13話
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ラウル=エックハルトと彼に率いられたディッセンドルフ軍は強かった。
それは卑怯にも味方ごと戦場の全ての騎士を葬り去った策への、怒りの発露であった。
桂宮ナハトはよく残存の騎士を動かし、少ない戦力で効率よく部隊を運用していた。
彼の星取り表では、ディッセンドルフ軍の優位は揺るぎないものとなっていた。
(敵は士気も低い。あと一戦もすれば崩壊するだろう。それまでは何としても補給を持たせねば)
すでに戦場で三月近くを過ごしており、陣も山中にあるので補給ルートの確保には難儀していた。
携行食を口にしていると、ディッセンドルフ本国からの軍使が息も荒く駆け込んできた。
「…桂宮中佐!政府からの書簡をお持ちしました」
ナハトは頷き、軍使から受け取った書簡をその場で広げる。
(なんだと…!)
それはナハトにとって想像もつかない内容で、ラルメティ公国の意向にも沿うものだと記されていた。
「チュール=ベントから撤退命令でも着たのか?」
首相の名を出してラウルが近寄ってくる。
その姿は連日の戦闘により煤け、熟練の騎士のオーラを漂わせていた。
ナハトは軍使を帰し、書簡を黙ってラウルへと差し出した。
読み進めるうちに、ラウルの顔が硬直していくのが分かる。
やがて、絞り出すように口にした。
「…売国奴めが!」
ナハトはレンズの傷が目立ってきた眼鏡を手に取り、懐から取り出したハンカチでそっと撫でた。
書簡にはチュール=ベント首相の直筆で、ディッセンドルフ王国は来る樹林王国の侵攻に対して無条件降伏を決定した、とある。
文中には「ラルメティ公国のフレザント外交官の強い意向もあり」と、チュールの苦い胸中を表す記述もあった。
ラウルは大きく息を吐き目を瞑ると、そのままの姿勢でナハトに声を掛けた。
「…中佐」
「はい、殿下」
「今から軍をとって返して、樹林王国の侵攻を防ぎきれる可能性は?」
「…樹林王国の戦力は直近で最大約三千と推測されます。うち半数が寄せて来たと仮定して、こちらは国内の予備役も合わせてせいぜい六百の動員がやっと。主力はここ三月戦いづめですし、ラルメティ公国の救援が無くば決して守りきれません」
「そうだな…」
ラウルはよく日に焼けた顔に無念さを滲ませ、泣き笑いのような表情を形作った。
「ラルメティ公国に見切られた、か。かの国の期待に応えるべく精一杯やった結果がこれではな…報われん」
「…お察しします」
ナハトは外交官ではなかったが、事の成り行きはだいたい把握していた。
ラルメティ本国は、ディッセンドルフ王国と樹林王国とを秤にかけて後者を選んだのだ。
そこにはグラ=マリ王国や聖アカシャ帝国など、対等以上の力を持つ列強との関係性も働いたに違いないのだが、結果的にラルメティはディッセンドルフをけしかけておいて切り捨てたことになる。
「エックハルト総帥!桂宮中佐!大変です!」
騎士の一人が大声を出して注進に来た。
「何事だ?」
ナハトは動揺を見せずに質した。
「はっ!補給部隊が敵の襲撃を受けて、物資を全て奪われたとのことです」
「何だと!」
ラウルが激昂する。
ナハトはすぐさま備蓄の軍需物資を念頭に計算を働かす。
チュールからの通達もあり、以降の補給は望めなかった。
「…殿下。最長で三日の滞在が限界です。継戦能力に至っては、矢数が致命的でゼロと考えます」
「…わかった。撤退の準備を。何にせよ、ここで餓死するのをただ待つわけにはいかない」
言って、ラウルは天を仰いだ。
(天よ!あと一戦!あと一戦で、憎き紅煉騎士団を撃破せしめたというのに…。この仕打ちは、あまりに酷い)
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軽く敵騎士を平らげたアリシアは、手応えがないとばかりに不機嫌そうに聖剣に付着した血を拭い捨てた。
