106話
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群青騎士団には連日のように出動命令が下っていた。
ヒュウガやセシル、遡ればラインベルクにバイミース=ジョルダンの如き有能な指揮官・騎士に事欠いた為、さして間を置かずに騎士団長のシルドレ自らが転戦する羽目に陥っている。
イチイバル共和国西部国境付近の町村を魔物が頻繁に荒らしており、それは剣皇国の防衛体制の破綻が契機となっていた。
とある小村からほど近い河川に突如大量発生した大蜥蜴の群は、朝方から始められた掃討作戦により目に見える範囲では駆逐されている。
任務を完遂した最後の小隊の帰参を見届け、シルドレは全騎に労いの言葉をかけた。
しかし、その舌の根も乾かぬ内に次の作戦を下知することになる。
「次は北のフォウルガードへ向かう。敵はいつもの氷狼だが数が多いとの報告だ。各自装備の点検を怠らないように」
「はッ!」
群青騎士団の騎士たちが力強い声で唱和する。
大蜥蜴を僅か一日で片付けることに成功したため、部隊の士気は出陣前と変わらずに保たれていた。
行軍中、一騎が隊列を離れてシルドレに近寄って来た。
「シルドレ様」
「ん?どうした」
三十代の中堅騎士は小隊長の職位にあり、次のようにシルドレに進言した。
「シルドレ様はここ一月ほど戦場暮らしが続いております。氷狼や雪烏ごときの相手は我々で十分です。どうか一旦グレイプニルにお戻りになって下さい」
「気持ちは有り難いが、皆を置いて僕だけが帰還するわけにはいかないよ」
「いえ。私は一週間前に交替で合流した身ですし、出征時からそのまま残っておられるのは最早シルドレ様だけです」
騎士は譲らず、これは隊長級の全騎士の総意だと告げてシルドレに翻意を迫った。
気力・体力共に十分なシルドレであったが部下の好意を無下にも出来ず、その場は折れて作戦から外れる道を選ぶ。
これが彼の命運を分けた。
「フォウルガードへ向かった部隊が…全滅しただと?」
グレイプニルに戻って三日目、青城に出仕したシルドレの下に衝撃的な報告がもたらされた。
群青騎士団幹部専用の大会議室には他に上級騎士が幾人か詰めていたが、報告を聞くなり皆一様に沈痛な面持ちに変わる。
「報告は正確に。誰にやられたのかしら?狼や烏に敗れる天下の群青騎士団ではないはずよ」
ただ一人感傷的な態度を見せていないカザリンが、報を持ち寄った騎士に問い掛けた。
「は、はい…。その…白く靄のかかった、巨大な獣が突然…!訳もわからない内に皆倒れ出して、あの…私は、逃げて…その…申し訳ありませんッ!」
カザリンは平伏する若い騎士の体を起こし、「仕方のないことよ。ご苦労様でした。今日のところはゆっくり休みなさい」と慰労して帰す。
そしてシルドレを向くなり断言した。
「<幻竜>に間違いありません」
「…そのようだ。<幻竜>ッ!」
シルドレは声を上げ、他の騎士たちは絶句してしまう。
<七災厄>最強と目される魔物。
大山脈に住まう最凶の竜。
シルドレや剣皇国のトリスタンが一度ならず大軍を率いて挑み、未だ討伐し得ないでいる大敵であった。
巨躯を包む霧は相手を幻惑し、あらゆる攻撃の精度を落とさせる。
ブレス攻撃には人間を一撃で気絶させる特効があり、大部隊をもあっさり蹴散らす強大な力を有していた。
二百を超える同僚を死に至らしめた仕打ちにシルドレは激し、「今度こそ引導を渡してやる!」と主力の出陣を示唆する。
だが強兵として知られた群青騎士団の幹部たちは揃って臆し、シルドレの怒気に水を差した。
「シルドレ様…今の我々に勝ち目はありません」
「左様です。セシル様やあのラインベルクがいて、剣皇国軍と共同で当たっても打ち倒すことの出来なかった相手ですぞ…」
「…マグナ=ストラウス殿も不在ですし、戦力が整うまでは触らぬ方が良いかと」
口々に飛び出す厭戦の台詞にシルドレは気概を削がれ、助けを求めるようにしてカザリンへと意見を求める。
カザリンはゆっくりと首を横に振った。
「推測ですが、これは罠かと」
「カザリン師、それは…」
