134話 閑話
†閑話壱・キルスティン=クリスタル†
ラインベルクに指定された場所は地下に作られた手狭な劇場であった。
簡易のステージがある他にはスチール製のパイプ椅子が並べられているだけで、景観は実に簡素である。
三十人も入れば満杯なそこに、キルスティン=クリスタルは場違いにめかしこんだシルクのツーピースのドレス姿で足を踏み入れた。
場内は魔術で点された明かりによって視界が明瞭で、座席の半分程を埋めている観客たちはキルスティンの紫のドレスに羨望の眼差しを送った。
「美しい…」
そんな声も飛び出す程にキルスティンの美貌は群を抜いており、老若男女を問わず注目を集めた。
(…私だけがこのような格好をして。馬鹿みたいではないか!)
最前列で控え目に手招きをするラインベルクを発見し、キルスティンは怒り肩に客席をかき分けて近寄った。
「ドレス、綺麗だ」
「ライン…酷いぞ」
そう言って座ったきり口を真一文字に引き結んだ妻の顔色を、ラインベルクは横からそっと窺った。
「キルスティン、どうしたんだ?」
「…こういう場だと言ってくれれば良かったのに。場を弁えない女だと思われよう?」
「気にしいなんだな。思わせておけばいいじゃないか」
「私が思われる分には構わない。貴方が、常識のない女を妻としたと罵られては堪らないではないか」
キルスティンが真面目な顔をして言うので、ラインベルクは流石に照れ臭くなって頭を掻いた。
(真面目、なんだよな…。純粋培養のお姫様と言うか)
メルビル法王国は前法王の嫡子であり、若くして枢機卿をも務めていたキルスティンである。
厳格な宗教国家に生まれ育ったこともあり、ラインベルクの想像通りに遊びのない性格が醸成されていた。
剣の師・九郎丸と、短い期間交流を持った古代人・ナザン=イオンの二人から弄られて多少は考え方に幅を持たされたものだが、愚直なまでの真面目さは彼女の個性そのものと言って相違ない。
「ほら。おれの格好も見てくれ」
勧められるがままにラインベルクの衣装を見て、キルスティンは血の上っていた頭を少しだけ冷やした。
彼もまた黒の詰襟という軍服を着込んでおり、立派な正装をして着席していたのである。
「…なぜ?」
「劇を見てれば分かる」
間もなく場内は暗くなり、ステージにだけ照明が当たって演劇の開始が告げられる。
演目は古代の叙事詩をテーマとした騎士物語で、とある騎士が身分違いの姫に恋をし、姫のために粉骨砕身の働きをするも悲恋に終わるという筋立てであった。
劇中に宮廷舞踏会の名物シーンがあり、ステージに持ち込まれたピアノやステージ裏で演奏される楽器の音色が巧みに合わさって、狭い場内に美しく響き渡る。
そこでラインベルクはキルスティンの手を引いて、飛び込みでステージへの参加を試みた。
慌てふためくキルスティンを尻目に彼女の手と腰を取り、ラインベルクが華麗にステップを踏んでいく。
演者たちは上手く立ち回って二人の踊りを引き立てて見せた。
観客は突如ステージに躍り出た美男美女とその舞踏の技を演出として高く評価した。
キルスティンもこの手の作法は心得たもので、一旦巻き込まれてしまえば後は持ち前の胆力を発揮してラインベルクの相手を優雅に務めて見せる。
場面が換わり、拍手喝采の中でステージを下りた二人は、その足で静かに劇場を後にした。
「あれは、アドリブだったのか?」
夕空の下、微風に火照った身体を癒されながらキルスティンは訊ねた。
「完全なアドリブだとしたら、ただの営業妨害だろうな。座長とはちょっと知った仲でね」
アビスワールドの娼館で知り合い、以後飲み仲間となった経緯は伏せたままで、ラインベルクは今日の仕込みを語って聞かせる。
昨今ジリアンの平等化施策の影響で貴賓層の開くパーティーは自粛され、キルスティンの如き貴人が楽しむ場は減少の途を辿っていた。
そこでラインベルクが趣向を凝らしたのである。
「次はクラシック・バーに案内しよう。市中の店なんだが、そこそこに雰囲気は良い」
ラインベルクなりにキルスティンに気を遣って行き先を選定しているようで、夫婦揃っての休みを満喫しようという意思が明らかであった。
「ライン…無理をしていないか?」
「おれが?」
「ああ。クラシックの演奏など似つかわしくない。ロッテからは、休みの日には酒場か女のところを渡り歩いていると聞かされていた」
「あいつ…」
「私に気など遣ってくれるな。私は貴方の妻なのだから。飴など無くとも、忠心は不変だ」
そう言うと、この日一番の笑顔をラインベルクへと向ける。