リーシャの鋭い読みとポイントを絞った捜索とで見事にディッセンドルフ軍の補給路を探り当て、奇襲でもって一網打尽としたのだ。
補給部隊の戦力などアリシアの前では無力で、ものの五分で掃討を完了した。
「このまま物資を持って第2軍に合流しましょう」
「まだ山道を行くの…?」
アリシアが恒例の不平を口にする。
「友軍はそれほど登ってないみたいだから、一日とかからないわ」
「…本当?今夜は湯浴み出来る?」
「それは無理ね」
私だって浴びれるものなら浴びたい、とリーシャは心中で声をあげた。
「結局ラインベルク一味は見付からず仕舞い」
「…宰相閣下からのご命令は、ラルメティ公国に派遣された外交官たちのディッセンドルフからの帰国援護、というものだったわ。ディッセンドルフ軍に損害を与えたことは、目的から外れていない」
「優等生的な回答だけれど、誰もそんなものは求めてない。言い訳みたいに任務を正当化しておいて、彼らのこと、気にならないわけ?」
アリシアに突っ込まれてリーシャは口をつぐむ。
(気にならないわけがないでしょう!…でも、今の私たちにはこれ以上どうすることもできない。そんなこと、口にしたところで何も変わらないのよ。ラインベルク、ラミア、ゼノア、唯…みんな、壮健でいて…)
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恐々と国境を渡ったラインベルク一行は、リーシャらとは行き違いになり一路王都を目指した。
渡境の際には唯とディタリアの間で「降りろ」「降りない」の悶着があったが、結果的にはディタリアは捕虜として王都まで付いてきてしまった。
王宮に着くと、タレーランやミットはすぐに政府幹部に呼び出され、残されたラインベルクら武官組は打って変わって手持ち無沙汰となる。
(帰って寝ててもいいのかもな)
ラインベルクはそう考え、ゼノアに誰にとも知らない報告を任せ、さっさと王宮を辞してしまった。
王宮前の庭園ですれ違った一行に見覚えがあり、弾かれたように振り向くと向こうも同様にラインベルクを認めて手をあげる。
「ライン!」
「セシル…それに皆も」
皆イチイバルで見知った者ばかりで、中でもセシルはラインベルクの最高の知己の一人だ。
満面の笑みを浮かべて近付いてきたセシルは、「イチイバルの代表として来たのよ」と明るい調子で言った。
二十になるはずだが、少女時代を知るラインベルクからすればまだまだこどもに映り、青銀の長い髪を銀のカチューシャで留めているその姿は往時と露変わらないものだった。
「そうか。ちょうどおれもグラ=マリの外交武官を全うしてきたところだ。別れてからまだ半年も経っていないよな…」
「ラインが外交武官?どこに?」
「さすがにそれは言えないだろ」
「ふうん。私に隠し事するんだ…。ラインが寝床でなきゃ教えられないって言ってた、ってお兄ちゃんに告げ口しちゃお」
「なにっ!止せ、シルドレはお前のこととなると冗談が通じないから…」
「あはは。嘘よ。ラインったら、焦ったでしょ?」
セシルが口に手を当ててころころと笑う。
屈託のない無邪気な笑顔がチャーミングで、群青騎士団のアイドルの名にに相応しい優れた容姿を変わらずに保持していた。
セシルはイチイバル共和国群青騎士団の筆頭騎士シルドレの妹で、自身も強力な騎士である。
一昨年からは近衛隊の隊長職に任じられ、対魔物戦の指揮をとってもいた。
シルドレと並んで国民の人気は高く、ラインベルクは居候をさせてもらっていた四年の間で、幾度もセシルとのゴシップを飛ばされたものだ。
「ゆっくりと話したいのだけれど、時間がなくて。行ってくるね」
「帰りに寄っていく時間はないのか?十人なら、行きつけの酒場を貸しきるぞ。これでも紅煉騎士団の大尉様だからな」
「ふふ。ライン、群青騎士団にいた時より降格してるし。…今日はすぐに出立しないといけなくて。次はあなたがイチイバルに来て。お兄ちゃんと待ってるから」
セシルはラインベルクの手をとって両手で強く握る。