「ニーザです。<幻竜>はその気になればここグレイプニルまでも飛翔して来れます。それをしない理由ですが、フォウルガードに騎士団主力を誘い込んでおいて、その隙に教導騎士団を北上させて来るのではないでしょうか」
「ニーザ=シンクレインがイチイバル攻略を狙っていると?…奴が<幻竜>をも操ることが出来るというのは、一体どういった理屈なのです?」
「<幻竜>との間に交わされた条件は分かりませんが、両者が人間に敵対している事実は共通しております。十五年以上前の話になりますが、ニーザ=シンクレインが<門>を完全に開け放とうという狂気からアビスワールドに忍び込んだとラインに聞かされています。もし<幻竜>や<七災厄>の面々が<門>の開放による勢力の伸長を企図するのであれば、ニーザと手段の一致を見ます」
あまりにスケールが大きく、邪気を余すところなく匂わせた話の内容に会議室の空気は凍り付く。
一人の騎士が「では…南に備えをせねばならないのでは?」と恐る恐る提言するも、カザリンは首を縦には振らない。
「グレイプニルを空ければ<幻竜>の襲来を招く可能性が高い。我々に残された道は二つです。このまま<幻竜>の立ち去るを待つか、或いは少数精鋭でこれを討伐するか」
騎士はごくりと喉を鳴らした。
ようやく青城の再建が成ったこのタイミングで<幻竜>などに襲われては、グレイプニルの統制は維持出来まいとこの場の皆が理解している。
かと言ってフォウルガードにも町や村はあるわけで、群青騎士団が市民の不安を余所にグレイプニルに居座り続けるという選択肢は世論を鑑みれば有り得なかった。
(兵を分けるにせよ、将が圧倒的に不足している。国内で<幻竜>討伐の有志を募ったとて、果たして何れ程の人材が集まるやら…)
カザリンの提示した案に沿って戦略を立てようにも、手元に与えられた駒は自身と彼女の二つ以外になく、<騎聖>の視線はあてもなく中空をさ迷う。
シルドレの考えていることは委細承知しており、カザリンは何も言わずに苦悩するその横顔を眺め続けた。
***
復興事業には補助金を出し、市中で商売を続ける者の税金は免除。
他市から物資を輸送する際には群青騎士団から護衛を出して、物流と人の流れを止めないように腐心した。
竜の襲撃後、カザリンの助言に従って政治が復興を後押しし、グレイプニルはかつての活気を取り戻しつつある。
此度の募兵に関しても予想より多くの志願者を得ることになった。
(…剣皇国や帝国から流れてきた者が多いわね。本来なら情報も取りたいところなのだけれど)
<幻竜>討伐隊の隊長を拝命したカザリンは、市中から募った腕自慢たちの品定めにと訓練場へ足を運んでいた。
戦乱の世の定めか、傭兵から元騎士まで腕に覚えのある者が多数、我こそはと技前を披露している。
カザリンは魔術師であれど武術も修めており、強力な騎士と共に闘ってきた過去の経験から、相当に見る目が養われていた。
屋外の訓練場は剥き出しの地面のままで、段状に建て込まれた観覧席でぐるりと囲われただけの粗末な造りをしていた。
集められた志願者はそこで二人一組となって、訓練用の武器を用いながらの打ち合いを見せている。
威勢のいい声があちこちから上がり、係員たる騎士たちは各々厳しい目でそれを査定した。
想像していた通りの水準がため退屈しきっていたカザリンの目を見開かせたのは、軍服を着崩した細面の女剣士が繰り出した剣撃である。
木剣を真一文字に横に振っただけであったが、相手の剣は根元から断ち斬られて彼方へと飛んでいった。
(…いまの剣!とんだ珠玉が紛れ込んでいたものね)
カザリンのみならず、この一幕を目撃した騎士は皆美しくも鋭い斬線が頭から離れないでいた。
歩み寄ったカザリンが声をかけると、女剣士はひどく素っ気ない態度で応じる。
「貴女、どこで剣を?その軍服は…ぼろぼろにはなっているけれど、紅煉騎士団のものよね?」
「素性は問わないと聞いたから来た。あれは嘘なの?」
不自然なまでに黒い髪は手入れがなされていないためかぼさぼさで、肩から掛けた軍服の階級章は剥ぎ取られている。
ほつれや擦り切れが目立つ汚れた軍服は、それでも彼女の滑らかな動作を損なうことはない。
何より特異な点は顔の上半分を覆った遮光用のバイザーで、短衣に軍服を引っ掛けたその装いとは明らかに不釣り合いと映った。
