘った。
モアー=モスを体よく利用した形での工作であったが、アリシアはプライムをはじめとした樹林王国幹部たちの対魔物への志を信じており、情報が正しく伝わりさえすれば力を借りることはそう難しくないと踏んでいた。
プライムは手を抜くことなく光の魔術で弾幕を形成していたが、それがみるみる押され始める様には驚きを禁じ得ない。
彼女程ではないにせよ、一級品の魔術を操るジュデッカと共闘していながら魔物の足を止められないなど、プライムからして非現実的な話に思われた。
(…久遠アリシアの言う通り、コイツはただの魔物なんかじゃないようね。聖地から現出したというのもあながち与太ではないということか…しゃらくさいじゃないの!)
「こちらは準備オーケイよ、アルシェイドの末裔。弾幕、解除していいから」
アリシアの全身から溢れ出る闘気は止まるところを知らず、近くの者が痛いと感じられるくらいに鋭く発散されていた。
それを肌で感じ取ったプライムは鼻を鳴らし、不敵な笑みを浮かべてアリシアに応じる。
「なら少しは粘って見せなさいよ、<堕天>?十秒持たせてくれたら、とっておきをぶち食らわせてやるから」