114話
***
カザリンは魔術都市に根差した名門・ハイネマン家に生を受ける。
グラ=マリのエレクシアス、樹林王国のアルシェイドと並んで魔術の御三家として名高いハイネマンにあって、カザリンの才能は突出していた。
剣でも水準以上の結果を出してはいたが、魔術への理解の深さと構成の妙において他者の追随を許さなかった。
両親を早くに亡くしたが、魔術都市は彼女を全面的に後援することに決める。
若くして上級魔術師に認定されたカザリンは、諸国の強騎士に請われて魔物や賊を狩り、また数々の古代遺跡や秘境を走破することになる。
元ラルメティ公国の筆頭騎士ことナスティ=クルセイドが、南部ビル・ノーテル湖の水竜と北部ギガント渓谷の氷竜を倒したことで<竜殺し>と呼ばれたように。
或いはイチイバル共和国のシルドレや剣皇国のトリスタンが、その抜きん出た実力からそれぞれ<騎聖>や<幻月の騎士>と呼ばれたように、カザリンに<雷公主>という異名が付けられたことにも背景があった。
大陸東部はメルビル法王国のキルリーチ城跡に巣食った吸血鬼の群を、カザリンは得意の雷術でいとも簡単に蹴散らして見せたのである。
同行していた教導騎士団の強者たちよりこの逸話は広まり、時を経て彼女に<雷公主>の二つ名が定着することになる。
魔術や政治、歴史の研究分野でもカザリンは目覚ましい成果をあげていた。
カザリンの信条は広く知られており、魔術を志すからには真理への到達を目指すという一念と、理を知る者は如何なる事態にあっても正義を貫くべしという単純明快なものである。
悪と断じた闇ギルドへの捜査に踏み切ったとき、愛弟子のマグナ=ストラウスを除いて周囲の者はは皆、彼女の過激な行動に難色を示した。
だがカザリンの意志はぶれることもなく、闇ギルドのブランチを一つ実力行使で壊滅させる。
そこで教練されていたラインベルクやフュハを救い出し、太陽の下に放ってやった。
ラインベルクを弟子に取り、樹林王国から魔術都市に留学してきたアルシェイド家の娘と親交を持たせたこの頃のカザリンは、人として、且つ魔術師として成熟期を迎えていた。
人口にして百万程度に過ぎない魔術都市が周囲の列強に侵攻を許さなかったのは、ひとえにカザリンの存在に因ると言える
彼女のポテンシャルの高さは、その後ラインベルクやプライム=ラ=アルシェイドと共に<鉄巨人>を打ち倒したことや、ニーザ暗殺に失敗したラインベルクの援護に走り、ルキウス=シェーカーを撃退したことでも証明された。
時代を代表するその大魔術師はしかし、<七災厄>最強とされた<幻竜>と相討ちの形で現世から早々に退場することとなる。
カザリンの死を一番最後に伝え聞いた身内は、従軍して一月以上も<七災厄>が一柱たる<邪蛇>の軍勢と向き合っていた彼女であった。
「…許さない、絶対に!カザ姉を殺った化け物どもを、根絶やしにしてやる!」
プライムは対魔騎士団に総攻撃を命じ、<邪蛇>勢との決着を急いだ。
蜥蜴騎士や幽鬼が主体の敵勢に対し、対魔騎士団は中距離射撃を中心に攻撃を仕掛ける。
木で作られたと思しき蜥蜴騎士の簡素な盾は銀や鉄製の矢と投げ槍に破壊され、続く接近戦の防御に不安を残した。
「突撃!丸裸の蜥蜴野郎を八つ裂きになさい!」
号令をかけつつも、プライム自身は動かずに何かを待つようにして集中を切らさないでいる。
騎士たちは蜥蜴騎士の部隊を押し込み、その攻勢は戦そのものを制するかという程の勢いであった。
盾を失った蜥蜴騎士が次々に倒され、対魔騎士団の騎士たちは高らかに吼えて剣を振るっていく。
<邪蛇>勢が流れを変えるべく画策したのは、常套手段ともいえる大蛇の投入であった。
巨体をくねらせて前に進み出でた大蛇の群をを確認するや、騎士たちは恐れおののいて後退を始める。
調子に乗った大蛇はそれを追走するのだが、よくよく見れば何れの騎士も一定の方向へと逃げており、その意図を見抜けた者はいなかった。