バイザーのせいで瞳の動きが伝わって来ず、カザリンにはこの女剣士の感情を洞察することが叶わない。
「いいえ。貴女は合格よ。私は<幻竜>討伐隊の隊長を務めるカザリン=ハイネマンです。以後宜しく」
「…私はライザ=フロイ。旅の剣士」
カザリンはライザと名乗る女剣士の挙動をよく観察したが、情報量が少なくその人となりまでは掴めなかった。
平時であれば、どこの馬の骨とも知れない人間を頼りにして魔物を討伐することなどもっての他である。
(…全てが賭けよね。私とシルドレが同時に留守にする愚は避けなければならない。マグを待っている時間も惜しい。とすれば、私があの竜の王を倒すしかない。そしてその可能性を上げるためなら多少の無理は覚悟の上…)
カザリンは一人の騎士を呼んでライザと手合わせをさせる。
騎士の剣を難なく叩き落とすライザを見て、カザリンはその実力を本物と認めた。
「ライザ。貴女と私が柱となって<幻竜>に当たることになるかと思います。活躍を期待させてください」
ライザは黙って頷くと、突然明後日の方向を指差した。
カザリンと騎士らが釣られてそちらを見やると、無精髭を蓄えた二刀流の剣士が巧みな技で相手の剣を弾き飛ばしている。
既に複数人を相手した様子で、周りには検分役の騎士やら他の志願者やらが集まって妙技を見学していた。
(あれは…ハリー=オーヴェル?後ろにジュデッカ嬢もいるわね…。ロイド=アトモスフィの食客であった彼等が、どうしてここに?)
***
神殿に集った神官や政務官といった要職にある者たちは皆、顔面を蒼白にして立ち尽くしていた。
交渉へと出した使者は無惨にも斬り捨てられたとのことで、道は交戦以外に残されていない。
沈黙を嫌った初老の神官が纏う白衣から拳を突き出して悪口を放つと、堰を切るようにして他の面々も怨嗟の声を上げ始めた。
「…ラルメティ公王は気でも違ったのか?戦に魔物を動員したと聞いたかと思えば、予告なしに攻め込んできおって!」
「神域を侵すなどと…罰当たりめが!」
「ビルビナ神とスファルギア神の御座を陥れようとは、赦しがたき暴挙よな!」
「他国に救援を要請し、挟撃しては如何か?我らが星霜騎士団が前より一撃し、ラルメティ軍の背後を突いて貰えばよい!」
「おのれラルメティ…魔に魂を売っただけでなく、神をも冒涜するか…!」
罵詈雑言や妄言ともとれる戦略が一通り出尽くしたと見るや、玉座に掛けるリンネがそっと手を前に掲げる。
家臣一同は、純白の長衣姿の巫女王を見るやピタリと口をつぐんだ。
「ラルメティは長年他国からの従属を拒み続けたサンハイムを降し、ダルケナ王国を滅ぼすや先般は聖アカシャ帝国の南領をも切り取った。よもやビルビナとスファルギアの威光などは通じまい」
リンネは長い睫毛を伏せて嘆息した。
その物憂げな表情は儚げな美しさを湛えており、聖職にある身なれど神官たちの男性部分をいたく刺激する。
巫女王という身分にあるリンネは、日頃神聖性を大事にするあまり人前に出ることが少ない。
血の成せる業か、気高さと威厳を兼ね備え、幼少より巫女として、そして王として君臨し続けた彼女を神官たちは崇拝しきっていた。
あわや神々よりもリンネを崇め奉っているかのような君臣関係にあり、女官ならぬ彼等一同がたまの機会にこうしてリンネへの拝謁が許されると、必然的に熱しやすくなるのも無理はなかった。
「…そう言えば、ヴィアン=クーの奴めは何処に?」
一人の政務官が、リンネの頭髪を飾る白輝石と銀製のティアラに視線を送りながら言った。
「目を見て喋れ。苦しゅうない。ヴィアンには迎撃態勢をとるよう命じた。二百かそこらの戦力ではどうにも出来ぬであろうが…」
その言に皆がますます肩を落とす。
寄せてきたラルメティ軍は推定で一千とのことで、女だてらに剛胆さで知られたヴィアン=クーですら、リンネに対して必ず勝つとは約束しなかった。
静まり返った広間に、大理石の床を叩く硬質の靴音だけが響き渡る。
一人また一人と、要人たちは近付いてくる足音の方向へ顔を向けた。
「辛気臭いですなー。雁首並べて葬式の相談ですかな?」
「大神官?」
驚いた様子の神官たちが口々にそう呼び掛けた。
