130話
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まさに陥落寸前であった。
南壁のみならず西壁からもラルメティ軍の侵入を許した要塞では、壁上で死闘が繰り広げられていた。
それ故要塞外で起きた異変が合図と目視とで知らされるや、イズマ大佐は涙を流さんばかりに感情を発露させ、拳を振り上げる。
彼は朗報を効果的に利用した。
味方を鼓舞するのみならず、敵の士気をも挫くために魔術でその報を拡散させたのである。
紅煉騎士団別動隊による合従軍の後背強襲と、兵糧の奪取。
ラインベルク将軍の帰還と紅煉騎士団第2軍の参戦。
それらは直ちに広まり、イズマの意図した効果を上げた。
クールで知られたワイバーンですら、西壁上部で剣を振るいながらに咆哮を上げる。
生き残った第4軍の騎士たちもまた釣られて奮起を見せた。
そこに展開されたのは、蝋燭が燃え尽きる前に放つ最後の輝きを彷彿とさせる強烈な迎撃。
中でもブリジット=フリージンガーの反応は機敏であった。
剣傷で全身を朱に染め上げながらも、彼女はジュード=ケンタウリに要請を出すことを怠らなかった。
「開門!」
ジュード=ケンタウリの号令一下、七日間を耐え抜いた要塞の正門が解き放たれる。
自軍の背後で起こった不測の事態を察知していた桂宮ナハトは、それでも東部要塞を攻める手を緩めなかった。
紅煉騎士団が多少の小細工を仕掛けてきたとて、三大騎士団が揺らがねば戦局に影響が出ることなどなく、この要塞の占拠がアビスワールド攻略の要であることは依然変わらない。
眼前の要塞を攻略してから後方へとって返し、圧倒的な武力をもって騒ぎの芽を摘み取れば良い。
(それで問題はないはずだ。…うん?)
ナハトの本陣も前がかりになっていたため、要塞の門が開かれる光景は正面から飛び込んできた。
要塞内から出撃してきた紅煉騎士団の小部隊が騎馬で突撃を敢行してくる。
「正面、敵は小勢だ。頭を抑え込んで、逆にこちらから要塞内部へと突入せよ」
ナハトの指示で迎撃へと動いたラルメティの部隊であったが、紅煉騎士団の部隊と接触するなり豪快に弾き飛ばされた。
紅煉騎士団の側はジュードと精鋭の親衛隊で、その働きは目覚ましく、ラルメティ軍を全く寄せ付けない。
それは親衛隊が元々豪傑を集めて編成されていたことと、この二日近く、防衛戦に参加をせずに鋭気を養っていたことに因る。
しかし、脅威の攻撃力は彼らだけが主因ではなかった。
先頭を駆ける眼鏡を掛けた偉丈夫が、ラルメティの騎士を紙でも切り裂くかのように軽々と斬り伏せて回っている。
その一騎は、ラルメティ軍の記憶に新しいあの男であった。
「あれは…<帝国の虎>!」
誰かがそう叫び、大陸でも指折りの強騎士に対する恐怖の感情は、瞬く間にラルメティ軍の正面部隊全域へと伝わっていった。
ジリアンの奥の手、元聖アカシャ帝国のレーン=オルブライト。
ラインベルクの手引きによりジリアンへと引き合わされた彼は、条件付きではあれどグラ=マリ王国に手を貸す道を選んだ。
ラインベルクに敗れた後、治療により一命をとりとめたレーンの下へ悪魔のような誘いが舞い込んだ。
それはフュハ=シュリンフェアやレーンの副官であったバーナードをも取り込んだラインベルクからの要請であり、彼はボイスとも協業を約していると前置いてレーンの説得に当たった。
ラインベルクより故ロイド=アトモスフィと誼を通じていた件、ジリアン女王の真意などを滔々と語られ、レーンは遂に折れた。
グラ=マリ王国は旧帝国領のみならず、全土において身分の固定化を除かんと邁進すること。
旧帝国民が不当な差別を受けないよう尽力すること。
ロイド=アトモスフィの遺志を可能な限り遂行すること。
これらを条件とし、スタイン=ベルシアの仇であるラルメティ公国軍、帝国滅亡を企図したメルビル法王国とだけは戦うとレーンは誓った。