「所詮は畜生ということよ!…其はあまねく天の星雲が一欠片、彼方より此方へ、彼の者らを標的として冷厳なる光輝の槍、ミストルティンを降ろし穿ちたまえ!」
プライムの要請に応えて天より降り注いだ白銀の槍は、目視で数十にも及んだ。
高速で落下して大蛇の群を悉く串刺しにすると、地に林立した光柱は眩い閃光を放って爆散した。
爆発は連鎖し、大蛇の死骸を粉砕するに止まらず、数多くの蜥蜴騎士をも巻き込んでその命を奪う。
かつてリーゼロッテが<暴食>のガフにぶつけた術式よりも、ミストルティンの槍の攻撃範囲が相当に広かった。
誘きだされた大蛇が全滅、蜥蜴騎士や他の魔物にも大きな被害が出たことで、<邪蛇>勢から二人の首領が歩を進めてきた。
プライムは迎撃に動こうとした騎士たちを制し、息を整えてから自ら馬を駆って応対に出る。
「あは。一人で出てくるんだから、君もたいした自信家だね!私はエレクトラ=アウロボロスだよ」
徒歩で深緑色の長衣の裾を引きずって歩く総髪の女・エレクトラ=アウロボロスが名乗った。
「<邪蛇>の名を語る卑しい魔女ね。私はプライム。対魔騎士団を統率する者。ここでお前たちを消し去って、トロリーを浄化してくれるわ」
「わあ…ウルトラ自信家だ。ねえ、アイラ?」
エレクトラの背後に立つ長い黒髪を背で束ねた細面の女性が小さく頷く。
その瞳は碧で、視線を交わしたプライムはその奥からただならぬ狂気の気配を感じ取った。
「こっちは妹のアイラ。アイラ=アウロボロス。私たちの総領でもあるんだ」
「貴様らと話すことなどない!失せろ!」
プライムが腕を振るのと等しい速度で、アイラ=アウロボロスは印を結んだ。
両者の魔術が真っ向から激突し、中間距離で魔力の塊が燻って蠢いている。
(互角だっての?この私と!)
プライムの視界の隅でエレクトラが動きを見せる。
プライムは左手で簡易の魔方陣を起動させ、エレクトラの召喚魔術に対抗策を講じた。
エレクトラが呼び出したのは尻尾が蛇で胴体が獅子、顔は鳥類という人為的な合成獣で、現出して早々にプライム目掛けて飛び掛かる。
だがプライムの起動した魔術こそが合理的で、それはあらゆる召喚に応じた生物を強制的に帰還させる高等魔術、反門であった。
合成獣の姿が金色の輪に包まれたかと思うと、一瞬の後にきれいさっぱりとこの場から消え失せた。
「同時に…二つの魔術!」
「反門の使い手だって?」
アイラとエレクトラがそれぞれ驚きを口にする。
敵に考える間を与えぬようプライムの左手が更に動くのだが、頭の片隅には聖石と体力の残量が引っ掛かっていた。
プライムの作り出した炎の壁は戦場を横切るようにして、真っ直ぐにエレクトラとアイラに襲い掛かる。
プライムとしては、アイラが怯めば拮抗している魔力を押し切ることが出来ると期待したものだが、<邪蛇の三姉妹>の二人が動じることはなかった。
アイラはエレクトラを完全に信頼しているのか、プライムから視線を逸らすことなく放出している魔術の制御に集中している。
その通りに炎の壁にはエレクトラが一人で対処をし、巨大な氷塊を召喚することで見事に威力を相殺した。
以降も畳み掛けるプライムの攻撃魔術にエレクトラは隙無く対応して見せ、やがて手詰まりを感じたプライムが右手から放ち続けていた魔力を離散させる。
アイラも同様に魔術を解き、三者は張りつめた空気を間に挟んで静かに見詰めあった。
「…驚いたわ。たかが畜生の下僕と思っていたら、なかなか侮れない力を持つ」
余裕を窺わせながらも、プライムは眼鏡の奥の瞳を光らせて敵二人の動向に注意を払う。
アイラは静かに佇み、エレクトラが軽快な身振りを交えてプライムの言に応じる。
「話すこと、あったみたい?ちなみに先に種明かしをしておくと、私たちが今日ここで倒されることはないんだよね」
「…なんだと?」
「未来予測の魔術。アイラの秘術なんだ。だから君がどんなに凄腕だろうと、こちらは何も心配がなかったりする」
プライムの視線がアイラの落ち着いたそれと交錯する。
(この女が…未来予測の術を?)