現れたのはよれよれの神官衣を着た長身の男で、立派な口髭からは年長を想像させるがまだ四十にもなっていない。
名をベルサリウスと言った。
「お帰りなさいませ、陛下。挨拶が遅れましたこと少しだけ御詫び申し上げます」
飄々とした物言いで語るベルサリウスの目には親愛の情がありありと浮かんでいた。
「余が帰参して幾日経ったと思う?汝は不忠の士よな」
「違いありませんな。ところで人生初の旅路は如何でしたか?某の聞き及ぶところでは、戦争にまでご参戦されたとか」
複数の神官が苦々しい表情を浮かべる。
門外不出の巫女を外界へと手引きしてやったのが、他ならぬこのベルサリウスであった。
無論彼にも言い分はあり、ビルビナ神とスファルギア神から御託宣があったとリンネから聞かされての行動である。
神殿奥に匿われ続けた彼女の境遇に同情する向きはあろうとも、破天荒で有名なベルサリウスとて神官位にあるわけで、おいそれと戒律を破ったりはしない。
まさに神の啓示はなにものにも優先するという証左であった。
ベルサリウスの問いにリンネは瞳を一時輝かせる。
「うむ。<始源の魔物>に勝利する勇者たちをこの目で見てきた。正しく世は広い。ヴィアンと互角に闘える騎士がこれ程いようとは思わなんだ。…願わくは彼等を率いて大陸を安寧へと導きたかった。此度のラルメティもそうであるが、巷の騎士たちは戦を文化か何かと勘違いしておるようじゃ」
「陛下が御執心であった紅煉騎士団のラインベルク殿とは会えましたか?」
「会えた。奴こそが<暴食>のガフを始末したのだ。…紅煉騎士団とは、最後は戦場で相対した。余の後ろ楯となってくれたアレン=アレクシーが戦死して、こうして逃げるようにして戻ってきたわけだ」
「それは良いご経験をされましたな」
「大神官!何を仰られる?」
「ベルサリウス様と言えど、陛下に対して無礼が過ぎましょうぞ!」
ベルサリウスの発言に業を煮やした面々が非難をぶちまけた。
流石のリンネも目を丸くしている。
ベルサリウスは一人涼しい顔をして、まるで今日はいい天気だとでも言わんばかりに滑らかに、次のように述べた。
「仲間と頼んで裏切られる。期待通りに事が運ばない。生命あるものは必ず滅びる。…どれも得難い体験です。何れの為政者も宮殿の奥で寛ぎながら政の報告を聞くのでしょうが、それでは実感は得られません。それこそ血の通った政策を実行に移すことなぞ夢のまた夢。陛下におかれましては、此度の旅で知り得た総てをこのミースの民、引いては大陸中の民を安んじるための礎として活かされんことを。それでこそここにおわします御歴々に無礼を働いてまで御身を外に出した私の労苦が報われるというもの」
「…成る程のう。してベルサリウス。余が民を安んじていられるのは後僅かな間のようだが、これに異論はあるか?」
そう問うリンネの黒瞳をベルサリウスは真正面から見据えて答える。
「ラルメティ軍を追い返すだけなら容易いこと」
「なに?」
「私はそれを伝えるために登庁致しました。ミース湖の三ヵ所の堤防を解き放つのです。それで敵は入っては来られませぬ」
リンネは声を失い、二人を囲む幹部たちは「しかしそれでは…」とか「いや、そんなことが可能なのか…?」と騒ぎ始めた。
「私の血筋、即ち大神官の家系に伝わる秘伝こそがミースの灌漑技術です。堤防のどこをどう弄れば水流が向きを変えるのか、過去の知見を余さず継承しております故」
堂々たる態度でそう言うベルサリウスの瞳に不穏な色を感じ取り、リンネは持ち前の鋭敏さを発揮して訊ねる。
「三ヵ所とは、どこぞ?」
「申し上げても分からないでしょう」
「…では質問を変えよう。沈む集落はどこか?」
「ふむ。流石は陛下。痛いところを突かれる。…ナジュー、ヒルミナシス、バイラルの三集落が冠水致しまする」
これには全員が絶句をもって応じた。
ミース湖の周囲に点在し、巫女王座を構成する集落のうち実に半分が水没すると言うのである。
騒がしい外野には目もくれず、ベルサリウスは興味深げにリンネを観察していた。
(ここで神殿を枕に討ち死にするも良し。犠牲に多いも少ないもないもんだ。民を害してまで守るべき宗教ではあるまい。…以前のリンネ様ならそうお考えになったに違いない。さて、どうする?)