ラインベルクを見上げる黒瞳は真摯に光り、その潤みには見る者を虜にさせる魔力のような力があった。
「…コラ。そこの二人、自重なさい。ここは王宮よ」
王宮の正面より咎め立てする声が聞こえ、二人してそちらを見ると、怖い顔をしたジリアンが肩で息をしてそこにいた。
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第2軍本陣の天幕内は、まるで葬式会場のような重苦しさを感じさせる空気があった。
陣内もそれはそれで暗かったものだが、輪をかけて酷いとリーシャは感じる。
「…よく来てくれた。ロイルフォーク大尉に久遠大尉」
リーシャとアリシアに応対したのはネヴィル=アルケミス准将で、彼女らによる敵補給部隊の殲滅と物資の強奪、ならびに二個小隊の救援を手放しで喜んだ。
だというのに、ネヴィルの顔色は冴えず、肩は落ちきってみすぼらしささえ感じさせた。
「准将閣下。我々の小隊には余力があります。是非とも最前線でのご任用をお願い申し上げます。将軍閣下にもお口添えをお願い致したく」
リーシャの横ではアリシアが冷ややかにそれを見つめている。
(なんで私が山登りなんてしなきゃならないのよ!御免だわ…この女に二個小隊の指揮を委ねなきゃ)
「私からも提案が…」
アリシアが掛け合おうと声を上げると、ネヴィルはそれを遮るように手のひらを前に出して、制止を促した。
そして長い溜め息をつく。
ネヴィルの周りに座す幕僚たちの表情も優れない。
「言いたいことは分かるつもりだが、二点の理由から全て却下する」
ネヴィルの口から飛び出した事実には、二人も驚かずにはいられなかった。
「まず、戦争は終わった。ディッセンドルフ軍は陣を引き払って帰途についたようだ。これには両名の働きも影響しているように思われる。重ねてご苦労だったな」
「ありがとうございます」
リーシャが正面から返礼する。
「次に、デイビッド=コールマン大将に取り次ぐのは不可能だ。大将におかれては、体調不良で王都にご転身なされた。つい三日ほど前に発たれたのだ」
これが沈鬱とした雰囲気の源泉だろうとリーシャは予想した。
不利を悟った指揮官が我先にと逃げ出したのだ。
(ギュスト一族の頭領にして、次期騎士団長との声すら上がるデイビッド=コールマン大将が、よりによって戦場から逃亡…。これでは士気が保てないのも無理ないわ)
「それ故、この場の責任者たる私の判断で間も無く全軍撤退に踏み切る。ご苦労だったが、下命まで待機しているように」
「…はっ」
リーシャが敬礼するも、隣のアリシアは黙って闘志を燃やしている。
(いけない!この子、本当に怒ってる…)
ぎらついた目線でネヴィルを貫いた。
「…久遠アリシア。そんな目で見ないでくれ。私も騎士の端くれ。言いたいことはあるし、王都に帰ったならば然るべき報告はするつもりだ。…だが今はまだ戦中。指揮官が感情に任せて怒鳴り散らすわけにはいかないし、何よりここまで被害を出した責任の半分は私にもある。この上はあと一人の犠牲も出さずに帰参出来るよう、陣頭指揮をとるまでだ」
抑揚のない演説だったがネヴィルの気概は知れ、アリシアも振り上げそうになった拳を落とした。
「敵前逃亡なんて、騎士の風上にもおけないわね…」
アリシアがぼそりと呟いたその言葉は、その場にいる全ての騎士の胸をついた。
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「私はここに、ディッセンドルフの樹林王国への統合を宣言します。しかしこれは支配を意味するものではありません。我が樹林王国は二年で七つの国家を併合し統治してきましたが、国民生活に何ら負担を強いたことはありません。政治に重大な過失がありましたら、直ちに私の行政府までご連絡くださいますようお願い申し上げます。組織の話を致しますと、魔物の根絶とその推進のために軍事機構だけは刷新させていただきます。しかし、本領に関しても他領と同様に自治を認めたいと存じます。そして自治領主には…」