プライムもその魔術のことは知っており、禁術の中でも桁違いに行使の難しい魔術として記憶していた。
体力の消耗や理論の構築、儀式の再現性など幾つも難点はあるのだが、それだけであればプライムの力量をして解決は不可能ではない。
真に恐るべきは魔術の使用に伴う反作用で、未来予測がもたらす結果をまともにその身に受けると、術者の精神汚染や肉体損壊を引き起こすのだと言う。
例えるなら、視てしまった未来に衝撃や絶望を感じた場合、それが数千、数万倍の威力をもって術者に襲い掛かるのである。
思い込みの激しい人間に稀に発生することだが、錯覚が肉体に作用する物理反応もあるわけで、それを未来予測の魔術に当て嵌めて考えたならば、負の感情を少しでも抱くことがリスクとなる。
つまり、相当に精神制御に長けた魔術師以外使いこなすことは出来ないということだ。
プライムは前髪を手で払うと、強気を失うことなしに啖呵を切る。
「…嘗めるんじゃないわよ。未来予測の結果が揺蕩っているのは先刻承知。何より、貴様らが見た未来の数秒後に私に殺される可能性だってある」
「…アイラ、どうする?これは諦めない口だよ?」
「では、<邪蛇>様に御足労願いましょう」
そのアイラの提案には、プライムのみならずエレクトラまでもが驚きの表情を見せた。
程なくしてアイラとエレクトラは合体で呪文を唱え始める。
プライムは敢えて横槍を入れず、三者はそのままの位置で相対し続けていた。
(化け物の親玉を転移させるつもりね…。わざわざトロリーくんだりまで出向く手間が省けたというものだわ!)
プライムは一人であれど決戦への戦意は高く、カザリン亡き今大陸最強と言っても過言ではない魔術師として全精力をこの一戦に傾ける気概があった。
それは降臨した。
平原に突如緑色をした竜巻状の気流が発生し、風が止んだかと思えば一人の女性が静かに直立している。
「…?」
プライムの目には、現れた騎士の装いをした金髪の女性が普通の人間と映った。
アイラとエレクトラの二人が膝まずいて女性を迎えたことから、彼女こそが<邪蛇>なのであろうと見当をつける。
(美しい女…これが<七災厄>に数えられる混沌の蛇、<邪蛇>だと言うの?)
プライムには面識がないため、目の前の女性は<邪蛇>が擬態した姿であろうと推測していたが、女性の容姿こそまさに剣皇国のトリスタン=フルムーンそのものであった。
「あんたが蛇の親玉?私は樹林王国の宮廷魔術師、プライム=ラ=アルシェイドよ。さあ、とっとと始めましょうか」
アイラとエレクトラは動きを見せず、トリスタンの身形をした女性がプライムに目線を送って口を開いた。
「我こそは…アウロボロス。冷厳なる破壊と混沌の体現者…。撃ってみよ…。…汝の技など、我には何一つ通用…しない…」
その言葉の通り、プライムは加減せずに衝撃波を見舞った。
ノータイムで<邪蛇>を直撃したそれは、エレクトラすら予想し得ない速度で繰り出され、アイラの見たところ魔力の凝縮されたシンプルかつ高威力な一撃であった。
<邪蛇>は吹き飛ばされて遠くに倒れている。
如何なる抗魔術の発動も認められず、プライムは先制攻撃の成功を確信していた。
「…成る程。遠慮がない…。これ程の力であれば、大抵の魔物は汝の足下に…平伏すであろうな…」
起き上がり、歩み寄りながらそう語る<邪蛇>の肉体の変化をプライムは見逃していない。
衝撃波による擦り傷や切り傷は瞬く間に消え、そこに綺麗な肌が再生されていたのである。
(…ならば!再生する暇を与えなければいいッ!)