リンネの口から出たのは、多くの神官が予期しない言葉であった。
「…民は?そしてヴィアンはどうなる?」
「はっ。今すぐに作業に入らねば水流防御の構築が間に合いません。さすれば、三集落において避難を徹底するは事実上不可能。まずここで五千名に近い死傷者が出ると推測されます。次に星霜騎士団ですが、帰還はゼロ。これは騎士団には水流防御より前方で敵を食い止めて貰う必要があるので、必然的に後戻りが出来ない為です」
聞いてリンネは絶望の大きさに涙しそうになる。
「参考までに。ここに向かっているラルメティ軍の指揮官はかのハリス=ハリバートンです。彼に滅ぼされたダルケナはそれは酷い目に合わされたと聞きます。…逆らう者は身分を問わず殺害され、金品は強奪、女は犯されて路上に捨て置かれたとか。王族や政治家は全員が裁判無しに処刑されたために、現在はラルメティの官吏が統治しているそうです。ハリスによって万に近い人間が命を奪われ、或いは苦悩をその身深くへ刻んだことになります」
中央からは遠く大陸の最西南に位置しながら、ベルサリウスの情報収集力は大したものであった。
一連の議論における彼の話法には強引さが窺えたものの、相手に反論の余地を与えないだけの根拠を有している。
何よりベルサリウスにはリンネを説得する奥の手もあったのだが、彼としてはその考え方を押し付けたくはなかった。
(大陸に遺された数少ない先史。これがリンネ様と共に亡びる事が何よりも大事だ。だが一人の女性にそんな大それた責務を負わせ続けてきたこの国のシステムには下吐が出る。いっそのことここで何もかもを白紙に戻したっていい。スファルギア神とてそれくらいには寛容であろうよ)
リンネが正面決戦を選択した場合、ベルサリウスは勝てないまでも一矢報いるつもりでいた。
リンネを逃がすこととハリスを討ち取ること。
ベルサリウスは剣も魔術も一級の腕を持ち、一対一で己がハリスに後れを取らないことを自覚している。
実戦から遠ざかっている分戦闘勘が戻るまでに時間を必要としようが、ヴィアンと二人で死力を尽くしたならば、ラルメティ軍に相応の損害を与えられる自信はあった。
「…大神官。出来るだけ市民の犠牲が少なくなるよう…水流防御の指揮を!他の者は大神官の指示に従え!ビルビナ神とスファルギア神より授かりし救世の詔に応えぬまま余が倒れるわけにはいかぬ。民を見捨てた魔王として謗られようと、いまはまだ、死ねん!この償い…命をもって、きっとしようぞ…」
涙を見せながらにリンネは宣言し、ベルサリウス以下の聖職者は低く頭を垂れてそれを受諾した。
ベルサリウスは頭の中で企画済みの段取りを実行に移すべく神官衣の袖をまくり上げる。
(さて、これから忙しくなるぞ。…カザリンよ。どうやら俺も歴史の表舞台に引っ張り出されることになりそうだ。またどこかで会うことがあるやもしれんな)