樹林王国女王の蒼樹は、ディッセンドルフ軍政府庁舎前広場の仮設演壇の中央から隣の空の演壇を身振りで示した。
そこに正装したラウル=エックハルトが現れる。
「過日大陸でも精強の代名詞たるグラ=マリ王国紅煉騎士団を蹂躙した、英雄ラウル=エックハルト氏をあてることと致しました。皆様、どうかご承認くださいますよう。樹林王国女王の私蒼樹がここにディッセンドルフ領民の安寧と繁栄をお約束致します」
魔術で拡声された蒼樹の演説は続き、広場周辺のみならずディッセンドルフ領各地へと瞬く間に広まっていった。
新聞などの報道や諜報活動、外交ルートなどから大陸各国にも情報は伝わった。
中でも各国の政府・軍を震撼させたのは、樹林王国の対魔騎士団の新たな軍容である。
騎士団長は女王蒼樹が兼ね、元樹林王国筆頭騎士のリチャード=ヘイレン二十五歳と、宮廷魔術師のプライム=ラ=アルシェイド二十一歳という若き両輪がそれを支える。
そして、実質的に騎士団を率いるのはラルメティ公国からの客員将校、ナスティ=クルセイドその人だというのだ。
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王宮から退出しかけた点をジリアンから散々に説教されたラインベルクは、渡された新聞を読み終えてふうとひとつ息を吐いた。
「…つまりは樹林王国の侵攻に邪魔だったわけか。<歌姫>が」
「タレーランは体よく利用されたということ?ライン」
ジリアンが水差しを手にし、ラインベルクのグラスに冷水を注ぐ。
「いや。結果としてグラ=マリとラルメティとの間に友好条約は交わされた。これは中部の聖アカシャへの牽制足り得るし、何より約束通りにディッセンドルフの脅威は去ったろう?」
「でも、勢いのある樹林王国が拡張して、我が国と国境を接したわ。対魔騎士団にはあのナスティ=クルセイドがいるのよ」
「…元々ラルメティにいたじゃないか。奴はまだいい。それより、プリムラはいつの間に樹林王国入りをしたのか…」
「宮廷魔術師のプライム=ラ=アルシェイド?知っているの?」
「魔術都市で何度か一緒に遺跡探査に行った。もう五年以上前になるか。あいつはまだお嬢ちゃんだったけどね。…とにかく口と性格が悪いんだ。あの綺麗な面から放たれる罵詈雑言には辟易させられた」
ラインベルクはグラスを口にし、苦々しい表情で語った。
「魔術の腕前は?」
「当時ですでに魔術都市でも高名だったよ。才能は折り紙付きで、カザリンが手元に置きたがっていたな」
グラ=マリ王国には宮廷魔術師がおらず、それは紅煉騎士団の権威が絶対的で魔術師の地位が比較下位にあるのと、大陸東部の魔術都市との交流が皆無に近い点が原因だった。
(リーシャ=ロイルフォークや七星カミュのように、稀に魔術に秀でた騎士は誕生してくる。でも系統立てて育成する術や、他国や在野の士を登用するノウハウに乏しいのは否めないわ。ラインが顔繋ぎに魔術都市に行くのを諾としてくれれば早いのだけれど…)
「…おれは魔術都市にだけは行かないぞ。何より、向こうが入れてはくれない」
ジリアンの視線からその思考を読み取って、ラインベルクは軽く釘を刺す。
「はあ…。折角あなたを外交武官ルートで出世させようと目をかけているのに」
ラインベルクは先の外交成果と<歌姫>討伐の功績により、階級を少佐に進められていた。
中尉に昇ったラミアを除いた他の面々が勲章授与に止まったことを考えれば異例の措置だが、ゼノアや唯はあれでまだ十代である。
いくら士官学校を優秀な成績で卒業し連続で戦功を挙げようと、規律上さすがに半年で佐官とするわけにはいかなかった。
翻って、ラインベルクが<歌姫>を討った事実は国内向けのいいプロパガンダとなった。
王国領内四方で戦争状態となり、敗戦や国力低下を国民の目から逸らすのにぴったりの話題と言える。
その喧伝には捕虜であるディタリアが一役買い、見返りにグラ=マリ王国への亡命が認められる運びとなった。