雷撃、氷撃、炎撃。
風撃、水撃、そして、必殺のミストルティンの槍に奥技・ゲイボルグの槍。
プライムはありとあらゆる攻撃魔術を放ち、<邪蛇>の全身を痛め付けた。
しかし、焼けど裂けど貫けど、<邪蛇>の身体は都度再生して、まるで何事もなかったかのように振る舞っていた。
息が上がるプライムを尻目に<邪蛇>は腕を組んだまま仁王立ちし、涼しい顔をしている。
「終わりか…?…では汝に残されているのは…死しかないが」
「…ただの物理攻撃が通用しないことは分かった。でも御生憎様。私が得意とするのは、寧ろこっちの方よ!」
プライムが指で中空に複雑な紋様を描き、一時両の目を閉じる。
ただならぬ雰囲気を感じ取ったアイラとエレクトラは身構えるが、<邪蛇>に動きはなかった。
印を切り終えたプライムが目を見開く。
その瞳は碧眼から赤黒く変色し、不気味な赤光を放っていた。
「これは…幻術?」
エレクトラは自身の物理的存在感が急速に薄れていく様を感じた。
同時に、手先や足の先から身体が細切れに崩れ、風に舞って消えていく光景が視界に飛び込んでくる。
四肢には鋭い痛みが走った。
(幻覚のはず…なのに、これほど鮮明な感覚を…?この私が、こうも簡単に落とされるなんて!)
エレクトラのみならず、アイラも滝のように汗を流しながら苦悶の表情を浮かべている。
プライムの幻術の素養は天性のものであったが、聖石、体力の双方を消耗している今攻勢は長くは続かなかった。
瞳から発していた光が一方的に薄まり、プライムは体勢を崩して地に片膝をつく。
幻術が解けて現実へと立ち返ったアイラとエレクトラは、自らの全身の無事を確認するなり脱力感を無視して<邪蛇>へと視線を転じた。
<邪蛇>はというと変わらぬ姿勢でプライムと向き合っているのだが、その碧眼には不鮮明な光が滲んでいた。
「<邪蛇>様、ご無事でいらっしゃいますか?」
アイラは素早く駆け寄って<邪蛇>の顔を覗き込む。
<邪蛇>は眉をひそめ、手刀でもってアイラの顔面を払った。
「きゃッ!」と悲鳴を上げて、アイラが遠くに吹き飛ばされる。
「アイラ!」
エレクトラは倒れたアイラの具合を確認するか<邪蛇>の様子を窺うか、はたまたプライムに止めを刺すかで逡巡を見せる。
(まさか、今の幻術が<邪蛇>様の精神に作用したとでもいうの?…肉体に帰還されてまだ間もない身。よもやこのような事態が起ころうとはね…)
その間にも、<邪蛇>は片手で額を押さえて俯き加減になり、何事か異変が生じているのは誰の目にも明らかであった。
力を使い果たしたプライムに、昏倒して起き上がれないアイラ。
未来予測にない混迷した状況に至って、エレクトラの持ち前の快活さはすっかり鳴りを潜めている。
四者を挟んで対峙する形の対魔騎士団と魔物勢にも焦りの色が浮かび始め、戦の行く末は霧に包まれたかのようにぼやけていった。
***
カタリナ=ケンタウリは私邸に違う畑の客を迎え入れていた。
ケンタウリ夫妻の暮らすアイス男爵家の屋敷には活気があり、遅い時間であっても多くの使用人が意気揚々と働いている。
応接室に案内されるまでにそれをまざまざと見せつけられたタレーランは、商務大臣と内務次官という要職にある二人の家ならさもありなんと納得した。
「お待たせしました。タレーラン大臣、急のご用向きは何かしら?」
入室してきたカタリナは白いカッターシャツにゆったりした浅葱色のフレアスカートという部屋着姿で、老いたタレーランの目にも執務中の凛とした彼女とは違った愛らしさが視てとれた。
思わず見惚れていると、向かいのソファに身を埋めたカタリナが怪訝な顔して首を捻った。
「…あ、いえ。突然押し掛けて申し訳ありません。紅煉騎士団の重鎮が皆不在のため、軍に影響力の大なる男爵閣下に是非お力添えをいただきたく…」
「タレーラン大臣は、イリヤ=ラディウス参謀長の拡大政策に反対でしたわね?」
「はい。武力一辺倒の拡大主義は禍根を残し、必ず反動を招きます。侵略者への不満や反抗心を抑圧するため、領土を広げるに比例して軍事力も積み増さねばなりません。国家運営は火の車となりましょう」