長い睫毛と栗色の大きな瞳に目が行って、ラインベルクはそれを純粋に美しいと感じた。
「でも、やはり良いものだな。夫と街を練り歩くというのは、実に新鮮なものと感じる」
キルスティンにとってラインベルクとの結婚は正真正銘初めての異性間交際であり、未だにぎこちなさを覚える側面がある。
それでも半ば強引にナザン=イオンに結び付けられたとは言え、キルスティンの価値観は勇者ラインベルクとの縁を良縁に感じ、また彼女の貞操観念が彼に絶対の信頼を置いたことは幸運な結果であった。
九郎丸に師事していた頃とはまた違った安心や充足を得たことを奇蹟と思い、キルスティンは捨てざるを得なかった母国への慕情をどうにか胸の奥へと仕舞い込んでいる。
「ところで…紫のドレスなんて、持っていたか?」
腕を組んで大通りを行きながら、ラインベルクが素朴な疑問をぶつける。
「ロッテに借りたのだ。これが似合うと勧めてくれた。…彼女は本当に私に良くしてくれる」
キルスティンは心底感謝しているといった風に、心持ち瞳を潤ませながらに答えた。
それはラインベルクにとっても喜ばしいことで、戦乱の世だからこそ数少ない身内同士が助け合える環境を大切にせねばと再認する。
「ああ。ロッテは良い娘だ。君と彼女が仲良くしているのなら、おれも安心出来る」
「良い娘だが、一緒に入浴するのは駄目だぞ。いくら親戚とは言え、次は赦さないからな」
途端にラインベルクの顔色が悪くなる。
「あれは…誤解だ!介助にとあいつが勝手に入ってきたんであって、おれは…」
「言い訳無用。警告はしたぞ?破ったらただではおかない。そう…女王陛下にも注進せねばな」
「何で、ジリアンが出てくる…」
「妻の言うことを聞かぬとあらば致し方ない。君主に臣下の不貞を戒めて貰わねば。まあ、肝心の君主と不貞を働く恐れも無きにしもあらずだが…」
「おい…」
旗色が悪くなったラインベルクは露天商の一角を指差し、キルスティンの背を押してそちらへと誘った。
そこには銀細工の装飾品が並べられており、ラインベルクはそれなりに選りすぐって妻への贈答を匂わせる。
ご機嫌とりと分かっていてもキルスティンは嫌な気分はせず、ラインベルクの見繕った髪留めをいそいそと装着して見せた。
「似合いますなあ…。それにしても凄い別嬪さんだ。三十年近く店を開けているが、あんたのような美しい女性を見たことは一度もないよ」
初老の店主のどうやら本気らしい世辞も奏功し、そのプレゼントにキルスティンはたいそう気を良くして言った。
「私は別に、貴方が外で女遊びをするのを咎めるつもりはない。将軍たる者放蕩であるくらいが丁度良い。逐一怒ったりはしないぞ」
「…面と向かって言われると、それはそれで寂しいものだが」
「誤解するな。愛情がないと言っているのではない。最後に私の下へ帰ってくるのであれば良いと言ったまで。帰らぬ時は…分かるな?」
ラインベルクが懸命に頷く様子を見て、傍らの店主が大口を開けてがははと笑った。
「特別に、キルスティンに一曲進呈するとしようか」
再び歩き出したところで、ラインベルクが一つ提案をする。
クラシック・バーに設置されたピアノを自ら演奏し、キルスティンに曲を贈ると言うのである。
意表を突かれたキルスティンは目を丸くして応じた。
「貴方が?私に…曲を?」
「これでも幼少時には神童と囃し立てられたものさ。…大分腕が錆び付いているのは否定できないけれど。グレイプニルにいた頃にも少しだけ弾いていたんだ」
「…驚いた。色々と器用だとは思っていたが。元侯爵公子だというのも強ち法螺ではないようだな」
「…疑っていたのか?」
「少しな。フフ」
キルスティンは口許に手を当てて上品に笑う。
「あまりに風来坊を気取るから、元大貴族と言われても違和感だらけで。貴方が楽器を…フフフ」
グラ=マリ王国の侯爵公子とメルビル法王国の枢機卿。
世が世なら、そして互いの身分に不測の事態が起こり得ていなければ、これ程世間を騒がせ、祝福を呼び込むであろう豪華なカップルもそうは見られない。
しかしながら、今のラインベルクは爵位がなくともグラ=マリ王国の英雄にして一番の著名人であり、対するキルスティンもまた亡命してきた悲運の美姫として市中で人気を博していた。
それ故二人の婚姻の儀は内外から耳目を集め、後のラインベルクの英雄譚には欠かせぬ一大イベントして語り継がれることになる。
「…そう言われるからには、御令嬢はさぞかし芸術への造詣が深いのだろうな。我が細君は如何なる楽器が得意であろうか」