そして、その仇敵を前にしてレーンは猛っていた。
「レーン=オルブライトの名を知らぬ無知蒙昧な輩は掛かってこい!ラルメティの無法の旗を掲げる者に、この虎の刃、容赦はせんぞ!」
レーンの剣腕は衰えるところを知らず、数で優勢なラルメティの部隊を僅かな時間で敗走させる。
(まずいな…)
開門のなされた要塞を前にしても押し切れない戦況に、ナハトは新たな対応を迫られる。
隣の戦場から向かってくる新手への対処と、背後からにじり寄る騒乱の鎮圧。
定時連絡でしか南北両隣の戦闘状況を窺い知れないナハトからして、合従軍全体への作戦指揮など徹底のさせようがなかった。
それ故に、本心から信頼の置けぬ両隣の友軍に対してはただ朗報を待つしかなく、この場面に至っても独力での要塞攻略に拘りを持ち続ける。
「…<石榴伯爵>を後方へと移すように。ハリスとバイクバルにも本陣の守りに入るよう合図を!」
進んで<七災厄>を用いることに対して、ナハトは最後まで自身の良心と葛藤した。
背に腹はかえられぬとは言え、対人間でよりにもよって魔物の頭領を使役するのである。
この措置により多くの敵騎士が命を落とすであろう事実は重く、ナハトは非情に徹して私心を圧し殺した。
程無くして、ラインベルクと紅煉騎士団第2軍の主力が南方から戦場に突入してきた。
次いで東よりラルメティ軍の背後を脅かすは、シャッティン=バウアー率いる紅煉騎士団神威分隊である。
ラルメティ軍本陣の慌ただしさが一気に増した。
「…桂宮将軍、北へとお下がりください!ここは危のうございます!」
「それほどまでか?紅煉のラインベルクとは」
ナハトは要塞に向けている戦力の一部を本陣の防衛へと移しつつあったのだが、レーンやジュードらによる妨害とラインベルクの猛攻が想定を超えていたが為に、近距離まで着実に迫られていた。
部下の勧めるがままに馬を走らせるが、交戦を示す歓声と雑音はだんだんとナハトの耳に近付いて来る。
ラインベルクの目的は明白であった。
(当然、総大将の首を狙ってくるであろうな)
ナハトの後退する姿を視界の端に収めたラインベルクは、前に立ったラルメティの騎士たちを剛剣で撃ち倒して先へと進む。
「待ちな!大将首はそう簡単にはやれねぇぜ」
息急き切って駆け付けたのはプジョー=バイクバルで、<四獣>が<黒鳥>の構成員として北方で鳴らした彼のことを、ラインベルクも名前だけは知っていた。
馬ごとぶつかるようにして仕掛けたプジョーの剣が直線軌道でラインベルクを襲う。
ラインベルクは負けない速度でそれを外に弾くと、上段にフェイントを挟んでから一気呵成に突きを繰り出した。
プジョーは身体を引いて突きの威力を殺し、わざと胸甲で受け止める。
そして剣を引き戻しがてら撫で斬りを見舞う。
ラインベルクは瞬時の判断でプジョーの剣筋を巻くようにしてカウンターを仕掛ける。
手首を返してどうにかそれを凌いだプジョーは、一呼吸入れると今度は力任せに剣を撃ち込んだ。
激しい応酬が十を数える。
「やるなッ!」
プジョーが吠えた。
強騎士の性で、彼もまたハリス=ハリバートンなどと同じく強敵との邂逅を楽しむ節がある。
一騎打ちで自分が負けることなど露信じておらず、軍中にあっても一剣士を貫いてきた身だ。
そして、ラインベルクが動いた。
プジョーの剣を下方へと強打し、一時的にがら空きとなった正面に必殺の一撃を叩き込む。
聖剣技・十字剣。
「うばぁッ?」
胸から腹にかけてを十字に斬り裂かれ、プジョーは血を迸らせながら馬より転げ落ちた。
興味も無さそうにそれを見送ると、ラインベルクは遠く離れたナハトを追うことを諦め、旗下の全騎を要塞方向に振り向ける。
(この様子では、要塞は相当に押し込まれているな。ジリアン…無事なんだろうな!)