「理屈は分かります。ただし経済政策上は、不安定要因を抱えるデメリットよりも資源や労働力の確保、市場の拡大といったメリットの方が大きいのですけれど」
「福祉や犯罪率の面、それに国民の税負担などを考えれば、急速な拡大策は格差の助長とそれに伴う憤懣の蓄積を引き起こします」
「まあ、戦まみれの現状で租税を軽くするわけにはいきませんし。世が乱れれば犯罪者も増えると言うもの。…それで、タレーラン大臣としては次なる戦争行為を制止したいと?」
「作用です。領土バランスから見て間違いなく、我らグラ=マリ以外の諸国は次に外交で仕掛けてくるはずですから」
「連合…する確率は高いでしょうね。メルビルとラルメティの巨頭を主軸に、首都を侵された剣皇国はまず参加」
「その通り。樹林王国は<邪蛇>勢からの被害状況次第。イチイバルは世論がグラ=マリ許すまじと傾けば、或いは」
メイドがカタリナの紅茶を持って入室し、空になっていたタレーランのカップにもお代わりを注いでゆく。
出された紅茶に口をつけて一息つくなり、二人は政情満載の会話を続行する。
「具体的に私に何をしろと仰るのです?」
カタリナは本当に分からないといった風に指を顎に這わせ、真っ直ぐタレーランの目を見て言った。
「外交ルートでの渉外を待ってから戦争に移るよう、騎士団を説得するのに大臣の御力をお借り致したい。…お恥ずかしながら、女王陛下には注進申し上げたものの騎士団に直接話すよう勧められましてな」
「商務を司る私が加勢したところで、あの参謀長が交渉のテーブルに付くとは思えませんが。…タレーラン大臣、外交で次の戦が止められましょうや?」
「それをするのが私やミット=ボースの仕事です。女王陛下が軍事を優先なさるのは結構ですが、一滴でも無駄な血が流されるのを減らせたならば。それは国家のため、ひいては陛下のためにもなろうと言うもの」
「陛下が拘りを捨てられない紅煉石はどうするのです?」
カタリナの指摘にタレーランの熱弁は止み、途端に困った顔を作る。
「紅煉石は…」とごにょごにょ呟きながら、懐から取り出したハンカチで額の汗を拭った。
「あれが魔物を生み出す一因だとして、既にそれを聞かされている諸国が黙って陛下の継続所有を認めるのかしら?この件だけをとってみても、日常から魔物に苦しめられているイチイバル共和国あたりの反発は必至でしょうね」
カタリナは経済運営のレベルでグラ=マリ王国を発展させることには全力を注いでいたが、事が戦略に及んだ場合、敢えて踏み込んで考えないように自らを律していた。
それは言明したように、ジリアンの紅煉石への独占意識は決して他国には相容れないものだと理解していたからである。
(こちらの譲れない点が他国にとって致命傷となる問題だとして、話し合いで何か解決の道筋が見出だせるものかしら…。難しいでしょうね)
カタリナは若くして男爵家の跡目を継ぎ、海千山千の貴族や商人たちと渡り合いのし上がってきた。
そのためかひどく現実主義者であり、可能性の低い博打には決して手を出したりはしない。
タレーランの持ち込んだ案件は成功すれば自分の政治的地位を押し上げるものと推測されたが、イリヤを説伏する自信はカタリナの内にもなかった。
加えて、ジリアンの紅煉石への執着が政治的に誤った判断だとして、カタリナは現在の身分がジリアンに保証されたものだと弁えていたし、万が一にも紅煉騎士団との折り合いが悪くなってラインベルクと敵対する事態だけは避けたかった。
「…それでも、ここで歯止めをかけなければグラ=マリは大陸で孤立してしまいます!いくら現時点で優勢であろうと、三か国ないしは四か国、五か国から攻め立てられて持ちこたえられるはずがない…」
「案外、持ちこたえるかもしれませんよ?」
「…は?ケンタウリ大臣、いくらなんでもそれは…」
「ラインベルク将軍がいます。<七翊守護>のフェルミと<帝国の虎>レーン=オルブライトすら退けてシルバリエを不動のものとした彼なら。彼なら、最悪の事態であっても何とかしてしまうかもしれない」
「それは…」
タレーランはぱくぱくと口を閉じたり開いたりし、ややして盛大な溜め息を漏らした。