「…!」
「果たして吹奏楽であろうか?」
「あの…」
「打楽器?それとも雅に弦楽器とか」
「ちょっと…」
「店に行けば分かるか。夫婦共演。さぞや盛り上がるだろう。店主に言って、演奏時間を見繕って貰うとしようじゃないか」
にやにやと笑みを浮かべて畳み掛けるラインベルクに対して、キルスティンは縮こまって恨めしそうな視線を送る。
「ライン…分かっていて言っているな」
「はは。実際のところ、何にも出来ないのかい?」
「芸術方面には才がなかった。だから父は私に剣や軍学、政治学といった実学を学ばせたのだ。家事や雑学も一通りは修めた。だが…演奏だけは、とても出来ない」
「まるで音楽だけが苦手みたいな口振りだな」
「何が言いたい…あっ!」
キルスティンは急激に顔を真っ赤にし、目を三角にしてラインベルクを睨み付ける。
彼はキルスティンの手料理の味付けが甘辛い点を揶揄したに過ぎないのだが、どうやら妻があらぬ勘違いをしたようだと即座に見抜いた。
「誤解があるようだけれど…」
「…貴方とは違い経験のない身だ!床下手なのは認めるが、私は怒ったぞ」
「いや、あのな…。おれは料理の話をだな…」
すたすたと大股で先を歩き出したキルスティンを背後から眺めやり、ラインベルクはその抜群のプロポーションに息を飲んだ。
そうして彼女が一人相撲をして怒れる様に可笑しさを堪えきれず、こっそりと笑みを溢す。
リーゼロッテとの共同生活が安定を見せ始めたところに飛び込んできたのがキルスティンで、異文化交流を彷彿とさせる彼女との結婚生活は、ラインベルクにとっても刺激的で充分幸福に値すると言って差し支えなかった。
立場の都合から中々一緒にいられない二人ではあったが、互いを想いやる気持ちは強く、ちぐはぐな関係に見えて結束が固い。
家族でもあるリーゼロッテ=ブラウンに言わせると、「平然とのろけるので、こちらが恥ずかしくなります」ということになり、唯=ナノリバースなどは「あんな美女が相手じゃ、馬鹿らしくて張り合う気にもならないわ。お幸せに」と諦め顔になる。
日の落ちるに従って外灯に火が点されて、メインストリートの賑わいも夜のそれへと姿を変えつつある。
仕事を終えた職人や農夫、商人などが繰り出してくると、それに比例して都市が目覚めたかのように騒がしさと熱量も増大していった。
「ライン!店はどこだ?私だけ先走っても分からないではないか」
「…そりゃそうだ。次の十字路を右に入るとナイトシーンという看板が見えるから、そこの地下さ」
「ふむ。地下が好きなんだな。…暗いところにばかりいるから性格がねちっこくなるのだ」
「どうしてそうなる?」
キルスティンはころころと笑うと、黒の総髪を風になびかせて早足で遠ざかる。
その所作にラインベルクは堪らなく愛しさを覚え、たまの休みの充実ぶりに天に感謝をさえしたくなった。
人混みを掻き分けて進むことに関しては彼女もそこは騎士で、見事な体さばきでするりと抜けていく。
(こういうところは、彼女も一流の騎士だな)
周囲から見ればラインベルクとて三十を過ぎたばかりの若造に違いなく、キルスティンと並んでもこの美男美女のカップルが国家の重鎮に当たろうとはそうそうに気付かれない。
そのために軍服姿で城下を歩けてもいるのだが、新聞を購読しているレベルの知識人階級にだけは、直ぐにラインベルクの身分がそれと分かってしまう。
「あの…ラインベルク将軍、ですよね?」
眼鏡をかけた身形の良い中年紳士が、恐る恐るラインベルクへと声を掛けてきた。
「ええ」
「やっぱり!私、将軍のファンなのです!御活躍を嬉しく思います。…申し遅れましたが、私は魔術遺産の売買を営んでおりまして…」
「はあ」
中年紳士に捕まって困り顔のラインベルクを見て、キルスティンは夫の人気を再確認した。
それは彼女のような天上人であっても優越を感じるもので、夫が世間で評価されることはやはり妻にとっては名誉と言える。
中年紳士の帯びる熱意が周りの目を引いてか、徐々にラインベルクを取り囲む人の輪が大きくなっていく。
(…いけない。そろそろ助けてやらねば)
困惑している夫を遠目に見やり、キルスティンはその手を引っ張り出してやろうと来た道をゆっくり戻る。
この日にあったことは新聞紙上により後日知れるところとなり、ラインベルクがクラシック・バーで披露した「ロウフル・プリンセス(法の姫)」というタイトルの即興のピアノ曲は、しばらくの間夜のアビスワールドを席巻した。