***
<石榴伯爵>は憤っていた。
ニーザ=シンクレインとの盟約により、現在は仕方なく人間に従属している。
それだけでも腹に据えかねるものがあるのに、先般は人間の魔術によって撃退され、あまつさえ強度の火傷を負わされたのである。
完全に癒えたとは言えない身体をおして、<石榴伯爵>はナハトの命で神威分隊を迎え撃った。
その容姿は四十代相応に老けた中にも知性や艶やかさを湛えたラトリ=シーランスのそれであり、彼や彼の影武者は好んでこのラルメティ公国の知将を写し身としていた。
銀の上半身鎧と水色の外套を纏い、額にはレプリカであろうカットされた紅煉石が冠として小さくあしらわれている。
白くすべやかな両手の指先から伸びた長い爪は、鞭のようにしなったかと思えば鋭い刃と化して、殺到する騎士たちを次々に刺し貫いた。
被害が拡大する前にと、神威分隊からはシャッティン、ドラッケン、ジョシュアら主力メンバーが前へ出て来る。
「人間風情が…調子に乗るな!」
ドラッケンの魔術防壁を突き破り、爪先が各人へと迫った。
シャッティンと言えどかわすのがやっとの威力とスピードで、ドラッケンを庇ったジョシュアは左上腕をざっくりと削られ、辺りに鮮血が舞った。
十条の爪撃だけで、彼等はあっという間に劣勢へと追い込まれた。
不意の氷撃が<石榴伯爵>の意表を突く形で四方より展開される。
襲い掛かったのは先端の尖った巨大な氷柱で、命中誘導も何もなしに、直線軌道で<石榴伯爵>へと突っ込んで行った。
その数は数十。
範囲攻撃としてそれほど威力に力点を置いた魔術ではないようで、<石榴伯爵>が煩わしそうに十の爪を振るうと全ての氷柱が脆くも砕け散った。
舞い散る銀塵の最中を二つの影が走る。
「せいやッ!」
シュウ=ノワールが気合の乗った一撃で<石榴伯爵>を強襲するのを、シャッティンらは期待を込めた眼差しで見守っていた。
辛くも爪の三枚でシュウの剣を受け止めた<石榴伯爵>であったが、続く剣閃に対しては無防備を晒す。
縦横に光が走った。
<石榴伯爵>は呻き声を漏らして後退り、自分に斬りつけた剣士を睨み付ける。
銀の鎧は十字に砕かれ、傷痕からは黒い煙が立ち上っていた。
「女…後悔しても遅いぞ!惨たらしく殺してやる。我が爪で皮膚を残らず削げ落としてから、全身隈無く串刺しにしてやろう!」
「ここで死ぬのは、あなた。汚ならしい濁液を撒き散らして果てた<幻竜>の後を追いなさい!」
女剣士、ライザ=フロイは遮光用のバイザーを投げ捨てて視界を広くとると、剣を中段に構えて烈火の如き闘気を放つ。
髪が不自然な程に黒く、戦闘衣や胸甲などの装備こそ出所不明な形態ではあったが、神威分隊の面々はライザの正体を一発で見抜いた。
(久遠アリシア…!あの最強騎士が戻ってきてくれた…我々を助けるために!)
ドラッケンは興奮し、ライザこと久遠アリシアの勇姿を眺めやる。
目眩ましの氷撃を撃ち込んだ魔術師・ジュデッカも馬を駆って合流を果たした。
「雑魚ばかりを集めても我には勝てんぞ…小娘!」
<石榴伯爵>の影が分かれ、騎士たちに迫る。
「…影処刑?みんな、影に注意して!」
ジュデッカの警告に身構えた騎士たちは、不意打ちを回避することには成功する。
散った影はそれぞれが実体化して<石榴伯爵>の分身と化し、鋭利な爪で攻撃に出た。
シャッティンやジョシュア、シュウらは剣で斬り合い、ドラッケンやジュデッカは魔術防壁で身を守る。
アリシアは単独で<石榴伯爵>の本体へと攻撃を仕掛けた。
(影とは言え相当な力量があるはず。私がこいつを片付けないと、皆が危ない!)
銀の剣はまるで閃光のように一瞬ごとに攻撃ポイントを切り変えて<石榴伯爵>を撃った。
だが流石は<七災厄>に数えられるだけのことはあり、<石榴伯爵>の十の爪は防御に徹するやアリシアの高速の攻撃を一々凌いで回る。
逆に石榴伯爵の瞳が妖しく光ると、十数体の骸骨騎士が何もない地中から生えるようにして出現した。
まず被害を受けたのはドラッケンである。
「くっ…!」
<石榴伯爵>の影を相手にどうにか渡り合っていたそこへ骸骨騎士が参戦し、均衡を一方的に崩される。
無情にも影から繰り出された爪がローブごと腹を貫通し、魔術が途切れたことで骸骨騎士の曲刀も肩口に炸裂した。
「そんな…シャッティン…」
さらに爪と曲刀による連撃を浴びたドラッケンは、全身を血で朱に染め上げて力なく倒れた。
「ドラッケン!」
ドラッケンが討ち果たされた光景を見たシャッティンは吠え、怒りの剛剣で影を防戦一方にまで追い込んでいく。
ジュデッカが影の隙を付き、味方への援護射撃にと広範囲に向けた氷撃の魔術を放つ。