そして気の抜けたような表情を見せたかと思うと、カタリナが予想したのとは違って穏やかな声音で本音を口にする。
「…そうですな。まさにそれこそが問題でして。彼が何とかしてしまうから、陛下は常々軍事を第一とされるわけです」
「私はラインベルク将軍のことが好きですわよ?」
「私もです。…彼は実にいい男だ。胆力はあるし、その実クレバーでもある。人柄も申し分ない」
「元は公爵家の跡取りだから、無頼の騎士とは下地が違うと言えば違いますわ。信頼という面では陛下とは昔馴染みでもあるわけですし。ここ数年、陛下の要請に従ってよく国を守護して来られました」
「そう。幾度となく女王陛下を救っている。四か国侵入の際は東部と北部で戦果を挙げ、竜からは王都を守り通した。大陸最強のナスティ=クルセイドを破り、デイビッド=コールマンをも平らげて陛下の基盤を強固なものとしている。ここまでは文句のつけようがない」
「問題とは?」
「ラインベルク将軍とて不死身ではありません。仮に次に大戦が起きたとして、彼は変わらず功を立てることでしょう。間違いなく。それはいい」
「ええ」
「彼が失われたら?…そう、ナスティ=クルセイドや九郎丸といった最強騎士ですら、今や故人なのです。カザリン=ハイネマンにスタイン=ベルシアも倒れた。トリスタン=フルムーンは依然行方不明と聞きます。つまりはそういうことです」
「紅煉騎士団はそれほどやわではないのではありません?将軍は他にもいるでしょう?」
「敵は内にあり、ですよ。フリージンガー将軍は紛うことなきギュストの系譜です。騎士団長とて元をただせばそうです。二人とも、陛下が全幅の信頼を置くには余りに遠い。王政の打破を目論む急進派が騎士団内部で少しずつ勢力を大きくしているとも聞きますし、片やエンゲルス殿下の一派は少数なれど公然と陛下に楯突き始めている」
「ラインベルク将軍のある限りは、それら全てに制御が効くと?」
「はい。彼なら何とかしてくれると考えます。別に私は彼の離脱を本心から検討しているわけではないのです。そういった観点からの布石が必要だと思ったまでのこと。外交努力でなるべく外の敵を減らしておきたいのです。何があっても、女王陛下の権力に揺らぎがないように…」
何かを説得されたわけではなかったが、カタリナは頷いて見せた。
彼女も独自の情報網から諸国の政情はキャッチしており、グラ=マリ王国の拡大を懸念する気運が高まっている点は承知の上である。
同時に、それが暴発して惨事になる日は近いと見ており、今から外交に本腰を入れたとして、対策となり得るものか半信半疑に思っていた。
タレーランがジリアンの治世を第一に考えて行動していることはよく分かったので、カタリナは特に警戒することなく、そして言質を与えずに彼を帰した。
タレーランが特使としてラルメティ公国に派遣されるのは、カタリナの下を訪れてから三週間程経過した後のことである。
***
「対魔騎士団が敗れた?どういうことだ?」
ブリジット=フリージンガーは語気を強め、報告にと顔を出したワイバーンへ詰め寄った。
ワイバーンは西のハーベスト付近で行われた会戦の経過を簡潔に説明する。
<邪蛇>とプライム=ラ=アルシェイドが離脱した後、<邪蛇の三姉妹>の次女の猛攻で対魔騎士団は打ち破られた。
二千を数えた騎士団は散り散りとなり、組織としての体裁を保てない程だと言う。
樹林王国の王都パーシバルは蜂の巣をつついたような騒ぎで、政府や軍部の浮き足立つ様には各国のスパイが失笑を禁じ得ないでいた。
未だ蒼樹に代わる国王やナスティの次の筆頭騎士も選出されていない中では無理ないことと言え、加えて王国の支柱であったプライムまでもが姿を消している。
紅煉騎士団本部の士官食堂に他に人影はなく、ブリジットの高笑いだけが響き渡った。
「蛇退治に失敗して、勝手に転けたと言うわけだ。樹林王国の奴等は阿呆か?これで西部一帯も容易く併合出来よう」
「ですが<邪蛇>勢が残りました。これほど厄介な敵もそうはいないでしょう」
「…<七災厄>と相対することになるラインベルクと三か国の脅威に晒されることになる我等。さて、どちらが不幸なの?」
イリヤの構想は既に紅煉騎士団の高官たちには伝達されており、ブリジットと第4軍はこの後に東へと出立する。
弱気を見せることの少ないブリジットであるが、次なる相手があの教導騎士団やラルメティ軍、更には群青騎士団の介入余地もあるとして、流石に不安に感じてはいるようだとワイバーンは見抜いた。
「神威分隊には期待して良いでしょう。あれは百戦錬磨の傭兵たちが主軸を為しています。ただの六百ではありますまい」
「…どうだかな。ラインベルクの子飼いと聞くぞ?」
「第5軍にはゼノア中隊長も控えていますれば。急場には彼の機動に世話になることがあるかもしれません。離れたグランディエの地からでも、あの者であれば部隊を速やかに運ぶものと思われます」
ブリジットはゼノアの長い金髪とやつれ気味の顔立ちを思い浮かべた。
(確かに、あいつはそこそこにはやる。シルバリエの戦いでもよく部隊を統率したと聞く。…何れは旗下に欲しい人材だな)
ワイバーンが起立して姿勢を正したのに気付き、ブリジットは彼の目線を追った。
食堂に入ってきたのはネヴィル=アルケミス少将と新進気鋭の参謀・イズマ大佐の二人で、ブリジットを見掛けるや丁寧な敬礼を寄越した。
二人は折り目正しく軍服を着こなしており、ブリジットはその融通の利かなそうな雰囲気が嫌いではない。
「フリージンガー少将、丁度良かった。出陣に先立ち貴殿の軍に彼の従軍が決まった。私と共にラディウス参謀長の下で作戦を立案していたイズマ大佐だ」
ネヴィルの紹介に、人当たりの良さそうな青年士官が名乗りを上げる。
「作戦参謀のイズマです。この度は勇敢をもって鳴るフリージンガー将軍にお仕え出来て光栄です」
ブリジットは軽く頷くとネヴィルに向けて冷めた目線を送った。
「…会議には余さず参加していたつもりだが。参謀が帯同するなどというのは初耳だ」
「ラディウス中将から先程指示書が届いたのだ。各軍に作戦参謀を配置せよとな。大局を見て作戦行動に移ることを徹底させる意図がある。騎士団長代理として私が署名し発効したばかりだから、むしろ貴殿は将官では真っ先に耳にしたことになる。まさか不服はあるまい?」
ネヴィルの答えに押し付けがましさを覚えたブリジットは、秀麗な眉目を歪めて見せる。
「アルケミス参謀副長、質問があります」
上官の不穏な気配を察知したワイバーンが割って入った。
ネヴィルは鷹揚に頷き、ワイバーンに先を促す。
「参謀長閣下からの御指示は各軍に、とのことでしたが。それでは全五軍に作戦参謀が配置されるのでしょうか?」
「基本は全六軍に、だ」
ネヴィルは第6軍の編成が近々完了すると重ねて伝えた。
そして新設である第6軍の組織化は、徴用から練兵までイズマが始終指揮をとったと説明する。
「第6軍は二点の新理論を元に新たな装備・編成が為されています。フリージンガー将軍、気になりませんか?」
イズマは無邪気な笑顔を浮かべてブリジットの瞳を正視する。
茶色の髪には癖があり、毛先は丸まってあちこちを向いていて、それがイズマに愛嬌を与えていた。
顔は笑っていても黒瞳の奥には真摯な光が見え隠れし、単純なお人好しなどではないようにブリジットには思われた。
怒りを削がれたブリジットは「…言ってみろ」とイズマの挑発に乗った。
「はい。まずは魔術の素養を持つ騎士だけで人員を構成しました。所謂魔術騎士隊というやつです。これは近年下火な理論ですが、武装を改めることで改善してみました」
魔術師の力を持った騎士と言えば聞こえはいいが、実戦では現在は分業が主流であった。
魔術は先制攻撃や遠距離攻撃に適していたが、抗魔術の技術発達により余程優れた魔術師が参戦していない限りは、攻防で威力は相殺されてゼロに近付く。
騎馬突撃と剣での近接戦闘において魔術を行使することは同士討ちの危険を多大に伴う。
以上の理由から、わざわざ魔術適性の高い騎士だけを選抜して部隊を組む有効性は少ないと判断されている。
魔術師は戦の序盤に撃ち合いを演じた後、後方へ下がって回復や補給といった支援任務に回るのがスタンダードな戦術であった。
「武装?」
「はい。第6軍の制式武器は槍です」
「…槍だと?馬鹿な。近接戦闘を放棄するのか?」