氷の矢に怯んだ影をシュウの技ありのひと振りが両断した。
「ライザ!急げ!」
シュウはそう発破をかけると、苦戦が必至なジョシュアに助太刀を買って出た。
ジュデッカなどは戦闘勘に優れるようで、魔術師ながらに敵の攻勢を巧く受け流している。
「哀しむ必要はない。一人ずつ葬ってやるから、余計な心配をするな」
<石榴伯爵>は不気味な笑顔を浮かべてアリシアを挑発する。
そして余裕が出来たからか、続けざまに骸骨騎士を召喚して見せた。
二十を超える骸骨騎士が新たに生み出され、戦況の悪化にシュウですら絶望を覚える程である。
「ハッハッハッ!人間共!これが蛆虫と我の実力差よ!」
「黙れ!」
アリシアの力任せな剣が<石榴伯爵>の爪を二本切断した。
しかし、それだけのことである。
複数の骸骨騎士と影に囲まれたシャッティンが間もなく劣勢に追いやられた。
「退けッ!…うおッ?」
シャッティンの背に曲刀が刺さり、バランスを失ったところに次々と攻撃の手が襲い掛かる。
シャッティンの危機はアリシアも見過ごせなかった。
(彼をここで失うわけにはいかない!ラインの戦力が…)
それでもアリシアは<石榴伯爵>との撃ち合いに全力をもって当たっており、シャッティンの助勢に割く余力は存在しなかった。
そんな窮地に駆け付けたのは、フィリップ=ギュストと彼の部下たちである。
「全騎、骸骨の化け物どもを狩り尽くす!」
五十程の小隊勢力が新たに参戦した。
シャッティンに群がる骸骨騎士はフィリップ自らが突撃してそれを斬り払う。
馬上から雄々しく剣を振り回し、影をすら一時的に後退させた。
「…久遠アリシアだな?ここは引き受ける。さっさとそいつを片付けてしまえ!」
かつての上官であり敵性勢力でもあったフィリップの加勢に、アリシアは珍しく粋に感じて闘志を燃え上がらせた。
都合良くもジュデッカの起動した吹雪が<石榴伯爵>の機動力を奪う。
アリシアは強烈な踏み込みから剛剣を叩き込んだ。
<石榴伯爵>がガードに用いた爪を全て断つと、そのまま肩口から袈裟斬りにする。
返しの剣は寸分違わず同じ軌跡を辿り、剣傷を深々と拡げた。
最強の切り返しを浴びた<石榴伯爵>は、ダメージの大きさに悲鳴すら上げて地に膝をつく。
裂かれた箇所からはいっそう濃い黒煙が溢れ出た。
アリシアは追撃の手を緩めない。
<石榴伯爵>は爪を打ち出して抵抗するが、アリシアはその身に受けることを甘受して飛び掛かった。
肩や手足を刺し貫かれても勢いを止めず、銀剣を一閃する。
鈍い斬音と共に<石榴伯爵>の首が飛んだ。
フィリップ隊やシュウらと交戦中の影や骸骨騎士が音もなく崩れ落ちる。
どす黒い煙幕が辺りに立ち込め、騎士たちに<七災厄>の最期を強く印象付けた。
彼らはまだ知りはしなかったが、これで大陸から<七災厄>が全滅したことになる。
「ドラッケン!」
ジュデッカによって応急処置を施されたシャッティンは、起き上がるなり倒れたドラッケンの下へと駆け寄る。
長年傭兵として苦楽を共にした仲眞の死に、彼は周囲を憚らずに号泣した。
シュウはその姿に己を写し見て静かに目を閉じる。
騎士を集結させたフィリップが、全身ぼろぼろのアリシアへと近寄って訊ねた。
「我々は別部隊と合流の上ラルメティ軍の背を突こうと思う。そなたはどうする?」
「…ジュデッカ、彼に協力を頼める?」
「いいですよ」
迷うことなしに、ジュデッカはアリシアの依頼を受け入れた。
「その足で紅煉騎士団に<石榴伯爵>の死を伝えて」
「了解ですー」
フィリップはじっとアリシアの顔を眺めると、納得がいかないといった表情で質問を続ける。
「…彼女は強力な魔術師のようだし、こちらとしては助かるがな。そなたは来ないのか?」
「私の目的は果たされた。この場に留まる理由はもうない」
「ラインベルク将軍が帰還したのであろう?騎士団を離れたとは聞いているが、会ってはいかないのか?」
「魔物を狩ること以外に興味はないわ。私はライザ=フロイ。…縁があったらまた会いましょう」
アリシアはそう言ってフィリップに背を向けた。
シュウが黙ってその後ろに続く。
フィリップは自身の手下をまとめると、ボイス=ミョルニル隊との合流を企図してその場を後にした。
やがて気を持ち直したシャッティンが神威分隊を率いてラルメティ軍の背後を突くと、それに連動する形でボイスとフィリップの部隊も攻撃を開始する。
ラインベルクやレーン=オルブライトに掻き回されたところに奇襲まで浴びて、ナハトと言えど要塞攻撃の中止を決断せざるを得なかった。
「まだ負けたわけではない」
そう呟いたナハトは努めて冷静に軍を返し、開戦前の位置まで戻るや部隊の再編に取り掛かった。