「いいえ。発想を転換しております。槍で突撃した後は、魔術で近接戦闘に臨むのです。槍は前に構えるだけで敵を刺し払いますし、これであれば剣の調練をする時間が大幅に省けます」
ワイバーンが横から疑問をぶつけた。
「魔術の戦闘訓練が必要になるだけで、剣とさほどに労力が変わらないのではありませんか?」
「用いる戦闘用魔術は一つ。催眠、それだけだ。馬鹿の一つ覚えのようにそれだけを叩き込んである」
催眠は初歩的な魔術で、精神力での抵抗を投下魔力が上回れば、標的を一時的に眠りにつかせることが出来る。
(確かに、催眠であれば万が一味方が被弾しても即座に被害をもたらすことはない…)
「中佐には私の第6軍の編成主旨が伝わっていないものと思える。短期間で、そして不足しがちな肉体派の成人男性以外を活用することに意義があるのだ。即ち、第6軍の騎士の大半は女性である」
「なんと…」
「魔術さえ扱えたなら、後は最低限槍を構えられる腕力と馬術を育成するだけで良いのです。部隊育成に効率的である点、他に類を見ないでしょう」
イズマは誇らしげに語るが、ブリジットの心理からすると複雑である。
女性ながらに騎士として前線に立つ身だが、自身が武芸に優れている点を加味しても肉体的に男性に及ばないことは明白で、ハンデは大きいと自覚していた。
子を産むことが出来るのも女性だけなわけで、ブリジットとしては無条件に騎士の女性比率を高めることに賛意は持ち得ない。
「…大佐の意見は女王陛下も承認済みで、第6軍発足後の働きを見て以後の軍編成にも修正を入れていくことになる」
ネヴィルはそう締めて、遅い昼食を摂るべく一人注文カウンターへと足を伸ばした。
イズマはブリジットに対してはにこにこと柔和な表情を崩さないままでおり、「私は他軍の参謀よりも頼りになりますよ」と余計な一言など付け加えている。
「…他軍には誰が?」
「蓮大将の下にはアルケミス少将自らが。オービット准将の下には定年間近の古参の大佐が赴かれます。他に人材がいないようですね。第5軍にはイリヤ参謀長が入られ指揮もとられるみたいですよ。あと私が創設した第6軍にも、弁舌だけは立つことで有名な男爵閣下が参謀として赴任するとか…」
この発言より、ワイバーンはイズマの自己評価の高さと他者を下に見る傾向とを読み取っていた。
特に男爵について語った時の声調からは嫌悪感が滲み出ており、貴族に対するコンプレックスの片鱗を窺わせる。
「…それで、第2軍には?ラインベルク中将の下へは誰が行くのだ?」
「ああ、中将のところへは派遣無し、だそうですよ」
ブリジットの血相が瞬時に変わる。
「なに!何故だ?」
「アルケミス少将宛の文書には、西は<七災厄>が相手だから誰にも助言は出来ないと書かれていたそうです。…私であれば<邪蛇>勢に対抗する戦術を捻り出せたでしょうがね」
ブリジットはイズマの最後の言葉を聞いていなかった。
自分には参謀が必要と見なされ、ラインベルクには不要だと判断されたことに単純に腹を立てていたのである。
「…まあ武力一筋のラインベルク中将には、蛇退治こそぴったりの任務だと言えます。通用するかどうかまでは分かりかねますが。対して複合防御と占領政策の絡むシルバリエは我等が赴くに足る要地かと」
「ラインベルク中将を貶める発言は控えよ。…不愉快だ」
「…はッ!申し訳ありませんでした。調子に乗り過ぎたようです」
ブリジットの叱責にイズマは一瞬意外そうに目を丸くしたが、直ぐに姿勢を正して敬礼を返した。
ワイバーンがブリジットの内心を推察するに、武人でなければ実績にも乏しい参謀風情に自身がライバル視するラインベルクを貶されることは、自身を否定されたに等しいと感じたに違いないと思われた。
(大佐はフリージンガー少将がラインベルク中将を快く思っていないことを明らかに知っていた。…つまり、そういう取り入り方を弁えた男ということだ)
ワイバーンは現段階ではイズマの評価を確定することなく、警戒を緩めないよう肝に命じた。
(フリージンガー少将の基盤は弱い。使えるものは多少の毒があろうと使い倒す覚悟が必要だ。危ない刺があるのなら、私がそれを除いていけば済む話…)